初めてあこがれのニューヨークに降り立ったのは今からちょうど10年前のことでした。ボストンでの滞在を切り上げ,無我夢中でアムトラックに飛び乗りました。飛行機という選択肢は無く,身近に利用していた列車の旅を自ずと選んでいました。
この列車に飛び乗った時の私は,ベーグルなんていうものを全く知る由も無く,また,その魅力的な食べ物と運命的な出合いがあるなんて思いもせず,ただただ,頭の中はニューヨークでいっぱいでした。
到着が待ち遠しく,駅で購入したてのニューヨークガイドを片手にワクワクの連続。11時間経てど2時間乗れどワクワクドキドキ落ち着くことができず,全文英語のガイドブックも上の空,バッグが妙なくらい重い原因となっていたCDウォークマンにようやく気付き,高校時代から慣れ親しんだ「落ち着きの無い」ハードロックな曲を聴き,ようやく「落ち着いた」不可思議な逆転現象を昨日のように覚えています。
iPodで慣れ親しんでいる現在では考えられない大きさのウォークマン,オオゲサな出で立ちな上,常にCDを5枚は携帯しており,バッグに入れる物をともかく慎重かつ厳重に吟味せねばならない,女の子にとってはいわば,苦難の時代だったと思えます。
音楽を聴きながら,ニューヨークを目にすることができるというあのドキドキ感は今でもリアルに甦り,いつでもあの頃を再現できるくらいですので,傍らにいた車掌さんはじめ友人は,異様な私の興奮を冷静に危険視していたかもしれません…。
それまで,「ニューヨーク」と聞いて一番に思い浮かべるのは5番街にそびえるティファニー本店。そう,『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘップバーンがウィンドウを覗き込みながら,なんともかわいらしい仕草で,それでいて,その仕草とは対照的に悲しげな瞳を凝らしながらキラキラ光るアクセサリーたちを寂しそうに眺める,非常にナイーブなあのシーンに登場する5番街に面したティファニーでした。あのシーンでオードリー演じる主人公ホリーが朝食に頬張っていたのはバゲット(フランスパン)。残念ながらベーグルではありませんでした。
ニューヨーク・ペンステーションに到着。飛行機とは逆に,地下からニューヨーク地上へ登場した私が初めに受けた印象は,そのビル群の高さと美しさ,空の青さ,人々の活気,その人々の生気あふれるパワーでした。人々の足音がアスファルトにコダマして空気が揺れる重みを感じながら興奮しました。
その初めて体験する活気とパワーの中で,排気ガスのため,ウッとむせ込むほど空気が悪かったのも忘れられませんが,その空気の悪さは5分もすると何も感じなくなり,空や街をキョロキョロ見回しながら,どんどん追い越して行く人々を横目に,「Oh! my NEW YORK!」と口に出そうになるのをこらえながら,まだ興奮状態は続いていました。でもそのような中,フとあるお店に目が止まりました。「ギョッ!!なんだ?このへんなドーナツは!?」…目が点,釘付けでした。
ボストンでは,日本でもよく目にする一般的なドーナツならよく見かけたものの,この形に気付くことはできなかったため,「恐らく気付けなかった新種のドーナツだ!」と山積みされた初めて目にする,その「ヘンテコリンなドーナツ」に目を奪われ,遠くで呼んでいる友人の声に反応さえできませんでした。
先ほどまで,待ちに待っていたというニューヨークの街の何もかもが目に入らなくなり,ともかく衝撃でした。
人々がこれほどまでに急いで通り過ぎて行く街,ニューヨーク。
「きっと忙し過ぎてキチンと成型できないが故,つなぎ目もこんなザツになってしまうのであろう…」等,自身の中で未完成に見えたその形について,なぜか大きなお世話でしかない言い訳を次々と考えつつ,とりあえずオーダーすることに。
指差して「This doughnut, please.」
すると,次はオーダーされた黒人女性の目が点,ドーナツではなく「ベーグル」という全く別なパンであるということを教えてくれました。ベーグルとの出合いでした。
新しい食感と,種類の多さ,様々な食べ方…初めてのニューヨーク訪問は正にベーグル紀行。ダイナー,ベーカリー,スーパーマーケット等々,色々な場所のものを試しましたが,一番美味しかったのはグランドセントラルステーション地下のダイニングスペースにあるクリームチーズとサーモンのサンドイッチベーグル。
具だくさんのサンドイッチの両面を鉄板で挟んで軽く押し付け,一気にトーストするという物でした。このトースト方法は未だ日本では見たことが無く,非常に残念です。外はカリカリ,中はサーモンとクリームチーズのジューシー感とベーグル独特のモチモチ感が何とも言えない食感で,私が想像しうる「美味しい」の概念を打ち破る大革命となった記念日です。
数日通い,1日に2度買いに走ったこともあり,フランスから越してきたばかりの片言の英語で話す店員さんと仲良くなりました。「美味しい」に言葉は必要ありませんでした。
京都に帰り,早速ベーグルを探して回ったものの,当時の京都ではまだ手に入れることができず,半年後,再びニューヨークを訪れ,その何とも言えない愛しいベーグルに再会した次第です。
北アメリカでは全土で普通に手に入ることをも知り(ボストンでも!),しかしながら,ニューヨークのベーグルの魅力に取り憑かれ,訪れるたびに帰り際,「次はいつ食べられることだろう」と後ろ髪を引かれながら京都に戻るということが繰り返されていました。
