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Accumu Vol.5

人間知性理解の二つの議論 -合理論と経験論

大阪市立大学文学部教授 神野 慧一郎

我々はどのようにして知識を獲得しまた成長させているかそういうことについての議論を知識論という近世哲学の知識論では合理論と経験論とがその主要な立場とされているそういう理解には問題もあるがここでは一応その見方に従いそれら二つの立場をそれぞれ考察してみよう

はじめに

私はここで近世の哲学者の意見を紹介しようとしているしかし我が国では哲学とはいかなるものか十分な理解が行き届いているとは思われない哲学という言葉にまつわる不要な誤解を除くためには哲学が成立した最初の姿を見るのがよい

よく知られているように哲学は古代ギリシャにおいて初めて成立したそしてその創始者としてターレスが挙げられるのが普通である彼はこの世界は何からできているかという問いを立てそれに答えて万物は水からできていると言ったとされている世界が水からできているという答はもはや値打ちがないしかし自然現象の成立の原因を探究し現象の総合的で無矛盾な説明を与えるという知的営みは西欧の知的伝統の中核として現在まで続いている説明は整合的で論理的に一貫したものでなくてはならないというのがその伝統の眼目であるこれは色々な哲学から断片をつまみ食いすることを無意味とする

哲学の最初の姿は宇宙論であったそして宇宙論を発展させるために哲学は知識についての理論すなわち知識論をも発展させた知識論または認識論とは我々が知識と呼んでよいものはいかなるものかという議論であり人間知性の理解を含む

哲学は自然の探究として出発したしかしこう言ってもそれは哲学が自然科学と同じだという主張では必ずしもない現代の哲学者の大多数は自然科学的方法を自然探究の最もよい方法とするであろうが哲学者の中にはもっと他の方法を推奨するものもあり得るからであるそれだけではない哲学はやがて人間をも自己の問題とするに至った人間は一つの小宇宙と見てよいであろうから哲学が人間に固有の問題を扱うようになったとて哲学が初めの形から大きく逸脱したということにはならないであろうしかし哲学はソクラテスの例にはっきりと見得るように善とは何か(従って悪とは何か)という問題をもつまり倫理的な問題あるいは価値の問題と言われるものをも自分の問題とするようになったこれは科学の扱わない問題である

さて私の課題は近世の哲学が人間特に人間の知性をどのようなものと理解してきたか簡潔に述べることであるただしここで私はロマン主義の人間理解のようなことには触れないであろう私の述べるのは近世における理性的なあるいは客観的な人間理解の流れである私は主としてデカルトとヒュームについて述べるこの選択はそれほど恣意的なものではないというのはこの二人は近世の主要な二つの認識論的立場である合理論と経験論とをそれぞれ代表する哲学者だからである

合理論者デカルトの考え

デカルトは近代哲学の父と言われているこのことの含みは色々あろうが自然認識に関する範囲で言えばその含みの一つは機械論的数学的な自然観を基礎づけたということである別の言い方をすれば近代の初期における自然科学のやり方がなぜ是認できるものであるのかその根拠を彼は示したのであるつまりなぜ自然探究に我々は数学を用いてよいのかなぜ自然は力学的な法則に従ってあたかも機械のように変化していくと我々は考えてよいのかを彼は説明したのである

このことを示すために彼がたどった議論の筋を知るには彼の主著の一つである『省察』を見るべきであるこれは六つの省察から成っている第一省察のいわゆる「方法的懐疑」から始まり次いで第二省察で有名な「コギトエルゴスム」(我思う故に我あり)という命題を確立さらに神の存在を証明し認識の基準として明証性を立てるという順序で進んでいく今その議論の流れの全体を述べる暇はないがとりあえず注意をしておきたいことの第一は「我あり」としてここで存在を証明された自我は「考えるものであるかぎりの自我」であるということであるつまり身体をもつ自我の存在が論証されたのではないということである第二はここに言及した明証性という基準によって数学的自然観が支持されるのだということである彼は「我」の存在から進んで神の存在を証明し神は誠実で欺かないという議論をするそしてこのことに基づいて彼は認識の基準を立て我々は明晰判明に認識することにおいては過たないと言うデカルトに従えばそのような認識が可能なのは神が我々の知性の中に明晰判明な観念を与えておいたからであるそれゆえ我々が知性を正しく用いるかぎり我々は知性を信頼し得るこれが合理論の認識論の基本的態度であるこの明晰判明な認識は数学的認識を含むかくして彼の認識論は数学的知識に保証を与えるだがこの明晰判明な認識が可能なのは精神としての自我のみである明晰判明な認識は思惟であって感覚ではない感覚は身体をもつ自我によって生ずる感覚による認識は明晰判明ではないとデカルトは考える

