有史以来,星空は人々に勇気と恐怖をもたらしてきた。歴史上の記録や伝承より星ぼしの振る舞いをパソコンで再現してみると,そこから新しい古代史観が生まれるかもしれない―。
2002年の夏,数名の天文教育普及研究会近畿支部会員に,京都コンピュータ学院創立40周年記念イベントとして,天文普及のためにこんなシンポジウムを開いてみようと提案した。
天文教育普及研究会は,文字通り天文学を教育・普及する研究会で,小学校から大学までの教員,公開天文台・プラネタリウム・博物館のスタッフなど約600名で構成されている全国組織である。毎年,夏休みに全国から会員が集って合宿型の研究会を開催し,平素はメーリングリストで活動報告・情報交換を行っている。筆者も十年来の会員であり,現在は役員の末席を汚している。その機関誌『天文教育』に,2001年から2002年にかけて「人類を揺るがした天文現象」という特集記事が掲載された。その中から四つ(中国から一つ,ヨーロッパから一つ,わが国から二つ)の記事が,今回のシンポジウムのテーマとして選ばれ,発表者が決まった。2003年になって,京都コンピュータ学院と天文教育普及研究会との共催で行うことが正式に決定し,日本天文学会をはじめさまざまな団体からご後援をいただいた。特にコニカミノルタプラネタリウム株式会社からは,移動式プラネタリウムの提供を受け,会場に古代の星空が再現された。
後援団体各位に厚くお礼申しあげます。
日時 2003年6月28日(土) 午後1時~6時
会場 京都コンピュータ学院京都駅前校
主催 京都コンピュータ学院,天文教育普及研究会
後援 日本天文学会,東亜天文学会,コニカミノルタプラネタリウム株式会社,株式会社アストロアーツ,京都新聞社
当日は雨天にもかかわらず,近畿の天文愛好家,京都コンピュータ学院や京都大学の学生を中心に,5歳の幼児から92歳の超熟年まで,446名の参加があった。
レビュー: 有本 淳一(京都市立塔南高等学校)
平安京造営の方位: 臼井 正(大阪産業大学)
陰陽師と天文道: 作花 一志(京都コンピュータ学院)
流星雨と彗星映像: 藪 保男(東亜天文学会)
レビュー: 矢治 健太郎(和歌山大学・国立天文台)
超新星あれこれ: 福江 純(大阪教育大学)
キリスト教と星: 西村 昌能(京都府立洛東高等学校)
レビュー: 横尾 武夫(大阪教育大学)
日食アニメーション: 中西 久崇(京都コンピュータ学院)
古代の日食検索: 谷川 清隆(国立天文台)
日食映像: 北原 達正(京都大学)
レビュー: 作花 一志(京都コンピュータ学院)
日中古代遺跡の方向性: 宇野 隆夫(国際日本文化研究センター)
初の講演は有本氏より,氏の主宰する「京都天文めぐり」の活動報告をもとに,天文を軸として京都学を創生しようという提案だった。
千年の都には千年間の天文学の歴史があり記録・遺跡・記念物も多いが,そのほとんどは知られていない。今まさに忘れられようとしている事物を掘り起こし,後世に残そうという試みである。わが国では,古代から近世にかけて星についての記録・物語は少ないといわれていた。実際,記紀には天文記録は非常に少なく,また百人一首には「星」という言葉は全くない。しかし,千年前に京都は世界でベスト5に入る大都市であり,文化水準も高かったといわれている。平安京には,遠くギリシャ・ペルシャ・インドなどから中国を経てもたらされたものを国風にアレンジした多種多様な文化があったのだから,天文学も成立していていいはずだ。「京都天文めぐり」は,これまでの活動でそのような証拠をいくつか見出した。そして現在,次のような項目を調査中で,2004年中にはまとめて刊行物にする予定でいる。
●平安京造営はどのような天測に基づいて方位が定められたか
●暦算天文学の歩み(陰陽寮,改暦,渾天儀,土御門家)
