Y君,寒くなってきましたね。
いよいよ厳寒の季節がやってきましたが,君は元気で勉強に励んでいることと思います。
今日は,私が最近考えていることを少し聞いてほしいと思って,こんな文章を書いてみました。
ちょっとつきあってください。
君も知っての通り,毎年暮れになると,ベートーヴェンの第九交響曲が各地で演奏されますね。第四楽章の合唱「喜びよ,きみは美しい火花 天の娘,・・・人はみな兄弟だ,・・・さあ抱きあおう 千万の人よ*1」と続く『喜びの歌』を聴いて,ああ今年も終わりかと,心静かに,あるいは時の速さを嘆くのが,現代日本の恒例になっていますね。これはドイツの詩人フリードリヒ・シラー(1759~1805)の詩ですが,私はこれから,シラーの戯曲について少し話を聞いてもらいたいと思っています。
シラーは詩人,小説家,歴史家,美学者,そしてなによりも劇作家として有名な人です。彼は,「群盗」,「フィエスコの反乱」,「たくらみと恋」,「ドン・カルロス」,「ワレンシュタイン」,「マリア・スチュアルト」,「オルレアンの処女」,「メッシーナの花嫁」,「ウィリアム・テル」という九つの戯曲を書き残しています。
ところが,ドイツではゲーテと並び称されるシラーが,日本ではあまり知られていません。その理由として,手塚富雄著『ドイツ文学案内』には,こう説明されています。
「シラーは劇詩人として最も偉大であるが,日本人には戯曲という力動的な文芸のジャンルが,創作の上でも観賞の上でもにがてだということにあろう。しかし,もっと本質的な理由は,シラーが詩人としてはドイツの理想主義を代表する闘士であって,問題の立て方や精神の緊張度において日本人の性格には異質ともいうべき作品を生み出しており,われわれがそれに接しようとすると,同じような精神の緊張を要求されることにあると思う。*2」
「戯曲という力動的な文芸のジャンル」とは,「劇的な」という言葉が示すように,劇中において,(現実にはめったに起こらない)強い感動を観客に与える文芸です。そして,その感動は,対等な人間と人間との間のまさに「劇的」なやりとり,丁々発止の対話(禅問答とは異なりますが)に由来するといえるでしょう。これは,以心伝心を尊ぶ日本人にとっては,違和感があってもおかしくないでしょう。
その上,シラーが「ドイツの理想主義」(現実を超えた理想を希求する。哲学史上では,ドイツ観念論と呼ばれます)の代表であるのに対し,日本人の現実主義的な,あるいは現実肯定的な態度は,対極にあるものですから,日本では受け容れ難いものだというわけです。
さきほど述べたように,最近私は,こうしたシラーの戯曲に強い興味を覚えるようになってきたのです。
まず,彼の戯曲の一例を挙げてみます。以下は,シラー28歳の作品,『ドン・カルロス*3』の一場面です。
時代は宗教改革と反宗教改革のせめぎあいが続く16世紀中葉,スペインでは熱烈なカトリック教徒である国王フェリーぺ2世(1556~98在位)の時代です。王はスペイン本国と新大陸の広大な植民地に加え,ナポリ・シチリア・ネーデルラント,次いで東洋においてフィリピン(国名「フィリピン」はフェリーペ2世に因む)をも手中に収め,さらにポルトガルの王位さえも得て,名実ともに世界覇権を達成,かくしてスペイン王国は「太陽の沈まぬ国」と謳われました。劇中では,皇太子ドン・カルロスは宮廷にあって,王の側近たちの讒言に遮られて王の信頼を失い,失意の日々を送っています。そんなある日,カルロス王子の幼馴染で,唯一無二の親友であるポーサ侯爵が,スペインの圧制下にあえぐネーデルラントより戻ってきました。彼の地の新教徒を救う手立てを求める侯爵と,カルロス王子は意気投合します。ところが,国王フェリーペ2世も,他の廷臣たちと違って立身出世に無欲なポーサ侯爵に興味を持ちました。以下は,王が侯爵を引見し,宮廷への出仕を促す場面での,ポーサ侯爵のせりふです。
「陛下。―実はわたくしは,世界人として考える事を,陛下の臣下としての詞に包む準備を致して参らなかったのでございまする」
