京都コンピュータ学院(KCG)の創立者で初代学院長である長谷川繁雄先生の命日である「閑堂忌」の各種行事が2017年7月1日に執り行われた。長谷川繁雄先生は1986年7月2日に享年56歳でご逝去され,没後31年を迎えた。「閑堂」とは長谷川繁雄先生の雅号で,「世俗から離れ,瞑想にふける閑静な空間」を意味している。この日はKCG京都駅前校大ホールで記念講話があり,KCGのルーツである「和歌山文化研究会(和文研)」時代に,大学当局が公認する「京都大学学生親学会(京大親学会)」のスタッフとしてお付き合いがあった藤居宏一先生(岩手大学名誉教授)がお話しになり,和文研が当時,京都大学と教育ビジネスを共にしていたことが紹介された。長谷川繁雄先生,現学院長の長谷川靖子先生とも京都大学出身ではあるが,藤居先生のご説明により,KCGは教育活動の点からも,京都大学をルーツとする私立教育機関であることが証明されたといえる。
私は当時,京都大学学生親学会でアルバイトをしていて和歌山の担当となり,大学の先輩でもある長谷川繁雄先生・靖子先生と出会いました。長谷川繁雄先生・靖子先生は私塾「和歌山文化研究会(和文研)」でご活躍され,和歌山の生徒の学力・成績向上と把握を目的に,京大親学会の高校受験模擬試験である「アチーブメントテスト」普及拡大に力を注がれていました。
それ以前,長谷川繁雄先生は奈良県吉野郡の山あいにある川上村立第三中学校で教鞭をとられていました。しかし教育方針をめぐって奈良県教育委員会や上司と対立し,「自ら学校をつくる」と宣言して川上第三中学校を退職され,井上(当時)靖子先生が開設していた「井上数学塾」を「和歌山文化研究会」と改称して,数学に加え英語,国語の中学・高校生向け教育を開始されたとのことです。京都コンピュータ学院のパンフレットに詳しく紹介されています。
京大親学会は,大学当局から公認を受けた「サークル」ではありましたが,名古屋大学や奈良女子大学,大阪大学,山口大学,九州大学にあった同様の協会組織と連携していたほか,金沢大学,岡山大学,香川大学に支部を置き,広範囲な学生ネットワークを構築していました。和文研は「委託」相手でしたが,他の国立大学と同等の位置付けだったといえます。西日本を中心に中学,高校生ら受験生向け模擬試験や通信教育を展開。1960年当時の京大親学会の経営規模は1300万円弱,現在なら2.5~3億円に相当すると思います。当時の構成員の学生は会員外のアルバイターを含め100名ほどで,巨大な教育事業者だったといえるでしょう。
京大親学会は ▽大学・高校を目指す受験生に模擬試験,通信添削を実施=受験産業 ▽京都大学の学生にアルバイトを提供=厚生団体 ▽サークル活動,イベントや雑誌発行といった文化活動,文化記事の作成と通信添削解説-などを主な活動内容としていました。構成は,全体を統括する総務部,お金の出し入れをする経理部,大学受験の通信添削を担当する第一事業部,大学受験模擬試験(学力コンクール)を実施する第二事業部,高校受験模擬試験(アチーブメントテスト)を実施する第三事業部,通信添削の問題作成・採点・解説や学力コンクールの問題作成・採点を担当する研究部,アチーブメントテスト問題作成・採点・成績分析・報告書を担当するテスト研究部からなります。私は第三事業部業務委員の地方担当(後に運営委員)として,アチーブメントテスト業務の推進と円滑化・効率化を担っていました。ただ,アルバイトでありましたので,荷造りや運搬,謄写版印刷などの雑務もやっていました。アチーブメントテストの採点は会員外にも委託していて,長谷川繁雄先生・靖子先生にも和歌山地区の責任者としてお願いしていました。
長谷川繁雄先生はスクーターで和歌山県下全域の中学校を巡り,なんと約8割の中学校で親学会模擬テストの参加申し込みを獲得されたのです。その行動力に私は,ただただ驚くばかりでした。このような教育事業の展開により資金を得て和文研は1960年,和歌山市の妙法寺の境内に教室を移転されました。新しい教室には200人を超える優秀な生徒が集まったといいます。教育に懸ける情熱は並々ならぬものがありました。尊敬するばかりです。アチーブメントテストはその後,一元的な才能評価に疑問があるとして長谷川繁雄先生は廃止されましたが,和文研としては入塾生の学力を知る機会になり,入塾後の才能開発に役立ったと評価していただきました。
和歌山担当の前任者から,長谷川繁雄先生(当時は長谷川先輩といったイメージの方が近いかもしれません)がアチーブメントテスト和歌山会場の運営者であることを知らされていました。当時,和歌山に通うには,タクシーで京都駅まで行き,国鉄の快速電車に乗って梅田へ。そこから地下鉄で難波へ移動して南海特急に乗り換え和歌山市駅まで,そしてタクシーに乗って和文研のある妙法寺へ。そうですね,3時間以上はかかったと記憶しています。
先輩であるのに失礼ではありますが,長谷川繁雄先生とは馬が合い,大変かわいがっていただきました。私が母子家庭で,学費はもちろん生活費も稼がなければならないという事情を理解してくださっていたのだと思います。長谷川靖子先生に料理をふるまっていただくなど温かく迎えてくださいました。本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。
長谷川繁雄先生は当時30歳ぐらいでしたが,若者に負けない青年のような情熱と正義感を持っておられました。とりわけ教育には,靖子先生とともに人生を懸けておられたのだと思います。私も生活は懸っていましたが所詮アルバイトであり,漠然とではありますが卒業したらサラリーマンになる道が見えています。背負っているものの大きさは比べ物になりませんね。
その後は永らくお会いする機会がないまま,最近,偶然インターネットで長谷川繁雄先生と靖子先生がKCGを設立されたことや,繁雄先生がお亡くなりになったことを知りました。急ぎ,靖子先生にお手紙を差しあげ,半世紀ぶりに再会することができました。靖子先生と当時の話を振り返ると,思い出が胸にこみ上げてきます。
この講話に先立つ1カ月前,京都駅前校で過去の貴重なコンピュータを展示・保存しているKCG資料館を見学させていただきました。中・高・大学とも同級生だったKCG洛北校顧問の石田勝則先生に案内してもらったのですが,声を出さずにはいられないほどの懐かしさで興奮しました。
私は島根大学勤務時代の1971年に,小型計算機FACOM 270を使ってFORTRANの講習を受け,のめり込み,プログラムを作成していました。1973年に岩手大学へ移りましたが,古いFACOM 231しかなく,私の仕事には使い物になりませんでした。そこで東北地区の共同利用センターである東北大学計算機センターの大型計算機NEAC-2200を使ったことが思い出されます。当時は旧7帝大系大学に大型計算機が設置されていて,各地区内外の大学が利用していました。それらの大学へ出向くときは旅費をいただき,重いカードトランクを持って出張し,集中的に計算したものでした。作業が予定より延びてしまったときは自腹を切りました。
長谷川靖子先生が東京大学大型計算機センター設立時(1966年)のテストランに参加されました。これはすごいことです。その後も同大学でプログラム指導員として活躍されました。
KCG資料館は,これらコンピュータ技術,教育の最先端を走られていた長谷川繁雄・靖子先生が築き上げてこられたものなのですね。これらのコレクションは他にはないもので,単にKCGの資料にとどまらず,まさに日本のコンピュータ教育の貴重な歴史遺産といえるでしょう。