●天文学者としての安倍晴明および空海の業績
●古典文学(枕草子,更級日記,明月記,建礼門院右京大夫集)の中の星ぼし
●宗教の中の天文学(北斗曼荼羅,妙見信仰,須弥山,イエズス会)
●日本最初の天体観望会(橘南蹊,岩橋善兵衛など)
●近代天文学(京都大学理学部・花山天文台における新城新蔵,荒木俊馬たちの業績など)
「平安京造営時の方位測定法」は臼井氏自身の実測に基づく発表である。794年に造営された平安京の南北線は角度にして西に3分の1度ほどずれているという。当時の技術としてはすごいものだと感心させられるが,さらに驚くべきことに平城京(710年)や藤原京(694年)も同じ状況とか。となると系統的にそうさせる何かがあったことになる。方位決定は太陽光が作る影の測定に基づくものだろうが,詳しくは氏のウェブサイトを参照されたい。
続いて作花は,千年前の天文博士としての安倍晴明が見たはずの天文現象を二つ,花山天皇退位の時の天変(986年)とハレー彗星の到来(989年)を紹介した。安倍晴明は後世,陰陽師というかマジシャンとしての姿が過大に強調されてしまったが,実は天文知識を駆使し,藤原兼家・道長と微妙な関係を保った特殊技能者だったのではないかと思える。
最後に,実際の彗星や流星雨のビデオ映像が藪氏より紹介された。2001年11月19日未明の,すばらしかったしし座流星雨をあらためて想い出した。
ヨーロッパで歴史的・伝承的に有名な大きな明るい星の出現伝承といえば,イエス誕生の時に現れたという「ベツレヘムの星」がまず挙げられよう。2000年間にわたりさまざまな説が提唱されてきた,文字通りスーパースターである。その諸説については,横浜こども科学館のウェブサイトに詳しくまとめられている。
この星についての記録は,新約聖書のマタイ福音書のみで,その真実性については異議も多い。当時の大文明国のローマ帝国にも漢帝国にもこの記録は伝わっていないのだから。しかしこれを救世主生誕のために捏造された挿話と決めつけたら何も始まらない。とにかくマタイ福音書第2章の記述に沿って考えてみよう。
キーになるのは,東方の博士たちがエルサレムに来て「私たちは,東のほうでその方の星を見たので,拝みにまいりました。」という件である。「東方」とはユダヤから見て東方であるからバビロンを指すと考えられる。バビロンは大いなる都といわれ,古くからオリエント文化の中心地であり,占星術に長けた博士もいたはずだ。東方の博士はこの星をかつてバビロンで見て,ユダヤに着いてから再び見たというのだから,「同じ現象が2度あってその2回目はユダヤに着いてから見た。この日がイエスの誕生日」と推論できる。「ベツレヘムの星」の候補としては金星など明るい惑星,複数の惑星の集合,大彗星,変光星,新星,超新星等々多数考えられている。聖書の記述を満たすとなると,惑星の会合と考えるのが最も適切であろうが,それでも候補は多すぎて…という矢治氏のレビューであった。ちなみに筆者は,ベツレヘムの星とは,BC2年8月26日の日の出前に東天に見えた火星水星木星の集合ではないかと思っているのだが。
新星とは新しくできた星ではなく,一夜にして星が何万倍にも明るくなる現象である。超新星はさらに大規模なもので,昼間でも見えることがある。このような現象は中国では「客星」として記されていることが多く,過去8回の記録がある。有名なのは1054年7月におうし座に出現したもので,現在かに星雲と呼ばれているものだ。この記録は小倉百人一首の選者である藤原定家の著した「明月記」にも詳しい。しかし紀元前後には,そのような記録も伝承もない。超新星とは巨大な老いた星の最後最大の大爆発であり,光だけでなく電波・赤外線・紫外線・X線・γ線・ニュートリノまであらゆる形で膨大なエネルギーを発する。さらにその残骸はブラックホールとなる場合もある。これらの解説が福江氏からなされた。また西村氏はキリスト教の見地から星を考察しようというもので,氏のウェブサイトに詳しく記されている。
