物心付き始めた幼い頃には海辺の街に住んでいて,父の運転するラビットのスクーターのステップに立ってよく釣りに行った。港の堤防で缶ジュースや板チョコを傍らに釣り糸を垂れると,午餐になる小鯛や小鯵がたくさん掛かった。板チョコの銀紙の剥き方には父独特の方法があって,そのとおりにしないと叱られた。一度,板チョコの銀紙を水面に落としてみた事がある。白いコンクリートの堤防から見る海は青黒く,銀紙はひらひらと舞いながら底まで沈んで行った。一定のリズムで光が輝いて見えてとても綺麗だったので,遠く深くやがて見えなくなるまで見とれていた。その日,父の撮ってくれた白黒写真が手元に残っている。長じて父が鬼籍に入ってから十有余年が経って,その日の記憶も妙に白っぽくてアンバーがかかっているのだが,水の中で明滅する銀色だけは鮮やかに脳裏に残る。その頃から,窺い知れない深淵と果てしない距離を感じる,海や大河が好きだ。
ある夏,KCGの理事であるロバート・クッシュナー教授のお誘いに応じて,夏期休暇を利用してアラスカに行った。ストレス性すい臓炎で入院した次の年で,リハビリを兼ねた運だめし旅行だった。サーモンを狙っての釣り旅行である。
RITの写真工学の名誉教授であり,国連の写真技術指導員であり,京都コンピュータ学院の理事でもある師は,プライベートでは釣り師でもあり,興に乗ればフィッシング・プロフェッサーと自称する。フィッシングの他には四輪オフローダーを駆ってハンティングもこなすアウトドアスポーツマンである。年齢的には老年の筈なのだが,アウトドアの話になると少年の目になり,フィールドに出たとたんに青年の体力を発揮する。自然をこよなく愛する,古き良きアメリカの,典型的なハードボイルド・タフガイである。
アラスカは,大国アメリカの一大アウトドアレジャーランドである。街にはあらゆる州のナンバーを付けたキャンピングカーが走っている。カナダを横断して走ってくるのだそうだが,ケンタッキーなど南部のナンバーが散見されるのには驚いた。そして,全世界からやって来るビジターに至れり尽くせりのシステムが整っている。街の新聞やレジャーガイドの広告を見ると,ショットガンやフィッシングギア,キャンプ用品などのレンタルから一週間単位のベビーシッターまで,大人がアウトドアを楽しむためにあらゆるサービスが待っていることがわかる。
アンカレッジのガイドセンターには,全アラスカの彼の河,彼の山,どの海どの森に今何が生息しているかという情報が集中しており,それを見て,セスナ機やボートをチャーターして目的地に向かうのである。小型飛行機で北部に飛び,ツンドラでトナカイを追うことも,西の島からベーリング海にオヒョウを狙うことも直ちに可能である。スキーやカヌー,MTBなど他のスポーツも含めて,とにかく何でもかんでも徹底的に,ある。
そして,釣り上げたサーモンや射止めた鹿などの獲物を車やセスナで街に持ち帰り,肉屋や缶詰店に委託すると,プロの手によって,それらは薫製や缶詰や真空パックの冷蔵・冷凍食品などに瞬時に変貌するのである。二,三日で毛皮はなめされてしまうのである。一週間で剥製になってしまったりもするのである。手ぶらでフロリダの自宅に飛行機で帰っても,それらは僅か二,三日遅れで宅配されてくるのである。アウトドア享楽のための徹底した合理性は,また一つ別の,アメリカの豊かさであると言えようか。
ウィルダネスに出るには,アウトドアショップでライセンスを買わなくてはならない。入漁(猟)券は有効期間が一日から一年まで細分化されており,シルバーサーモン(銀鮭)はどの河では一人一日何匹まで,ムース(へら鹿)は年間三頭,カリブー(トナカイ)は何頭云々,各地域における一人あたりの捕獲制限数が事細かく規制されていて,違反すると厳しく罰せられる。ライセンスの収益金は野生生物の調査や保護に当てられて,年間制限捕獲数は統計的に導き出される。フェアバンクスのアラスカ州立大学には,野生生物学科という全米一の分野があって,学術的にアラスカの自然保護に当たっている。経済的にも,学問的にも,文化的にも,アメリカにおける価値観に基づいて,アラスカの自然は保護されているのである。
