長谷川繁雄先生にとって私共(4名)は,先生が職業人としての教育に携わられ始めた時の最初の生徒であった様だ。昭和32年春,私が和歌山県立桐蔭高等学校2年生であった時,同学年の親友に誘われて,学校の近くにあった英語塾へ通い始めた。その時の先生が繁雄先生であった。色白で少々太りぎみのにこやかな方で,長めの髪は横分けにされていた。当時は確か京大文学部哲学科にまだ籍を置かれていたと思う。
先生の人生で初めて自分の生徒を持つことができたので感激されていたせいなのか,何時も非常に幸せそうにしていられた事が印象的であり,人に教えることが楽しくてしょうがない様子であった。当時はまだ,受験地獄も現在程酷いものでは無かったかも知れない――特に和歌山市の様な地方都市に於ては。然し乍ら,我々当事者としてはそこそこにプレッシャーを感じてはいた。従って,公立学校の先生で,教育することにそれ程の熱意をお持ちでない方の授業は,カーテンの陰やグラウンドのスタンドでの「早弁」で対抗することとなってしまった。今から反省しても,これは「理の当然」であったとしか云い様がない。私としては英語はどちらかと云えば,得意の学科であり,高校の授業は自分の知っている事を,順番が来た時だけ発表させてもらえる場であるが,そこで何を学べるのかと云うとやや物足りないものを感じていた。
そんな折りしも繁雄先生の一風変った英語塾は,我々にとって非常に新鮮なものに映り,貴重な結果をもたらした。
塾は市電「堀止駅」の近く,表通りに面して並んでいる3階位の建物で入口からトントンと階段を昇った2階の左側に教室があった。少し前迄,歯医者さんをやっていた所である。英語の授業に入る前に色々な話し合いがあり,必ずしも先生からの一方的な説教では無く,自分が世の中で何をやりたいか等々各自かなり活発に話題が展開された。その中で良く憶えているのは塾が始まってかなり経過した時点であったが,先生が劇団を組織して農村部を巡り,文化的教育的な会合を持っていたのだが,これが大変盛況で面白いと云っていられた。先生の考え方はリベラルではあるが,教条的な考え方は一切無く,実践的であり,生意気な云い方になるがドロクサイ面もあった。その点が我々に好感を与えた訳である。
さて先生の授業であるが,教材は東京の教育大かどこかの副読本であり(当時の普通校には副読本等無かった),物語がいくつか全部英語で書かれているだけのものだった。これを全員で頭から翻訳してゆくのである。文体は”JACK AND BETTY”風の教科書とは異なり難解ではあったが,内容が理解できさえすれば面白いものであった。今も記憶にあるのは英国人作家のスコットランド丘陵地帯の紀行文と米国人作家の短編で,その後「ライダーズ・イン・ザ・スカイ」と云う流行歌の原作となった物語である。先にも云ったが単に和訳するのでは無く完璧な日本語の最適な文章に「翻訳」するのである。従って,当時の英語の授業で良く使われた「……するところの何々……」と云った表現は使わせてもらえなかった。単語の意味は予習していたから概ね文章が理解できても,私の回答に先生が「うむ……まあそんなところでしょうね」と答えられると,こちらも意地で「それでは次回迄にちゃんとした答をしましょう」と云ったやりとりもあった。先生から教わった秘術は次のようなものであった。英語と日本語は語順が異なり,英文をいったん最後迄いってからひっくり返して翻訳せねばならぬケースが多いのだが,先にも云った通り,これを何と「頭から翻訳して行く」ことであった。これは同時通訳にも善く使われる技術である。それ以外には,言葉や発想自体の相違により意訳せねばならぬ事も多いが,適当に意訳するのではなく全ての可能な訳文の中からシチュエーションに応じた最善の訳を作り出す作業で英語,日本語の勉強のみならず,非常に頭の訓練になった。先ず本質を理解すれば恐いものが無くなり,次にどの様に肉付けをして行くか,先生の授業から学んだことは多かった。
最初の4人の生徒の中,私及び友人は昭和34年春,夫々東京の文系私立大学,及び大阪の歯科大学へ入学したので,先生と別れてしまったが,残りの2人は我々より1年下級だったので更に1年先生に教わり,その2人は東大に合格することとなった。私も後1年先生に教わっていたならば?。
