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Accumu Vol.5

心の哲学について

大阪市立大学文学部助教授 中才 敏郎

もう30年ほど前に『心と機械』(注1)という哲学の論文集が出版された。その扉絵に,大きなコンピュータを前に,二人の男が機械から出てきたテープを覗きこんでいる図があった。そして,その一人が「まいったね。こいつが〈コギト・エルゴ・スム(我思う,ゆえに我あり)〉と言っているよ」と話している。その論文集は「機械は考えることができるか」というテーマのもとに8編の論文を集めたものであった。編者のA・R・アンダースンは,その序論の中で,1950年以来千を越える論文がこの問題に関して発表されていると述べているが,その後もこの手の論文集は次々と出版されているし,心と機械をテーマにした書物も枚挙に暇がない。日本でも,長尾真氏の『人工知能と人間』(岩波新書,1992年)がAI研究者の立場からこの問題を論じている。

「心の哲学」は「フィロソフィ・オヴ・マインド」の訳語であるが,何となく居心地の悪い日本語である。哲学という「かたい」言葉に「心の」という形容は「やわらか」過ぎるかもしれない。しかし,精神とか魂とかいうと身体や肉体とは別の存在者を意味しかねない。そういうものもあるかもしれない。しかし,それは議論をした上での話である。ここで「心」とは,痛みのような感覚,信念や欲求のような志向性と呼ばれる状態を含む広い範囲の現象を指すものとする。そして,そのような心的現象とは何かという問いに哲学的に答えようとするのが心の哲学である。哲学的にというのは,さしあたり,心理学のように統計や実験によるのではなく,心についての様々な概念(感覚や志向性)の分析を通じて,アプローチするということである。現代の心の哲学は,イギリスの哲学者ギルバート・ライルの『心の概念』(注2)をもって始まったと言ってよいだろう。それは「デカルトの神話」の批判から始まる。デカルトによれば,私は考える精神であり,私の身体は広がりをもつ物体である。ライルは,このような心身二元論を「機械の中の幽霊」と呼び,心という私的な生活と,行動という公的な生活との「二重生活の理論」が「根本的なカテゴリーミステイク」によるものだと主張した。これは行動主義ないし反メンタリズムという立場に力を与えた。行動主義とはメンタリスティックな語(例えば信念や欲求)を行動やその傾向性を表す言明へと還元しようとする立場である。はっきりと目に見えるのは行動なのだから,その背後にあるとされる幽霊について語る必要はない。実際,心についての理論がテスト可能な科学理論であるべきならば,そこに怪しげな幽霊の入る余地はないということである。しかし,行動主義は実証主義が衰退すると共に勢いを失った。心理学的にも哲学的にもそれは制約が強すぎたのである。インプット(刺激)とアウトプット(行動)だけで事を処理しようとすると,アウトプットそのものを解釈することができない。1950年代後半には「心脳同一説」と呼ばれる立場が現れる。

心と脳が密接な関係にあることは否定できない。この立場は,さらに進んで,心的現象は脳過程と同一である,と宣言する。「幽霊の正体見たり枯尾花」というわけである。これは,J・J・C・スマートを始めとして,主にオーストラリアで展開されたので,オーストラリア唯物論ともいう。彼らは,行動主義が大体において有効であることを認めたが,感覚については別様に考えた。感覚は内的な挿話であり,行動あるいは行動への傾性に還元されるべきものではない。そこで,彼らの議論は感覚に集中した。同一説によれば,温度が分子の平均運動エネルギーであり,水がH2Oであるのと同じように,心的状態は脳の物理的状態である。「痛み」と「C-繊維の興奮」は同じ意味をもたないが,同じ物理的状態を指示し得る。それらが実際に同一であるかどうかは意味の問題ではなく,経験的探究の問題である。

同一説は,行動主義に欠けていた存在論を唯物論で補完したが,メンタリズムの克服という点では行動主義の子であった。それは,心的状態と脳過程との間に相関関係が発見されるであろうと考える。もし種類Xの心的状態と種類Yの脳過程との間に相関関係が発見されるならば,両者を結びつける心理-物理法則が見出されよう。我々はそれを実験的に確認すればよいことになる。しかし,そのような相関関係がそもそも見出されると期待できるであろうか。痛みのような感覚がそれを感じるすべての有機体において,或るタイプの脳過程と同一であるということには,有機体の生理学的多様性を考えると,どうしても無理がある。さらに,或るタイプの信念がそれをもつすべての人間において,同じ種類の脳過程によって実現されていると考えることはもっと困難である。せいぜい言えることは,心的出来事と脳過程とはトークンつまり個別的事象として同一であるということくらいではないか。そこで,同一説の中に「タイプ同一説」(Type Identity Theory)と「トークン同一説」(Token Identity Theory)とが区別されることになる。

