ハリウッド映画が得意とするスペクタクルのひとつにカーチェイスがある。複数の自動車が市街地やハイウェイを高速で走りながら,ジャンプ・横転・衝突・爆発・銃撃などの迫力あるアクションを繰り返す,あのおなじみの追跡劇である。今やちょっとした娯楽映画であれば,必ずといっていいほど含まれている,定番的アクションの代表である。
カーチェイスはアメリカ映画史の最初期から描かれてきたアクションであるが1,現在のような人気を得る契機になったのは,1968年の刑事アクション映画『ブリット』(Bullitt)の公開である。車の横転や爆発などはそれ以前の映画にもあったが,『ブリット』において初めて,臨場感,すなわち,劇場の座席に座りながらも,スクリーンを走る車の中に乗っているような感覚が観客にもたらされ,カーチェイスの新たなスペクタクル性が俄然,注目を集め始めたのである。
この映画で臨場感の表象に成功した理由は,今から思えば至極当然な発想の転換であった。それまでのスタジオ中心の撮影方式を止めて,現実の道路で車を本当に高速で走らせ,それを車内に持ち込んだカメラで撮影したのである。現在では普通に行われているこの撮影手法を,チェイスを迫真的に見せるために初めて実行した映画が,『ブリット』だったのである。
『ブリット』によってカーチェイスが映画的アクションとして面白く,客を呼び込めるアトラクションであることが,制作側と観客側の双方に認知されたわけだが,この臨場感の表象は,映画研究にとっても興味深いある論点を提供している。それは,二次元の映像がどのようにして,三次元的な感覚である臨場感を表象することができるのかという,ある意味では素朴な問いである。
カーチェイスにおける臨場感はもちろん,これまでも批評されてきているものの,それを表象するメカニズムが本格的に論じられたことは,これまでないと思われる。そこで本稿では,車中のカメラが撮影したアクションの映像をスクリーンで見ることで,臨場感が表象されるメカニズムを,撮影と編集における映像形式と,映画鑑賞と乗車経験に共通する視覚的体験の構造の観点から考察して明らかにしていきたい。また,最後に試論として,現在注目されているバーチャルリアリティ(Virtual Reality,以下VR)の知見を援用して,臨場感の表象メカニズムの理論的な裏付けも行ってみたい。
『ブリット』では,サンフランシスコ市警の刑事ブリットを演じるスティーブ・マックイーンが,自分の命を狙って現れた二人の殺し屋と,約7分間のカーチェイスを繰り広げる。マックイーンのフォード・マスタングGTは,逃げる殺し屋たちのダッジ・チャージャーR/T(クライスラー)を執拗に追跡し2,二台の車は,サンフランシスコ特有の急坂を駆け上っては,猛速で走り下り,郊外では,正面衝突も恐れずに対向車線を突っ切って,車両の体当たりと銃撃を繰り返す。最後は,マスタングの体当たりでコントロールを失ったチャージャーが,ガソリンスタンドに突っ込んで爆発し,この追跡劇は幕切れとなる
このカーチェイスがすべてロケーションで撮影された。従来のカーチェイス演出では,俳優が運転のまねをする車内場面はスタジオの車両模型,走行場面は屋外で別々に撮られ,それらを混ぜて編集するのが常だったが3,『ブリット』は実際に車を高速で走らせ,サイレント喜劇などで頻用されていた,カメラ操作で機械的にスピード感を出す「アンダークランク」も使用しなかった4。制作会社のワーナー・ブラザースは当初,従来通りのスタジオ撮影を要求したが,マックイーンと監督のピーター・イェーツはロケーション撮影を強く主張した。プロのレーサーだったマックイーンは,「観客がアクションに参加可能なリアリズムの感覚(a feeling of realism)」をこのチェイスに求め,同様にレーシング経験があったイェーツも,彼のこだわりに同調したのである5。撮影に参加したスタント・ドライバーは,「これは映画で,本物のスピードを使った最初の例だった。時速160キロは優に越えていたよ」と回想している6。『ブリット』は1968年度の興行収入ランキングで第5位を記録するヒット作となったが7,この革新的なカーチェイス演出が,その興行的成功に大きく貢献したことは言うまでもない。
このようにして『ブリット』は,現在まで続くカーチェイスの演出スタイルを確立した。映画批評家ジェセ・クロッセは『ブリット』を「現代の優れたカーチェイス映画の元祖」と位置づけ,「チェイスシーンの撮影において,技術的かつ創造的に,新しい地平を切り開いた」と評価して,スタジオ撮影からのリアリズム上の飛躍について,次のように書いている。
