本年(1994)京都では,平安建都1200年の記念行事が続いている。この1200年の間,数知れぬ文物が海外から輸入され,その都度,在来の日本の文化を刺激し,それをより豊かにしてきた。数限りない,無名の人々がそれに貢献してきたが,少数の人は幸いにも歴史に名前を残している。この,個人として特定できる人々のなかで,最大の功績をあげた人は誰だろう。思うに弘法大師空海は,最大の功労者の1人であるだろう。
空海は,唐から密教という,当時としては最新の仏教を,そっくりもち帰ったのである。このように,完備した一つの(文化)システムをもち帰った人は,日本の歴史を見渡したところ他にはいないのではないか。同時に入唐を果した最澄と較べても,そういえる。(*1)
彼がもち帰った密教は,今の我々の生活にも無関係ではない。密教から派生した多くの新興宗教の隆盛や,四国八十八ヶ所のお遍路はもちろんのことながら,もっと広く,いわば我々の神仏に対する態度を,心の深部において規定していると思われる。
さらに空海の場合に特徴的なことは,その密教の輸入を,まさに個人でなしとげたということだ。最澄が恒武天皇の手厚い配慮を受けて,弟子3名をつれて入唐したのと大きな違いである。 「天台宗を体系ごとぜんぶを仕入れに行った最澄は,沙金もずいぶん多く持たされてゆき,国家としての信物も多く持たされていた。(中略)―その点からいえば,留学生の空海は,素手で長安に入ったようなものであった。」(*2 )
「空海は,極端にいえば私費で,そして自力で,密一乗を導入した」 (*3)
とするなら空海は,情報収集の大家といえるのではなかろうか。現在日本では,1年間に海外旅行者が1200万人,つまり10人に1人が,海外へ出かける計算となる。また留学生として,海外へ出かける人もぼう大な数にのぼる。ところで,それだけ大量の人々が海外で一体なにを得てくるのだろう。パック旅行だけでなく,外国留学の人々をあわせても,なにを海外からもち帰ったかと考える時,現代とは較べようもない危険な旅に生死をかけて入唐し,一つの完備したシステムとしての密教をもち帰った空海の業績の偉大さに,改めて驚かされる。
また,空海の場合には,後半生の社会活動家としての活躍も目ざましい。宗教家としての高野山,東寺の創建・経営だけでなく,数々の治水工事を始めとする社会活動が語り伝えられている。その内の一つに綜芸種智院の設立がある。中学,高校の歴史の教科書には必ず記載されるこの綜芸種智院こそは,情報の伝播(学校はまさにそれである)の先駆者としての空海の大きな業績である。それは,後述するように,貴族・役人の養成機関ではなく,一般庶民の,個人としての自立を目指す教育機関として,画期的なものであった。経済的な理由等から,その活動期間は短かったものの,世上にいわれるようにまさに「私学」の原型が,ここにはある。
情報の大収集家としての側面は,空海自身の著作として『請来目録』が残されている。情報の伝播者としては,『綜芸種智院式并序』が残されている。この二つを手引きにして,情報を扱うことに関する天才,空海の軌跡をたどってみたい。
「海外に道を求め,虚しく行きて実(みち)て帰る」(*4 )
讃岐国多度津郡に生まれた空海は,15才で母方の叔父,阿刀大足について学問を始めたという。この阿刀大足は,恒武天皇の皇子伊予親王の侍講(皇子つきの家庭教師)であった。18才の時,都の大学へ入る。明経科に入学し,経書(儒学)を学んで,将来の官吏になる勉強を始めた。「雪あかりや螢の光の先で読書した古人をめざして,それでも怠ろうとする気持ちをくじき,また縄を首にかけ錐で股を刺して睡魔を防いだ古人にならって,おのれの不勉強をはげました。」(*5 )とは,その勉強ぶりを伝える彼の言葉である。ところが,この空海24才の著作『三教指帰』序には,前記の言葉に続けて「ここに一沙門あり」から始まる以下のような文が現れる。「ところがここに1人の僧侶がいて,私に虚空蔵聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。(中略)・・・そこで私は,これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて,木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し,阿波の国の大滝岳によじのぼり,土佐の国の室戸崎で一心不乱に修行した」。(*5)