トークン同一説を支持すべき積極的な理由を示したのがアメリカの哲学者D・デイヴィドソンであった(注3)。彼は心身関係論を,①心理-物理法則の存在を認めるか否か,②心的出来事と物理的出来事との同一性を認めるか否か,に応じて分類し,彼自身は,法則の存在を認めない形の一元論,つまり,「無法則的一元論」(anomalous monism)と呼ばれる立場をとる。彼はそれに至る議論の前提として以下の三つの原理を挙げている。

 1. 少なくとも,或る心的出来事は物理的出来事と因果的に相互作用する。

 2. 因果性のあるところに法則がなくてはならない。従って,AとBとが因果関係にあるためには,AとBとが或る記述のもとに包摂されるべき厳密な(決定論的)法則がなくてはならない。

 3. 心的出来事を予測し説明できるような厳密で決定論的な法則はない。

上記の1と2からは,もし或る心的出来事が物理的出来事の原因または結果であるならば,それらを或る記述のもとに包摂する厳密な法則がなくてはならない,ということが帰結する。或る心的出来事mが或る物理的出来事pの原因であるとしよう。すると,mとpは或る記述のもとで厳密な法則に包摂される。しかし,3よりこの法則は物理的でしかあり得ない。それ故,mが物理法則に登場するとすれば,それは物理的な記述をもつ物理的出来事である。同じことはpがmの原因である場合についても言える。かくして,物理的出来事と因果的に相互作用するどの心的出来事も物理的出来事であることになる。

デイヴィドソンによれば,信念や欲求は物理的な特性とは異なる。信念や欲求を人物に帰属させるためには,信念の合理性や,彼がもつ他の信念との整合性が考慮に入れられねばならない。こうしたことは物理的特性の場合には存在しない。つまり,或る心的状態のみを他の心的状態と切り離して人物に帰属させることはできない。それ故,心的記述と物理的記述を結びつける心理-物理法則は存在し得ない。さらに,心的なものは閉じられたシステムの中に収まりきらない。心的でない多くのものが心的なものに影響を及ぼすからである。それ故,厳密な心理-心理法則も存在し得ない。我々の手に入るのはせいぜい緩い一般化のみであろう。以上のことから,3,つまり心的な出来事を予測し説明する厳密な法則はあり得ないことが帰結する,とデイヴィドソンは主張する。

デイヴィドソンの議論は全面的に受け入れられたわけではないが,彼の議論は信念や欲求のような志向性を心的なものの典型としている。それまで,行動主義やその補完としての心脳同一説にとっては感覚こそが躓の石であったために,議論は感覚に集中した。しかし,デイヴィドソン以後の心の哲学は,感覚よりも志向性に多くの議論を費やしている。こうして志向性が心の哲学にとって新たな幽霊となる。

スマートは感覚を物理的刺激による結果として分析したが,信念のような心的状態ではそのような分析はできない。D・M・アームストロングは,心的状態を「或る種の行動を生むのに適した人物の状態」と一般化した(彼の場合,行動の原因となるのは中枢神経系の物理的状態である)。彼は或る意味でライルと同様に心的状態を傾向性と考えるが,傾向性を科学によって探究されるべき物理的実在と考える点でライルとは異なる。D・ルイスもまた心的状態をその因果的役割によって分析した。彼らはこうした因果分析が同一説の準備をなすものと考えたが,ヒラリー・パットナムはそれを同一説に代わる対抗馬と見なした。彼は心的状態をテューリング・マシーンの状態になぞらえた。このように,心的状態を機械の状態と同一視する立場が「機能主義」(Functionalism)である。

機能主義によれば,或るタイプの心的状態は,それがもつ機能的ないし因果的役割,つまりその心的状態と,①感覚的インプットや②他の心的状態および③行動的アウトプットとの間の関係によって定められる。これは一見すると哲学的行動主義のように思われるかもしれない。しかし,行動主義が心的状態を①と③だけによってとらえようとしたのに対して,機能主義は②への言及が不可避であると考える。もし機能主義が正しければ,心的状態はそれを実現する物理的状態の如何にかかわらず定義されることになる。心をもつものがシリコンからできていても,プラスチックからできていても,それはどうでもいいことである。我々の心的生活は神経生理学的記述とは独立した自律性をもっていることになる。機能主義はいわばハード抜きでソフトの研究を可能にする。そこで機能主義の枠内で心に対する二つのアプローチが可能になる。一つは認知心理学であり,もう一つはAIの研究である。これらは心的状態を計算ないし情報処理過程ととらえ,多様な内的状態のシステムを要請して,行動的アウトプットを説明する。認知心理学の場合は,要請されるシステムが人間の実際のシステムに近いことが要求されるが,AIの場合にはそうした制約はない。いずれにせよ,機能主義は,AI研究や認知心理学と調和する枠組みとして,最もポピュラーな立場となったのである。

