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武田 康廣 京都情報大学院大学教授インタビュー

「新世紀エヴァンゲリオン」の(株)ガイナックス取締役アニメーション製作本部長 KCGIの武田康廣教授に聞く

僕は「面白いこと」だけをやってきた

株式会社 ガイナックスは「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズをはじめ, 常に話題になるアニメーション作品を送り出す制作会社として, 国内外のファンの熱い注目を浴びている。武田康廣教授は同社の創業メンバーとして30年近く,その中核を担ってきた。現在も取締役アニメーション製作本部長として現場に立ち続けている。
アニメ界の最前線で活躍する武田教授に, 東京・三鷹のガイナックス本社で話をうかがった。

小学校の図書室の本を全部読んでやろう

Q 武田先生は大阪のご出身だそうですね。

A 生まれも育ちも,大阪の南の泉州です。泉北郡忠岡町。今でも実家があります。両親ともに健在で,幼稚園,小中学校以来50年近く付き合っている連中が今も地元にいます。その後京都の人と結婚したので,今は京都にも家があります。

1957年(昭和32年)に生まれました。テレビ放送が1953年(昭和28年)に始まり,物心ついたころはテレビがあった世代です。そのころは日本の番組はあまりありませんでした。今みたいに録画はないので,生放送の番組を見たり,それにアメリカのテレビ番組がいろいろありました。「アウターリミッツ」とか,SFものが多かったですね。

そのうちに日本製の番組でも「海底人8823(はやぶさ)」とか,「鉄腕アトム」実写版とか,SFの実写ドラマがだんだん出てきました。日本製テレビアニメが放送されるのはまだまだ後になってからです。

それから,そのころはウォルト・ディズニーのテレビ番組がずっとあったんですね。あとは映画です。アニメに限らず,西部劇とか,ミステリーとか,黄金期のアメリカ映画がたくさん放送されていました。

Q どんなお子さんだったんですか。

A みんなを誘ってあれしよう,これしようといろいろ考える子どもでした。小学校の時にクラス対抗かくれんぼ大会をしましたよ。放課後に残ってクラスの中で男女に分かれて派手にかくれんぼしていたら,そのうちにほかのクラスの連中が混ぜてくれって言うんで,6クラスあるのを3クラスずつに分けてやりました。

中学校のときには,行事で各クラスが何かするというときに,演劇には全く興味がなかったのに,思わず「舞台をしよう」と言ってしまいました。「劇なんてどうやってするかわからへんやん」と言われたんですけど,「大丈夫,脚本は僕が書く」と。脚本を書いて演出までしました。

ガキ大将ではなく,どちらかというといじめられっ子だったと思います。ただ,そのころはいじめという言葉もなかったので,そういう意識もありませんでした。

Q 本もお好きだったとか。

A そうですね。小学生のころから好きでした。たくさん読みましたね。小学校4年か5年の時に図書委員になって小学校の図書室の本を全部読んでやろうと思って,一通りは読みました。ミステリーとかSFとか,ルパン,ホームズ。

Q 日本のS F といえば,2011年7月に小松左京先生がお亡くなりになりました。

A 僕が小・中学校のころには,小松先生をはじめ,眉村卓先生,星新一先生など日本のSFの黄金期を支えた人たちの本を熱心に読みました。あと翻訳SFもよく読みましたね。ロバート・A・ハインライン,アイザック・アシモフ,アーサー・C・クラークといった人たちです。

SFのファン活動は自然発生的に


 東京・三鷹市のガイナックス本社

 「コンピュータの仕事に就くなら想像力が
 必要」と語る武田教授(ガイナックス本社)

 作品を前に

 武田教授のガイナックス社の仕事場

 学生に囲まれて

 KCGI での講義風景

Q そんなSF好きの子どもが,だんだんプロフェッショナルのキャリアに入っていくんですね。

A 最初は無自覚でした。将来SFの仕事をしたいとか,そういう仕事にあこがれたというのは全くなかった。もちろん子どものころから本をたくさん読んでいたので,知識はありました。特に,中学・高校時代は毎日のように読んでいましたから,合計1000冊以上になると思います。

それで大学に入って,SFのファン活動をしたいと思いました。「S・Fマガジン」(早川書房)という雑誌があって,SFのファン活動やSF大会のことなど,いろいろ楽しそうに書いてあるんですよ。