第六省察で彼は外界の存在の証明を試みているそれゆえ彼は人間を身体なしのままにしておくわけではないしかしここに問題が生ずるデカルトの哲学は今見たように人間の身体と精神を分離することによって数学的な自然観を基礎づけたのであるつまり数学的自然探究は心身分離を基礎とするしかし我々人間の日常的なあり方つまり普通のあり方は心身分離ではなく心身合一という形であるところがデカルトは心すなわち精神と身体すなわち物質とは互いに全く異なる相容れない性質(属性)のものであると考える精神の属性は「考える」ということ(思惟)であり物質の属性は「広がりがある」ということ(空間的であり大きさが測れるということ)であるそのように全く違う二つのものがいかにして合一できるのかそしてまたいかにして相互に作用し合うのか

この問いを鋭くデカルトに突きつけたのは当時オランダに亡命中のファルツ選帝侯の息女エリザベット王女であった我々はこの才女に心身問題の提起を負うただしこれは心と身体の関係がこの時初めて議論されたという意味ではないこの関係が哲学的問題となったという意味であるここでは論じている暇がないが例えばアリストテレスの哲学でも心身関係は論じられているしかしそこでは心身関係は哲学的な難問としては残らないのである彼の哲学はそのような心の哲学をもつ構造なのである

デカルトのような立場は相互作用的二元論と呼ばれるこの見方に立てば人間はいかなるものとなるかその答はもはや明らかである人間は心身の二つからなるそして身体に関しては機械論的な探究が可能である情念もまた機械論的に解明されるしかし純粋な精神としての心の方はそういう取扱いを許さない人間のみが精神をもつ動物は心をもたない精神の自由を説くことによってデカルトは近世においてやがて編成される様々な理論体系のために進軍ラッパを吹いたわけであるけれどもデカルトは身体と精神がある意味で相互に作用することを認めるその説明のためにつまりその相互作用が成立する場所として彼は脳の或る器官(松果腺)を指定したもちろん残念ながらこの器官にこのような機能を付与することは現在の生理学の認めるところではない

心身問題に対するデカルトの見解のうち彼の推奨した人間(の身体の)機械論的探究は以来生理学者を鼓舞したであろうが現代の生理学者はエックルズのような少数の例外を除くと人間に精神としての心を認めることに積極的ではない

デカルト哲学の人間の扱いは精神の自由を認めると共に身体についての自然科学的探究を押し進めるものであったと言ってよいが彼の哲学から欠落していたのは社会の中における人間について科学的に探究するという視点であった人間そのもののみならず人間を含め社会全体を唯物論的に或る意味では機械論的に分析することを提唱したのはホッブズであったホッブズはデカルトとほぼ同時代の人であるだけでなくこの二人を対置または併置して述べることは決して的はずれではないと言ってよい理由がある以下において私はヒュームの哲学をごく手短に述べようとしているのであるがそのヒュームもホッブズに大きな影響を受けているここで私がホッブズでなくヒュームについて述べるのは認識論に関しデカルトと対比できる理論を述べたいからに他ならない

経験論者ヒュームの考え

ヒュームの認識論の立場は経験論と言われるものである経験論というのは簡単に言えば我々の知識はすべて経験に由来するという考えに立つ経験論に立つ人は合理論者の言うような知性にもともと内在している観念などないと考えたこれは当然ではないかと思われるかもしれないがデカルトのために弁じて言えば経験論の立場で数学的な知識を根拠づけるのはむつかしいのである少なくとも当時の論理学を以てしてはそれは不可能であったと言ってよい実際ヒュームの知識論の中で一番精彩を欠くのは数学に関する議論である

現代の哲学者なら経験論の立場に立ちながら数学の基礎づけをするには論理学に訴えるであろうこの問題に大きな貢献をした人にラッセルがいる彼は認識論に関してはヒュームと同じような線で考えていた人であるが数学の基礎づけについては論理主義を標榜し数学の命題を論理の命題に還元するという形の議論を展開したしかし彼の立場は結局ゲーデルの不完全性定理によって致命的打撃を受けたそしてここで蛇足までに言えば論理学もまた経験的な知識ではない確かにデカルト自身は歴史的制約もあり論理学というものを軽視したしかし論理学的知識はむしろ彼の言う明晰判明な知識として合理論的に基礎を付与されてしかるべきものではなかったであろうか

