ロバート・メズベンはイギリスの工業都市グラスゴーに生まれた。グラスゴー大学で絵画を専攻,国費奨学生としてイギリスのロンドン,オーストラリアのシドニーの大学に留学し,その後,東洋美術に傾注し,特に日本の古美術と文化に引かれて来日,絵画制作のかたわら,神戸松蔭女学院大学で英会話の講師をしていた。
その頃,故長谷川繁雄初代学院長と知り合い,二人は意気投合,初代学院長はメズベンの日本での身元引受人となり,経済面,精神面での可能な限りの援助を約し,メズベンは京都コンピュータ学院の前身である京都ソフトウェア研究会において英会話の講義を担当することになる。
京都コンピュータ学院の発展とともに学校教員として英語・英会話の授業を担当し,日本滞在が長期にわたるに従って流暢な日本語を話すようになり,日本の昔話や諺も理解し,学生達には日本語のジョークを交えた授業は好評で,日本を深く理解したイギリス人の一人であった。アトリエを兼ねた自室には浮世絵から祭り袢纏まで,古き日本を代表する装飾が並べられていた。
画家としてのメズベンは,制作も意欲的に取り組み,校舎の壁画や何百号もする大作から5号位の小品まで数多くの作品を残している。
また,メズベンは,二十数年前当時で,20万円,30万円という値段を自作につけていた。無名な画家の作品としては法外な値段と思えるが,彼の芸術家としての矜持は,創造の喜びを安易に貨幣に換算することを潔しとしなかったのであろうか。
ある時,初代学院長がメズベンにこう言った。「君の心は砂漠だ。」笑い飛ばすようにメズベンは「そんなことない。僕の心は極楽ですよ。」と答えた。1970年代初めのことである。
メズベンの作品は深い精神性を湛え,色彩の織り成す階調がひとつの感情を奏で続けているように思える。時々メズベンは「さびしい」と呟くことがあった。異国の地にひとり在ることがそう呟かせたと言えるかもしれない。確かに彼の描く風景画には,異邦人としてのさびしさがあらわれているように思える。しかし,音楽を聴きながらその印象を描くことの多かった彼の作品には単なるさびしさを超えた純粋なかなしみのようなものが定着されているようにも思える。
1980年代に入って間もないある日,メズベンが初代学院長に言った。「昔,あなたに君の心は砂漠だと言われたが,今になって自分の心がずっと砂漠であったことに気づいた。」それからメズベンは1枚の大作に取り掛かることになる。その大作の名は「極楽」。
長身でスマートな英国紳士であったメズベンは,さすがスコッチの国,ウィスキーを愛飲した。飲みっ振りも豪快と言えた。日本を愛し,日本食を好んで食べ,日本のビールは特に良い(旨い)と痛飲した。
年と共にビールのせいか腹が突出し,ビール腹をたたいて笑っていた。
「日本の女性を奥さんにしたい」と,これは親しい人への口ぐせであった。日本女性との恋愛話も聞かされた。
イギリス人であるメズベンが日本人になり切ろうとする反面,故国への思慕も深く,よく母親のことも語っていた。
日本滞在が長かったメズベンは,異国の地のさびしさをアルコールによって払拭しようとしたのか,残念なことに晩年は学院講師も辞して,アルコールによって健康を害してしまう。初代学院長は,彼を故郷に帰らせるべきだと判断した。メズベンは,「極楽」を未完のまま日本に残し,初代学院長に伴われ故郷のグラスゴーに帰っていった。
すっかり年老いた彼の母親は,息子の帰国を喜び,「ロバートは,幼少の頃から天才の名をほしいままにしていました。画才だけではなく,頭脳も明晰だったんです。」と初代学院長に語った。「メズベンはやはり故郷に連れて帰って良かった。グラスゴーでの彼は大学の学長の様な誇らしい顔に変わっていた。」と帰国後,初代学院長は述懐した。
1986年初夏,長谷川繁雄初代学院長は,病床にあって宿痾と闘っていた。その初代学院長のもとに英国から1通の封書が届いた。初代学院長はなぜか開封しようともせず,ただ一言「わかった」と言うばかりであった。
後に,他の者が開封すると,メズベンの母からの手紙であり,その文面はメズベンの死を報せていた。長谷川繁雄初代学院長,逝去の2週間前のことである。