このたび財団法人日本ITU協会*から国際協力特別賞をいただいた。受賞は私が京都コンピュータ学院プロジェクトとして取り組んだ海外コンピュータ教育支援のボランタリー活動「IDCE」(International Development of Computer Education 正式名称:国際コンピュータ教育振興事業)が対象であり,現在まで16年間に,学院所蔵・学生使用済みパソコン3000台を16ヵ国の途上国に寄贈し,コンピュータ教育を支援してきた実績の評価によるものである。
プロジェクト立ち上げの動機,概要,プロジェクト実施として古い例ではあるが,エピソードが多くセンセーショナルな効果を生んだタイ・ガーナ・ポーランドの例を点描し,最後に所感と展望について述べたい。
*ITUは国連の専門機関で,財団法人日本ITU協会はその活動における日本での役割を担っている。
1983年,パソコン時代幕開け時,本学院はいち早く8ビットパソコン3000台を東芝に特注し,学生に一人一台を貸与した(世界初)。しかし,僅か3年後16ビットの時代に入り,教育用としてはまだまだ充分使えるにも拘わらず,旧型モデルは学生に見限られた。プロジェクト立ち上げのきっかけとなったのは,このパソコン3000台中,整備した2000台の有効利用であった。 周知のごとく1980年代初めのパソコンの開発は,それまでのより大型化,より高性能化を目指してきたコンピュータ発展の潮流を劇的に変化させる一大革命であった。パソコンの登場は,コンピュータ民主化の開幕を告げるものであり,これによりコンピュータは文化として市民生活に浸透していくことが予測された。私はそれに伴うコンピュータ・リテラシー教育の普及は必至であると考え,そのためにこの2000台を役立たせたいと願った。
1989年,長谷川由(当時MITの学生)の提案を受けて,このパソコンを利用した途上国に対する海外コンピュータ教育支援活動を企画した。
1990年代前半,途上国各国の地方ではコンピュータが皆無に近く,またコンピュータ教育担当の専門教員が皆無に近い状況であった。プロジェクトは,大量のパソコンの現地(教育省)への寄贈と,併せて現地教員養成を一体化して本学院が担当し,現地教育省と本学院の合弁事業として,広域にわたるコンピュータ・リテラシー教育を実現するという内容で立ち上げられた。教員養成の技術指導としては,学院からの派遣講師による現地講習会(50人・2週間)と,優秀者を日本へ招いての高度技術講習会(15人・2週間)を用意した。寄贈パソコン輸送費,講師渡航費,来日研修生渡航費は日本万国博覧会記念協会からの補助金や企業からの寄付金でまかない,日本での講習会費,寮の滞在費は学院側で,現地費用(講習会費用,派遣講師滞在費,パソコン配置費用等)は現地政府が受け持った。
現地へ派遣する講師(6,7名)は,本学院の教員及び国家試験(情報処理技術者試験)合格の学生の他,全米からインターネットを通してボランティア講師(現地への航空券支給と現地生活保障のみ)を募集し,面接・選考の上,数名を決定補充した。まだインターネットが普及していない16年前としては,斬新なアイデアであった。
学院プロジェクトとして取り組むにあたり,単なる国別の支援活動を超えた,ワールド・ワイドなコンピュータ・リテラシーの普及の実現をプロジェクトの理念とした。“地球サイズの情報文化創造”へ向かう21世紀的な意義をそこに確認したからである。
私の兄がエビの養殖の開発に関連して,タイの大学研究者の指導を十数年間行っていた経緯があり,その人脈を頼って最初のプロジェクト実施国をタイに選んだ。
1989年,教育省へプロジェクトを持ち込む第一段階として,日本政府からの寄贈パソコン(約20台)による技術研修センターを持つ日泰協会を訪問した。しかし,私たちの古い8ビットパソコンは相手にされず,「海へ捨てたら」とそっぽを向かれた。さらにいくつかの大学の教授たちを訪問したが,このプロジェクトに対する関心度は低かった。
