私は2008年11月1日,京都コンピュータ学院の記念すべき式典に招かれた。貴学院は1960年代の初め,創立者の長谷川繁雄氏や長谷川靖子学院長がコンピュータ化の時代の到来を予測され,1963(昭和38)年に貴学院を創立された。当日いただいた『2009入学案内』の最初のページに〝Pioneer Spirit-KCG〟という語が学院を象徴するキーワードとして大文字で印されているのに私は注目した。これは創立者のこれまでの意気込みを示す言葉であり,また将来もコンピュータに精通した人材の育成機関として,パイオニア・スピリットを持ち続けたい,卒業生にも持ってもらいたいという強い意志表明であると理解した。
私は今回『アキューム』に寄稿を求められた。幕末・明治の激動期に日本のパイオニアとしてたくましく生き抜いた新島襄(1843~90)を研究してきた私は,パイオニアに求められる能力やパイオニア・スピリットを語りながら,貴学院の学生さんや院生及び卒業生でコンピュータの企(起)業家になっている人達に,地平の広いスペシャリストの必要性を説こうと思う。
2008年9月にアメリカのサブプライム問題に端を発する金融危機が瞬時にして全世界に広がり,各国政府や企業は必死になって被害の拡大を抑えるための方策を講じている。これは百年に一度の出来事といわれる程の激震であるが,「ピンチはチャンス」と解し,したたかに危機を生き抜く企業家が現れた。パイオニアとは今回のような出来事をいち早く察知して被害を極力小さくし,ピンチを逆手にとって,たくましく成長する智慧と知識と勇気をもって実行するリーダーのことをいうのだと思う。
長谷川 亘教授が大学院でご担当の「リーダーシップセオリー」は現在のような激動期に立派にリーダーシップを発揮しうる人材の育成を目ざされている。2008年度の講義内容に次のような表現がある。「時代を超えた普遍性を有しながら,時々刻々と進化発展する技術や流行の移り変わりを把握し,異なる文化や業界においても通用する組織全体を教育・教化する能力を持った新しいリーダーの行動の本質とは何かを考える。(中略)次代を担うリーダーのあるべき姿を考察し,組織の内的・外的要因を分析する方法にも着目し,集団教育・教化のリーダーシップの実践を行う」。ここで述べられているリーダーとはパイオニア・スピリットをもって実践する人物のことであろう。
新島襄は上州安中藩の下級武士の長男として1843(天保14)年,江戸で生まれ,育った。彼の青少年時代は幕藩体制が崩壊寸前で,疾風怒濤の大嵐の真っ只中であった。1840年に始まったアヘン戦争や1854年のクリミヤ戦争という列強の侵略戦争の情報が江戸にいる新島にも届いていた。幕府をはじめ各藩は国防のために各地に砲台を設置したが,列強の軍艦と日本の大砲の軍事力の格差は歴然としていた。新島は満十歳の時(1853年),ペリーが東インド艦隊の軍艦4隻を率いて浦賀に来航,翌年には軍艦を7隻に増やして江戸湾深く侵入し,軍事的威嚇によって幕府に日米和親条約を締結させたことを少年のナイーブな感性で受けとめていた。
外国の侵略の可能性を体験した新島は先進諸外国の動きに強い関心を抱くようになった。彼は満21歳の1864(元治元)年,函館からアメリカに国禁を犯して密航を企てた。彼は日本の現状を憂い,欧米の近代科学を学んで近代国家建設のリーダーになりたいとの強い願望をもっていたからである。1年後の1865年7月,彼はニューイングランドに着き,幸い彼を庇護してくれる人物(Alpheus Hardy)を見出し,名門校であるフィリップス・アカデミー,アマースト・カレッジとアンドーヴァー神学校で学ぶことができた。彼は裸一貫自力で留学に成功したこともあって,官費留学生のように幕府や藩に研究課題を与えられなかった。従って彼は自由に先進諸国の近代化の秘密を探究することができた。彼には佐久間象山のいう「和魂洋才」の視点でアメリカを見るのではなく,和魂を疑ってかかることも,洋才(技術)をつくり出した人間に注目し,邪宗であったキリスト教に関心をもつ自由もあった。