この『ブリット』の成功によって,カーチェイスがハリウッド的なアクションの筆頭に躍り出ることになった。その結果,1970年代はカーチェイス映画花盛りの時代となり,地下鉄を車で追うチェイスで有名な『フレンチ・コネクション』(The French Connection 1971 後述),スティーブン・スピルバーグの劇場デビュー作となる『激突!』(Duel 1971),アメリカン・ニューシネマの傑作『バニシング・ポイント』(Vanishing Point 1971)などの映画が陸続と制作されることになった。そしてこの勢いは,ロン・ハワード,ピーター・フォンダ,バート・レイノルズらの主演した一連の作品を経て,『ブルース・ブラザース』(The Blues Brothers 1980)や『キャノンボール』(The Cannonball Run 1981)のヒットまで続くのである。
このように『ブリット』のカーチェイスは,アメリカ映画史にひとつの流行を作るほどの強いインパクトを与えたものだったが,そのカーチェイス表象の革新性の中心にあったのが,先に触れたように,カメラを車内に持ち込んで撮影することで得られた臨場感である。撮影監督のウィリアム・フレーカーはこの撮影手法によって,「観客は実際に自分たちがあの追跡に参加しているような感じを持てた」と指摘し,「観客はもはや傍観者ではなくなった」として,次のように証言している。
「カメラとは観客であり,観客以外の何者でもない。それでこそ,ドラマは完全にスペクタクルとなる」と,映画理論家アンドレ・バザンが評したように10,カメラの視点とは観客の視点にほかならない。このカメラを車内に持ち込むことで,観客の視点も擬似的に車内に持ち込むことに成功したのである。
興味深いのは,この視覚的メカニズムによって説明される臨場感の表象が,観客側の身体的な反応も伴っていることである。例えば,映画批評家のロジャー・エバートは公開時に,その身体的な反応を,「腹部を地下室のどこかに11分間,置き忘れてしまう」という表現で伝えようとしているし11,別の批評家はこのカーチェイスを,身体的興奮を売り物にする「ローラー・コースター・ライド(a roller coaster ride)」に端的に例えている 12。
また,このカーチェイスに学問的な関心を示した映画研究家のリチャード・マルトビーは,そのアクションを映像形式の観点から総体的に検討した後 13,二台の車が高速で急坂を走り降りるショットに注目して,その臨場感をやはり身体的な反応として説明している。その映像は,自動車が坂の途中の水平部分(十字路)を一種のジャンプ台にして,飛び跳ねるアクションを,後部座席から運転手の肩越しに撮ったものだが,マルトビーはこのショットが観客に与える効果を,『これがシネラマだ』(This is Cinerama 1952)の中で,ジェット・コースターにカメラを設置して撮ったショットが与える効果に近いとして,次のように評している。
このように複数の批評家・研究家が,観客がカーチェイスに対して身体的に反応している点に注目しているのだが,視覚的な機能しか持たないカメラを車内に持ち込むことで,どのようにして身体的な反応が喚起されるのであろうか。この点を次に検討してみたい。
カーチェイスの臨場感における身体的な側面について,引き続きマルトビーの知見を出発点にして議論を進めていきたい。マルトビーは,先に取り上げた,カメラマンが後部座席から撮ったショットについて,カメラと観客の視点の関係性からこのように批評している。
この批評は,次のように理解できると思う。すなわち,後部座席から前方を見るカメラの視点があって,車両に対して相対的に静止状態にあるその視点には,フレーム(およびフロントグラス)越しの車外の変化する光景が,一種の映像として映じており,この視点と光景の関係の在り方が,同様に座席から映像を見る映画館の観客の類似になっているのである。要するに,走行する自動車が一種の映画館のように機能しているのである。