留意すべきは,その圧倒的大自然が,すべて人々の楽しみのために徹頭徹尾「保護」されているという事実である。日本の北海道のように開発「途上」にあるのではなく,完全な「管理保護下」にあるということなのである。人手つかずというよりも,人の手が徹底して入って保護されている大自然と言うべきだろう。
アンカレッジという現代的合理性を完備した街を出たとたん,目前に広がるのはとてつもないスケールのウィルダネスである。河は青く澄み渡り,上流は氷河に連なって,緑の森の彼方には雪山がそびえ立つ。360度に展開する光景が人手付かずの大自然だ。街から車で一時間走るだけで両極端を味わえるのだから,あらゆる意味で高度に発展した文明と大自然の広がりの両方を享受したいならば,アンカレッジに住むのがベストだが,ヤワな精神で挑むと価値観崩壊の浮き目に会いそうなほど,自然と文明のギャップは大きい。
日本から約7時間の空の旅の後,アラスカのアンカレッジで降りる。盆休みであったにもかかわらず,さすがにアラスカ行きの日本人は少なく,空港での他の降客はアメリカ人ばかりだった。
空港には先着の教授がキャンピングカーで迎えてくれて,二人で荷物を積み込んで街へ買出しに向かった。スーパーマーケットで食料をたっぷり仕入れてライセンスを買ったあと,ピンクサーモン(樺太鱒)が群れているという,アンカレッジ北方の河に向かった。アラスカでは季節や場所に応じて,シルバーとピンクに加えて,1メートルを超すキングサーモン(ますのすけ),レッドサーモン(紅鮭),チャムサーモン(和鮭),以上五種類の鮭が釣れる。むろん他にもレインボー(虹鱒)やスティールヘッド(降海型虹鱒)など,鱒の類も狙えるが今回はサーモンが目的である。
ポイントに着いたらウェーダーに着替えて,ライフベストを身に着ける。プラグを引くと二酸化炭素の小型ボンベが爆発して膨らむあれだ。これで深みにはまっても大丈夫である。そしてそそくさと釣り道具を仕立てにかかる。
ルアーロッドは,透明感のある茶色にゴールドラインがあしらってあるフェンウィックのレガシー。金色のリングが朝日の中でキラリと光る。コルクのグリップは手のひらになじんで優しい。リールはアブの5000Cで,黒と金のコンビがフェンウィックに合うのだが,ラバーグリップがヒネ曲がるので,硬質プラに改造してある。ラインは最新技術の恩恵であるスパイダーワイア。これはおそろしく細くて限りなく強い。ルアーはアラスカの鮭釣りの定番,ブルーフォックスのピクシーで,場所により日により時刻によって,オレンジ色かピンク,あるいは緑と使い分ける。
岸で教授と二人,黙々と釣り道具をセットする。ときどき,糸がからんではシットと呟き,ルアーを落としてはガッデムと罵る。漁に出ると男は野蛮になりたい。言葉がだんだんと汚くなってくる。
用意が完了したら,瞳の輝きだけは少年の二人は,心意気は刀を握る武士の如く,剣を振りかざす騎士の如く,それぞれ竿を持って河に踏み入る。リールのロックを外してシュートすると,少し甲高い余韻を残して銀色がキラキラ舞いながら飛び,チャポンと静かに河面を打つ。ピンと張るラインとともに,冷たい空気がさらに張り詰めるように思える,最も緊張する瞬間だ。
河の中に立って何度もルアーを投げて,何分経ったろうか。教授が叫ぶ。
「フィッシュオン!」
ロッドが大きくしなっている。先を越されたぜ! ガッデムと内心思いながら,「コングラチュレーションズ!」と,ファーストヒットを祝う。教授が慎重に巻くリールのクリック音が,森を背景に静かに響いている。川面に浮かび上がるのは45センチほどのピンクだ。ほどなくこちらにもヒットした。
「フィッシュオン!」
「グッドボーイ!」
リールを鳴らしながらラインが出て行く。引きはかなり強い。「竿をもっと立てろ」だの,「あまり強く巻くな」だの,「巻くのを止めるな」だとか,フィッシング・プロフェッサーは横で一々小うるさい。言うことを聞かないと「サノバビッチ!」「ブルシット!」と罵られる。