247年3月24日の夕,西に沈み行く太陽が欠け始め,細い弧になった状態で没するという日食が見られた。これを眺めた人々は「この世は終わり,もう明日の夜明けはない!」と底知れぬ恐怖に襲われたのではないだろうか。頃は邪馬台国の女王ヒミコの晩年であり,ヒミコの死を暗示しているともいわれている。この日食の記録は「魏志倭人伝」にも,その他のどんな書物にも現れない。国立天文台の名誉教授,故 斉藤国治氏の天文計算の結果からわかったことなのだ。この日食は西アジアから朝鮮半島沖までは皆既で見られる。わが国では東へ行くほど貧弱になり,上記のような壮絶な光景は九州では見られるが,近畿では半分くらいしか欠けない。
邪馬台国がどこにあったか,ヒミコは誰かということについての調査研究は,300年前の新井白石に始まり,さまざまな説が立てられている。近畿・北九州はもちろん,はるかジャワまで無数の候補地があるそうだ。所詮「魏志倭人伝」の短い文章の解釈だけで推察するにはネタ切れで,もはや新説は難しいようだ。しかし天文計算という手段を使えば新たな展開ができるのではないか。この日食は長く人々の記憶に残ったに違いない。それが語り部によって伝承され,別の形で再現されてはいないだろうか? いや,ある,日本神話の中に。「古事記」「日本書紀」がともに記す高天原のハイライト,いうまでもなくアマテラスの天の岩屋戸事件だ。日の女神が隠れるというのだから,日食を連想するのは容易である。彼女は弟スサノオの数々の暴挙に怒って,天の岩屋戸に籠ってしまい,この世は真っ暗になってしまった。困り果てた神々は協議し,例のとんでもないショーを開いて彼女を引き出し,スサノオを追放する。ところで,岩屋戸事件の前と後ではアマテラスは別人のようだ。籠る前は乱暴な弟にほとほと手を焼いている姉であるが,引き出されて世界に再び光がさした後は,彼女は争いや些事には縁遠く人間味は薄い。スサノオ追放も彼女抜きの神々の協議で決まったし,後の天孫降臨もタカミムスビとの連名の神勅で下されている。このことは安本美典氏がすでに30年前に指摘していることであるが,筆者にはアマテラスの「復活・昇天」のように想えてならない。
これらをつなぎ合わせると,多少の無理は承知の上で,「ヒミコ晩年の日食はアマテラスの岩屋戸隠れ伝承を生んだ。彼女は九州にあった邪馬台国の女王で,太陽神に仕える巫女であったが,死後は太陽神として崇められるようになった」ことが想像できるのではないか。
以上は横尾氏の講演に筆者が尾鰭をつけたものである。それに対し,谷川氏より,247年の日食はわが国からは部分食で,「アマテラス日食」にはなりえないという指摘があった。また,ヒミコの晩年にはもう1回大きな日食があり,それは翌248年9月5日の早朝に起こっているが,この日食はヒミコまたはアマテラスに関係ないだろうかという質問が一般参加者から出された。しかしそのときには欠けた太陽が高く昇ってくるにしたがって次第に復円していく姿が見られ,前年のような壮絶さは感じられない。ヒミコの死どころかむしろその後継者であるトヨ(またはイヨ?)のもとで平和がよみがえったことを表しているようだ。
中西氏からは自作のアニメーションの紹介が,北原氏からは実際に撮像された日食ビデオの紹介があった。次にわが国で見られる大きな日食は2009年7月22日に起こり,近畿でも大きく欠けるが,屋久島か奄美大島に行けば皆既食を鑑賞できるそうだ。