ここで議論されているのは,いわば視覚メディアとして機能する自動車である。すなわち,自動車に乗る体験を,物理的な移動を考慮せずに,視覚の側面のみに限れば,窓というフレームを通して過ぎ去る車外の光景を見るという,映画と類似の体験を与える装置となるからである。例えば,桂離宮を絶賛したことで知られるドイツ人建築家のブルーノ・タウトは,外観が整えられた,(1930年代中期の)日本の「閑静な住宅街」を自動車で走ることは,「あたかも映画で極めて高貴な美しさを持った画面が,素晴らしく調和的な変化を見せながら,しかも何等突飛な飛躍もなしに引っきりなしに展開するかのような感じがする」と記しているが16,このような視覚体験のことである。
このような視覚メディアとしての自動車に関する議論は目新しいものではなく,複数の研究家によってすでになされている。例えば,映画研究家ディビッド・ボードウェルは,運転者のように,自分自身は静止状態にある人間が,外部の光景を見ながら移動する運動を「受動的な運動(passive locomotion)」と呼び,人間が自らの身体を使って動く「積極的な運動(active locomotion)」と比較すると,前者では視覚が身体の動きよりも優位にあると指摘し,「われわれの視覚的な手がかり(visual cues)への依存は,受動的な運動の状態でより強く示されるのであり,そうした状況は,映画の観客の視聴状況と非常に似通っている」と述べている 17。ほかにも,現代思想家ポール・ヴィリリオや他の映画研究者たちも,同様の点を論じている18。
自動車が視覚メディアとして機能するメカニズムは,人間の知覚の本性に依拠していると考えられる。現象学者のM.メルロ=ポンティは,「私が知覚しているとき,私は世界を考えるのではなく,世界が私の面前に組織化されるのだ」と言い,「運動の知覚」も「視野の全体的組織化の一要素」であるとして,次のように述べている。
この見解を乗車体験に当てはめるならば,次のように言いかえられよう。走行車に乗っているとき,人間は世界の中を動いているのではなく,世界が人間の前に光景として立ち現れているのであり,視覚メディアとしての自動車は,世界をひとつの映像に変えると同時に,車中の人間を一種の観客に仕立て上げるのである。
以上のように,自動車を視覚メディアとして捉えることで,乗り込みショットによって身体的な反応が喚起されるメカニズムが見えてくる。自動車が視覚メディアであれば,映画のカーチェイスは,映画と自動車という二つの視覚メディアが関わって表象されることになる。どちらも,座席の人物が目の前のフレーム(フロントグラス)内を流れる映像(光景)を見るという構造において共通している。したがって観客が劇場で,走行車の車内からカメラが前方を撮影した映像を見ることは,実際の車中で前方の光景を見ることと,構造的には同じになる。そうであれば,観客はそれほどの困難をともなわずに,二つの形式を想像力のなかで重複させることで,自分がスクリーン中の車中にいるように感じることが可能となろう。言いかえると,劇場空間が車内空間として観客に表象されるのである。観客は劇場というよりも,車中のシートに座っているように感じながらアクションを体験することになり,ここから身体的な反応が喚起されると考えられる。
それでは観客が,自分がスクリーン上の車に乗っていると考えるとして,果たして車中のどの位置に自分の姿を想像するのであろうか。この問いが重要なのは,その位置によって,観客がチェイスに対して関わる想像上の形態が決まってくるからである。答えは実は明白で,それは,車に持ち込まれたカメラの位置に重なる。すでに述べたように,カメラは観客の視線として,観客を劇中の世界に結びつける唯一の装置であり,そのカメラを車中に持ち込むことで,観客の視点も擬似的に持ち込まれるからである。
したがって,これから見ていきたいのは,車載カメラが車中のどの位置に置かれるのかという点である。そこで,車載カメラの位置に注意して,あらためて『ブリット』のカーチェイスを見るならば,ある興味深い点に気づくはずである。カメラは,先述のように後部座席だけではなく,前後部のボンネットや車体の側面など,車両のあらゆる位置に置かれるのだが,一ヶ所だけ置かれない場所がある。それはドライバーの位置である。これは,ほとんど指摘されないのだが,『ブリット』以降の現代的なカーチェイスにほぼ共通する特徴である20。