「わたくしは人類を愛しまする。しかるに,王国に於ては,己れ以外のものを愛することが許されませぬ」(*王の宮廷においては,己れの立身出世しか考えぬエゴイストでなければ勤まらないというわけです)
「人間に―思想の自由が許されぬうちは,わたくしは人間を幸福と考えることができませぬ。陛下の御鑄造遊ばした幸福を広める役にわたくしをお選び下さることは,おやめ下さいませ。出来合いの型で鑄たものを人に遣る役は,お断りいたさねばなりませぬ。―わたくしは王侯の奴僕(ぬぼく)には成り兼ねまする」
「人間と申すものは,陛下のお考え遊ばすように卑賤なものではございませぬ。やがては,長夜の眠りの縛めを断ち切って,神聖なる権利の回収を要求致す時が参りましょう。そして陛下の御名をネロやブジリスの名に列しましょう。―それがお痛わしうございまする。陛下は無道の君ではいらせられませぬゆえ」
(*ネロは実在したローマの,ブジリスは伝説上のエジプトの,共に暴君です)
「御眼をめぐらして,この輝かしい天地をごらん遊ばしませ。天地は自由の上に建設されておりまする。―そして,自由によっていかばかり豊かにされておることでございましょう。偉大なる造物主は,一滴の雨露にも蟲を投じ,腐爛した骸(むくろ)の中に蠢(うごめく)ものにすら自由を許しておりまする。―それに引きかえ,陛下の御創造はなんという狭苦しい貧弱なものでございましょう。キリスト教国の主(あるじ)ともある御身が,―木の葉の戦(そよぎ)に肝を冷やし―一切の徳業に對して戦々兢々としておられまする」
史上名高い「無敵艦隊」を従え,「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた世界最強国スペインの国王フェリーペ2世に対して一歩も引かず,人間の権利としての自由を主張する侯爵のせりふです。いかがですか。身分からも,職能からも自立した,自由を希求する人間本然の姿は,まさにシラーの理想主義が鮮明に表われたせりふです。
戯曲について,もう少し考えてみます。『日本語大辞典』(講談社)には,「上演を目的とし文学的内容をもつ演劇の脚本。劇に演じられる劇的内容を,対話を主体とし,演技・場面・演出を指示するト書きを加えて文章に表現したもの」と説明されています。
戯曲を他の文芸のジャンルと比べてみましょう。一般に小説には,登場人物の語る言葉に加えて,その人物(容貌や姿形,気質,習性,家族から始まる社会的関係等)についてまた情景等についての作家の筆になる叙述が渾然一体となって現われるといってよいでしょう。
これに対して,戯曲はせりふとト書きだけから構成されています。そして,小説中に現われる上記の如き作家の筆になる叙述にあたるものと,ト書きとは大きく異なります。そうした叙述は,戯曲にはないといってもよいでしょう。ではなにがあるのか。戯曲では,登場人物たちが舞台に現れて,その当人がしゃべるせりふがすべてなのです。これが,「対話を主体とする」ということです。そこに,(せりふをしゃべる際の)しぐさの指定,―これがト書きです―が付くのです。いわば,ト書きはせりふの「介添え役」といってよいでしょう。ですから,―小説における作家の筆になる叙述とは異なり―ト書きは「対話(せりふ)が主体」であることを証明するものなのです。
さらに,「傍白(わきぜりふ)」という表現法がありますね。これは登場人物が内面の思いを口にするのですが,面白いことに,舞台上の相手には聞こえない約束になっています。(小説にも独白体がありますが,それはまさに独り言でしょう。舞台の上でも,相手なしにせりふをいうこともあり,この時は「独白」といわれます)。しかし,「傍白(わきぜりふ)」の場合は舞台の上に相手がいるのです。これも単なる独り言でしょうか。この場合は,相手に話しかけているのではないでしょうか。ところが,その言葉は相手に届かない・・・。そこに意味があるのです。これもやはり対話の一種ではありませんか。
