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Accumu Vol.18

世界天文年2009 ~ガリレオから学ぶもの~

京都情報大学院大学 教授

作花 一志

1 はじめに

世界天文年2009

2009年はガリレオが望遠鏡による天体観測を始めてからちょうど400年にあたる。それにちなんで国際連合,ユネスコ,国際天文学連合はこの年を「世界天文年(International Year of Astronomy: IYA)」と定めた[1]。そのスローガンは“THE UNIVERSE: YOURS TO DISCOVER 宇宙 … 解き明かすのはあなた”である。あなたも夜空を見上げ,広大な宇宙の中の地球,その地球の上に生きる生命や人間の存在に思いを馳せ,新たな発見を試みよう。

世界各地で様々なイベントが企画されている。わが国でも「世界天文年2009日本委員会」が組織され,研究機関だけでなく多数の天文普及諸団体が加入している。京都コンピュータ学院でも3月と10月には天文ワークショップを,7月には「世界天文年全国同時七夕講演会」[2]の一環として七夕講演会を開いて,星空の美しさとともにガリレオ精神をアピールした。

この小文では世界天文年の意義をより理解していただくために,ガリレオの偉業をふりかえってみることにする。

2 天動説と地動説

星は東から昇り西へ沈み,大地は不動で天は1日1回転すると考えるのはごく自然だったに違いない。現代でも「太陽は地球の周りを回っている」と思っていた小学生が3割もいるというニュースが話題になったことがある。しかし古代ギリシア時代にも太陽中心説を唱えた人はいた。コペルニクスに先立つ地動説論者の名はアリスタルコス,紀元前3世紀のことだ。ところがこの説は無視され,天動説はプトレマイオス(83頃~168頃)によって確立された。彼の著書『アルマゲスト』(その意味は偉大なる著)は古代ギリシア天文学の集大成であり,全13巻の内容は球面天文学を基礎として歳差・日月食・5惑星の運動などの数理的説明である。彼はヘレニズム文化の中心地であるアレキサンドリアで活躍した。原典はギリシア語で書かれ,やがて東西に伝わり,東方(イスラム)では翻訳されさらに発展したが,西方(ヨーロッパ)では忘れられた。ヨーロッパ人がこれを知りラテン語に翻訳されるのは12世紀以降である。13世紀の神学者トマス・アクィナスらにより,キリスト教とアリストテレス哲学の融合が図られ,アルマゲストの天動説は正統な学問体系となる。宇宙は月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星とその外の恒星から成っていて,それぞれの天体は固有の円軌道を描いて地球の周りを回る。しかし各天体に割り当てられる円は単一の円だけではなく,何重にも入り込み非常に複雑である。

この説に疑義を抱き太陽中心説を唱えたのはコペルニクス(1473~1543)だが,彼は天体観測をしたわけではない。むしろ「全知全能の神がこんな複雑な宇宙を造り給うはずがない」と考えたようだ。僧侶であり領主であった彼は主著『天球の回転について』の出版を死期を迎えるまで控え,完成した書物を見ることなく逝ったと言われている。コペルニクスの太陽中心説は天動説における地球と太陽の位置を置き換えたもので,6惑星の軌道は複数の円の組み合わせのままであった。しかしながら,太陽から各惑星までの距離の比が算出でき,天動説では説明できなかったことが解明できた。この説の賛同者は少なく,最も強く反 対したのは宗教改革の主役であるマルチン・ルター(1483~1546)だった。

また,プトレマイオスとコペルニクスの中間的なものとしてティコ・ブラーエ(1546~1601)は「5惑星は太陽の周りを回り,太陽と月は地球の周りを回る。」という説を唱えた。

3 ガリレオの生涯と業績

ガリレオ
ガリレオ

ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)はW・シェークスピアや加藤清正と同世代人である。生まれたころヨーロッパにはまだ統一国家は少なく,特にイタリア半島では小国乱立の時代だった。トスカーナ大公国のピサで生まれ,ピサ大学やパドバ大学で数学の教師をしている。もっとも,当時「大学教授」という職業が確立していたわけではなく,トスカーナ大公というスポンサーを得たことが幸いした。

ガリレオの望遠鏡

1608年,オランダの眼鏡製作者リッパーシェイが望遠鏡の発明に関する特許を申請した。しかし「2枚のレンズに筒という単純な構造のため,簡単に真似ることが出来る。」という理由で,認められなかったそうだ。望遠鏡発明者は他にもいるそうだが,記録には残っていない。この噂はたちまち広まり翌年には各地で作られ,ガリレオも自作した。この望遠鏡(上図[3])は視野が狭くて満月が収まらない。