このカメラ配置に注目する理由は,「視点モンタージュ」(point-of-view editing)の観点から考えると理解しやすい。視点モンタージュとは言うまでもなく,何かを見ている人物のアップの次に,人物の視線に近い位置のカメラが捉えた,その視線の対象物のショットをつなげる(逆のパターンもある)編集技法であり,観客の立場から言えば,登場人物の視点からその対象物を見ることになる。映画研究家ノエル・キャロルが「一般的な視覚的コミュニケーション,特に感情的なコミュニケーションの極めて実用的で説得力のある手段」と評しているように21,観客をその人物の立場に立たせて,感情移入を促す有効な手段のひとつとされている。
視点モンタージュは『ブリット』でも有効に使われている。例えば,クライマックスの空港での人間同士のチェイスである。マックイーンは逃亡者を追って空港の人混みのなかに入り込み,そこで目をまさしく皿のようにして,逃亡者を発見しようとする。この時の凝視する目のクロースアップと,その目が見ている群衆のショットのカッティングは効果的であり,観客はマックイーンの立場に感情移入して,思わず人混みのなかに逃亡者を探してしまうほどである。
このような効果を考えれば,カーチェイスにおいても視点モンタージュが使われてもよいのではないだろうか。すなわち,ドライバーのアップの後に,運転席の位置のカメラが捉えたショットをつなぐのである。ドライバーの緊迫感を観客に共有させるには,有効な手段のように思われる。だがすでに見たように,カメラが運転席に置かれて,ドライバーの視点として機能することはない。チェイス中は,視点モンタージュは放棄されているのである。
この事実がなおさら関心を呼ぶのは,カーチェイスのいわば前奏部(二台の車がゆっくりと街中を走行し,お互いの腹を探り合う場面)では,視点モンタージュがきっちり守られているからである。例えば,マックイーンが怪しい黒い車を発見した時には,彼のアップの後に,その車のショットが編集され,逆に殺し屋たちがマックイーンの車を探す際には,殺し屋のアップの後に,その視線の先にある通りのショットが編集されている。ところがカーチェイスが始まったとたん,視点モンタージュは直ちに放棄され,チェイス中は視点モンタージュが一度もなされない。車載カメラがドライバーの視線の位置に来ることは決してないのである。
視点モンタージュに代わって『ブリット』のカーチェイスでは,次のように編集がなされている。ドライバーのアップの次には,後部座席から撮ったショット,運転手の肩越しのショット,撮影車からの並走ショットなど,彼の視点からは外れたショットが編集されているのである。このような登場人物の視点に媒介されない車中からのショットは,古典的ハリウッド映画(1910年代後半~1960年代前半の作品)ではまれにしか見られないが,『ブリット』以後のカーチェイスでは,アクションの基調を成すほどに反復使用されている22。このような現代的カーチェイス独特の映像スタイルを,『フレンチ・コネクション』を例にして,さらに検討してみたい。
『フレンチ・コネクション』には,高架線を走る地下鉄に乗って逃げる犯人を,ニューヨーク市警の刑事(ジーン・ハックマン)が,その下の道路を車で追う有名なカーチェイス場面がある。ハックマンが信号を無視して対向車線を突っ切り,車との衝突を寸前のところで何度も回避してゆく,きわめてスリリングなアクションである。監督のウィリアム・フリードキンは『ブリット』のカーチェイスを強く意識して,このアクションを演出したと発言している23。
このチェイスには,視点モンタージュに近い形で編集がなされている部分がある。前方を見る運転手(ハックマン)のアップの後に,前部バンパーに設置されたカメラによるショットが編集されていて,この組み合わせが何度か繰り返されるのである。二つの視点はどちらも前方を向いているので,視点モンタージュのように見えるが,運転手の顔の位置とバンパーとでは,垂直方向に無視できないズレがあるので,厳密には視点モンタージュとはいえない。このような微妙なズレを含んだモンタージュも,現代的カーチェイスでは頻繁に観察される形式である。
映画研究家ティコ・ロマオはこのズレを,映像スタイルの観点からこのように考察している。走行中の車両から撮影されたあらゆる映像を「移動視点ショット」(moving POV shot)と名付け,この一連のショットに,「人物中心(character centered)の機能と非人物中心(non-character centered)の機能」という二つの極を設ける。「人物中心」とは,カメラが人物の視線を代替したショットであり,「非人物中心」とは,人物の視線とは無関係な場所に置かれたカメラが捉えた映像である。カーチェイスにおける「移動視点ショット」は,これら二つの極を結ぶ「連続性」(continuum)のどこかに配置されると指摘している24。