戯曲ではせりふがすべてだとして,そのことによって,表現されるものに,どういう違いが現われるのでしょうか。一般に,文学作品は詩であろうと小説であろうと,また戯曲であろうと,人間を表現するものといえます。そのとき,戯曲以外の文学形式では人間を表現するために,上記のように(登場人物が発する言葉の外に),作者がその人物の姿形(特に顔の表情の描写)によって,当の人物の内に秘められた思いを代弁することも多いでしょう。
これに対して戯曲では,せりふだけで人間を表現するのです。つまり,せりふの表わす当の人物の考えや思いによって,その人物が何物であるかを端的に示そうとするのです。その時,極言すれば読み手には当人の容貌はわからなくてもよいのです。映画とか漫画と違うところです。
相手の姿形が見えないで言葉だけのやりとりということでは,電話が似ていますが,電話では相手の言葉だけに耳を傾けているのでしょうか。こういう意見があります。「電話はしばしば具合の悪い点を含んでいます。感情的になってしまう。声は人の微妙な感情を伝えるので,顔を見ながら,意味を考えながら話を聞いているとそうでもないのですが,声だけ聞くと,話の内容よりも,声の調子だけが気になる*4」。
ですから,戯曲は,小説とも,映画や漫画とも,電話とも違うのです。戯曲は,対話という形式で,個人の思想をストレートに表現する言論そのものなのです。飾りを取り去った,丸裸の人間そのものを表現しようとする文学形式といってよいでしょう。
私は,学院において「情報文化史」という授業を続けてきました。そこで私がずっと考えていることは,多種多様な情報活動の中で,人間にとって最も大切な情報活動,中核的な情報活動はなんだろう,ということです。
現代人は口を開けば,「情報の氾濫」といいますね。あらゆる情報がやみくもに溢れているのが,現代社会であるとして,この言葉は時代の枕詞のように使われています。(まるで,昔は情報がなかったかのように)。ところで,物については最も必要な物から,なくても済ませる物,さらにはない方がよい物まで考えられるでしょう。情報活動についても,少なくとも,最も必要な情報活動,中核的な情報活動が考えられるのではありませんか。
実はシラーの戯曲も,そうした私の関心の中でめぐりあったものでした。一般に,戯曲(のせりふ)は,情報活動という観点からして意味深いものではないかと考えた次第です。他の表現形式と異なり,戯曲においては人間そのものがストレートに表わされます。人間そのものとは,当人のひととなりです。極言すれば,背が高いか低いか,太っているかやせているか,美人であるかどうか,さらには職業,国籍などということは問題にされません。
私は,こうした人間に対する見方は,情報化社会といわれる現代にこそ,重大な意味をもつものだと考えます。通信手段が極度に発達した情報化社会は,いわば遠く離れた人とも直接に顔突き合わす社会であり,そのために,人類史上初めて,一人一人の人間そのもの(ひととなり)がストレートに問われることになるのですから。
一般に,情報化社会とは,個々の人間が簡単に情報の発信を行える時代であり,もはや,人々が機械の歯車の一つとして,もの言わぬ大衆のうちに埋没する時代ではないといわれます。これまで情報発信の手段をもたなかった多くの人々が,いわば全世界に向かって情報を発信する道具を手に入れた社会が出現したのです。こうなると,情報化社会こそは,個人が個人として自立し,真に人間が人間らしくなることを期待できる社会だといえるでしょう。
しかし,ちょっと立ち止まって皮肉な見方をするなら,機械の歯車の一つであり続けることは,気楽であったともいえるのではありませんか。ぬるま湯に浸かるように「その他大勢」の内にいて,自分の意見・立場を明らかにしないこと。それは,戯曲が「対話を主体とする」というなら,いわば,対話の一方に立たないで,どこまでもひやかしの観客にとどまる気楽さでしょう。