その後,兄の知人である大学担当の大臣を通じて,教育省社会教育局長にアクセスし,何回かにわたりリテラシー教育の重要性を説得し,約半年を経てようやく,プロジェクトのタイ教育省協力の承認を取り付けた。翌1990年,日本万国博覧会記念協会に補助金を申請し,500万円の資金援助決定を得て,パソコン351台を発送。パソコン教育担当者育成のための第1回講習会実施の運びとなった。
タイ全土にわたって,ほぼ等間隔にとられたパソコン設置予定の社会教育センター17ヵ所から,少なくとも数学の素養のある人(約50人)が教育担当者になるべく,バンコックへ集められた。
本学院からの派遣講師一行がバンコックに着いたとき,発送済みのパソコン351台は倉庫に入れられ施錠されていた。驚いたことに,国会において科学技術省と教育省との間でこのプロジェクトが取り合いになり,和解をみるまでパソコンの使用は禁止されたという。団長の長谷川由は,2省のはざまで奮闘した。バンコック講習会はサイエンスミュージアムのパソコンを使用して実施され,最終日になってやっと2省間の和解が成立,教育大臣が出席してパソコン寄贈式が行われた。
この講習会で,新しい技術を身につけた現地教員たちは,それぞれの出身地へ戻り,またチーフとなる者は,京都での高度技術研修を経て,タイ全土にわたるコンピュータ教育がスタートした。どの地方でも,コンピュータ第1号機の到来であった。学生を含む一般社会人へのコンピュータ・リテラシーの研修は,各地方で約1ヵ年先までの予約でいっぱいになったという。
社会教育局長は,この業績によりタイ国王から表彰を受け,私たちもタイ教育省から「このように効果的な国際協力は皆無であった」という賛辞とともに表彰を受けた。
さらにノート型パソコンの時代に入って,1997年,タイへの第3次支援として,30台の32ビットノート型パソコンを寄贈し,2台のトレーラーに設置,僻地を巡回する「コンピュータ移動教室」(Computers on Wheels)を立ち上げ,スラム街よりスタートした。この実施により,タイ皇太子妃賞を受賞した。
1990年,タイでのプロジェクトの大成功が,新聞,NHKテレビ等マスコミにより報じられた。駐日ガーナ大使はAsahi Evening Newsでこの情報を知り,直接本学院にガーナへの支援を依頼してきた。大使館一同の情熱的な依頼に,私は圧倒された。
しかし,政情は本当に安定しているのか,派遣講師一行の身の安全を気遣って,私は落ち着かなかった。団長となる長谷川由は連日ガーナ大使館へ現地事情を問い合わせた。ついに「あなた方は,ガーナをジャングルか戦場だと思っているのか。ガーナは現在の政権で安定している。」と叱られ,現地での政府保護を信じて1991年,プロジェクト実行に踏み切った。
プロジェクト実施の1年半後,ガーナ全土にわたるパソコン設置の選定校20校でコンピュータ教育がスタートし,その祝典に私たちは政府ゲストとして招待された。中心となったケープコーストの高校のコンピュータ室は,関係者により“ヤスコ・ハセガワ・コンピュータセンター”と命名されており,私は「ママ・コンピュータ」と呼ばれた。Tシャツの前側には“ヤスコ・ハセガワ・コンピュータセンター”,後側には“コンピュータが遂にわが校へ”と書かれたものを教職員・学生一同が着用し,歌と踊りで歓迎された。
オープニングの式典には,教育大臣,科学技術大臣,州知事が出席。教育大臣は,「このプロジェクトは野口英世の偉業に続くものであり,ガーナを次の時代へ向けて牽引する力になる。」と述べ,本学院の功績が称えられ教育大臣賞,科学技術大臣賞が私たちに与えられた。
ガーナのケープコーストからクマシまで,パソコンが配置された高校,専門学校のどこへ行っても,全学あげての歌と踊りの歓迎であった。ある支援高校では,大講堂で全校生徒を前に,私に女酋長の地位を与える儀式が行われた。また,ある高校では料理科の生徒が,私たちを歓迎して,ガーナの名物フウフウ(餅の一種を鶏肉と煮込んだ料理)を作りご馳走してくれた。クマシでは,放し飼いの孔雀数羽の庭園を臨む酋長邸内で酋長(アシャンティ王族の末裔)と同じ黄金の椅子に座らされ,アシャンティ語で厳かに述べる謝辞を拝聴した。どの支援校においても,コンピュータが初めて設置されたことを喜ぶ満面の笑顔と拍手に接し,私は生涯忘れられない感動と喜びを与えられた。1996年には,ガーナに対してパソコン150台を追加寄贈した。