1609年に天体観測を始め,月のクレータやまたプレアデスや天の川は無数の星の集まりであることを発見した。8月末にはベネチアで市民対象の観望会を開き月のクレータなどを紹介している。おそらく世界最初の望遠鏡観望会であろう。翌年1月には木星の周りに毎日位置を変えている4個の小さな星に注目した。春先まで観測を続け,それらは木星の周りを回る衛星(イオ,エウロパ,ガミメデ,カリスト)であると結論した。そしてこれらの結果を『星界の報告』として発表する。この本はケプラーをはじめ王侯貴族まで,かなり多数の人に読まれたらしい。木星の衛星の発見は「もし地球が動くなら,月は取り残されてしまう。」という地動説への反論を無効にするものだった。また,ガリレオは金星の満ち欠けも観測,これは地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。さらに彼は太陽黒点も観測し,太陽もまた自転していることを示した。これらはすべて,地動説に有利な証拠となった。ガリレオの業績は望遠鏡を製作してそれを天体に向け,観測をしたこともさることながら,詳しい記録をとって,その解析の結果,地 動説の証拠を示したことである。

1610年1月にはたまたま木星と天王星はともにおうし座の非常に近い位置にあったので,ガリレオは天王星を見ている可能性は十分ある。もっとも惑星と気づく術はないが。また紡錘状になった土星のスケッチを残しているが,環を見つけることはできなかった。太陽黒点の発見者は誰かわからない。古代の中国では,太陽に「カラス」が住んでいると言われていた。日食や日没時に太陽光が減光された際,大きな黒点があれば裸眼で観測できる。

ピサの斜塔

彼はまた,落体の法則を発見した。ピサの斜塔(上図)から落下の実験をして,重い球も軽い球も同時に落ちることを示したというのは後世作られたフィクションらしいが,それが事実かどうかは問題ではない。重要なのは何回も実験して「物体が自由落下するときの時間は,落下する物体の質量には無関係」という結論を導いたことだ。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが,これは後に月の引力によるものであることがわかった。彼はまた光速の測定を試みて,うまくいかなかったが,400年前にできなくて当然である。むしろ,この雄大な試みに敬意を表すべきであろう。

ガリレオの業績は望遠鏡によって種々の発見をしただけではなく,ドグマに迷わされず実験・観測を通して法則を探るという態度で自然に接したことである。現代からすれば当たり前だが,その当たり前の科学的態度は彼の前にはなかった(少なくとも公には)。筆者は彼の精神こそパイオニアスピリットの元祖と思っている。しかしそのために彼は不遇な晩年を送ることとなる。『天文対話』(1632:刊行)の内容が問題になって,宗教裁判にかけられ,地位も名声も剥奪され,終身軟禁,著書は発禁,異端者だから葬儀も禁止という有罪判決を受けた(1633)ことは周知の通りである。自説を撤回することを誓約させられたが,裁判所を出る時「それでも地球は回っている。」と言ったとか言わなかったとか……。さらに数年後には失明という不幸が襲ってきて,もはや本を読むことも望遠鏡をのぞくこともできない。ところが70歳を越えてこのような逆境にありながら,なおも口述筆記によって『新科学対話』(1638:オランダより刊行)を著すという不屈の精神力,やっぱり並みの人ではない。この影には弟子のトリチェリー(1608~1647)やヴィヴィアーニ(1622~1703)の献身的な協力があった。ガリレオ裁判は誤りであったことを法王庁が認めたのはやっと20世紀末になってからであり,ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920~2005)はガリレオ裁判のやり直しを行い,1992年にガリレオの名誉回復を宣言した。さらに現教皇ベネディクト16世は2008年12月21日に法王庁での礼拝で,ガリレオの地動説について「自然の法則は神の業に対する理解を促した。」と述べ,初めてガリレオの研究を公式に認めた。実に彼は死してなお366年間も抵抗勢力と戦い続けたということを忘れてはならない。

4 もうひとつの1609年

ヨハネス・ケプラー
ヨハネス・ケプラー

1609年はヨハネス・ケプラー(1571~1630)が『新天文学』を著し「ケプラーの第1,第2法則」を発表した年でもある(第3法則の発表は9年後)。彼はコペルニクスやガリレオも脱却できなかった円運動から,楕円運動によるに基づく天体運動論を展開し,ニュートン(1642~1727)に先立って力学の基礎を築いた。ガリレオに比べ地味ではあるが,その業績は勝るとも劣らない。この法則の発表前から地動説を確信していたようである。高校物理の教科書にも載っているケプラーの法則だが,これをきちんと説明するのは非常に難しい。