付記すると,この議論では,移動視点ショットの出現する一方の極を「人物中心」としているので,カメラがドライバーの視点の位置に来る場合もあるような印象を受けるが,先述のようにカメラがドライバーの視点の位置にくることはほとんどない。したがって,この「移動視点ショット」とは,運転手の視点の位置にだけは来ない,車載カメラによるショットを意味していると理解すべきであろう。
それでは,前節で確認したカーチェイス特有の車載カメラの配置は,いったい何を意味しているのだろうか。車載カメラが車両の様々な場所に置かれながらも,ドライバーの位置にだけは来ないという配置のされ方は,いわゆる同乗者の乗り方と同じである。同乗者も,運転席以外の場所に座る存在だからである(それゆえに同乗者と呼ばれるわけだが)。要するに,車載カメラはチェイス中,一種の同乗者のように扱われているのである。
すでに述べたように,カメラの視点は観客の視点を代理しているので,カメラが同乗者として配置されるならば,観客も同乗者の立場からアクションを見ることになる。観客の視線は,同乗者の視線として表象されるのである。この視線の変容は,観客にとって受け入れやすいはずだ。なぜならば,観客と同乗者は,前方のフレーム(スクリーン/フロントグラス)内の光景を座って見つめるという受身の姿勢の点で共通しているからである。つまり,観客は自分の存在を同乗者として,車載カメラの位置に投影しやすいのである。要するに,観客は車載カメラの存在を通して,同乗者として表象されるのだ。
車載カメラが一種の同乗者であるといっても,現実的に考えれば,カメラは機械,同乗者は人間なので,相違も当然あって,例えばカメラは車体の外側に設置可能でも,人間はそんな位置に普通は乗らないのだが,同乗者をその位置ではなく,車両の運動をドライバーと共有する存在として捉えれば,そのような位置の相違は少なくとも,ここでの議論の障害ではなくなると思われる。
そして,もう一歩議論を進めれば,観客は同乗者として表象されることで,消極的な形ではあるものの,疑似的にアクションに参加していることにもなる。同乗者とは,自分自身は座っているだけにも関わらず,自動車という枠組みで考えれば,主人公と車両を共有して行動を共にする存在である。この車がカーチェイスを敢行すると,運転には関与できないものの,自分の運命をドライバーに託する形で,受身の姿勢のままでアクションに参加する(せざるをえない)ことになる。すなわち,観客は同乗者の立場を通してアクションに擬似的に参加しているという見方も成立するのだ。『ブリット』以降のカーチェイスにおいて,観客が身体的反応も含めた高い臨場感を持つことを可能にしているのは,観客を同乗者として表象するこのメカニズムだと考えられる。
最後に試論として,前節までの議論で明らかになった臨場感の表象メカニズムによって,VRが成立するかどうかを考えてみたい。ここでVRを持ち出すのは,その概念の普及以前に撮られたこのカーチェイスを,VRのいわば先駆けとする批評があるからである。例えば,先のクロッセは,「『ブリット』はある意味で,アクションが現実の時間で(in real time)展開中に,見ている人が車中に座っていることを可能にするバーチャルリアリティの初期の例である」と書いている25。また,ある自動車雑誌のライターは,「『ブリット』はバーチャルリアリティの概念の先駆け(the forerunner)である。フランク・ブリットのマスタングが悪者たちを追って,サンフランシスコのノースビーチの坂を走り下りる時,観客は彼の後ろに座っている」と評している26。どちらも後に発展した理論の立場から,過去の作品を再評価しているのだ。ただし両者はVRに言及するのみで,それ以上の議論は展開していない。
『ブリット』が公開された1960年代後半は,VRという概念がまだ確立していなかった時代である。ただ,後にVRへと発展する研究はすでに始まっていて,映画が公開された1968年には,この分野の先駆者の一人であるアイバン・サザランドがユタ大学で,後にVRの象徴的な機器ともなるヘッド・マウント・ディスプレイ(HMD:Head-Mounted Display)のシステムを開発している。だが,VRという言葉が使われ始めたのは1987年からと言われ,その研究が各国で加速し,VRの概念が一般に広く知れ渡るのは,さらに後の2010年代に入ってからである27。
