先生はお会いする度に「今井君,富士通の研究所でコンピュータミュージックを続けられていたらなぁ…」とおっしゃって下さっていた。私が今あるのは先生のお陰である。
先生の研究室で修士論文のテーマを決める時期だった。「今井君,今度大阪で開催される万博(1970年)で富士通は古河パビリオンで様々なイベントを考えているそうだが,コンピュータミュージックを考えているのでやってくれそうな学生がいませんかと池田敏雄さん(富士通でコンピュータの国産化を実現したコンピュータの天才)から頼まれているのだけれど,君,やってみないか?」とおっしゃった。私はオーケストラでホルンを吹いていたが夢のようなことを考えていることに感激してその場でお受けした。
1967年は京都大学大型計算機センターが富士通のF230-60の導入を決めた年である。選定委員をなさっていた先生は,富士通での開発のリーダであった池田敏雄さんと導入に際しての様々な課題を共に乗り越えようとしていた時期であった。そうした中でそのような話が出たそうである。
1968年4月に稼働した超大型計算機を存分に使い,1969年に大学院修了後富士通に入社し,そのまま万博のプロジェクトに入り,多くの社内の部門や音楽系の企業の方々と共に夢の実現に心血を注いだ思い出深い時期で,1970年に何とか実演展示ができて感慨深い仕事になった。
先生がこの事をいつもにこやかに話されたのがいつまでも心に残る想い出である。
上記の肩書・経歴等はアキューム22・23号発刊当時のものです。