ポーランドは,私の古い友人フシュカ博士(ワルシャワ大学日本語科講師)を通じて,駐日ポーランド大使,ワルシャワ大学日本語科の岡崎教授夫妻と親交を持つに至り,彼らと協力しあって,1991年,ポーランド教育省に寄贈パソコン200台による支援プロジェクトを持ち込んだ。
しかし,西欧人には数世紀にわたり科学文明を築いてきた誇りがあり,東洋の一国から,いかに経済大国になったとはいえ,科学教育の支援を受けることに,政府高官の間でかなりの心理的抵抗があった。特にひとつ前の旧型モデルであったことが,プライドを傷つけたのであろう。私たちは討議の過程で,それを痛感させられた。
しかし,「ポーランドにはお金がない。コンピュータ・リテラシーの今後の重要性はあなたの言うとおりかもしれない。喜んで支援を受けたい」という,教育省次官(副大臣)ディーム氏の言にしたがって,私は実行に踏み切った。
しかし,現地講習会実施に関しては,課長・局長レベルの積極的協力対応が得られず,2度も開催延期にあった。3度目,こちらの申請資金援助のタイム・リミットになって,急遽,その数日前に研修生を招集というありさまで講習会は開かれた。最初は8ビットということであまり気の乗らない人々も混在していたので,派遣講師の一人(本学院生)が,第一夜に,画像でポーランドの国旗をはためかせ,ポーランドの国歌を音声に出すプログラムを作り実演したところ,研修生一同が「これはよい機械だ。」と目をみはった。
集った研修生は,小学校教員,芸術家,大学教員などあまりにも多岐にわたり,用意したカリキュラムは役に立たず,現地で変更し殆ど一人ひとりに対応した。
講習会は日を追ってすごい熱気に包まれ,放課後も自習に熱中し,研修生と同じ宿舎に泊まっていた派遣講師たちは,夜中過ぎまで質問攻めにあい,指導に当たらねばならなかったが,派遣講師たちは喜んで研修生に対応した。
再支援を望む声は研修生の中から沸き起こり,当初あまりこのプロジェクトに気乗りしなかった教育省高官たちも,その効果を認め,それに賛同した。
現地教員たちの本学院来校研修の際,一行と共にポーランド国民教育省次官(副大臣)が来訪され,“ポーランドにおける情報教育支援”の合意書がポーランド国民教育省と本学院との間で調印された。後日,交流を祝って,ワルシャワ工科大学の学生たちによる民族舞踊が学院で披露された。
ポーランドにおける学院の実績が評価され,この信用をもとに度重なる私のポーランド訪問の尽力で,資金交付が決定し,学院のサポートを前提に,「ポーランド日本情報大学」がポーランド政府と日本政府間で設立され,1994年10月に開学した。本学院教員が,日本外務省JICA専門家長期派遣員として同大学で教鞭をとり,その後,専任教員となった。「ポーランド日本情報大学」の誕生は,ポーランドに対する本学院のコンピュータ教育支援のひとつの結実である。
その後,ガーナでの講習会を見聞したケニア国連職員の報告を受けて,ケニア教育省から日本の商社丸紅を通じて支援依頼の申し出があった。私は駐日ケニア大使と面談し支援を決定,ケニアに340台(1次・2次)のパソコンを寄贈し,技術講習会を実施。パソコンは,70校の選定校に配置され,科学技術省次官から,「ケニア広域にわたるコンピュータ教育の第一ステップが開始された。ケニア各地にコンピュータ・フィーバーが巻き起こり,地方と都市の格差是正に寄与した」との謝辞が寄せられた。
ジンバブエでは駐日ジンバブエ大使の依頼で支援を引き受け,万博より資金助成も決定した。後になって,現地実行を担当する国立科学技術大学学長(教育省チェアーマン)が反対し,その意識改革に1ヵ年もかかり資金交付の1ヵ年延期を申請するなどトラブルが続いた。しかし,結果の成功を評価して,学長はその後,講習生と共に満面の笑顔で来日した。200台の寄贈パソコンが40校の選定校に配置された。