ところが先ほど述べたように,現代は「その他大勢」の内に浸かっていることはできない時代,いわば機械のなかに隠れ込むことができない時代といえるのです。容易に情報発信ができるということは,一人一人の情報発信が要請されているともいえるのです。いわば,顔突き合わせた中で,あなたは一体何者なのか,何をどう考えているのか,・・・まさに一人一人の人間の『正体』が問われているのです。これと似た事情を挙げればこうです。民主主義の社会は,独裁政権よりもよいものだといわれますね。ところで,民主主義・デモクラシーとは「民衆の力」という意味です。すなわち,一人一人が声を上げなければ,民主主義は存在しえないはずです。
20世紀の政治哲学者として有名なハンナ・アレントは『人間の条件』の中で,次のように述べています。
「ある人の『正体』(Who)というのは,その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり,重要であると信じることは,人間としてのプライドにとって欠くべからざる要素である。・・・ただ俗物だけが,卑屈にも,プライドを自分のなしたことに求めるであろう。このような人は,この卑屈さによって,自分自身の能力の『奴隷や囚人』になるのである*5」。
この『正体』(“Who”)を,アレントは“What”に対置します。そして,ここで“What”とは,自分にはかくかくしかじかのことができるという能力を指すものです。“Who”と違って“What”は,機械の歯車の一つであっても表明できることです。というよりも,まさにそうした特定の能力がなければ,機械の歯車の一つといえないでしょう。
アレントはまた同書の中で,人間を真に「人間」とする条件として,こういいます。
「たとえば,人間は,別に労働しなくても十分うまく生きてゆける。自分の代わりに他人に労働を強制できるからである。また人間は,自分では世界に有用なものをなに一つつけ加えないで,ただ物の世界を使用し,享受するだけにしようと決意してもいっこうに構わない。たしかに,このような搾取者や奴隷所有者の生活,寄生者の生活は,不正であろう。しかし,彼らも人間であることにまちがいない。ところが,言論なき生活,活動なき生活というのは世界から見れば文字通り死んでいる。・・・このような生活は,もはや人びとの間で営まれるものではないから,人間の生活ではない*6」。
「人びとは活動と言論において,自分がだれ(Who)であるかを示し,そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし,こうして人間世界にその姿を現わす*7」。
活動と言論とは,人々の間で生き,人々と対話すること(すなわち情報発信)であり,これこそが人間を「人間」たらしめるものなのです。
さらに,そうした活動と言論には勇気が必要だと,アレントはいいます。
「自分の私的な隠れ場所を去って,自分がだれであるかを示し,自分自身を暴露し,身を曝す。勇気は,いや大胆ささえ,このような行為の中にすでに現われているのである。この本来の意味の勇気がなかったら,活動と言論は不可能であり,したがってギリシア人の理論からいえば,自由も,まったく不可能であろう。だから,たまたま『主人公』が臆病者であったとしても,この本来の勇気は同じ程度であり,いやむしろ,それだけいっそう大きなものでさえあろう*8」。
先ほど,通信手段が極度に発達した情報化社会は,いわば遠く離れた人とも直接に顔突き合わす社会であると述べました。このことは,情報化社会に生きる私たちは,「自分の私的な隠れ場所を去って,自分がだれであるかを示し,自分自身を暴露し,身を曝す」ことを,(本来自発的に行うべきを)今や正反対に,いやおうなく強制されている,ということではないでしょうか。実際,こうした事態を困ったこと,恐ろしいことだと考えている人は多いでしょう。
そうであるならば,今こそ,むしろまさに「臆病者の勇気」を持って,「自分がだれであるか」を示していこうと考えませんか。いや,考えようではありませんか。そのとき,前述の,人間そのものの表現を目指す戯曲は,情報化社会に生きる私たちにとってこそ,偉大な教師となることが期待できるものではないでしょうか。そうして,こうした教育が上手く行われた暁にこそ,情報化社会は歴史上かつてない,真に人間が人間らしく生きる社会になりうるのではありませんか。