さて,その後先生はライフワークたる,教育の道を追究され続け,その御仕事が逐次拡大されていった事は人づてに聞いたり,御本人から電話を頂いたりで存知上げてはいた。但し,人間誰しも人生で若干の回り道をしたり,自己のサーバイバルに手一杯となり,旧い知り合いの方に連絡を怠ることもあるものである。私事,繁雄先生が亡くなられたことを長い間存知上げなかったのは残念である。特に平均寿命が永くなった今,私とそれ程も離れていない御年齢で他界された事は,天命に逆らえられないのが人間の定めとは云え,ことしほに残念で実にもったいないと思う。御存命中は非常に幸せに自己の理想を追われた先生のあの世での御冥福を祈るのみである。
現在は,高度情報化社会と云われ,あらゆる分野において情報の処理,伝達が活発に行なわれている時代です。この様な情報化社会の到来を数十年も前に予見し,それを支える技術者を育てるために日本で最も早く京都コンピュータ学院を設立された故長谷川繁雄先生は,私の高校生時代からお世話になり,尊敬する恩師でありました。先生は京都コンピュータ学院の前身の前身とも云うべき和文研という学習塾を今から約30年前に経営されておられましたが,私はこの和文研の初期の頃の卒業生であり,その頃の話から述べてみたいと思います。
私が長谷川繁雄先生,それに靖子先生に初めてお世話になったのは,今から29年前にさかのぽります。当時私は和歌山県立桐蔭高校の1年生でした。和文研は高校生を対象とした学習塾で,当時は現在と違ってまだ学習塾は少なく,先駆的な存在であったようです。
私の高1生の時は,のんびりしていたため学業成績はかなり落ち込み,ちょっとショックを受けていたんですが丁度和文研の生徒募集広告を手にしました。それには「来たれ!勉学の情熱に燃える若者よ!」と云うような内容が書かれていて,当時としては何か非常に新鮮で,若い先生方がおやりになっているんだろうなという気がしました。しかし私の場合,高校生の時から奨学金を受けている家庭の経済状態であったため学習塾に通うのはとても無理であったのですが,その広告には経済的事情のあるものは授業料の減免も考慮してくれるとあったので厚かましいとは思ったものの塾へ話を聞きに伺いました。その時面接して頂いたのが繁雄先生と靖子先生であったと思いますが,事情を聞いて頂いたところ繁雄先生は授業料のことは心配せず勉強に来なさいとおっしゃって頂き,大変感激致しました。和文研の教室は和歌山市内にある妙法寺というお寺の本堂の2階にあり,英語と数学のクラスからなり,1クラス10人位で行なっていました。講師の先生方は英語が長谷川繁雄先生,数学が靖子先生で他にも数人先生がいらっしゃいましたが,いずれの授業も何となく自由な雰囲気の中で行なわれ,楽しいものでした。繁雄先生はテキストにかなり高級な英文のリーダーを使われていたように覚えていますが,これは私が英語を苦手としていたためそう感じたのかも知れません。私などは,テキストの英文を訳して答えても,ほめていただいたことはまずありませんでしたが,同級生の1人が名訳を行なった時,これはうまい,訳本に使ってもいいくらいだとほめられたことがあり,くやしい思いをしたことを今でも覚えています。このように先生は,原文の表現を,文学性をそこなわずに行なうことも要求され,ただ訳をすればよいと考えていた私にとって大変しんどいことでした。また靖子先生は数学が本当に好きで教えているという感じで,例のように早口で説明されるので,これまた大変なところがありました。しかし内容は明解で,ことに数学の勉強の方法論については大変参考になり,あとあとまで役に立ったと思います。
当時の和文研は,先生方がいずれも若く,張り切っていらっしゃって,大変明るく,自由で活発な空気が満ちていたと思います。それも繁雄先生のお人柄が反映されていたのでしょう。生徒も自然と優秀で熱心な人達が集まってきていたようで,彼等はその後東大,京大,阪大等へ進学し,現在各界で活躍されています。また勉強のことだけでなく,クリスマスには教室でパーティを開いてもらい,楽しく過したことなど昨日のことのように思い出されます。次に私自身の話になりますが,私は,このような和文研を卒業し,お陰様で現役で東大理科一類に入学でき,工学部電子工学科を卒業し大手電機メーカーに入社致しました。