ヒュームは我々の知識はすべて感覚的知覚に基づくと考えるしかし感覚的知覚のみに基づいて一般観念を構成し得るとする議論はかなりむつかしい何よりも感覚知覚は我々に確実な知識を与えないであろう我々は感覚知覚のみから物体や自我の観念を構成し得るかどうか確かではない知識論に関して彼の名を不朽ならしめているのは論理的には因果法則が決して普遍的な妥当性をもち得ないという彼の発見である例えば「すべての金属は熱すれば膨張する」という因果法則を考えてみよこの法則を確立するにはどうするか科学者はできるだけ多くの金属片を取り上げてそれを熱しそれが膨張するかどうかテストするであろうしかしいったいいくつの金属片についてテストすればこの法則が絶対確実になるであろうか信念の心理的な確実性はともかく客観的な確実性はついに得られないであろうつまり次のテストでこの普遍命題が反証される可能性は論理的に言えば永久に残るわけである我々が普遍法則に付与する確実性はその法則のこれまでの過去における成功言い換えれば習慣に基づく信念に過ぎないことになる実際ニュートン物理学のように十分な実証を与えられたと考えられる理論でさえアインシュタインの相対性理論によって普遍妥当性を奪われたのである

ヒュームの議論は自然法則が確実で客観性をもつのだと信じていた人々にとっては震撼すべき発見であったかもしれないが他方それは社会における人間関係についての因果性のより適切な理解を与えるものであった彼のモラルサイエンスは因果性についての彼流の理解の上に建設されていると言って差し支えない

しかしヒュームのように我々の知性ないしは物事の理解のあり方を考えるとデカルトの場合とは違う困難を引きおこす「AならばB」ということを繰り返しいつも経験することから作り出された普遍法則はなぜ実在に対して適用できる客観性をもち得るのであろうかそうした客観性の根拠を示すために我々の心理的な信念とそれを形成した実在の構造との対応を引き合いに出すことはここでは議論の構造上許されないヒュームの場合我々が知り得るのは知覚のみであるから例えば対象自体である物体の存在を確言することも対象そのものが知覚と独立にもつ性質を知ることもできないのであるまた物理的実在と知覚の間の因果関係へも同じ理由で言及できないのであるかくしてヒュームのような因果性の理解は物理的自然の探究に関しある種の認識論的制約を課すこととなる

この難問を逃れる一つの道として私はポパーの考えに賛意を表したい彼は理論や法則は自然的世界についての我々の推測であり仮説であると主張したそして理論の合理性と実在性を反証のためのテストに求めたこの立場はまた知識の成長を説明し得るもちろんポパーのように言うためには我々は経験論に立ちながら実在論を取ってよいしそうする方がずっと道理があることを示す労をとらなくてはならないしかしその哲学的労苦は科学的探究における創造性の救済という報酬をもたらすであろう

このことをもう少し詳しく言っておこうヒュームのように信念形成を理解するとき生ずる困難のうちにはもし我々の信念なり意見なりが受動的な習慣によってのみ形成されるなら我々は新しい理論を形成し得ないばかりか間違った理論をもつということにも意味がなくなってしまうということがあるそういう困難に陥らないためには我々は経験に基づいて我々の意見を作ると言ってもそれは雨だれが岩石をうがって穴を作るという意味でそうなのではないと言わねばならないつまり我々には理論を創造する知的自由がなくてはならない我々が経験によって知識をもつということの意味は普通経験から帰納することと理解されているがそうではなく経験に基づき推測するということと考えるべき理由がここにある