特に日本のSF作家,小松先生とか筒井康隆先生,星先生といった方々の対談を読んでいるとすごく面白いんですね。シリアスな話もあるんですが,すごくおおらかなんですよ。誰かに悪いからしゃべらないとか,こういうことを言うのはよくないんじゃないかといった自己規制がなくて。ブラックユーモアとして話すんですが,悪意はまったくない。知識欲とか自分たちの想像力がわっと出てくるんですね。あの当時書いている人たちは,戦争に行った人もいます。そういう本当の大人の人たちのしゃべり方というのは,つまらない自主規制などを超越したところで話をしているのがとても面白かった。

今はどうしても社会的にそんなこと言っちゃいけないとか,差別につながるとかなんだとかいうことになるし,本やマスコミに出る人は,言う前から規制しているところがあって,どこか小さくなってくるんですよね。たとえば原発事故でも,眉間にしわを寄せて深刻な顔をしていれば解決するかと言えばそうではない。

小松先生が元気だったら,そういうことにもっと前向きで取り組んだでしょう。単に誰かのせいだ,というのでなくて,これだけの状況をどうしたらいいかと考えたと思うんですよ。想像力からものを考える。そんな人たちとお会いしたいという憧れから,自分もSFのファン活動がしたいなと思いました。職業としてというより,もっと無自覚というか,自然発生的に,そういう世界は楽しいなと思ったんです。それがきっかけです。

Q それで,SF大会の運営を手掛けられた。

A 初めてSF大会に行った時に,まるで期待はずれだったんです。すごく楽しいんだろうなと期待して行ったらつまんなくて。有名なSF作家も来ているし,まわりはみんなSFファンだらけなのに。あまりつまんないんで昼間は仲間と近くの山に登っていました。そんな時に,「あれつまんなかったね。僕らの方が面白くできるんちゃう」って言ったらみんなが「きっとそうだよ」「じゃあやろうか」って。

反面教師ですね。僕は他人と同じことやってるのがいや,十把ひとからげに見られるのがいやという反骨心が強い。だから「自分がやった方が面白くなるはずなのに」と。何の根拠もない。自分でも生意気だったと思います。今でもそうですけど。

でも,だからといって将来はイベント屋をやるんだ,映像作るんだと思ったわけじゃないんですよ。僕の人生,全部そういうなし崩しですよね。

Q そこで作ったフィルム(Daicon III)が評判になったんですよね。

A SF大会はファンが運営するものです。それを仕切っているのは日本SFファングループ連合会議といって,開催を希望するグループが複数出てきたら,ここは来年,あそこは再来年,と振り分けます。だいたい2年前ぐらいからは決まりますね。参加者はだいたい1000人から,4000人ぐらい。

最初僕がやったのは,自分たちで運営する第20回SF大会(大阪)のオープニングで短いフィルムを作るという活動でした。あくまでもイベントの一環です。僕自身は映像を作る能力も,才能もないから,スタッフを集めてきて,山賀(博之・現社長),赤井(孝美氏),庵野(秀明氏)といった才能と出会ったことによって,非凡なものが作れたわけですよね。ただのマニアが作った作品ではなくて,本当に才能というものが存在している作品を作れた。それが受けた。3~4分のものですが,それが大変な評判になって。SF大会はもう50回を数えますが,僕らがやったことの影響は,いまだにSF大会に残っています。

Q そうやって作った映像が評価されたことで,ご自分の中に仕事としての自覚が芽生えたと…。

A それは全然なくて。その後もSF大会で映像を作って,それがビデオで売れたりもしました。仲間の一人は「こういうのは商売になる。面白いじゃないか」と。

でも僕は気が進まなかった。ファン活動を商売にするというのは,何となくピンとこなかった。でも手伝ってくれというので手伝っていると,交渉したり,ものを作ったりということがだんだん面白くなってきたんですね。お金をもうけること.つまりビジネスが面白くなってきた。

最初のビジネスは「リアルなフィギュア販売」

ガイナックス作品リスト

 王立宇宙軍

 トップをねらえ!

 ふしぎの海の
 ナディア

 おたくのビデオ

 彼氏彼女の事情

Q ビジネスとして最初に手掛けられたのはフィギュアですね。

A ゼネラルプロダクツというSFショップを大阪の桃谷で始めたんですね。当時は手作りでやっていましたから高かったですね。プラモデルが300円ぐらいで売っている時代に3000円とか5000円ですから,10倍以上の値段です。原型を作って,粘土に埋めて,シリコンで型をとって,型を取ったところを合わせて,プラキャストといわれるポリウレタンの樹脂を流し込んで作ります。プラモデルと原理的には同じです。最近は中国で作って完成品で日本に来ますね。値段は数百円から,大きいものは何万円もします。