この虚空蔵聞持法という密教の一行法こそは,空海の密教との出会いであったようだ。後の真言密教の大成者としての空海の第1歩といえるだろう。その意味で,この1人の僧との邂逅は,意味深い。(*6)
しかし当然のことながら,大学を離れ,世間的な出世の道を捨てて山林修行者となることについては,それを押しとどめる忠告があった。忠孝の道を説いて,出家を思いとどまらせようとする親友知己に対し,彼は『三教指帰』で答える。彼は「三教(儒・道・仏教)」の「指帰(深きことわりを探る)」において,「忠孝」の名のもとに個人としての立身出世を説く儒教,ひとり仙人の道を目指す道教に対し,一切衆生を救わんとする広大無辺な仏教の優位性を明らかにする。日本で最初の,思想をテーマにした,リーディング・ドラマというべきこの書によって,彼は仏教への確かな1歩を踏み出した。「誰かよく風を係がん(風をつなぎとめることができないように,私の出世間の志を押しとどめることは誰にもできない)」は青年空海の,若さあふれる出家宣言である。
彼以前にも,虚空蔵聞持法を実修した人はなん人もあった。しかし,その修行が,『三教指帰』を生み出し,さらに密教の完成への第1歩になったのは,空海だけであった。
山林修行者としての空海は,『三教指帰』中の仮名乞児(仏道修行者)の姿からおぼろに分かるが,その後,31才で入唐するまでの空海の足跡は全く不明である。それにしても,入唐までの7年余りは,彼の後半生を決定する上で,より重要な年月であったはずだ。というのも,『三教指帰』に,数多くの仏書が引用されてはいるものの,いまだ本格的な密教経典はそこに現れていないのだから。(*7)
一体どこで何をしていたのか。信憑性に問題があるといわれるが,『空海僧都伝』は一つのヒントを与えてくれるように思われる。そこには,若き日の空海が「一心に祈感するに,夢に人有りて告げて曰く,此に経有り,名字は大毘盧遮那経といふ,是れなんぢが要むるところなり。即ち随喜して件の経を尋ね得たり。大日本国高市郡久米の道場の東塔の下に在り。ここに於て一部緘を解いて覧るに衆情,滞り有りて憚問する所なし。更に発心をなして去じ延暦23年5月12日を以て入唐す。初めて学習せんが為なり」。(*8) 夢のお告げについては後述したいが,さしあたりこの文章は,入唐に至る空海の軌跡を説明しているように思われる。即ち,求聞持法から,さらに本格的な密教へと進むのである。ところで,なぜ大日経(大毘盧遮那経)という,純粋密教の経典に,空海は魅かれたのか。平安新仏教の開祖である最澄と空海は,ともに,論中心の奈良仏教にあきたらなかったといわれる。つまり,本来,根本であるべき経典よりも,その経典をめぐる論(注釈書)の研究が修行の主目的になっている奈良の旧仏教に,満足できなかったのである。その結果,最澄の場合には,中観,唯識等の論が起こる前の法華経(紀元1世紀後半頃成立か)にさかのぼろうとする。これに対し,空海の場合には,7世紀中頃から終わりにかけて成立した大日経,金剛頂経を選ぶのである。それは,中観,唯識等の論の成立後の,仏教経典としては最新のものであった。いわば,復古主義的な最澄に対して,発展主義的な空海,である。(*9)
当時,既に大日経,金剛頂経という密教の主要経典は日本に伝来していたといわれる。特に,玄昉 (717~734在唐)は,5000余巻に及ぶ一切経を唐より請来したが,その中には後述する不空三蔵訳以前のほとんどの密教経典が含まれている。そして,請来目録中に空海が書いているように(*10 )どうやら,彼は,既に日本に伝来していた経典の大半をきちんと把握していたようである。その中でまさに空海は密教を自覚的に選び取ったのである。