そこでは電話交換をコンピュータ制御にて行なう電子交換機というものの開発設計にたずさわりました。入社後数年は仕事も面白く張り切っていたのですが,何年か過ぎると組織の中に組み込まれた立場が次第に窮屈になり,ことに上司や先輩の生き方が,将来の自分の生き方になるのかと思うと何だか先が見えてしまったように思われ,もっと自由に自分のなっとくのいく生き方をしたいと思うようになってきました。しかし,そうは云っても妻子のある身で会社をあてもなく辞めるわけにも行かず,ずるずると9年もたった昭和50年に,阪大医学部で社会人の学士入学募集をしていることを知り,しかも前々から直接人の役に立ち自由に仕事のできる医師の仕事に憧れていたこともあって試しに受験してみました。しかしにわか勉強で,ものの見事に失敗しました。このことがあってから何としても医師になろうと決心がつき,家内も私の思うようにやってよいと賛成してくれたので翌年1月住みなれた会社を退職し,3月にもう一歩も後へ退けないため確実なところをと,また入学後の生活のことも考えて故郷の和歌山県立医大を32歳にして受験し,幸に合格することができました。入学してからの生活費は学習塾を開くことによって何とかなりました。塾を開く時,和文研のことを思い出し,当時の教室を使わしてもらおうと妙法寺を訪れましたが,当時の住職はすでに亡くなられており,御長男が跡を継いでおられました。あの教室は和文研が京都に移られてからいろんな用途に貸していたが傷んでしまったため,お貸しできないと云われました。しかし見るだけでもと,見せてもらいましたが二十数年前のあの懐かしい教室は,もはや面影もなく荒れ果てていたのは寂しいかぎりでした。
医大の在学中,繁雄先生が大きなコンピュータ学院を経営されていることを知り,先生の先見の明と,実力に改めて感心致しました。また変な方向に転向した私のことをいろいろと御心配頂き,医大を卒業するとすぐに京都コンピュータ学院の学校医をおおせつかり内科検診を2年間にわたりやらせて頂きました。この時学院の大きさに驚いたのですが,なおも拡張計画があることを知らされ,常に現状に甘んじることなく,先を見通しながら進んでいかれる繁雄先生,またそれを実務の面でがっちりサポートされている靖子先生の御努力に今更ながら敬服したものです。その後私の方の医大の仕事が忙しくなったため学校医を辞退させて頂いたのですが,それから間もなく繁雄先生の寝耳に水の訃報を聞き,大変な衝撃を受けました。志なかばにして旅立たれた繁雄先生は,さぞかし御無念であったろうと思います。私自身も折角医師になっていながら何のお役にも立てず残念で仕方がありません。
しかし学院は靖子先生と立派な御長男が跡を継がれていると聞き,繁雄先生の遺志を継いで今後も益々発展されることを信じて疑いません。私は現在,和歌山市内で小さい医院を開業しておりますが,繁雄先生の様にいつも先を見て現状に甘んじることなく,生きがいのある人生を送りたいと思っております。繁雄先生,天国で安らかならんことをお祈り致します。
京都コンピュータ学院が開校25周年を経過され,今日,日本一のコンピュータ専門学校としての実績を継続して維持しておられることに対し,学院に多少なりとも関係した者として誇らしく,しかし,その後の我が身のコンピュータなるものとの関わりから,大いに気恥かしく,そして,ここまで学院を育て,引っ張ってこられた各位に,最大級の敬意を表さざるを得ません。
さて,この稿で,先ず語らねばならないのは,いうまでもなく,故長谷川学院長先生のことです。
7,8年前のことになりましょうか。ある仕事上の知人から紹介され,故学院長と現学院長靖子先生に(改めて)お会いしました。(改めて)と書いたのは,私が学院に通っていた当時から17,8年,学院に通った事すら,すでにほとんど記憶から消えかかっていたため,再会も意識の中では再会でなく,初対面だったからです。