その時,自分たちが子どものころ欲しかったのはなんだろうと考えたんです。たとえばゴジラの人形が欲しくても,不細工な,カエルの親玉みたいな,本当に子どもだましのゴジラしかないわけです。たとえばウルトラマンに出てきたジェットビートルの模型が欲しいといっても,全然テレビに出てきたのと違う不細工な形で,下にぜんまいボックスがついて走る。本物のジェットビートルにぜんまいなんか付いてないでしょう。こんな形じゃないだろうと。何で格好いい模型がないの,と思うわけですよ。

僕たちが子どものころに欲しかったのはリアルなゴジラだとか,リアルな宇宙船。タミヤのような模型会社は,たとえばサンダーバードのリアルなものを作ります。リアルな戦車の模型も作ります。アメリカ軍,ドイツ軍の飛行機・船。そういうものをリアルに作ってファンがいるのに,なぜテレビに出てくる宇宙船の模型はリアルじゃないのか。おかしい。結局特撮番組・怪獣は子どものものだから,これぐらいで十分だ,というのがあったと思うんですよ。あまりリアルだと子どもが怖がるとかね。

実際,子どもはリアルなゴジラを怖がると思いますよ。でも子どものころに見たゴジラを,20歳になって見ても,もう怖がらない。それどころか,スクリーンやテレビに出てきたそのものが欲しいわけですよね。だとすれば,リアルなもの作ろうということで。

そういう商売がそれまで日本になかった。商売としてちゃんと出てきたのは世界でも最初だと思います。それまでもスターウォーズのショップとかはアメリカでもありましたけど,でも,すごくメジャーなおもちゃ会社が作るものか,高くてマイナーなものしかなかった。僕らはそれをもっと一般的にしようということでやりだした。そこが面白かったんです。

Q 併行して映画の制作にも乗り出されました。

A ゼネラルプロダクツの仕事をしているときに,当時のスタッフである山賀と岡田斗司夫が本格的に映画をやりたいと言い出しまして。それから紆余曲折あったんですけど,結局は劇場作品を作るということになって,ガイナックス社を立ち上げたんですね。

最初は自主制作というか,アマチュア活動のままでやろうと思っていたんですが,バンダイさんがお金を出してくれることになって,バンダイさんが付き合うのにアマチュアではいかんということで,会社を作りました。

映画作りはイベントと似ています。というか映画作りは一種のイベントなんですよね。だから日本映画でも,映画で生活できている人なんてほとんどいないのに何でみんな映画をやりたがるのか。結局イベントなんですよ。盛り上がりが楽しい。アニメも同じ。アニメでも実写でも,本当に「面白いな」という気持ちになったのは,20代も後半に入ってからですよ。

だから夢も希望もないみたいだけど,本当に自分の好きなものから始まって,気がつくと,なし崩し的に今の仕事をしているというわけです。ただ,無理やり押し付けられたというよりは,やっているうちに自分で「あ,こんなところが面白いんだ」と分かってきた。アニメとか実写の映像は,どういうふうに作られて,どういうふうに演出されているのか,一つ一つのシーンの意味やドラマってどういうふうにできているのか。そういうことがわかったのは,30過ぎてからです。30過ぎてから同じ映像を何度も何度も見て,コマを描きだして,ようやくわかってきました。

アニメだけでなく,とにかく新しいことを


 愛のあわあわアワー

 フリクリ

 アベノ橋魔法☆
 商店街

 ぷちぷり*ユーシィ

 まほろまてぃっく・
 もっと美しいもの

 この醜くも美しい
 世界

 忘却の旋律

Q どうして「ガイナックス」という社名になったんですか。

A 「ガイナ」というのは鳥取県の米子弁です。中心メンバーの赤井の出身が米子市で,社名を考える時に,現社長の山賀が「米子の方で面白い言葉あったよね」と言った。米子弁の「ガイナ」は「でっかい」という意味です。それに,ロボットアニメみたいにエックスをつけると面白いのではないかということで,この社名になりました。 

ガイナックスの立ち上げと同時に,東京に活動拠点を移しました。アニメを作るのは東京じゃないと無理なんですよ,特に当時は。今は大阪や京都でもアニメスタジオがありますけど,それでも東京が中心なんですね。テレビアニメを流しているキー局はほとんど東京です。それにテレビアニメだろうが劇場アニメだろうが配給会社はほとんどが東京だし,おまけにそれを後で出版社に売ろうとしても,大手出版社は全部東京です。結局何をするにも東京になるので,ガイナックスを作ったときに東京でスタジオを始めました。ゼネラルプロダクツも東京に出てきて,そのうち合体しました。いちばん最初は早稲田で。本格的に最初の作品を作るときに吉祥寺。三鷹,武蔵小金井,東小金井,今はまた三鷹です。