信じられない話だが,日ごろ仕事では大人しくしている一流大学の名誉教授は,ウィルダネスではただの不良オヤジである。こちらも昔取った杵柄で対抗せざるを得ない。英語だと,自分がどの程度ダーティワードを使っているのか,あまり自覚は無いので調子に乗り,「オーライ!ブルシットプロフェッサー」だの,「アイ ノウ,メン」だのと適当に応戦する。何を言い合っているのだか,中年と老年の教育業界関係者(あえて教育者とは言わない)は,河に着いたとたんに瞳が少年になり,心意気が狩人になる。不良気取りも加わって,徐々にガラが悪くなれば,次第に都会の衣を一枚一枚脱ぎ捨てていくことができるのだ。都会にいて仕事をしているといつも,焦りを感じるばかりで,もどかしさに苛まれる。焦燥感は内臓を蝕み,身体が病む。激烈な肉体の痛みは精神をも侵すものだ。今は河にたたずんで,心の澱を水に流し,魂を河の飛沫に洗おうと思う。光の中にサーモンが上がると,少年の瞳はますます輝きを増し,二人,握手する。
岸に上がり,一匹のピンクを二つに裂いて焚き火で焼いて,ブランチにする。スーパーで買ってきたパンをコーヒーに浸して喉に流し込みながら,話題は魚の居場所のことだけだ。新鮮な鮭は塩胡椒だけでとても美味く,河の水で入れたコーヒーは透き通って香り立つのだが,味覚の享楽よりも知覚の快楽のほうが今は数倍大きい。空は青く突き抜けていて,遠くに雪のマッキンリーが見える。空気は本当に透明で冷たいけれど,風は優しい。河は静かに流れている。
二人でリミットの八匹ずつ上げたあとは南下して,アンカレッジで獲物を店に放り込む。これで明日にはスモークサーモンの缶詰がダンボール一箱でき上がるのだ。海岸でキャンプして翌朝,ベーリング海を右手に見ながら,銘河キーナイリバーに向かった。車の中で,昨夜の続きの昔話を始める。子供の頃,初めて釣りに行ったときのこと。小さな身体に60センチを超す虹鱒を釣って,負けそうになったこと。ナマズは見かけによらず美味いこと。父親に教えられた糸の結び方。身体で知った合わせ方。父親に釣りを習うと釣り好きになることが多いこと。良い海良い河に恵まれると少年は大きく育つこと。
国道を走っているのはキャンピングカーばかりだ。しばらく走って,妙にたくさんの車が駐車してあると思ったら,橋があった。湾に注ぎ込む細い川に人だかりがしていて,橋の上から覗き込むと紅蓮の魚が一面を埋め尽くしている。レッドサーモンだ。キーナイリバーへの行きがけの駄賃を仕入れようと同意して駐車し,ハッチを明けてロッドをセットする。下りて行き,ルアーを投げると,今度は一投目でヒットする。
「フィッシュオン!」
「こっちもだ!」
盛り上がった背の雄鮭がかかった。50センチくらいだろうか。うねる魚の尾鰭が見える。横腹は紅蓮に染まっている。魚を一匹釣り上げるごとに,都会の衣が一枚脱げる。ビジネスの世界は空の彼方に遠い。街で足を下ろす所はそれはそれで大地だが,心とともに足が地に着くのは,やはり自然の中ではなかろうか。釣り上げた魚を片腕に抱いたら,氷河の匂いが立ち昇った。
夜。キーナイリバー中流の湖畔にキャンプする。今日釣ったレッドサーモンのバター焼きとビスケット。焚き火の灯りを挟んで語る。釣り師の夜話は決まって女のことだ。初めての相手のこと。悪い女に引っかかったときのこと。いい歳になってからも,恋に落ちたこと。バーボンの肴にそんな話を重ねて静かに笑う。焚き火に浮かび上がる教授の横顔には,幾重にも深く年輪が刻まれていて,一枚一枚の言葉に重みを加える。人は心の中に死者を何人持つかで大人になる度合いが決まると述べた哲学者がいたが,男は愛した女の数で厚みと深みが増すのだと追加したい。星空に包まれて,適度に酒が回ったところで馬鹿話を切り上げ,早めにシュラフにもぐり込む。
早朝三時に起床ラッパが鳴り渡る。言うまでもなくガッデム教授の罵倒の声だ。釣りの楽しみは一日中続くんだ,早く起きろ!と叫んでいる。酒の残る寝ぼけ眼で外に出ると無数の星が天上に美しく,北極星が高い。昨夜の残りのサーモンでポリッジ(粥)を焚いて覚醒する。朝な夕なに鮭ばかりだ。車からゴムボートを下ろして,ポンプを踏んで膨らませ,今日一日の用意が完了する。今日のロッドは,教授と揃いのアグリースティック・タイガーだ。太い釣り竿に大型のスピニングリールをセットする。