いずれにせよ,『空海僧都伝』によれば,大日経にいくつもの氷解しない疑問が残り,この上はどうしても長安へ行かなければならないと彼は考えたのである。実際,密教の場合には,経典以外に,真言(不可思議な力をもつ言葉),印契(手の結び),マンダラ(密教の最深奥を図示したもの)等が必要不可欠となる。これらは,独修できるものではない。その意味で,彼は入唐にあたって,すでに密教請来をねらい定めていたといえよう。彼ほどに目的のはっきりした入唐留学生は(最澄を除けば)いなかったといわれる。「空海の入唐目的ほど明快なものはない。・・・・久米寺で見た大日経についての疑問点を明したいためというだけのものであり,遣隋・遣唐使の制度がはじまって以来,これほど鋭利で鮮明な目的をもって海を渡ろうとした人物はいない」。(*11)
630年から897年の最後の遣唐使(これは中止された)まで260年余りにわたり,日本は唐へ使節を派遣し,かの国の先進文化を輸入してきた。空海の乗った第16次の遣唐使は,260年の歴史の中で後期にあたるが,その頃には,4隻からなる船団をつくることが多く,各船には120人~160人が乗っていた。平底の,高波に弱い構造の船であり,無風あるいは逆風の時に櫓をこぐため,乗組員の半数が水夫であったといわれている。航路としては,前期には朝鮮半島の西側を北上していたのが,半島の政治状勢の変化により,後期になると,直接東シナ海をつききるコースがとられた。うまくゆけば,10日足らずで横断することができるこのコースは,その反面,難破の危険も高いものであった。羅針盤もなく,さらに当時の日本人は,季節風の知識ももたなかったとのことである。そのため,後世から見ると,わざわざ逆風を選んで船出することが多かった。実際,第9次の遣唐使以後で東シナ海をつききるコースをとった8回の使節中,往復ともに無事であったのは第15次(779~781)の1回だけであった。食料として1日に1升の糒(蒸した米粒を干したもの)と,1升の水が支給されるだけで,難破しなくても,あるいは1ヶ月,時には2ヶ月も漂流することが予想された。そのため,海上の危険を恐れて遣唐大使に任命されても,ことわる人もあり,副使に任命されたのに逃れようとして実際に処罰された者もいる。留学生の中にも,入唐を望まぬものもでてきた。先進文化の受け入れに,生死をものともせず船出していった先人たちとは,様子が変わってきたのである。逆にいえば,それだけ中国文化の受け入れが進み,危険を犯してまで,出かけてゆくだけの価値を疑い出したのだろう。897年の菅原道真の遣唐使廃止の具申につながる動きである。 ところで,それにしても,なぜ空海は留学生として入唐できたのだろう。第16次の遣唐使は,実は803年に一度出航した。この時,最澄は上船していたが,空海の姿はなかったのである。この船は,出航後すぐに難破したため渡航は中止され,最澄はそのまま九州にとどまった。そして翌804年遣唐使船は再び難波の港を出たが,この時に空海が乗っていたのである。私度僧に近い身分の空海が,政府派遣の留学生に選ばれたことの意味は,限りなく大きい。 (*13) 普通,留学生は1回の遣唐使で10名余であったという。どうして空海がその中へ入れたのか? これには諸説がある。母方の叔父阿刀大足が侍講であった伊予親王パトロン説あり,同族と考えられた佐伯今毛人(彼は東大寺大仏殿建立や長岡京造営に大きく貢献した)の推薦説,また,遣唐大使の単なる通訳として入唐したのではないかという説もある。あるいは,空海は当時貴重視された朱,水銀鉱脈を発掘するグループとのつながりがあり,そこから特別な資金が出たせいではないかとか。
真実はわからないが,いずれにせよ当然,空海の優秀さは広く知られていただろう。さらに,前述の様に,入唐希望者も減少していたのではないか。「たまたま志願者が少なかったので,留学僧の末席につらねてもらった」(*14)という空海の文章が,残っている。