新島がニューイングランドで学んだ1860年代後半の中・高等教育機関では「人間は良き農夫や商人になる前に全き人間にならねばならない」(Man must be a man before he becomes a good farmer or tradesman.)という考え方が教育を貫いていた。学校では個々の木を見るだけでなく,森全体を見る大切さを教え,自分の良心と良識を磨き,共同体の一員として共同体の発展のためには時には自己犠牲をいとわない人間の形成が目ざされていた。生徒・学生は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」(A sound mind in a sound body)というギリシャ・ローマの時代から人口に膾炙された格言を座右の銘とし,日々強靭な精神と肉体の鍛錬に精を出していた。新島の学んだアマースト・カレッジでは体育が週に4回も必修であった。学生たちは共同体には優れたリーダーが必要であることを認識して,自らがよきリーダーになるために集団スポーツを通して司令塔の役割を経験し,瞬時に適切な判断をくだし,指令を出せるような訓練をした。勿論縁の下の力持ちがチーム(共同体)には重要であり,彼らの自己犠牲的働きに留意することも学んだ。リーダーは常に広い視野と柔軟な思考をもち,決断と実行力が求められ,命令を受けて行動する人々から深い信頼と尊敬を受けることが重要であることを会得した。そこで信頼を得てよきリーダーになるためには彼らは広い教養とバランスのとれた人格が求められることを日々の学生生活,とりわけ集団スポーツを通して体感するのである。アマースト・カレッジのカリキュラムの特徴は修辞学(rhetoric)が重視され,修辞学の応用としての弁論術(elocution)が必修になっていることである。修辞学は聞き手に感動,共感を与えるために最も有効に表現する方法を教える学であるが,それを狭く方法論として捉えず,感動を与えるような話の正当性と内容の豊かさ,深みが求められた。即ち教養として日頃人類の遺した古典を読んで自分の考えを補強し,多くの人々に肝銘を与える能力も重視された。アマースト・カレッジの教育のもう一つの特徴は学生の自主的なクラブ活動を重んずることである。スポーツクラブはもとより文芸クラブでは学生が学校新聞や文芸雑誌を発行し,お互いに意見を述べ,批判し合い,また弁論の機会をもっていることである。ちなみに今回のアメリカ大統領選挙でオバマ氏が勝利した理由の一つは彼が雄弁であったからである。
以上のように,新島がニューイングランドで受けた教育はすぐれて地方や国家のリーダーを育成することを目ざしていたといえる。リーダーは常に未知の世界を開拓するパイオニア・スピリットをもって,それを実践するのである。新島は9年間米欧で生活し,近代国家を建設するにはよきリーダーの養成と共に国家を支える主体的な国民の育成が重要であると考えるに至った。彼は国家は国民のためのものであり,政治体制はデモクラシーであるべきだと考えていた。もう一つ彼が重視したことは,人間は善悪を峻別し,善をもって行動の指針とするには高度な道徳意識が必要であるが,それをキリスト教の道徳に求めたことである。
新島は1874(明治7)年,10年ぶりに帰国し,近代国家の建設に必要な人材の育成とキリスト教の宣教に専心努力した。キリスト教を排除して,天皇制絶対主義国家体制の構築を目ざす明治政府の政策は新島を苦境に立たせた。また仏教,神道勢力の強い京都の地にキリスト教主義の学校をつくり,それを将来大学に昇格させようとすることは,当時無謀のそしりをまぬがれなかった。彼は京都府から学校で聖書を教えてはいけないという厳しい達示を受けながら,万難を排して彼の信ずる唯一筋の道を歩み続けた。彼は幕末・明治の初期に,先駆けとして物事を始める苦労を十二分に体験し,キリスト教主義学校の校長としての深い見識と行動力を存分に発揮して,彼のヴィジョンの実現に努力したといえる。しかし彼は余りにも苛酷な任務のために健康を害し,大学設立を目前にして1890(明治23)年,47歳という短い生涯を閉じた。彼はパイオニアが背負わなければならない重荷と苛酷な試練に耐え,彼が蒔いた一粒の麦は彼のパイオニア・スピリットを受けつぐ人々によって見事に育てられ,現在に至っている。
1962年10月,アメリカのケネディー大統領はソ連がキューバにミサイル基地を建設中である確たる証拠をつかんだ。彼は陸・海・空軍の最高司令官をはじめ,ソ連通の外交経験者や国防長官,国務長官等を結集し,長時間にわたって状況分析とあらゆる角度からの軍事衝突回避の可能性を検討した。その結果,キューバを海上封鎖する方法を選んだ。ソ連のフルシチョフはアメリカにミサイル撤去を約束し,米・ソの核戦争の危機は間一髪で回避された。この事件についてのケネディー大統領の采配は一国のリーダーとして見事の一語に尽きる。キューバ危機は極めて困難な問題に遭遇した時,リーダーはどのように指導権を発揮するべきかの格好のモデルになる。