ヒュームにおける人間理解をどのようにまとめるかは簡単ではないがさしずめ次のように言えるであろう彼は人間本性の分析をまず認識能力の分析から始めた人間の認識能力は彼の場合感覚知覚を明晰判明でないとして退ける合理論者の主張とは違って感覚知覚を主体とする彼の認識論は知覚論の枠の中で展開される知覚は感覚印象と観念に分かたれるそしてここでやむを得ず不正確な言い方を取ると観念は思考の次元に対応し印象は情念や欲求など行動に直接関係しうる知覚を含む知性論において彼は懐疑論を用いてまず我々の認識能力つまり知性に限界があることを示す物体や自我因果性についての彼の議論がもつ意義はそこにある知性に限界があることの含みの一つは我々が生きる場合に知性のみに頼ることはできないということである積極的に言えばそれはまず人間の行動の基本的原理が広い意味での情念であることを示し次にそれに基づき情念によって引き起こされる人間の行為行動について機械論的因果的な法則を立てることの可能性換言すれば社会科学的方法論を示したということであるヒュームの場合情念論は知性論における因果性の理解を人間の社会的な行動にも適用できることを示すものであると同時に彼の道徳論つまり社会哲学の基礎を成すものである彼の道徳論は狭い意味での道徳論のみを扱うのでなく当時の大きな問題であった正義の意味や政府に対する服従の問題などの解明を目指していた彼は正義の規則を物質的な財貨を各個人に帰属させるためのコンヴェンションと見る政府もまた我々が安寧秩序を得るためのコンヴェンションとして成立したと見るそしてここで詳しく筋道を述べるいとまがないが彼はそれらのことの説明を彼の知性論と情念論に添った形で与えるのであるそこで描かれる人間像は完全には理性的でなく行動の原理は情念にあり多分に利己的で仁愛の心は無ではないがまことに乏しい現実の人間像であるそのような人間がなぜ一見その本性に反するような正義の規則をもち自己の自由を束縛する政府をもつのかその説明にこそ彼の人間把握社会的存在としての人間の把握はあったと言うべきであろう

情報の記号化

最後に蛇足をつけておこう社会の情報化ないし情報社会という考えは近世哲学の認識論とどのように折れ合うであろうかもちろんこの問いに対する答は情報化ということをどのように理解するかで異なってくるであろう情報化社会ないし情報社会といわれる社会はどんな特徴をもつものであろうかそれについて専門家の意見を徴してみよう

ある論者は情報社会が到来したかどうかにはまだ消極的であるが次のような定義を与えているそれによれば<情報化>の意味は「物や観念の世界を記号化することによって時間と空間を越えてあたかも実体を取り扱うのと同じ効果を記号の操作によって得ようとする工夫」であるそして「情報化社会」とは様々な事柄が容易に記号化される傾向にある社会のことでありさらに「情報社会」とはそのようにして情報化されたものが一般大衆のレベルに対しても日常茶飯事として身近に接することができる社会を指す

このように考えてよいとすると情報化社会ないし情報社会というものは観念を記号に置き換えれば観念論的世界の構造とアナロジーをもつそのアナロジーの成立は観念がそれ自体の客観性をもつかのように扱われて物化するのと同じように情報も記号化され事柄を離れたところで処理され得るようになって扱いが容易となり独自の存在とみなされ出すということに基づく観念の内容が記述的であるかぎりにおいて観念論は記号論に移行し得るであろう

さてヒュームもデカルトも観念を認識の直接の対象とするという意味で一種の観念論(観念説)に立つと言ってよい(とはいえ彼らが認識論において観念説に立ったことは彼らが存在に関し実在論を否定したことを意味しない)のみならずデカルトは幾何学に代数的手法つまり記号化という手順を導入したという点でも情報化社会への一歩を進めた人であるそして合理論者の一人であるライプニッツは計算機を作ろうと試みた哲学者であるこれは近世の合理論が情報化への道を含むものであったことを示唆する他方情報は個人にとって外から入ってくるということに焦点を合わせて言えば情報化社会における人間のあり方の理解モデルとしては経験論者的な考えの方がより近い構造をもつしかし感覚の「生の感じ」の内容は客観化に抵抗する存在であろうつまりそれを情報化するのはむつかしい(なぜむつかしいかはここで論じない)しかも感覚は生物としての人間にとっては極めて有用なものである

情報化ということには社会の情報化が技術的にどこまで進み得るかということとは別の問題も含まれているというのはコンピュータによる情報処理がいわば観念論的な情報処理であると言ってよいとするとそれはそれなりの危険をもつことは明らかだからである実際社会の現象が記号化されると社会は抽象化されることになる抽象化された社会は不透明となりそれは我々の「悲しむ能力」の喪失をもたらすと警告した精神分析学者もいる

そうしたことは単なる危惧ではあるまいなぜなら記号(観念)の世界がそれ自体の存在と力をもつものとみなされるようになった時にもし他方でそれが実在との結びつきを意識的にまたは無意識的に希薄にし過ぎてしまったならそれに支配される人間の社会はとんでもないデマによってたちまち動揺し崩壊への道を歩むということもあり得ようからであるかつて悪しき形の観念論がそのような暴威を奮って人間社会を狂わせたのはまだ記憶に新しいはずであるそれゆえハイテクの足下にはオブスキュランティズムという陥穽があると言わねばならない「社会の基礎は社会を構成する人々の意見にある」というヒュームの見解はそのことへの警告でもあろう