Accumu 京都情報大学院大学初代学長 萩原 宏先生が永眠 学校葬・追悼式を挙行

追悼文

京都大学名誉教授,京都大学物質-細胞統合システム拠点 特定拠点教授 富田 眞治

萩原先生と私の最初の出会いは,1972年に京都大学情報工学科の坂井利之先生の研究室で音声多重合成システムの研究をしていた博士課程3回生の時に,坂井先生から「萩原君が半田付けのできる助手を探しているので,行ってみるか」とのお話があり,先生のところで面接を受けることになった時です。面談ではほんとに半田付けの話ばかりで,どんなことをしているのか,何をこれからしたいのか,着任後これをしなさい,とかのお話は一切ありませんでした。先生は京都大学の最初のコンピュータシステムKDC-1(1958年計画発足)や東芝と共同開発されたマイクロプログラム制御で非同期コンピュータのKT-Pilot(1961年完成)などハードウェアシステムの研究開発(情報処理学会コンピュータ博物館「日本のコンピュータパイオニア」参照)を担当されてこられたので,ハードウェアのできそうな電気出身の若手が欲しかったのでしょう。幸せなことに1986年10月に九州大学教授として着任するまで,一貫して自由放任にしていただいてきました。萩原研に着任した1973年度は博士論文を纏めながら,我流のハードウェア技術を駆使して,研究室に整然と並べられていたHitac10とHitac10-IIの相互チャネル結合(4年生の柴山潔君)をはじめ諸々の入出力機器(ストレージチューブ<テクトニクス4010>,ランドタブレットなど)を結合し,その後は,ハードディスク(横河HP社,2MB,渡邉豊英君),VAX11/750(中田登志之君),Varian(野崎正治君)などを結合し,研究環境を整えました。電源装置は結構高価だったので,研究室に鎮座していたKT-Pilotの電源を引きずり出して使用しました。さらに研究室が狭くなったので,KT-Pilotをほぼ勝手に廃棄してしまいました(先生がどのように感じられていたのか不明ですが,直接のお叱りはありませんでした)。また,不思議なことに,当時は誰でもインターフェース程度のハードウェアは作れる能力と技術を持っていました。

萩原研究室での私に関連した一大プロジェクトは1974年から12年も続けたQA-1/QA-2のコンピュータ開発でした(ハードウェア開発は柴山潔君,小柳滋君,北村俊明君,山下博之君,栗山和則君,中島浩君,中田登志之君,釡田栄樹君,河村武司君,村上和彰君など)。12年かけて論文はたったの20件でしたが,実に多くの人材が育ちました。コンピュータの名前を決める時に,萩原先生がMATSがいいのではないか,と言っておられるところに金出武雄君(現CMU教授)がたまたま来て,まるで(M)あかん(A)低級(T)システム(S)だなー,と言ったのでQA(computer with Quadruple ALU’s)と命名することになりました。QA-1では,グラフィックス専用計算機ではなく,より汎用性を持たせるために,160ビット長マイクロ命令で異なる4つのALU演算,4つのメモリアクセス,1つの順序制御を同時に指定できる方式とし,低レベル並列処理方式と名付けました。主記憶装置は256KB(東光製,価格1000万円)で,当時最高速(350ns)の1KビットDRAM,マイクロプログラム格納用制御記憶は160ビット×1K語で,1KビットのTTLメモリを使用しました。制御記憶は仮想(キャッシュ)化され,マイクロ命令は主記憶から必要に応じて自動的に読み出され実行されます。VLIW(Very Long Instruction Word)という用語は1983年にJ.Fisherにより提案され,その後Intel Itaniumなどで商用化されましたが,QA-1はVLIWコンピュータのパイオニアといえます。しかし,時間/空間並列の考え方などの概念形成やコンパイラ研究をしなかったことがQA-1/QA-2を世界では「知られざる」コンピュータとしてしまったことは悔やまれます。また,萩原先生の専門のマイクロプログラムという殻を我々若手が概念を明確にして打ち破る必要があったとも思います。

萩原先生はきっちりした教科書を書かないといけない,とよく言われていました。先生の影響を受けて,私をはじめ奥川俊二先生,馬場敬信君,柴山潔君などは多数の教科書を執筆してきました(小柳滋君,北村俊明君,中島浩君はまだ1冊)。『萩原先生の電子計算機通論1・2・3』は1971年前後に朝倉書店から出版されています。コンピュータに関する教科書がほとんどなかった時代です。特に通論2は「こんなに書いた本はないで」と先生に言わせるほど,演算器周りの理論や設計がきっちり書いてあります。小生もよく勉強したものです。

萩原先生は口数が極めて少なく(お公家さんのようだと言う方もいました),なかなかお話を継続するのが難しかったのですが,会話のなかで「ウフッ」と笑い声を出されるとホッとしたものです。また,ごく稀にですが胸にグサッとくる的確なお叱りをいただきました。たとえば,①会社に旅費の無心までして外国に出張し,論文発表をしたいのか,②大学は教育機関であり,研究機関ではない,③僕は論文3件で教授になったが,君は尻もふけない紙ばかり書いている,④このような研究は京大助教授のすることではない,⑤毎年留学したいと言ってくるが,もう聞き飽きた。システムを完成してからにしたらどうだ,など。今日これほどバシッと言ってくれる先生はいないのではないかと思います。若手が軟弱になるはずである。

萩原先生は車好きで毎年の研究室での海水浴には車で出かけました(海水浴では小生がごはんを茶碗に「てんこ盛り」にして先生が食べられたことを覚えています)。松山で学会がある際に車で行こうと言われ,天保山からフェリーに乗って高松まで行って高松から松山まで萩原先生運転で行きました。「帰りは僕は飛行機で帰ります」といったら,「そんなこと言わんと」ということで先生と当時電電公社武蔵野通研の山下紘一さんとの交代での運転で帰ることになりました。私には運転免許はありませんので,後部座席で寝ていました。

萩原先生は一般的には取っつきにくい先生だと思われていました。ご葬儀には門下生に東京などからも多数参列していただきましたように,先生には何かしら魅力がありました。その魅力とは何かを究明しつつ,私のこれからの人生に生かしたいと思います。2014年3月奇しくも,萩原先生が関与されたKT-PilotとQA-1が情報処理学会の「情報処理技術遺産」として認証されました。先生の墓前にご報告するとともに先生のご冥福をお祈りいたしたいと思います。

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富田 眞治
Shinji Tomita
  • 京都大学名誉教授
  • 京都大学物質-細胞統合システム拠点 特定拠点教授

上記の肩書・経歴等はアキューム22・23号発刊当時のものです。