『ブリット』は,現在流行中の3D映画や,座席が映像に連動して動くなどの体感型のいわゆる4D映画ではなく,二次元の映像を見せるだけの普通の商業映画である。したがって『ブリット』がVRでないことはある意味で自明なのだが,それにもかかわらず,そのカーチェイスに対してVRへの言及が見られることは,その臨場感にVRに結びつくものが含まれているためだと考えられる。周知のようにVRでも,鍵を握るのは臨場感だからである。VRは人間の感覚に総合的に訴えることで,その場には存在していない状況を実在しているかのように現前させた人工的環境を指しているが,それが説得力を持って成立するためには,人間が周囲の人工的環境に対して高い臨場感を持つ必要があるからだ。そこで本節では,VRの知見を適用して,カーチェイスにおける臨場感がVRとして成立するかどうかを,これまでの議論に基づいて検証してみたい。
一般的にVRの環境が成立する条件としては,次の三点が挙げられている。1. 人間にとって自然な三次元空間を構成する「三次元の空間性」,2. 人工的環境との間で,実時間において相互作用が可能である「実時間の相互作用性」,3.人間が環境と連続してつながっていて,その環境に入り込んでいる「自己投射性」である28。これらの三要素を高い水準で実現するとき,人間は周囲の人工的環境に対して十分な臨場感を持つことができ,VRが現前可能とされる。順に検討していきたい。
まず「三次元の空間性」であるが,これは『ブリット』のカーチェイス表象において成立しているだろうか。前節までの議論を踏まえるならば,この性質はある程度成立していると考えられる。映画と自動車が視覚メディアの側面で結びつくことで,劇場空間が一種の車内空間として受容されていることをすでに見た。この結論を前提にすれば,それは観客にとって,一種の「三次元の空間性」を持ったものとして現前していると理解できよう。
同時に,この三次元性の成立によって,第三の要素である「自己投射性」の性質もある程度,成立しているとみなせる。「自己投射性」とはいわゆる没入感のことであるが,これは,人間が表象システムを外部から観察するのではなく,その内部に存在することから得られる感覚なので 29,劇場が車内空間に変容しているのであれば,観客もそのシステム内から運動を知覚していることになるからである。
VR成立の三条件の中でもっとも問題になるのが,「実時間における相互作用性」である。普通の商業映画において,観客とスクリーンの世界との間で,現実の時間的感覚の中で相互作用が起こらないことは明白だからである。ただし試論ということで,その事実をここで留保して議論を進めると,次のような解釈も引き出せる。前節において,観客のアクションへの限定的な参加が表象されていることを確認した。車載カメラに仮託された同乗者の表象を通して,観客が擬似的な形でアクションに参加する形態である。これを仮に,どれほど受身ではあっても,観客側から劇中世界への参加行為とみなすならば,カーチェイスでは,劇中世界から観客へと向う作用(映像・音声の伝達)だけではなく,逆方向の作用も表象されていることになる。これらは,互いに影響をおよぼしあわない,別々の作用であるものの,全体として見れば双方向の運動ではあることから,一種の相互作用の運動が表象されていると解釈できるように思われる。
このように『ブリット』のカーチェイス表象では,VR成立の三条件である「三次元の空間性」,「自己投射性」,「相互作用性」の各性質が,程度の差はあるものの,ある程度獲得されていると言える。それならば,このカーチェイスにおいて,VRが成立していると言えるのだろうか。残念ながら,この議論の対象がもともと表象の次元,つまり観客の想像の世界であって,実体的な作用ではないことを思い起こせば,この結果によって,VRが限定的であっても成立しているとは言えない。