機能主義にも,しかし,いくつかの難点がある。それは行動主義や同一説を悩ました幽霊,つまり感覚的な質の問題である。機能主義によれば,質的に異なる心的状態が機能的には同型であり得るし,それどころか質を全く欠く心的状態も可能である。痛みのような質は,どちらかと言えばソフト面よりもハード面と密接に関係する心的状態であるから,ハード面に最大限の自由度を許す機能主義がそれを取り込めないのは当然であるかもしれない。しかし,人間の認識をコンピュータ・プログラムで表現しようとする場合,それが単なるシミュレーションであれ,あるいは実際に近いモデルの構成ならば尚更のことであるが,人間の認識において質の果たしている役割を無視することはできないように思われる。

1980年にアメリカの哲学者ジョン・サールは,一つの思考実験を用いて物議を醸した(注4)。彼は,しかるべくプログラムされたコンピュータは文字通り心であるとする「強いAI」に反対する議論を展開する。彼は人間の志向性が脳の因果的所産であるとする。しかし,コンピュータのプログラムを実行することは志向性の十分条件ではない,と彼は言う。後者の命題を確立するために,「中国語の部屋」と呼ばれる例が出される。

或る部屋に中国語を全く知らない人物が閉じ込められたとしよう。その部屋には中国語の単語の書かれたカードがいくつも置かれている。彼は中国語の単語を組み合わせる規則について書かれた本を与えられる。それは彼の母国語で書かれているので,彼はその規則を理解できる。それは記号相互を形式的に,つまり統語論のみによって組み合わせることを教える。そこで,或る記号が部屋に入れられると,彼は規則に従って別の記号を部屋の外に返す。部屋に入ってくるのが「問い」であり,出ていくのが「答え」であると外部の人物には理解されている。そして彼がやがてこの仕事に熟達して,彼の「答え」が中国人の場合と少しも違わなくなるとすれば,どうであろうか。彼のしていることはコンピュータがプログラムを実行しているのと変わらない。ところが,彼は中国語を全く理解せずに,そうしているのである。

かくして,脳が志向性を生む仕方はコンピュータ・プログラムを実行する仕方によって説明できない,とサールは論じる。志向性を生み出し得るメカニズムは脳と等しい因果的能力をもっていなくてはならない。心は統語論以上のもの,つまり意味論をもっている。サールによれば,心的現象の四つの特徴が心身問題の解決を困難にしてきた。それは,意識,主観性,志向性そして心的因果である。しかし,脳が心的現象の原因であり,かつ心的現象は脳の特性であると認めることによって心身問題は解かれる。残るのは,如何にして脳が志向性を因果的に生むのかという経験的・科学的問題だけである,と。

サールは人間の脳だけが心のハードウェアとして唯一ふさわしいということを無批判に前提しているように思われる。しかし,脳だけで心を生むのに十分であろうか。サールによれば,いわゆる「オケの中の脳」でさえも志向性をもつことができる。それは,オケの中で培養液に浸され,その神経の末端がコンピュータにつながれた脳であり,そのような脳の経験する世界は,ヴァーチュアル・リアリティ(仮想現実)のように,コンピュータによって作り出される。かつて哲学者のライプニッツは,それぞれがそれぞれの観点から宇宙を写す単一不可分な実体をモナドと呼び,それらの間に神による予定調和を想定した。私はオケの中の脳が志向性をもつには予定調和をもったモナドでなければならないと思う。ただし,この場合の予定調和とはDNAに書き込まれたプログラムのことであるが。

機械は考えることができるかという問いは経験によらずに答えられる問題ではないと私は思う。考える機械は永久機関のように結局は物理的に不可能であることが明らかになるかもしれないが,それが明らかになる前に明らかにされるべきもっと多くのことがあるであろう。現在のところ「考える」という機能は進化した生命体にしか見られないが,機械が遺伝子をもつこともあり得る。機械が学習するだけではなく進化することもあり得るかもしれない。その時には,「コギト・エルゴ・スム」と語る機械も現れるであろう。もっとも,そのときには「考える」という概念も,人間という種も変化を被っているであろうし,気の遠くなるような時間が流れ去っていることであろう。

(注1) MINDS AND MACHINES,ed.by A.R.Anderson,Prentice-Hall,1964.

(注2) ライル『心の概念』坂本他訳,みすず書房,1987年

(注3) デイヴィドソン『行為と出来事』服部・柴田訳,勁草書房,1989年,第8章

(注4) サール「心・脳・プログラム」,坂本監訳『マインズ・アイ』(下),TBSブリタニカ,1984年,所収

*本稿は,神野慧一郎編『現代哲学のバックボーン』(勁草書房)所収の拙論「心の哲学」の一部を書き改めたものである。