学生として学院に通っていた当時,故学院長は直接コンピュータの授業には携わっておられなかったはずで,授業中の教室へは,彼が鉄骨製の階段を上下する下駄の音のみが伝わって来て,その存在を我々にアピールしていたかのようです。
そして再会後,幾度か直接お話しさせていただくうちに,故学院長の人柄にうたれ,その大いなる理想主義に私までも一緒になって心浮きたち,その桁はずれの学識と向学心に頭の下がる思いでした。周囲から見れば,故学院長は京都大学文学部の特質を十二分に身につけ,又,それを発揮しておられたようです。こうして書いていると,又,あの下駄の音がよみがえってくるようです。
開校当初,学生の数やその人達の職業等は私には定かではありませんが,様々な人達の集まりであったように思います。私達(同級生と2人)は,京都大学工学部の助手であったときに,名誉にも教授から指名され通いはじめました。専攻である建築意匠学とコンピュータの関係など皆無に等しく,ただ,その将来を予測し得た故の教授にはるかに及ぶべくもない先見力の欠如から,私はフォルトラン4とかの教科書と数枚のパンチカードを手みやげに,大学から授業料が出ていたにもかかわらず,中途で脱落してしまったのです。その時の私の感想は,「ハードウェアがもっと進歩すれば普通人にも簡単にコンピュータは使いこなせるであろうから,ハードの発展に期待しよう」というものでした。以来25年,私の思考に応えてくれるコンピュータが出現したか否かすら確かめ得ない場所に身を置いて,ワープロの扱いすら我社の若年社員にまかせている状態です。しかるに,当時独学でコンピュータを学習していたいわゆる「機械好き」の同窓生が,建築計画学の分野でコンピュータを駆使し,大阪大学環境工学科の教授に就いているのは当然の帰結なのでしょうか。学院に功績を残せなかった1期生としては,我が非力に恥じ入る次第です。
それにしても,1期生の他の方々は,現在どこに,どうしておられるのでしょうか。発足当初はもちろん専修の学校ではなく,従って確立した分野もなく,様々な分野からある程度経験を積んだ人々が,期待と不安を併せ持ち,コンピュータを各分野にいかに取り入れ,利用していく事が可能かと真剣に模索しておられたかと察します。その方々の現在を知れば,コンピュータの果した各分野への功績やコンピュータ自身の歴史が,より鮮明に浮かび上って来るように思われます。
次に,建築設計の分野におけるコンピュータの占める位置を,私の知り得る範囲内で記してみます。
先ず,私の専門とする建築意匠の分野では,その思考と回答の各人の多様さ,身勝手さ,それにもっと厄介な好みの問題が入り組んで,設計過程にいまだコンピュータは使用されていません。ただ,先日ある建築専門誌に,アメリカの大学での研究の中間報告が掲載されていました。まだやっと緒についたばかりといった所でしょうか。何はともあれ,思考するコンピュータの完成,成熟が望まれる所です。そしてこのハードウェアを使いこなすソフトウェアの開発も並行して行われてゆく事を待望しています。
その他,製図や図形の転換,透視図の作成といった点では徐々にその用途が広がりつつあります。又,少々複雑な建物の日影図の作成やその検討は,コンピュータ無しではほぼ不可能といって良いでしょう。
構造設計では,解析と計算においてコンピュータ無しでは成り立たない程,建築は複雑にそして巨大になって来ました。設備や電気の設計においては,記号化された図面の作成に,又,積算作業においては,単価の記憶とそれを利用した計算へと,建築の各分野で,コンピュータの存在無くして考えられない所へと来てしまったのです。
私がコンピュータとはじめて接した時には,先見性もなく,時代を先どりする進取の気概もなく,入口を覗いただけで終ってしまいましたが,その後のかくも急速なコンピュータの発達,普及は,コンピュータが市民生活に押し寄せて来たとの観すら呈しています。それだけに,コンピュータに関係する方々の数も増し,比重も増し,今,その責任も重いと思われます。
京都コンピュータ学院の,今後のますますの御発展と社会への御貢献を,心より御祈り申し上げます。