その一方で,実体的な水準において臨場感の生成を目指すVRの成立条件が,表象の次元ではあっても,部分的に満たされていることを積極的に評価すれば,前節までの議論によって得られた,カーチェイスの臨場感の表象メカニズムが,VRの理論によって一種の裏付けを得たと見ることも可能であろう。言いかえると,カーチェイスの臨場感はVRを現前させないが,VRの理論で臨場感を説明することはある程度可能ということになる。VRの知見は,臨場感の表象メカニズムの有効性を確認する手助けにはなったのである。先に引用した批評におけるVRへの言及も,実体的なものではなく,このVRの理論的枠組みのいわば原型をそこに見出したものとして理解できるのではないだろうか。
最後に本槁の議論を要約すると,次のようになる。従来の批評では,臨場感はカメラ=観客の視点を車内に持ち込むことで表象されると理解されていたが,その背後にはもう一段複雑な機構が働いていて,観客を車載カメラの配置形式を通して,仮想的な同乗者として位置付けて車両に乗せ,その擬似的な立場を通してアクションに参加させることで,身体的な反応も伴った臨場感を喚起しているのであり,このメカニズムはVRの理論によってもある程度裏付けられるものである
『ブリット』の成功がカーチェイス映画の流行をハリウッドにもたらしたことは,最初に触れたが,その影響は1970年代を優に超えて,21世紀にまでおよんでいる。このことは,例えば,2001年から2017年にかけて8作品が制作された,人気カーアクション映画『ワイルド・スピード』(The Fast and the Furious 2001)のシリーズでも確認できる。第1作の監督ロブ・コーエンは,主演のポール・ウォーカー(2013年に自動車事故死)には,「マックイーンのような雰囲気」(McQueen-esque ambience)があると言い 30,そのウォーカーは,「調子はどう,ブリット?」(“What’s up, Bullitt?”)と,第2作目『ワイルド・スピード×2』(2 Fast 2 Furious 2003 監督はジョン・シングルトン)の劇中で呼びかけられている。また,第8作目『ワイルド・スピード ICE BREAKE』(The Fate of the Furious 2017)の監督F・ゲイリー・グレイは,好きなカーチェイス映画を質問されて,「映画学校の模範解答」(a film school answer)だと前置きしながらも,当時の貧弱な撮影機材であれだけの興奮を出せたのは驚きだとして,『ブリット』と『フレンチ・コネクション』が「最高」(pretty dope)だと答えている31。
このように,『ブリット』とマックイーンへの言及が関心を呼ぶのは,ハリウッドでは1990年代以降,CGI(Computer-Generated Imagery:コンピュータ生成イメージ)によるアクション描写が定着したからである。周知のようにCGIによって,アクション描写のスペクタクル性と映像的リアリティが格段に向上し,カーチェイスもそれにともなって表現の幅が拡大した。この変化の全体像は別に論ずべきテーマであるが,見落としてはならないのが,『ブリット』のCGIなし(実写)のアクション描写と『ワイルド・スピード』シリーズのCGI効果たっぷりのアクション描写とでは,映像的リアリティの面で明らかな相違があるにも関わらず,『ブリット』と凄腕ドライバーとしてのマックイーン像が依然として,参照すべき一種の基準として働いていることである(ディズニーのアニメ『カーズ』[Cars 2006]の主人公名も「マックイーン」だ)。
このことは,グレイの発言も示唆しているように,アメリカ映画にカーチェイスというアクションを確立させた『ブリット』の映画史的意義を反映しているのだが,同時に本稿の文脈に照らせば,『ブリット』が確立した臨場感の表象メカニズムが,『ワイルド・スピード』を始めとする21世紀のカーチェイス映画においても,基本的に維持されていることも物語っている。現在では,CGIだけではなく,様々な実写撮影用車両・機材の開発によって,『ブリット』の時代には不可能だった,複雑で洗練されたカメラワークが可能になっているものの,観客が車載カメラを通して,仮想の同乗者として擬似的にアクションに参加するという,その表象メカニズムは今も有効に機能しているのである。この意味では,21世紀に入っても,カーチェイス映画は依然として『ブリット』の切り開いた地平にあるといえる。
※『ブリット』のカーチェイスシーンについては,下記の二本の拙論ですでに取り上げているが,本稿はそれらの成果に依拠しながら,VRの知見も援用して,その臨場感の表象メカニズムを新たに考察したものである。