Q プロデューサーというお立場は,そうした経緯の中で固まっていったものですか。

A 最初はプロデューサーではありませんでした。商品を作ったり,経営もして,何でもやったんですよ。イベントも,商品開発も。アニメのときは,最初はいわゆる契約面,予算面とか交渉事をやっていました。ここ10年くらいはプロデューサーとしてどんな作品を作るかも含めてやっています。実は本格的にアニメにかかわっているのはここ十数年ぐらいですね。それまでは本当に何でも屋でした。

Q 会社を作るときは,優れた技術を持つ人だけでもだめだと言いますよね。契約面や法律面がちゃんとできる人がいないといけないと。ソニーの盛田昭夫氏,本田技研工業で本田宗一郎さんを支えた藤沢武夫氏などが有名です。ガイナックスの場合には…。

A 僕がその位置にはまっていた。その後何人か仲間も出たり入ったりしていますし,ガイナックスの初代社長だった岡田も今はいません。アニメの庵野も今は自分のスタジオを持ってやっています。そうした入れ替わりの中で,結局ずっと僕がその立ち位置を取っていますね。

Q ガイナックスという会社をどう表現しますか。

A ガイナックスはアニメを作ってりゃいいじゃないかという人もいます。もちろんアニメは作っているし,止めるつもりもないですけど,それ以外もやりたい。自分たちで作った作品を自分たちで宣伝したいし,自分たちで商品を作りたい。自分たちで広めたい。アニメだけにこだわりたくない。かつてそうだったように,イベントもしたいし,実写映画も作りたいし,もっと新しいことをしたいんです。変に凝り固まったプロ,みたいな仕事はしたくない。自分たちで原画集の出版もしています。自分たちの仕事をちゃんと残すためにやっているんです。

Q 自分たちの興味の中から出てくるものを大切にしたいと。

A 別の言い方をすれば,お金をもうけたいというよりは,やって面白いことをして,それがうまくできればお金も評価もついてくる。そういう会社ですね。周りからは「ガイナックスは他とはちょっと違うな」と見られています。

ガイナックスももう創立30年近いですが,僕たちが第20回SF大会のころからやってきたことは,日本のファンであれ海外であれ,みんな知っているんですよ。他の会社だったら,その会社の人たちが以前何をしていたかなんて,そんなに表には出ていません。僕らは学生時代からずっと現代にいたるまでのことが開けっぴろげです。アマチュア時代からやってきたということが,ファンに親近感を与えていると思います。

社名の由来ともなった米子では去年(2011年)9月に,ガイナックスが中心となって「米子映画事変」という映画祭を開催しました。鳥取県は日本で最も小さな県ですが,米子は昔,港町として栄えました。今となってはシャッター商店街のある地方都市です。東京からだと飛行機で行くのが一番早い。自動車だと10時間かかります。鉄道でも5~6時間かかると思いますね。そういうところで何かするのは逆に面白いんじゃないかと思いました。実際にやってみたら,東京以外で活動するってこういうことかと,いろいろ参考になりました。

「総合科学者」になる夢も


 Re: キューティー
 ハニー

 これが私のご主人様

 トップをねらえ2!

Q もしこういう道に進んでいなかったら何をされていたと思いますか。

A 科学者になりたかったんですよ。昔読んだ「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォークト著)というSF小説がある。連作短編なんですが,その中に,「総合科学者」というのが出てきます。総合科学者は個々の分野の専門家ではなくて,いろんな専門分野の知識を広く浅く持っているんです。専門のことは専門家に負けるんだけど,専門家の知らない分野を知っているわけです。たとえば物理の学者は物理のことはわかっているけど,機械工学のことはわからないわけです。そこで総合科学者が機械工学の知識を持ってくると,問題の解決ができる。要するに科学のプロデューサーですよね。そういう科学者になりたかった。

Q 科学者と言っても,プロデューサー的な科学者なんですね。

A その意味では,夢を別の形でかなえたと言えるかもしれません。

大学では原子力工学を専攻していました。子どものころ,これからの時代,科学で何が重要だろうかと思ったときに,電気だろうと思いました。今みたいにパソコンもないしテレビがブラウン管の時代ですから,まだまだ街は暗かった。これからもっと電気ができてくるだろうと思いました。僕が小学校6年生の時にアポロ11号が月に行きました。1970年の大阪万博の時は中学校1年生です。大阪に住んでいましたから,何度も何度も行きました。アメリカ館でアポロと月の石を見て,ソビエト館でソユーズを見て,すごいなあと思って。だからもっとまじめに大学に行っていたら,科学者になったでしょうね。