ともあれ,最澄と空海には,それぞれ当時の凡庸な僧には思いもよらぬ志があったのだ。最澄の場合それが,天台教学(法華経)の請来であり,多分彼の場合には,法を求める旅に生死は二の次となっていたのではないか。これに対し,空海の方は,最新の仏教である密教をきちんと請来するのは,自分をおいて他に誰があるかという自信にあふれ,自分が死ぬかもしれないなどということは,彼の頭の中にかけらもなかったのではないか。どうもそんな気がする。
804年当時,唐の都長安は世界一の大都市であった。文字通り文化の中心であった。宗教でいえば,インド伝来の仏教以外に,イラン方面からザラトゥーストラ教,マニ教,さらには景教(ネストリウス派キリスト教)さえもが,長安の都に寺院を構えていた。(*15)
805年2月,遣唐大使の一行が帰国した後,長安の人々の溺愛する牡丹の名所,西明寺に住いを定めた空海は,二つの大きなチャンスに恵まれる。一つは,般若三蔵というインド僧について,サンスクリットを学ぶことができたということである。般若三蔵は,自分がもし若ければ日本にも行きたいが,老年のためそれもかなわぬ,せめて,自分が訳した『華厳経』と『六波羅蜜教』,それにこの梵文経典(貝葉経)を日本へもち帰ることによって,私と日本との縁を結んでほしいと頼んだという。かくして「若き日の空海は直接インド人の高僧から学ぶ機会を得,かつその訳した経典を手ずから受け取って,日本に持ち帰ることができたのである。中国に留学した日本人仏者で,これほどの幸運にめぐまれた例は,他にはないようである」。(*16) 空海は「サンスクリットの原典を贈られているところからみても,おそらく日本人として最初にサンスクリット語が理解できた人となったのであろう」。(*17)
もう一つのビッグ・チャンスは,恵果との出会いである。これこそ,現代世界において,チベットとならんで日本が密教の生きている国であることの源となったものである。当時恵果は,インド伝来の,大日経系の密教と金剛頂経系の密教の二つを継承した唯一の師であった。空海は,請来目録の中で,恵果との出会いを,「長安城中の高僧を訪ねて廻るうちに,偶然に青龍寺東塔院の和尚,恵果阿闍梨にお遇いした」と述べている。
ところで,この文を空海一流のレトリックとみ,さらに,空海の性格を云々する人もいる。つまり,長安に着いた当初から,恵果阿闍梨の名はわかっていたはずで,「偶然に」とは,いかにも不自然な感じがすると。「偶然」といっても,しかし,勿論あてもなく歩いていてばったりと会ったわけではない。どんなに予期しても,なお,不確定の部分が残るのが,人と人との出会いではないか。さらに言えば,会いたいという望みが強ければ強いほど,その邂逅に人間の力を越えたはからいを感じるのではないか。まさにその時こそ,生涯の師に「遇う」ことになる。
空海は当然,早くから恵果の名を聞いていただろう。そして,入唐の究極の目的であるその師にまみえる為に,その準備として,前述の般若三蔵についてサンスクリットを学んだのであろう。「(お前は)中国語とサンスクリットの両方をすべてマスターしていて,私の教えを,瓶から瓶へ移すように受け入れた」とは恵果が,死に臨んで空海に語った言葉であるという。(*18)
ともあれ,805年,5月終わりか6月始めに空海は恵果に師事することができた。「私は,先ごろよりお前がこの地に来ているのを知って,ずっと心待ちにしていた。今日会えて,本当によかった,よかった。私の寿命はつきようとしているのに,法を伝えるべき者がいなかったのだ。急いで香花を用意して,(法を伝える)灌頂坦に入れ」といって手をとらんばかりの歓迎振りであった。(*19) そして,すぐさま(6月上旬)胎蔵の灌頂の儀式を受け,7月上旬には,金剛界の灌頂の儀式(*20)を受けた。こうして密教でいう両部の灌頂を受けた後,8月上旬には,金剛界胎蔵両部相承の免許皆伝にあたる伝法大阿闍梨の資格を得る灌頂を受けたのである。その間,まさに夜を日についで,密教の核心を師から吸収していった。今に残る「三十帖冊子」(国宝)は,空海の勉学ノートの一部である。
