近年,まだごく一部ではありますが,外国人で日本の伝統的な文化や古典芸能の領域に大きな成果をあげるばかりでなく,次世代への継承者として,かけがえのない価値ある仕事をする人が増えています。そこでその逆,すなわち我々日本人がヨーロッパの伝統にどのようにかかわっていけるかを改めて考えてみる必要があるのではないかと思われます。
音楽作品は演奏という行為を通して聴く者にその姿を現します。音楽作品を聴きたいと思っていらっしゃる方々は皆その作品のもつ本来の姿,その「作品固有の真理」に触れたいと望んでいらっしゃることと思います。作品に内在する真理の内容は多種多様である場合と,解釈の可能な幅が比較的狭いものもあります。
近年,バロック時代の音楽の解釈は,その前の時代,すなわちルネッサンスからバロック前期までの音楽の研究が進むにつれて,特に斬新,大胆な解釈が試みられるようになりました。それは「即興」という言葉に統合される各種の「意味付け」であり,時には思いきったデフォルメさえ含まれています。この即興の精神は,ジャズ音楽等とも大いに共通点のある興味深いものです。バロック音楽がジャズ化されたりするのも,この時代の音楽が内容豊かなものである証と言えましょう。
バロックの次の時代,すなわちウィーン古典派の時代になりますと,音楽の構造上,外見的には曲の原型をとどめぬ解釈は不可能になってきます。ということは大きな差異は問題ではなく,演奏の際の小さな差異が全体の容貌を大きく変えてしまうことになります。具体的には,例えば短い音符の長さを0.2秒あるいは0.1秒にするかとか,音量に関して言えば,何秒以内に何フォーンまで音量を上げてクレッシェンドをするかというような,普段我々が「歯切れの良さ」とか,「響きの豊かさ」等で表現している事柄が重要な意味をもってきます。
その次の時代のロマン派になりますと,音楽芸術は次第に客観性を失い,主観の勝ったものが増えてきます。一方では,国民学派と呼ばれる,その民族特有の感情表現や独特のリズム感,特殊なハーモニーの偏向が顕著になる音楽が現れます。他方では,音楽はもっと私的,プライベートなものとなり,個人の心情や体験,幻想が重要な事柄となります。演奏に当たっては,その作曲家の作品固有の「感じが出ていない」とか「その曲の生まれた地方風ではない」あるいは「情緒纏綿(てんめん)としていない」等の言葉で表現されてきて,前述の「微妙な差異」が更に大きく作用して,次第に全体に強く影響を及ぼしてくるようになります。「ヨーロッパの演奏の伝統」というようなことがよく言われます。伝統というものは,暗黙の約束事の集大成というふうに言い換えられるかもしれません。しかし伝統という言葉には悪いイメージもあり,だらしのない因習や悪習慣といった側面がないわけではありません。ですからヨーロッパでも良い意味で当たり前の演奏をしても,人が目新しく感じるような極端なテンポの設定や,過剰なエモーションに対して,意識的にクールでなければ前時代的と罵倒され兼ねないようなところがあります。
最近特に思うのは,私達の勉強していた時代,1950年,60年代あるいは仕事を始めるようになった70年代の初頭頃まではヨーロッパの人達の間で,良い意味においての伝統を重んじる意識は非常に旺盛でした。我々日本人のようなヨーロッパ圏外の者達は,「伝統をわきまえない常識外れ」との酷評を喰らわないようにすることを最も心掛けたものです。しかしヨーロッパにおいても何処にでも伝統は転がっていたわけではなく,その当時からカンテラを下げて探し歩かねばなりませんでした。美術作品は美術館や教会に保存されていますし,文学作品は書物として残っておりますので大きな問題はありませんが,再現芸術と言われ,また解釈芸術である音楽や演劇は,演奏家や演奏団体,俳優,舞台監督に優れた人々がいなくなれば成り立たないものです。例えば1950年代中程から60年代末までに,本当の意味での伝統を守り,かつその土台の上に,独自の個性的な芸術を繰り広げることができた,著名な指揮者達十数名が相次いで世を去ってしまったことを思えば,我々若き外国人留学生にとって伝統を探すことがいかに難しく,そしてそれがますます困難になったかは想像にかたくないことでしょう。とにかく私達留学生は本物と亜流とを見分け,聴き分け,嗅ぎ分けることを強いられたものでした。
最近の若いヨーロッパの人達の演奏を聴いていますと,20年前だったら糾弾されたに違いないというような,良く言えば思い切りの良い,細々としたことにこだわらない,悪く言えば何らの洞察もなく,ただ浅薄なものが横行するようになりました。このマントも古臭い,この上着も,このシャツもオールドファッションだ,この飾りも,このネクタイもというふうに1枚ずつ自分の着ているものを脱いでいき,気が付いてみると下着1枚になって寒くて落ち着かず,自分に似合うかどうかなど省みることもなく,何かあり合わせのものを羽織ったというような状態も起こり得るのではないかと懸念します。少なくとも貴い伝統の中で勉強する幸運に恵まれた私達の年代の者は,今を憂うのではなく,能力の限りもう一度初心に戻り,作品の本質を極め,なるべく真理を反映した演奏を心掛ける必要があるのではないかと最近痛感しております。
1993年 春
上記の肩書・経歴等はアキューム1号発刊当時のものです。