BC3000年からAD3000年までの間,水星・金星・火星・木星・土星が天空上で20度以内に収まる日を天文計算で算出したところ,実際に眺められる五惑星会合は36回起こっている。この珍事は古代史の中に記録されてはいないだろうか?と調べてみたところ,古代中国王朝の始まりと関係ありそうだ。中国では西欧のような宗教的ドグマがなく,天文古記録は非常に多く,むしろ重視されていたようだ。
まず,2000年間以上議論されてきた「五星聚井」について。始皇帝没後,再び戦乱の世になり,漢の高祖劉邦が秦の都に攻め入る時,彼が天命を受けたしるしとして,五惑星が井宿(ふたご・かに座あたり)に集合したと「漢書」に記載されている。ところが漢元年(BC206年)に火星だけはみずがめ・うお座にある。そのため,数値の誤写だとか後世の捏造だとかいわれてきたが, BC300年から300年間,五惑星が25度以内に収まる日を詳しく捜してみると,翌BC205年5月末に実際に起こっていることがわかった。後世の誤写か?漢書の編者自身の改竄か?それとも漢元年は1年ズレているのか?
「五星聚井」より854年前のBC1059年,同じ月日の同じ時刻に同じ方向で五惑星集合が起こっていた。これは6000年間で三番目にコンパクトな惑星会合である。時は商(=殷)末,酒池肉林などで悪名高い暴君,紂(ちゅう)王の世であり,密かに反旗を翻す準備をしていた周の文王は,というよりその参謀である太公望は,この夕の天象を見て「天命下る」と解釈し商周革命(紀元前11世紀)を正当化するための手段に利用したと考えられよう。この天象の記録は「史記」にはないが,ずっと後になって唐の時代の占星書「大唐開元占経巻十九」に記載されている。
そこで,勢いに乗って商周革命の年を特定してみようと無謀な企てを試みた。この研究は古くは紀元前の漢の劉歆(りゅうきん)から21世紀の今日まで続いており,40以上の候補年があるそうだ。
「昔武王殷を伐つ。歳は鶉火に在り。月は天駟に在り。日は析木之津に在り。」という文が「漢書律暦志」にある。文章の信憑性に関する考証はさておき,ともかくこの短い文から商周革命の日を特定してみよう。歳とは木星のことで,鶉火(じゅんか),天駟(てんし),析木(せきぼく)とは星座名のようなものでいずれも天球上の位置を表す。12年弱で天球を一巡りする木星が「鶉火」にあるのはBC1071年,BC1059年,BC1047年,BC1035年,BC1023年の夏から翌年の夏までである。当時,太陽が「析木之津」にあるのは11月頃で,また月が「天駟」にあるのは新月2日前となる。そこからいくつかの候補年月日が考えられるが,それらの日の星空をひとつひとつ再現して,最も条件に適する日を探すとBC1047年11月27日となった。さらに,漢書にも史記にも,周が商に牧野(ぼくや)の戦いで勝利をおさめたのは「甲子の日」と記載されている。干支は60日周期で繰り返すが,上記の日の後でやってくる日はBC1046年1月20日である。この両者から周はBC1047年11月27日に戦いを始め,翌BC1046年1月20日に牧野の戦いで商を破ったと考えられる。ところで文王は「受命九年」で没し,次の武王が商を滅ぼしたのは「文王の受命より十三年に至る」と記されているが,果たして受命とは何だろうか? BC1046年が受命から13年後とすると,天命が下ったのはBC1059年である。想像をたくましくして文王が天から受けた非常に重要な命令は天空に描かれたと考えよう。その年の5月末に起こった五惑星聚合こそまさにこの天命にふさわしい天象ではないか! 以上をまとめると,次のようになる。
●BC1059年 5月: 文王,天命を受ける
●BC1051年: 文王没,武王継承…受命から9年目
●BC1049年: 武王挙兵するが撤兵…上記の2年後・受命から11年目
●BC1047年11月: 商周戦争再開…上記の2年後
●BC1046年 1月: 牧野の戦い,紂王自殺し商滅亡…受命から13年