空海にとって恵果との出会いは,途方もなく大きなチャンスであった。千載一遇,文字通り1000年に一度あるかないかの出来事といえよう。それをのがさなかった空海はもちろん人並みはずれた異才であるが,それだけでなく,この恵果と空海との出会いには,人間を越えたはからいのようなものが感じられる。事実,恵果は空海に法を伝えた後,わずか4ヶ月余りでなくなったのである。恵果自身の,「寿命はつきようとしているのに法を伝える者がいない」というなげきは,真実であった。阿闍梨がその師から受け継いだ法は,必ず弟子に伝えなければならない。さもなければ,法統がとだえることになる。ところで,恵果には当時1000人の弟子がいたが,その中で,両部相承の弟子はたった1人,しかも,病弱であったという。実際,その後大規模な廃仏(845)もあり,中国における密教は衰退し,消えてしまう。まさに,焼けおちようとする家屋から運び出すかの如く,空海は密教を日本へもち帰ったのである。請来目録には彼がもち帰った品物のリストが記されている。
1.経典 142部247巻
その大半が,不空三蔵,般若三蔵等の新訳である。他に,旧訳であっても,日本に伝来していなかったもの。
2.梵字,真言讃等 42部44巻 サンスクリットを正式に学んだ空海にして,初めて請来できたもの。「これほど大量にサンスクリット語原典がわが国にもたらされたことは,空前にして絶後である」(*21)
3.論疏章等 32部170巻
密教は特に奥が深いもので,経典だけでは真意はつかめないから,どうしても論疏(注釈書)が必要と空海は述べている。
4.蔓茶羅と阿闍梨の影 10鋪
密教は幽玄なので,図画をかりなければ理解できないという。当時最も有名な宮廷画家李真等に描かせたといわれる。
5.恵果和尚から受け継いだ道具 9種
密教の実修に不可欠な法具であり,必要なものは,当時長安で有名な宮廷出入りの工人に頼んだといわれる。
6.阿闍梨付嘱物 13種
恵果阿闍梨が,師資相承で受け継いできたもの。仏舎利,白檀を刻んだ仏・菩薩・金剛等の厨子他。
かくして「密教の伝授を受け,その指示によって経典類から仏像,仏画,法具にいたるまで,必要なものを完全に揃えて持ち帰った」のである。実に「組織的,系統的」な収集であったといわれる。(*22)
さらに,空海は帰りの船を待つ間に,越州にて当地の節度使に依頼状を書いている。その中で「仏教,儒教,道教の三教のうちの経,律,論,疏(注釈),伝記ないし詩,賦,碑,銘,卜(うらない),医,五明(インドの諸科学)など,およそ人びとの知識を増進し,幸福をもたらすべきあらゆる種類の書物をできるだけ伝えたい」(*23)と願い,その収集に努めた。まさに,船に一杯の文物をもち帰ったのではないかといわれている。
歴史事実に対し,「もしも」という反事実の仮定を立てることの愚は承知しているが,そうした仮定を立てるからこそ「僥倖」が生まれるともいえる。前述の如く,第16次遣唐使の出発は803年であったが,すぐさま難破したため翌年に延期された。乗っていた最澄は九州で出航を待つことになった。そして,翌804年,改めて出発した遣唐使船に空海の姿があった。空海は間に合ったのだ。もしも前年の渡航が成功していれば,空海は,少なくともその後数年間は,入唐できなかったはずである。
ところで,803年からの数年間の長安を考えてみよう。般若三蔵は70才を越えていたということだ。さらに,恵果は実際に805年末になくなっている。まさしく,803年の遣唐使が成功していれば,空海は般若三蔵に,さらには恵果に遇うことができなかったのである。死を目前にして,法を伝えるべき人物を必死で探し求めていた恵果に,その人の死の直前にして遇うことができたのは,僥倖と呼んでもいいだろう。