夜が明けてきた。アイスホッケーのタブレットのように,ゴムボートは水面を滑る。教授がスロットルを握っているのだが,エンジンパワーが強すぎて,艇は右に左に振れながら走る。バウに座っていると操舵する教授の顔しか見えないから,振り返って行先を見ていると首が痛くなった。エンジン音は響いているけれど,反射物がないから排気音はまっすぐ遠くへ抜けていく。エンジンを止めて狙ったポイントからルアーを流し始める。ルアーはメップス・アグリアのアラスカホットパックの中からクロームカラーを選んだ。沈んでいくルアーは,子供の頃落とした板チョコの銀紙に似て,きらきらして綺麗だ。ルアーとともにどこまでも,ヒットするまで流されて,ボートは河を下って行く。キーナイリバーは深く濃い紺色をしていて太くたゆたう。時は刻まれる。
海は母に例えられるが,大河は父である。万物は流れ来て流れ去る。人生のはかなさもむなしさも,心蔭る原因も結果も,流れ来て,流れ去るのだ。それを眺めながら男は,遠い山を想うことが大事なんだ。さっきまで馬鹿なことを言っていたガッデム教授が,偉大な河のせいだろうか,妙に深刻な顔で呟く。河は流れている。
何時間流れていただろうか,眠くなってきた頃に突然,ドスンという衝撃でヒットした。キングサーモンだ。
「フィッシュオン!」
「オーライ!」
突如として臨戦態勢に入る。ボートの上では一人がヒットすると,糸が絡んでしまうから他の者は急いで自分のリールを巻き取らなくてはならない。そしてキングにとってはゴムボートを引きずることなど朝飯前だから,エンジンをかけて対抗する。リール担当とエンジン担当の完璧な分業体制がなくては,キングは上がらない。大河の王者のすさまじいパワーには,チームで対抗しなくてはならないのだ。キングはボートから遠くに向かってどんどん走る。リールを巻くにもラインは出ていくばかり。このままでは糸が尽きる。
「巻け! 巻け!」
「巻いてるって!」
しばらく格闘していると巻き取りが軽くなった。あれ?と思ったら,キングはこっちに向かって突進してきて,ボートの下をくぐって反対側に向かう。ラインが絡まないようにロッドを先から水に漬けて,教授がボートを反転させるのを待つ。ラインを送り出し,ラインを巻き取り,何度も何度もそれを繰り返していると,やがて,キングは疲れを見せ始め,やっと河面に姿を見せた。大きい。
「1メートルを超えているぜ,サノバビッチ」
「俺のもんだガッデム」
叫びながら罵倒し合う少年二人の乗ったボートは,木の葉の如く巨魚に引き回される。
「ラインを緩めるな! 馬鹿者!」
「わかってるって!」
大河の上で右往左往しながら,叫びあう。
「ロッドをおっ立てろ! それでも男か!」
「とり舵とり舵! バウを右! 右向け右!」
もはやどちらも相手の話など聞いておらず,走り回るキングに繋がるラインを目で追い,自身の作業に没頭するばかりとなる。ラインを送り出し,ラインを巻き取り,それを繰り返して腕がしびれて疲れてくる。ヒットした場所から何キロ引きずり回されたろうか。やがて,河の王は疲れて浮かび上がってきて,ときおり赤く色づいた横腹を見せる。ボートを足の立つところまで岸に近づけて,ラインをピンと張ったままそろりと下りる。教授はボートを岸にもやってから,網を持って闘いの終焉に向けて待機する。
「レディ! メン!」
「オーライ! ガッデム!」
「ブルシット! 重いぞ」
「だろ!」
「ガットイット!」
「サンクス!」
キングが網に入った。気づいたら汗をびっしょりかいていた。何時間引きずり回されていたのだろう。長い時間であったのだが,一瞬のさく烈であったような気もする。サイズは百二十センチ。さすがにでかい。
その後教授がキングを三匹ヒットし,こちらはゼロだった。一番大きいのは自分の獲物である最初の一匹だが,それを言うとガッデム教授は返事をしない。大きさを競うのは釣り師の常だが,数の勝負というのもある。そして,勝敗がわかると男は黙するのもまた常である。サイズの勝負か,数の勝負か。少年たちは,互いに勝ったのは自分だと確信して相手を無視して沈黙する。
