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Accumu Vol.6

不変埋蔵法と生物医学への応用

京都大学名誉教授 上野 陽里

薬理力学,即ち薬物が注射または内眼により,いかに体内を通過するかを探索する科学は,米国ランド研究所のR・ベルマン博士により,約37年前に,ミシガン大学のJ・ジャケー博士との協力により開始された。その後,ベルマン博士が南加大学に移るにつれ,同大学の放射線医学教室の協力のもとに,研究は拡大し,さらに,米国保健省の長期にわたる研究援助がその発展を支えた。米国のみならず,欧州及び東洋からも,数理学者が彼のもとに集まり,彼との協同研究が発展した。その最初の領域は,計算機をいかに薬理力学及び化学療法に応用するかにあった。放射線量計測,中性子捕獲療法等に始まり,心臓病理から心電図の計測理論にまで及んだ。かくて,不変埋蔵,系同定,フィルター論,動的計画法等が医学の領域にまで,ベルマン博士とその研究協力者により,応用されるに至った。

上述したように,不変埋蔵法は非一様媒質中の伝播に適用できる計算方式として開発された数学の術式である。これが中性子の輸送,輻射の多重散乱,温室効果温度,一般的な波の伝播,流体力学その他の問題の解析に応用され得ることは,明らかであった。しかしこれを一気に拡大して,臨床医学の問題の計算にも応用できる可能性があることを示したのは,すばらしいことである。ここには不変埋蔵法を呼び込むだけの条件が臨床医学の側になければならない。そこで,現代の臨床医学のどこに,どのような条件があるかを考察したい。

医学の中の不変埋蔵法

a,中性子治療の中の不変埋蔵法

悪性腫瘍の放射線治療とくに中性子照射治療法は,原理的には極めて非一様な媒質である生体中での中性子の輸送にほかならない。現在患者の体内での速中性子の分布に関しては,あらかじめ作成してある一定形のファントームか個々の患者の実測値から作成したファントームを使用して,速中性子を照射し,ファントーム内の中性子フラックスを測定しておく方法がとられている。中性子捕捉療法の場合の熱中性子フラックスの測定は,患者の身体の構造の複雑さに加えて原子炉からの熱中性子の放射量に不確定さがあるため,患者の体内にAu線を挿入しておき,一定時間後に熱中性子の照射を一時中断して,Au線を体外に取り出し,放射化Auの即発γ線を測定してフラックスを求め,そのデータに基づき治療照射を再開する方法がとられている。これは京都大学原子炉実験所での中性子捕捉療法の治療プロセスである。もしこれが計算によって決定できるならば,治療の手段は格段に簡易化され,しかも医療スタッフは正確な情報を入手できる。なによりも患者の治療による物理的負担を激減させる。まさに天の助けであろう。

しかしながら,問題はそう簡単ではない。まず不変埋蔵法の対象になるのは,個々の中性子の輸送である。一方治療で問題になるのはあるエネルギー幅をもった中性子束で,熱中性子の場合は,ほぼE8~13n.cm2/sの数で60~100分近い照射を行うのである。さらにエネルギーがほとんど連続的に変化する回り込み中性子が加わる。

一方照射をうける患者とその部位は,同じものはない。また照射線束内の体内組織の非一様性は千差万別である。これらの因子の組み合わせはほとんど無限数に近いのではあるまいか。とても計算し尽くせるものではないであろう。したがってなんらかの近似法をとらざるを得ないであろうが,これはまだ医療の前に現れていない。

因に京都大学原子炉実験所の中性子捕捉療法による悪性腫瘍の治療は,多くの問題点を抱えながらも,臨床医,物理学者,工学者,化学者の見事なチームワークによって治療効果をあげている。

b,interventional radiologyの中の不変埋蔵法

不変埋蔵法のもう一つの医療への可能性は流体力学への応用を通じての可能性である。この分野は早くから気づかれており,厖大な研究業績がある。とくに,生体流体力学のモデルとして知られる血管内の血液の流れに血中投与された抗がん剤の流動動態である。