さらに彼の僥倖は続く。帰りの船である。彼が請来目録中に「欠期の罪」と呼んでいるのは,そもそも20年の予定の留学生であったものが,わずか2年余りで帰国したことを指している。実際,恵果阿闍梨のなくなった翌年の806年,遣唐判官高階真人遠成が長安にやってきた。そのやりとりは勿論わからないが,20年間滞在すべき留学生が2年余りで日本へつれて帰ってほしいと願い出たのである。拒否されてもおかしくないところで,なぜか希望がかなえられ,空海は帰国できた。もしも,20年間留学の規則を守って長安の都にとどまっていたなら,どうなっていただろう。次の第17次遣唐使は,2年続けて渡航に失敗した後,838年にやっと入唐を果たした。空海入唐の実に34年後であった。そして,空海自身は835年に入定(死去)しているのである。歴史事実に「もしも」の愚をあえてすれば,規則を守っておれば空海は,阿部仲磨呂と同様,死ぬまで日本に帰れなかったかもしれない。となれば,空海の真言密教請来は,やはり僥倖としかいえないのではないか。 そもそも,遣唐使に加えられたところから空海の幸運は始まっているのだろう。幸運に幸運が重なるというより,幸運を次々に手中にたぐりよせることに長けていたからこそ,空海は情報収集に天才的な働きをなし得たと思われる。
前述したように,空海は,青年の日に夢で大日経の在りかを教えられたという。今のわれわれにとって,こんな話は,まさに夢のようなおとぎ話で,話のつじつまを合わせるためとしか思えないかもしれない。しかし,ひるがえって考えてみるに,まずそもそも今のわれわれに,自己を震撼し,生き方を180度転換させる本を,寝ても覚めても求め続けるなどということがあるか。また,もしもそういう本を探しもとめてついにそれに出会ったとしたら,その時,その出会いをなんと説明するだろうか。その時,合理的な科学的な説明とは?
密教では,説明原理として夢は重要なものと考えられている。阿闍梨が弟子に法を伝えるのは,密教において最も重要な儀式である。したがって,その際に,弟子の資質は厳しくチェックされる。ところが,「弟子の資格は阿闍梨の目による認定だけではなく,さらにもっと規模の大きい判定法が用意されている。それは阿闍梨が弟子に法を授けるとき,その前夜に見た夢の内容をくわしく報告させ,それによって授法の適,不適を最終的に決定するしくみになっている」(*24)とのことだ。元来は大日経の中に占夢(*25)として出てくるものだが,一見不思議な感じがするかもしれない。しかし,こういうことを考えてみよう。弟子にとって,生涯で最も大切な日といえる師から法を相承する儀式の前日に,何の感慨,興奮もなく,夢も見ずにぐっすり休んだとしたら,これもおかしいことかもしれない。われわれ自身考えてみても,頭に思念の塊りがある日,そのため眠りも浅い時にこそ夢を見るのではないか。
密教,そして空海の夢の話は,もっと一般化すれば,情報の授受,情報の収集にあたっての熱意といえるのではないだろうか。つまり思念の塊りを作らなければ情報は集まらないのだ。まさに凝集した思念の塊りつまり思いつめた一念こそが,情報をひき寄せる磁石となる。
828年空海は,東寺の東隣,左京九条にある藤原三守の邸を喜捨され,綜芸種智院を開設した。土地の広さは二町余り,5間の家屋があったという。現在,堀川通と針小路通の交差した角の寺院に,石碑があり,立札が立っている。丁度学院の京都駅前校の西側道路を下ること数分のところである。当時を語る資料としては,開校にあたって,空海の教育理念を記した文章が唯一今に残されている。
当時,都には大学が一つ,地方にはそれぞれ国学があった。いずれも国立の,官吏養成機関である。そして「大学の場合には5位以上および東西の史部の子弟に限って入学を許可し,6位以下8位以上の場合には特別の志願者にのみ許されていた」。また「地方の国学の場合であると,国司または郡司の子弟にのみ門戸が開放されていたのである」(*26)。実は,定員に満たない場合,国学へ才能豊かな庶民の入学も法令上は可能であったが,現実には難しかったようである。