夜。ゴージャスなキングサーモンの炭焼きステーキ。パチパチ音を立てて燃える薪に,脂がしたたり落ちてジュージューにぎやかだ。最初の一口は塩胡椒で,次にはケッパーを絡めてみたり,レモンを絞る。さらには日本から持ってきた海苔とワサビを乗せてみる。昨夜仕込んだイクラの醤油漬けをあしらうと,とろける脂が口中一杯に広がって,アラスカの山と河と海を実感する。「女との楽しみは二時間で終わるが,釣りの喜びは一日中続くのだ」とか,教授の与太話を聞きながら,舌を洗うのは今夜もワイルドターキーだ。
「引いたときは抵抗せずにラインを送り出さなくてはならないが,決して緩めてはいけない。基本は巻き取ることだ。押しては引くリズムが大切なんだが,お前は引くときが遅い。」
「遅いんじゃないんだ,ブルシットは二時間かもしれないが俺は三時間以上は持つんだ。」
釣りの話なのか女の話なのか,どちらでもいい。日本酒を持って来りゃ良かったなと少しばかり後悔しつつ,月の浮かぶ青い酒に酔う。酒とともに言葉が少なくなってくる。魂が冷気に晒されてピュアになり,都会の衣はすでにすべて脱ぎ捨てた。月に見守られ,静かに流れる大河の側で,夜が深けていく。焚き火が消えた後は,ときどき,眠らない河から,鮭か鱒の跳ねる音が聞こえて来る。
四日間の毎日をそのようにして過ごし,最後の日になった。マイ・ファースト・キングは剥製にすることにして,後の釣果は全部,アンカレッジで缶詰になった。釣っても食ってもシルバーが一番だからと同意して,最後の日はシルバーの群れるポイントに行くことにする。広い岸があったので,フライロッドでやってみることにした。教授が懇切丁寧に罵りながら,扱い方を教えてくれる。
フライの投げ方は難しい。ロッドで天を突き前後に振る。リズム感が大切で,うまくリズムに乗らないとラインが飛んでいかない。上手な人のラインは空に美しく大きく弧を描いて伸び,遠くへ流れていくものだ。教授は1,2!1,2!と言いながら竿あしらいを指図する。言うことを聞かないと当然,罵倒される。まるで軍事教練を受けているような気分でロッドを前後に振り続けていると,どうにかこうにかラインが弧を描き始め,フライが空を舞い始めた。
数日の釣行を重ねて,白い想念が色づいてくる。子供の頃の記憶が鮮やかさを増してくる。子供の頃,何か教わるときには,亡き父も口うるさく厳しかったことを思い出す。
1,2!,1,2! ロッドを前後に振る。ラインは空に弧を描いてたゆたう。アンダンテ,アンダンテと,ラインは風に乗って流れ,河の流れにフライが乗る。水の速さはアレグロか。
「フィッシュオン!」
ラインが張りつめる。
「ナイスボーイ!」
シルバーが跳ねる。波が立つ。
「グッドルッキング!」
魚が飛ぶ。フォルテッシモ。水面の稲妻。
「カモーン!」
竿を立てる。銀鱗が輝いて散る。氷河の飛沫が拡散する。
「ガッチャ!」
少年は,さながら騎士の気分で,剣を天にかざしてマンフッドを誇る。無数の液滴がほとばしり,大河の匂いが立ち昇って,輝くシルバーが岸に揚がった。両の腕に魚を抱きあげ,高く陽にかざして称えてやろう。子供の頃の想い出も,都会のあの激烈な焦燥感も,この瞬間のためにあったのだ。(クッシュに捧ぐ)
蒼白に空を包む
巨大な幕の雲
陽はその奥に昇り
女神は両手を広げて―
その彼方瓦礫のはてを
眺めながら
パンとコーヒーを分けあい
話すことなく
something from father to son
紺碧に広がる海
銀糸立ち昇り
女神は水平線に立つ
両手を掲げて―
その彼方時の向こうを
見つめながら
肉を切り分け
訊くこともなく
something from father to son
玲瓏の山々に映る茜
染め上がる大空
女神は地平線に去り
微笑を投げかけ―
その彼方世の終わる所
眺めながら
酒を注ぎあい
語り合うこともなく
everything from father to son