初代学院長は,一度これをやると決めたからには何かあってもそれを成し遂げられる意志のかたい方でした。また,何でも活字にして見なければ気がすまないというところがあり,ワープロの普及によって事務作業が減るどころか,元職員のTさんと私の仕事量は増える一方でした。
そんなある日,深夜3時頃までTさんと私はワープロ入力をしていました。もう終わりという頃,学院長から「こんな時間にタクシーで女の子が帰るのは危険だからぼくが送ってあげます。今から行きますから待ってなさい。」と電話がありました。学院長はスピード狂だといううわさを聞いていましたので,Tさんは自分のバイクがあるからとさっさと帰ってしまいました。一人残された私は断る理由もなく,学院長の車に乗せられ家路につきました。
途中,高野の交差点より300メートルほど前で信号が黄色に変わり,止まるものと思っていましたら学院長はまだ加速されています。私は青ざめました。とっくの昔に赤に変わっている信号の目前で急ブレーキをかけ,そこで一言「もうちょっとやったのにな!」と残念そうでした。
特に子供・老人・女性と社会的弱者に対して,最大限の優しさをもって接しられた方でしたが,二度と学院長の運転する車にだけは乗るまいと決心しました。
また,めったなことで弱気になる方ではありませんでしたが,学院長が翌日入稿する入学希望者宛の手紙文を考えておられるとき(勿論深夜で随分お疲れの様子でした),たった1回だけ「末広さん,文章を作るというのは本当に難しいことやなあ。何度も何度も読み直して,何回も何回も修正して,やっと1つの文章ができあかっていくんやで。」と教えきかすように言われたことがありました。いつも『前進あるのみ』という感じの学院長からは想像できない言葉でしたので,今でもこのことは文章を書くたびに思い出します。
”ソフトウェア″の重要性を力説された繁雄先生は,今でも私の心の師です。
学生時代,高野校でアルバイトをしていた時に,よくお見かけしました。休みの日に河原町で遊んでいたところ,突然あらわれて「あれは,どうなっているんですか」と仕事の話をされたことがありました。
情熱家で,全てに積極的にものを考える人であった。
私は営業マンとして昭和59年から約3年間,学院長にコンタクトさせて頂きましたが,仕事では百万遍校舎にて何回か徹夜になったこともあり,仕事に対する厳しさ,教育に対する情熱については何時もお手本にさせていただきました。
故人から学校設立時より一貫としてソフトウェアの重要性をコンピュータ教育の基本理念に歩んでこられたことを聞くにつけ,故人の先見性に感服しておりました。
当時病気入院中とは知らなかったので,訃報に接した時は,あのバイタリティを待った方が死去されたことはまったく信じられず,現在でもこの気持は変りません。ここに,故人のご冥福を祈るとともに,貴学院の益々のご発展をお祈り申し上げます。
日本の教育体系を見直し教育の抜本的改定を実践,そして我々の生きるべき路を伝授して頂いた師と仰ぐ。
時代に対する先見性を待った素晴らしい情熱家。そして永遠のロマンチスト。
教育について,夜を徹し話し合った日に,先生の運転で京都駅まで送って戴いたのが,つい先日のようです。
長谷川先生との初めての出会いは,二十数年前私がピカピカの新人社員の頃,広告出稿の打ち合わせで夕方から延々2時間程,自分の夢,コンピュータの話等,一人熱心に話されました。純粋な教育者として心を打たれた半面,商売として考えるとこれで良いのだろうか? と思いました。しかし,以後の発展を見るにつけ教育は産業になってはいけないな,教育者としての純粋な気持ちがブレーンに感動をあたえ,盛り立てて健全な発展が出来るのだと思いました。
創立25周年 おめでとうございます。
長谷川繁雄初代学院長殿との最初のお付き合いは,当時,国立大学にしか設置されていなかった電子計算機TOSBAC-3400を導入していただいた時からです。この時から,15年間仕事を越えたお付き合いを賜わり,一つ一つがすべて思い出として今まで深く脳裏に刻まれております。前学院長は,すべてに真摯で,持てる物の内から最高を求められる生き方,私にとっては,人生訓としての思い出で,今も心に宿っている人です。