他に,特殊な官職につくための職業教育もあった。国のそれぞれの役所が行う医学,暦学,織物技術等の技術職としての官人養成機関であった。しかしこれも,特定の人間しか入れないものである。
さらに,貴族たちは独自に一門の子弟の教育機関を設置した。弘文院(和気氏),勧学院(藤原氏),奨学院(在原氏)等。ところでこうした貴族の学校はなぜ作られたか。一方では,「806年(大同一)に,諸王および5位以上の子孫で10歳以上のものはすべて大学に入り,それぞれ学科を修得することを命じ,嵯峨・淳和の時代においても,この政策に若干の修正をくわえはしたが,その基調を保持した。王臣家の子弟のあいだには,大学の課程を忌避する傾向が強くなっていたからである」。(*27) とするなら,単純に学生増を理由に,大学とは別に新たな学校がつくられたのでもなさそうである。いずれにせよ,当然これら貴族の学校は庶民には無縁のものであった。
また,奈良の大寺院や,最澄の開いた延暦寺(823年)も一種の教育機関であり,これは一般庶民にも開かれていたと思われる。しかし,当然そこでは仏教の勉強が専らであり,また学生数は厳しく限定されていた。僧がふえれば,それだけ生産人口が減り,課役免除の人口が増加することになるのだから。延暦寺の場合,6年間の課程で,毎年2名が入学,つごう12名の学生であったとのことである。
以上のように,当時,一般庶民相手の教育機関は皆無といってよい状態であった。「貧賎の子弟,津を問う(勉強する)所無し」である。そこで空海は「貴賎を看ること莫く」「貴賎を論ぜず」「貧富を看ず」に広く庶民に開かれた理想の学校を構想するのである。「綜芸種智」とは,「あらゆる学問芸術などはことごとく種智,すなわち法身大日如来の絶対智の現われであり,そうした一切の学芸を総合的に教授するという意味(*28)である。したがって,それはまず国立の官吏養成の学校とは大いに異なる。当時の大学・国学において教授されていたのは儒教であった。それは,個々人の世間的な出世を目指すものでしかない。さらにまた,彼の目指す教育は,寺院における仏教のみの教育でもない。
ここで若き日の『三教指帰』が思い出される。かの書は,儒・道・仏の三教の優劣がテーマであった。そこでは,仏教の優位が説かれてはいるものの,他が全く否定されたのではない。その序にも,「この三種の教えには浅いと深いとの違いはあるが,いずれもみな聖人の説いた教えである」(*29)という。三教はそれぞれに,固有の価値があるのだ。彼は三教を兼ねて学ぶことの重要性を,力説する。それは官立の学校には,(本来的に)不可能なものであった。
しかし,果たして,そのような教育が一私人に可能か。ある人が非難していう,(奈良時代の)先人たちも失敗したではないかと。
これに対し,空海の言葉では「答す,物の興廃は必ず人に由る・・・」。大海も,高山も,小さな流れ,小さな塵が集まって,深くなり高くなったのだ。同様に,多くの同志が集まるなら,今は小さいといえども,この学校が100世の後までも続くことが可能であると。
現実味のない,夢のような話に聞こえるかもしれない。しかし,国立の学校が,制度によって成立し,私立の学校の存立がひとえに「同志の力」にかかっていることは,今も昔も変わらない。その意味で,この綜芸種智院は,日本において,歴史的に見て最初にして,私学教育の理想タイプを提示した,きわめて珍しい事件であるといえよう。
空海は具体的に,理想の教育の4条件をあげる。その4条件は今もその光を失っていないと思う。
1.教育の環境が大切である。『論語』里仁篇「仁の広がるところにおらずして,どうしてものごとを知ることができようか」。学校にとって,立地条件や,建物よりも,もっと大事なものは,「仁」のあるところ,つまり,人間としての最高善,に対する尊敬に満ちた雰囲気である。それは,個人的な立身出世を求める功利的な雰囲気と正反対である。
2.総合的に学習することが必要である。「(5味の内の)1味だけでは美膳はなり難い。(5音の内の)1音だけでは,妙なる調べは作れない」。諸学を兼ね綜べて学ぶこと,つまり総合的な教育の重要性を彼は強調する。