なお,2000年11月に中国の専門家チームより中国古代王朝の開始年として「夏はBC2070年,商はBC1600年,周はBC1046年」という記事が読売新聞で発表された。その情報源は最近中国で行われている「夏商周断代工程」という大規模なプロジェクトの結果らしく,「武王克商の年代はこれまで44の候補があったが,このたびBC1046年1月20日と確定した」そうだ。どういう方法で決められたのか詳しいことはわからないが,筆者の計算結果と奇しくも一致していた。
さらに古代へ溯って商の始まり,夏の始まりにも何かあったのではと想像される。BC1953年2月末早朝,木火土金水のみずがめ座への集合は,6000年間で最もコンパクトな五惑星の集いである。ほとんどの民族はまだ先史時代で,記録はなくても微かな伝承として残ってはいないだろうか?中国では殷の前の夏の時代で,その初代禹(う)は黄河の治水の指導者であったが,伝説の聖帝である尭(ぎょう),舜(しゅん)の次に天子に推戴されたという。夏王朝の存在はまだ確認されてはいないが,近年遺跡がいくつか発見され,確からしいという声は高まっている。出典は明らかでないが,「禹の時代に五星が連なり輝いた」という伝承が,1800年後の漢の時代の記録にあるそうだ。これを偽記事と決めつけるような頑迷な態度はやめよう。その夏は17代桀(けつ)王のとき商の湯(とう)に滅ぼされるが,これは最初の王朝交代戦であった。この事件はBC1600年の頃といわれるが,紀元前16世紀から17世紀には五惑星会合は起こっていない。四惑星会合はいくつかあるが,BC1576年12月末に,いて座に水星・火星・木星・土星が集合したものがもっとも人々の記憶に残りやすいようだ。
惑星会合は王朝交代の兆しというのはできすぎた話で,筆者はこんな相関を主張して占星術を述べるつもりはもちろんない。むしろ漢初の五星聚井を漢の正統性の根拠とするため,逆に夏殷周漢の始まりをすべて惑星の大集合が起こった時期に設定したと考えた方が自然だろう。古の五帝の血を引かない平民出身の劉邦が皇帝になったのは天命によるものと,漢王朝お抱えの儒学者・天文官たちはそう考え出したのだろう。
続いて,発表者の中で唯一の考古学研究者である宇野氏から夏や殷の遺跡発掘,およびその都城の方位性についてのコメントがあった。
総合討論では参加者からの質問にパネラーが答える形で進められた。古代史を通しての天文普及活動というのが筆者たちの主目的だったので,議論を深く掘り下げる時間はとれなかったが,ヒミコの日食については多数の参加者から関心が寄せられた。
最後に,このシンポジウムを支援してくださったすべての方々に厚くお礼申しあげます。
「聖書」 日本聖書刊行会 1970
安本 美典 「卑弥呼の謎」 講談社現代新書 1972
斉藤 国冶 「古天文学」 恒星社厚生閣 1989
小竹 文夫・武夫 「史記」 ちくま学芸文庫 1995
小竹 武夫 「漢書」 ちくま学芸文庫 1998
作花 一志・中西 久崇 「天文学入門」 オーム社 2001
横尾武夫 「天文教育」 No.7 2001
作花一志 「天文教育」 No.8 2002
B.E.Schaefer "Sky & Telescope
作花一志 http://www.kcg.ac.jp/kcg/sakka/
臼井 正 http://homepage3.nifty.com/silver-moon/
西村 昌能 http://www.kcat.zaq.ne.jp/aaagq805/star/star4.htm
出雲 晶子 http://www.city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/christmas.html