初代学院長には,真の教育とは,これからの専門学校のあり方などについて教えていただきました。いつも学生の立場に立って学校を運営されていたと思います。前学院長から教えられたことが,私の仕事をやる上でも基本姿勢になっていると思います。
存在感のある人でした。
世間体にとらわれないで生きることを教えていただきました。最も尊敬する人です。
力強い握手と輝いていた目が忘れられません
~1979年度卒業パーティーにて~
人間味のある方でした。
偉大な人だった。
常に夢と理想を追求していた人でした。
師に三変あり。これを望めば儼然たり。
これに即けば温なり。その言を聴けば厲し。
私にとって,最も強烈な印象を与えた人。
言いだしたら絶対に引くことなく,有無を言えない状態にひきずりこまれてしまう。
しかし,全てが的確で,大きな勇気を与えてくれた。
先生のもつ先見性と,読みのするどさに,ただただ敬服するばかりです。いまだに話しかけられていると思うことがあります。
最高にガンコで最高にやさしいおやじ。
独創的な人だった。
雄しく頑強にして,内面繊細で心やさしいお人柄 合掌
京都コンピュータ学院創立25周年を迎えられ,お祝い申し上げます。
今から25年前といいますと,コンピュータは今日のように一般家庭にまで活用される時代ではなく,ごく限られた特別な人々のものでした。そのような時代に,情報産業社会の到来を確信され,”創造性豊かな情報処理技術者の育成”をしようとお考えになった初代学院長は,いかに鋭い洞察力を持っておられたかが伺えます。初代学院長・長谷川繁雄先生と私のお付き合いは,今から思えばごくわずかでしたが,色々な事をご指導くださったことは,今でも印象深く私の心に残っております。
大変残念なことに今はもう,亡き人となってしまわれましたが,現在もそのお志を,現学院長をはじめ数多くの教職員の方々が受け継がれています。それもやはり初代学院長のご人徳の現れだと常々拝見させていただいております。微力ながら私も,京都コンピュータ学院のお手伝いをさせていただくことが,初代学院長へのご恩返しと思っております。
京都コンピュータ学院の今後益々のご発展をお祈りいたします。
笑った顔のやさしい人。
バイタリティあふれる人。荒地の情報処理教育を高い理想を持ってブルドーザーのごとく切り開いていかれた人。
初代学院長在職の頃を振り返ってみますと,いつも緊張の日々であったように思います。そして厳しさの中に何かやさしさがあり,印象の強い人物で親近感(人間性)を受け,今でも心のどこかに根強く残っています。
独特の雰囲気があり,一見恐そうな印象だが,話しているうちにとても神経の細やかな人だということがわかってきた。しかし,その表現が下手だった。また,業者を非常に大事にしてくれているという気持が伝わってきた。
いろいろなことを教わりました。
優しく厳しく,めんどうみがいい人。
初代学院長を思い出すと,まず初めに頭に浮かぶことは,よく怒られたなという思いです。現実にはそれ程,怒っておられたことはなかったのでしょうが,印象としてはよく怒られ,説教のようにいろいろなことを聞かされたなと思います。そういう意味では,新人職員であっても学院長はよく直接会ってくださって,仕事や学校や世間のことを話してくれました。初代学院長にとっては,学生を教育・指導するとともに,職員をも教育・指導することにも大きなウェイトがあったのだと思います。初代学院長は私にいろいろな仕事をさせ,しかしそれに十分に応えることのできない私に対して怒っておられたのだと,今更ながら思います。そして,確かに学院長にいろいろな形で鍛えられた結果,今の自分かあるのです。少なくとも今の自分がこれだけの仕事ができるのは初代学院長のおかげだと思っています。初代学院長が聞いておられたら,また怒られそうな気がしますが。
もう一度お声を聞きたい。
私の生涯の中で,二度と同じような人には巡りあえない程,偉大な人でした。
その時はおかしいと思っていたことも,今になってみれば正しいかなと思えることがあった。個性的で,そして人情家だった。
学院生のため,実習用設備等の勉学環境を整えることにとても意欲的な人であった。
この10年,前学院長には生きがいを与えてもらいました。