3.そのためには,多くの専門分野を異にする良師が必要である。道(仏教)の師と俗(その他の学問)の師が,ともに必要である。「真俗離れざることは我が師の雅言なり」(仏教の学問と,世間の一般の学問とは,お互いに密接に結びついていて離れえない)。
4.勉学を続けるためには,師弟ともに給費することが必要である。当時は,大学においても「貴族の人々,とくに地位の低い吏僚,また土豪の子弟が集まったが,学資に窮するものが少なくなかった」(*30)とのこと。そのため天皇は,田畑を大学に寄付して勧学田としたこともある。その事情は,一般庶民においてより切迫したものであった。給費制がなければ勉学を続けられないのは,より明らかであろう。ところで,その資金はどこから出るか。空海は『綜芸種智院式并序』の最後に,広く寄付をよびかける。しかし,予想されるように,実際,学校は主に経済的な理由から,10年足らずで活動を中止してしまったようである。
空海は,「雷鳴がとどろき渡っている時,蚊の鳴く小さな声に,何の意味があるか」という問を立て,それに答える形で,国立の学校がいくつも存在する中にあって,一私人の小さな学校の存立意義を主張する。彼は,たぶん実際に見聞したであろう唐の例をひいて,広く庶民にも開かれた学校があるからこそ,かの地には才能あり,学問のある人士が満ちあふれている。これに対し,わが国はどうか。大学たった一つしかなく,庶民の子弟は学問をする場所がないのが現状である。だから,「今此の一院を建てて普く童蒙を済わん」と。
前述の如く,いわば素手で,空海は庶民のための総合的人間教育機関を創始しようとしたといえる。素手であったからこそ,それは長くは続かなかった。しかしその反面,素手だからこそ,日本における教育史の第1ページにおいて,最も理想的なタイプを提示することができたのではないかとも考えられる。
情報を,それも生きるために最も必要な情報を,広く一般庶民にまで伝播することに,空海が果たそうとした役割は非常に大きかった。
最後に,種智院大学の頼富本宏教授には,貴重な資料の貸与と種々のご教示をいただいた。厚くお礼を申し上げます。
*1 両人ともに,唐からもち帰った文物のリスト,すなわち「請来目録」を朝廷に提出し,今に残る。
*2 司馬遼太郎『空海の風景』(中公文庫)
*3 上同書
*4 渡辺照宏・宮坂宥勝『沙門空海』(ちくま学芸文庫)
*5 福永光司訳『三教指帰』(日本の名著『最澄・空海』)
*6 上山春平『空海』(朝日選書)
「求聞持から出発し,求聞持に救われた体験は,求聞持の謎,ダラニ信仰の謎,真言信仰の謎の解明を求めての入唐留学に彼を駆り立て,ついに真言密教の立宗にまで至らしめた,とは言えないだろうか」
*7 福永,前掲書
*8 渡辺・宮坂,前掲書
*9 上同書
*10 「名前だけが伝わっているが,実際にはかけているもの,・・・・ほぼこの中にある」(請来目録)
*11 司馬,前掲書
*12 遣唐使の全体像は森克己『遣唐使』(至文堂)に詳しい。
*13 私度僧(官許を得ていない僧)は,勝手に,律令体制の外へ出たアウト・ローとして,当時厳しく取り締られた。空海は入唐の直前まで私度僧であったと考えられている。
*14 上山,前掲書
*15 石田幹之助『長安の春』(東洋文庫)
*16 渡辺・宮坂,前掲書
*17 上同書
*18 上同書
*19 上同書
*20 胎蔵(界)は大日経に説かれた大日如来の慈悲を,金剛界は金剛頂経に説かれた大日如来の智徳をあらわす。両部の潅頂とは,それぞれの経に則って師より法を授かる儀式。
*21 渡辺・宮坂,前掲書。
*22 上同書
*23 上同書
*24 松長有慶『密教』(岩波新書)
*25 占夢。荘厳された堂宇,着飾った美しい男女,仏,菩薩等の夢は吉祥で,反対にみにくいものが現われる夢は不祥。
*26 渡辺・宮坂,前掲書
*27 北山茂夫『日本の歴史4 平安京』(中公文庫)
*28 渡辺・宮坂,前掲書
*29 福永,前掲書
*30 北山,前掲書