ジンバブエの成功例が“南部アフリカ科学技術協会”(SASTeC〈12ヵ国よりなる〉)で発表され,それを聞いたマラウイ・ユネスコから支援依頼が申し出された。一方,南米ペルーへもパソコン200台を寄贈し,各地方へ配置された。フジモリ大統領の姪(イリアナ・フジモリ)がMITでの長谷川由の学友であったことがきっかけであった。イリアナを含む派遣講師による現地講習会の際,一行はフジモリ大統領官邸の特別見学,マチュピチュの遺跡ツアーなどで歓待された。その後,スリランカへ日本政府よりの天体望遠鏡寄贈に関連して,私の恩師,京大名誉教授小暮氏を通じて支援の依頼があり,これを受けてスリランカには213台(1次・2次・3次)のパソコンを寄贈,40校の選定校に配置された。このように次々と輪が広がり,各国で,本学院が指導した現地教員によって,広域にわたるコンピュータ・リテラシー教育が実現されていった。この過程で,16ビット,32ビットのパソコン1000台が追加支援された。
IDCEプロジェクトの成功のキーは,ハードウェアの大量寄贈と現地教員養成を一体化した企画の合理性にあることは無論であるが,同時に本学院の自主的ボランタリー・プロジェクトの意義を各国教育省が理解し,教育行政として積極的に推進する努力を惜しまなかったことに何よりも大きな成功の要因が存在していた。現地政府との合弁事業なくしては,このプロジェクトは成立し得ない。しかし,1990年代前半,社会的にコンピュータ・リテラシー教育の必要性が充分認識されていない頃,“古いモデルは要らない”という途上国政府高官たちに対して,近未来のために広い層へのコンピュータ教育の普及が必要なこと,大量の寄贈パソコンを教育用として利用することを通してのコンピュータ・リテラシー教育の効果を説得する,いわば啓蒙運動にはかなりの努力を要した。しかし,リテラシー教育普及の実現に向かって私たちは信念を貫いた。
こうして,本来ならば廃棄される運命にあった約3000台のパソコンは,途上国で若い人々に対する教育用として甦り,当該国にとっては初めて広域にわたるコンピュータ・リテラシー教育の実現という教育行政上の歴史的プロジェクト(現地教育省次官の言葉)となったのである。その後,各国ともこの教育レールの上に,国家予算が付き,更新しつつ現在もパソコン教育が継続されている。プロジェクトは,コンピュータ・リテラシーの普及によるボトム・アップに貢献しただけでなく,この中からIT高度技術者,ITリーダーが育っていった。
ところで,京都コンピュータ学院は,44年前,日本で最初にコンピュータ教育を始めたパイオニアとして知られているが,創立当初以来の開拓精神は,本学院のアイデンティティとして継承され,めざましく進化・発展するコンピュータ界に対応した「革新的・先駆的」教育を創出してきた。
私たちは,パソコンの登場を“文化としてのコンピュータ時代”の到来と捉え,その基盤となるコンピュータ・リテラシーの社会的裾野の拡がりの開拓に,いち早くワールド・ワイドに取り組んだのであるが,この活動に見られる“開拓精神”の発揚もまた,本学院のアイデンティティに他ならない。
京都を日本情報文化発信の地として,文化の伝播という大役を担って,現地に赴く学院派遣講師たちは,開拓精神に加えて,情報文化使節としての使命感にあふれていた。どの現地政府も,それを理解して(政情不安定な国々もあったが)私たち一同は,現地政府のゲストとして保護され,生活面においても充分なホスピタリティで迎えられた。休日には,観光案内も提供された。
派遣講師たちは,誠心誠意,技術指導に取り組んだ。講習会内容については,各国技術専門家の意見を取り入れながら,その国の実情に合うようにカリキュラムを検討し,最適なものに仕上げ,高い評価と感謝を受けた。
本学院と現地政府,プロジェクト実行機関(現地研修生を含む)の三者の情熱がひとつになって,プロジェクトは成功に至った。
1990年代後半に入ると,世界的にコンピュータ・リテラシーの必要性が認知され,どの国でもコンピュータ教育に積極的に取り組み,私たちのプロジェクトは各国でストレートに受け入れられ,スムーズにプロジェクトは遂行された。また,2次,3次の継続支援も実施された。1997年以降の支援実施国では,現地教員養成の必要もなくなり,パソコン供与が中心となり,高度技術指導がそれに伴った。