帰国してからベーグルが恋しくてたまらなかったそんなある日,京都市内のデパートにて,京都初のベーグルとの再会を果たしました。
驚きと喜びの渦中,尋ねてみると,一時的に出張販売しに来ているという大阪のお店で,どうも大阪ではもう少し前からベーグルが身近に手に入っていたらしいことを知り第一次ショック,次に出張販売は次の日までと聞き第二次ショックということで,驚きとうれしい衝撃の直後,悲しい事実が襲いかかり,落胆したことを覚えています。
そのお店のベーグルは日本初のニューヨーク空輸のものであり,懐かしいニューヨークの味がしました。以後しばらく,その大阪のお店まで特大バッグ持参で買いに行くという,なんとも痛ましい日々を過ごしていました。
このお店の出店がキッカケになったのか,以後,ようやくベーグルが日本でも人気が出始め,ついに京都でも有名なベーグル店が誕生し,今でも足しげく通っているのは言うまでもありません。
北大路にあるベーグル店では,独自のオリジナルベーグルを発売しておられ,各季節によって限定ベーグルが登場するのも魅力のひとつです。
よもぎと柚子,あずき,クリームチーズが入っているベーグルや味噌とナッツの香ばしさがたまらない五平ベーグル,甘いお豆が生地にふんだんに練り込まれているきなこベーグル…遥か遠くニューヨークで出合ったベーグルに,京都で独自のスタイルに生まれ変わり再会。本場以上の美味しさで私たちを魅了してくれます。その他,チーズのベーグル,チョコとオレンジピールのベーグルやガーリック風味のベーグル…毎日食べても飽きない種類の多さで,食べる以上に,店頭にて選ぶ楽しさもヒトシオ,童心に戻ります。
以後,京都ベーグルは他にも様々なパン屋さんで誕生し,中でも押小路のパン屋さんが手がけておられるココナッツ小豆ベーグルは絶品です。
北大路にあるベーグル店の生地はアメリカ本場に近いハード系であるのに対し,押小路のパン屋さんのものは比較的柔らかい食感でモチモチが強調されており,かなり個性的であると言えます。
ベーグルというパンは,モチモチしていながら外はカリッとしており,不思議な食感を与えてくれます。その理由としては,成型した生地をまず素早く茹で,その後,焼き上げるというところにあります。生地そのものには牛乳や卵,バターが一切使われず,かなりヘルシーなものであるというのは周知の通りです。そのため,日持ちにも優れています。冷凍すると2週間は持ち,かつ,味の衰えも少ないと言われます。
茹で時間により生地の柔らかさや食感が変わるという,微妙な違いに因る楽しさを施すことも可能で,とても奥の深いパン☆ベーグル。また,私がニューヨークでドーナツと間違えたなんとも不思議な,ドーナツにしては一見ザツに見えてしまった形ですが,元々は馬の鐙あぶみに由来する物であると言い伝えられており,原型は円として繋がっておらず,鐙そのものの形をしていたとも言い伝えられています。
生地や形についての説は様々で,ユダヤが発祥であるというものや,ポーランドが発祥である,出産を祝って母親に贈られていたものである等の説をよく耳にします。
ただ,ニューヨークのベーグルに関しては,19世紀の後半にユダヤ系移民がもたらしたとされており,以後,北アメリカ全土に広がって行ったという説がほぼ確実であると言われています。特にヘルシー志向のニューヨークでは現在でも爆発的な人気を博しており,ニューヨークの朝には欠かせない一品かつ,ファッションの一部にさえ加わっている様子が窺えます。
『ティファニーで朝食を』のホリーはベーグルを食べていませんでしたが,現在のニューヨークが舞台の映画やドラマでは,ヒロインがベーグルを食べる,もしくは持っているシーンが数多く登場します。特に最近では,エミー賞でも多くの受賞を成し遂げたドラマ『アグリーベティ』の主人公ベティがあげられ,彼女の購入するベーグルにはオニオンが練り込まれているようです。
実際オニオンのベーグルは京都でも手に入り易く,香りといい,味わいといい…何とも言えない食欲をそそるものです。
ぜひ一度ご賞味ください,その魅力に取り憑かれます。
ニューヨークで出合ったベーグルを京都で普通に食すことができるようになった昨今,ベーグルのあの不思議な鐙の形は「繋がり」を示すように見え,不思議な縁を感じずにいられません。
まずはヨーロッパとアメリカ,次はアメリカと日本,日本の中でもはるばるこの京都に到着し,どんどん京都ベーグルが生まれ,鐙であるが故,はるばるこの京都まで駆けてきた足跡のようにもとれます。
ベーグルには味や食感以前に,実はその存在自体に素晴らしい魅力があります。ヨーロッパから移民を通してニューヨークに辿り着き,その愛嬌ある形と特徴的なヘルシーレシピにより今の地位を確立し,今なお,様々なベーグルが誕生して日々オリジナリティのあるものが生まれ続けています。その土地の文化や背景に応じて独自のアレンジが加えられ,また,そのアレンジに素晴らしく適応し,人々の中に馴染み溶け込んで行く,愛しい,特別な存在のパン☆ベーグル。この先,まだまだベーグルは日本でも浸透して行くであろうと思われます。
京都のこの地でもオリジナリティが加えられつつ,どんどん進化しています。本場のものとは程遠いものも生まれてきていますが,それは逆に本場とされるニューヨークにも誇れる,素晴らしい『京都ベーグル』なのだと感じずにいられません。皆様にもぜひ,ニュージャンルであるベーグルの魔法にかかって欲しく思います。