原子力工学専攻といっても,原子力発電がやりたかったわけではなく,核融合をやりたかったんですね。核融合をやって,そこから出てくる総合的なものをやりたかった。もし今の仕事をしていなかったら,今頃どこかの大学で研究をしているか,福島や福井あたり(の原子力発電所)で働いていたかもしれません。

アニメ・映像に興味を持ち,そこから視野拡大を


 天元突破
 グレンラガン

 屍姫

 はなまる幼稚園

 パンスト

 放課後のプレアデス

 ダンタリアンの書架

 めだかボックス

Q KCGIで教えようと思ったのは,人を育てたいと思われたんですか。

A 人を育てたいというよりは,これまで経験のないところを見てみようかと。新しい空気ってなかなか入りにくいですから。どういう人たちがコンピュータの勉強をしているのかも興味がありましたし。

Q 何度か授業をやってみて手ごたえをお感じになりましたか。

A まだ具体的には。将来学生たちがどういうふうになりたいのか,何をしたいかわからないこともあります。でも自分も,何をやりたい,というのではなく,何となく自分が向いていたところに,なし崩し的に行ったので。昔と今では時代も違いますが,今の彼ら・彼女らが目指すことに対して,先輩としてきっかけを与えられたらと思います。コンピュータの勉強をしてプログラムをするからといって,想像力が要らないわけではない。むしろ想像力が要るし,新しいものに目を向けなければ。コンピュータの勉強をしているから,コンピュータのことしか知らなくていいということじゃないですよね。

何かプログラムを作るにしても,どういうことが,何のために必要なのか,想像しなけりゃ作りようがないと思います。自分が勉強していること以外のことに目を向ける。車のことをやっているから,車以外は知らなくてもいいということではない。なぜその車に乗るのか,なぜ車が好きなのか。いろんなことに目を向けて初めてできるということですね。アニメ・映像に興味を持って,そこから視野を広げるというようなことになれば面白いのかなと。

Q 京都の風土についてはどう思いますか。

A 僕は京都ではまだお客さんですね。京都の面白さはここ10年ぐらいでようやくわかってきました。京都の人は,実は古いものにそれほど興味があるわけじゃないと思います。でもどこか心の片隅で,京都は京都らしくないといけないという,相反する気持ちを持っているところが,京都の面白さですね。

古い街並みと言いますけど,それはほとんど寺と神社だけですからね。ほかの古いところはどんどん壊している。それは京都に限らずですが。心のどこかで京都らしさを残さないといけないと思いつつ,百%そうならない,アンビバレントな気持ちが面白いなと。

Q 学生に何を望みますか。

A 本は読むべきですね。やはり本は知識と教養の源ですから。読み散らかしてもいいからどんどん読むべきです。小説だけじゃなくていろいろな本を。今はネットがありますから,ちょっと興味があるときにネットで調べて,それで本を買って読んだりするのも面白いですよね。米子映画事変の件でよく鳥取に行きました。昔の出雲の国の近くですよね。以前から神社などに興味がありましたが,ますます興味が出てきて,向こうの神様について本を読んでみようかと。地方に行くと,その地域の史家の書いた本がありますから,そういうのを買って読んだりします。そうしたことは,その後仕事とどう結びつくかわからない。そこが面白い。

Q 趣味は何ですか。

A 趣味はだいたい仕事になってしまいました。エアガンが好きでしたが,それもお店を開いてしまいましたし。仕事にしていない趣味といったら車ですね。

僕はどんなしんどい時でも車に乗ると元気になるんです。車で5時間,10時間と一人で運転するのが好きです。誰とも話さずに,たばこを吸ったり,好きな音楽を聴いたりしながらドライブするんです。本当はバイクも好きなんですが,最近は乗っていないですね。中型しか持ってないので,大型免許を取ってハーレーに乗りたいんですけど。

東京から京都に帰る時もたまに車で帰りますよ。夜中に8時間ぐらいかけて中央高速を走ったり。京都まで一人で帰るとすごくいいですね。ドライブインに止まって一人でじっと考えたりね。

オープンカーも持っています。冬にオープンカーで走ると気持ちいいですね。20年前に買った日産のシルビアという車です。日本で300台しか売れなかったという。まだ乗っているのは日本で数人だと思います。僕はぼろぼろになっても乗りたいと思っています。