近年インターネットによる情報グローバル化が急速に進展しているが,21世紀高度情報化社会が,実現成熟するためには,広域にわたる多数ボトムへのコンピュータ浸透とそこから生まれるボトム・アップの力が不可欠である。さらに地球全体がIT革命に向かうべきで,先進国のみに限っていては,IT文明の健全な発展・成熟は期待し得ない。
このような観点で,本学院が世界に先駆けて実施してきた途上国へのグローバルなコンピュータ・リテラシーの普及,ボトムの力の養成は,来るべきブロードバンド・ユビキタス社会実現のベースをなすものであり,1989年からスタートし,継続してきた海外支援は,21世紀先取りの意義を持っていたと信じている。
1995年以降は,様々なJICAプログラムを引き受けたが,別途言及する。**
2000年以降,IDCE活動は,インターネットの普及に伴うIT・リテラシーの高度支援へ移行してきている。ここ数年来,モンゴル支援の例のように,私たちはネット用パソコンの寄贈と現地ITセンターの設立・運営を支援しているのであるが, これら各国のITセンターに対し,数年後におけるeラーニング展開を目指している。
本学院によるIDCEプロジェクトが,16年の永きにわたり“地球サイズの情報文化創造”へ向けて少しでも貢献できたことに私たちは大きな喜びと意義を見出している。
16年間にわたるこの自主プロジェクト実施の過程で,私たちは各国より栄誉ある数々の賞をいただいた。日本ITU協会からの今般の受賞は,私たちの活動に対する日本における評価の証明であり,本学院の歴史に残るものと,一同喜び,感謝し,さらなる活動へ向かって力づけられた次第である。
当初からの支援国を列挙すると,タイ,ガーナ,ポーランド,ケニア,ジンバブエ,マラウイ,ペルー,中国,スリランカ,ナイジェリア,タンザニア,モンゴル,これに技術指導のみになるが,メキシコ,サウジアラビア,ブルネイ,モザンビークを加えて16ヵ国である。今回の受賞を記念して,キルギス,ボスニア・ヘルツェゴビナ,エリトリア,ウガンダの支援に着手した。これで支援対象国は20ヵ国に至る。
各国活動の詳細は,下記ウェブページをご参照されたい。
URL http://www.kcg.ac.jp/school_info/idce.html
1989年,京都コンピュータ学院内に生まれ,現在継続実施中の,海外コンピュータ教育支援のプロジェクト。学院の中古パソコンを途上国に寄贈し,これを利用して,途上国のコンピュータ・リテラシー教育の開発・浸透を現地教育省・科学技術省との協力においてはかろうとするボランタリー活動であり,1989年より現在まで,寄贈パソコン台数は約3000台,支援対象国は,タイ,ガーナ,ポーランド,ケニア,ジンバブエ,ペルー,スリランカ,中国,タンザニア,マラウイ,ナイジェリア,モンゴル,これに技術指導のみの4ヵ国を加えて16ヵ国に及んでいる。
1995年,本学院のアフリカ各国に対するコンピュータ教育振興活動が,現地政府に高く評価され,その評価を受けて,JICAによるアフリカ6ヵ国14名の本学院での3ヵ月コンピュータ技術研修受け入れが実現した。以後,このアフリカ地域を対象にしたJICAプロジェクトは,その後11年間恒例プロジェクトとなった。
コンピュータの進化発展が目覚ましかったので,指導にあたっては研修の年ごとに,アップ・ツー・デイトのカリキュラムを用意した。また年ごとに,技術におけるかなりの個人差が出てきたので,一人ひとりの技術・要望を考慮しながら研修を実施したため,研修生一同から指導に対する高い評価が生まれ,JICAにそれが報告された。
その他のJICAプログラムにより,タイ・メキシコ・サウジアラビア・ぺルーなどの研修生に対し,特別指導を行った。学院の教員たちは各国の文化を尊重しながら(例えばサウジアラビアの場合,神戸よりハラールミートを取り寄せ,昼食用に用意するなど),各人に対応し研修生に喜ばれた。こういう文化の尊重が学習の意欲向上に役立ち,また強い友好関係をもたらしたと思う。
JICA専門家派遣として,1993,1994,1996年にタイに,1994年ポーランドに,2005年もモザンビークに本学院教職員を派遣し,高度技術指導,ネットワーク技術指導,カリキュラム設計指導などを実施した。