[I]惑星は太陽を一つの焦点とする楕円軌道を描く。

[II]太陽と惑星を結ぶ線分と楕円の長軸とでできる扇形の面積速度は一定である。

[III]どんな惑星でも公転周期の2乗と平均距離(軌道長半径)の3乗の比は一定である。

という文章だけで内容を理解することは無理に近いし,この件を暗記するだけではほとんど無意味である。第1法則は惑星がどんな軌道を描くか,第2法則はその軌道をどのように運動するかを述べたものである。また第3法則は惑星の公転周期と平均距離の関係を示しているものである。これにより周転円・離心円など複雑な円は不要となり,ようやく地動説は,従来の天動説よりも単純かつ正確なものとなった。ケプラーの法則は惑星だけでなく広く天体の二体運動に適用できる普遍的法則で,後にニュートンが万有引力による運動方程式から数学的に導いている。

ケプラーがリンツに住んでいた家

彼はドイツ(当時こういう名の国はないが)のテュービンゲン,グラーツ,プラハ,リンツの各地を転々としたが,プラハではティコ・ブラーエの助手として膨大な観測データの整理を行った結果,3法則を発見することになる。リンツに彼が住んでいた家(上図)は残っていて,今も食堂付の博物館として使われているそうだ。当時彼は天文学者というより占星術師として名をなして,三十年戦争の悲劇の英雄ヴァレンシュタイン(1583~1634)の庇護を受けていた。

ケプラーは若いころ惑星の数と正多面体の数がともに5である根拠を考察したり,惑星に音階をあてはめたりしている。また火星の衛星が2個であることを予言して,結果として当たったものの「衛星数は地球に1,木星に4だから火星には2である。」と衛星の数が等比数列をなしていると思い込むなど,中世的な要素も残している。晩年,ルドルフ表を作成したが,それは恒星カタログでかつ自らの計算法で予測した惑星位置表で,当然占星術にも使われた。

1604年10月26日18時
1604年10月26日18時
左から火星・月・木星・超新星・土星が並んでいる。水星はすでに沈んでいる。
(ステラナビゲータVer8 より)

ケプラーは凸レンズ2枚による望遠鏡を考案したが,実際に製作やそれによる天体観測はしていないようだ。1603年から翌年にかけてへびつかいの足元には5惑星の離散集合が続いていた。1604年10月9日に火星と木星が最接近した日に,突如として火星と同じくらい明るい星が現れた。第一発見者は誰かわからないが,ケプラーは詳しい光度変化の記録を残している。その星は次第に明るさを増し下旬には木星を凌いだ[4]。日没後,西南の低い空に下から順に土星,新たな星,木星,細い月,火星が並んでいるのを見た当時の人々は驚き恐れ,ケプラーの占いを求めたことだろう。現在ケプラーの超新星と言われているもので,光では淡い姿しか見えないがX線では詳しい観測がなされている。

また1607年9月には,今日ハレー彗星と呼ばれている彗星を観測している。その記録はわが国にもあり,それを見た将軍徳川秀忠は家臣に迷信を信じることの無意味さを語ったという[5]。

これらの天象を,記録は残っていないようだが,ガリレオも見ていたと思われる。もし望遠鏡を知るのがもう数年早かったら,きっとこの超新星に向けて,位置は変化しないが光度は変化することを正確に観測した結果「恒星界もまた不変ではない。」と主張しただろうと筆者は思いたい。

この小文はNPO花山星空ネットワークの会報「あすとろん」[6]に掲載された記事を一部改定したものである。

年表
1543『天球の回転について』出版
1564ガリレオ生まれる
1571ケプラー生まれる
1604ケプラー超新星を観測
1607ケプラー彗星を観測
1609ガリレオ望遠鏡観測を始める
ケプラー『新天文学』を出版
1610ガリレオ『星界の報告』を出版
1618ケプラー第3法則を発表
1630ケプラー死す
1632ガリレオ『天文対話』を出版
1633ガリレオ裁判 有罪判決
1638ガリレオ『新科学対話』を出版
1642ガリレオ死す
参考文献など

[1]世界天文年 http://www.astronomy2009.jp/

[2]世界天文年全国同時七夕講演会  http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/tanabata/

[3]秋山晋一 天文教育 Vo1.20 No.1 p.2 2008  http://www.sakai.zaq.ne.jp/duadr200/galileo/index.html

[4]西村昌能 天文教育 Vo1.16 No.6 p.17 2004

[5]長谷川一郎 『ハレー彗星物語』恒星社厚生閣 1986

[6]作花一志 あすとろん Vol.5 p2 2009

イラスト提供:西岡季美(株式会社ウエーブ)

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作花 一志
Kazuyuki Sakka
  • 京都情報大学院大学教授
  • 京都大学大学院理学研究科宇宙物理学専攻博士課程修了(宇宙物理学専攻)
  • 京都大学理学博士
    専門分野は古典文学,統計解析学。
  • 元京都大学理学部・総合人間学部講師,元京都コンピュータ学院鴨川校校長,元天文教育普及研究会編集委員長。

上記の肩書・経歴等はアキューム25号発刊当時のものです。