血中投与された抗がん剤は血液の流れにそって腫瘍部分に到達するが,この間に連続的に希釈される。これは物理的に避けることはできない。医学的には腫瘍細胞に接触し取り込まれる抗がん剤の量と接触時間が細胞を殺すための重要な因子になるので,これを良好に保つことは大切なことである。しかし一方で同時におこる抗がん剤による正常組織細胞を損傷から守るためには,腫瘍細胞の場合とは逆の意味で重要因子になる。

抗がん剤の経皮的投与(血管内注射)が始まった初期には,腫瘍部分の抗がん剤濃度をいかに高めるかに注意が払われ,数学者を含めて多くの研究者が研究に参加した。しかしこの方法には上記のように原理的欠陥があり,正常組織細胞の損傷を最小限に止めて治療を成功に導くことはできなかった。不変埋蔵法の適用が誤りであったわけではない。その上初期の抗がん剤の効力には多くの難点があった。当然のことながら,医学者の研究方向は新しい抗がん剤の開発に向かった。そして現在では単一の抗がん剤を使用するのではなく,複数の抗がん剤をそれぞれの投与量と投与間隔の組み合わせを変えることによって治療効果をあげつつある。また点滴法で長時間持続的に抗がん剤を体内に投与する方法も日常的に利用されている。しかし残念なことに,有効な組み合わせの決定や点滴速度などの決定はまだ経験に基づいたものである。

このような研究方向に限度が見えてきたときに,登場したのがinterventional radiotherapyである。この方法は手術をせずに腫瘍支配の終末の動脈までカテーテルを挿入し,そこから高濃度の抗がん剤を腫瘍そのものに比較的短時間に投与する方法である。小さな腫瘍部分を目指した治療であるので,不必要に正常組織細胞に障害を与えることはない。ここで再び小部分での流体力学のモデル化の必要性がおこってくる。現在この治療の効果が著しく良好であるので,まだ数学や物理学の助けを必要としない。しかしこの方法が将来何らかの支障を来したとき,助けが再び必要になろう。この治療法を応用して,終末動脈を破壊して腫瘍への酸素の供給を止め腫瘍細胞を壊死に追い込む方法も,主として肝臓癌を対象として盛んに行われ効果をあげている。この技術の発展の蔭にはすぐれたカテーテルの素材とカテーテルの開発があった。

またこの方法は診断領域でも効力を発揮している。すなわち抗がん剤の代わりに造影剤を使用して,比較的小さい部分での血管の走行を明らかにすることである。血管造影では,どのように造影剤が流れていくかを,同時あるいは直後にビデオや写真で肉眼的に確認できる。このため視覚の効果が十分計算の精密さを上回ることになる。したがってこの領域では,数学の助けを当分は必要としないであろう。無論ここでは画像解析の技術が要求される。

なお血流を流体力学のモデルと考えることは比較的行われているが,実はここには大きな落とし穴があるように思える。すなわち血管の壁は初歩の流体力学で採用されているような剛体ではなく,血液の圧力(受動的)や血管自身の筋肉の活動(能動的)によって変化することである。また血液の圧力も心臓拍動に依存して変化する。第一次近似としても血管壁を剛体とするのは,無理があるのではないだろうか。

医療と応用数学

両者はともに応用科学でありながら,昔からあまり仲が良くない。これは両者の宿命的な差異によるものかもしれない。つまり臨床医学では,結果すなわち病気の治癒あるいは患者のその後の生活の質的向上が目的であるのに,応用数学では過程すなわち論理の立て方,計算方法が目的である。したがって両者の関係者の思考過程は非常に異なる。臨床医学はなによりも効果を優先させるから,その他のことは,たとえ重要なものであっても,基礎医学に宿題として回すのである。そこに経験主義的な思考過程(経験自体は実験科学の重要な分野である)が入り込む隙がある。それほど臨床医学の進歩が早く瞬時の回り道も許されないともいえる。

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上野 陽里
Yori Ueno
  • 京都大学名誉教授

上記の肩書・経歴等はアキューム6号発刊当時のものです。