前に上げたシラーの戯曲に現われているのは,「自分がだれであるかを示し,自分自身を暴露し,身を曝す」ポーサ侯爵でした。これこそ,「活動と言論」を実践する自立した個人としての人間の理想型といってよいでしょう。そこには,強い生きた言葉,読むものに印象深い,感銘を与える言葉が聞こえるのです。
こんな言葉があります。
「ある情報がはいってくれば,それを持たなかったときと別な反応が,そこから出てこなければならないわけですね。」
現在,日本では学校教育について議論百出ですが,これは,林竹二『教えるということ*9』(国土社)に出てくるものです。学校で,「それを持たなかったときと別な反応」を生む情報といえば,いろんなものが考えられるでしょう。しかし,本来,教室で与えられるものは,単なる情報ではありません。試験に出るから覚えておきなさいというものではないのです。反対にそれは,いわば聞く者の心を開き,聞く者を突き動かす力をもった情報でなければなりません。こうした力をもった言葉こそ,「活動と言論」の言葉であり,情報の中の情報,中核としての情報の典型といえないでしょうか。
『ドン・カルロス』のさきほどの場面の続きをもう少し紹介して終ります。
ポーサ侯爵
「人間を元通り尊貴なものになさいませ。人民をその本来の我に返して,人民が王政の目的となるように―同胞の権利を己の権利と同様に神聖視して尚ぶほかにはいかなる義務も人民を縛らぬようになさいませ。人民が本来の我に立ち返り,自らを重んずる心に目覚め,―気高い誇らかな自由の徳が茂った時に,―陛下,あなた様のお国を地上の最も仕合せな国になされた時に,その時こそ,全世界を従えることが,陛下の義務となりまする」
フェリーペ二世
「(ポーサ侯に見惚れて。)このような男には出逢うたことがない。―こりゃ侯爵。御身の申す事はあんまりじゃ。ネロになりたいのが己の本望ではない。ネロには成りとうない。―御身に對しては成りとうない。あらゆる幸福が己れの下(もと)で凋むとは限らぬぞよ。御身は,そうじゃ,御身だけは,己の眼の前でいつまでも人間でいてくれい」
・・・
「侯爵,御身は人を見る眼をもっておるのう。己には御身のような男が疾うから欠けておった。御身は心が温こうて,晴れやかで,そのうえ人間を知っている」
独裁君主に対して,人間固有の権利としての自由を,果敢に主張する侯爵。身分からも,職能からも自立した,自由を希求する人間本然の言葉に対し,世界制覇を成し遂げた,この世に並ぶもののない独裁君主の方が,感に堪えず,図らずも(一瞬にせよ),誰にも開いたことのない心の内を漏らす場面です。
*1.シラー(手塚富雄訳)「喜びをうたう」筑摩書房 世界文学大系18
*2.手塚富雄『ドイツ文学案内』岩波文庫P.115
*3.シルレル(佐藤通次訳)『ドン・カルロス』岩波文庫P.137‐50
*4.多田道太郎『文章術』朝日文庫 P.11
*5.ハンナ・アレント(志水速雄訳)『人間の条件』ちくま学芸文庫P.338。少し言葉を変えています。
*6.同書P.287
*7.同書P.291
*8.同書P.303
*9.林竹二さんは宮城教育大学学長時代に,小・中学校において「人間について」「開国」の授業を二百数十回行ないました。小学6年生の感想文を一つ紹介します。「『人間とはどんなものか』という問題を,林先生は出した。わたしは,かんたんに考えればやさしいことだが,でもほんとうはむずかしいことではないかと思う。そのことばがとても不安でたまらなく,宮城教育大学長のことだけあると思い,授業をすすめた。そしてわかったことは,どんなむずかしい問題でも,よく聞き,思ったことをどんどん言っていけば,いつかきっと正しい答えがわかるということだ。 なんだかわたしは,ひとりで林先生の講義を聞いているような気がした。けっきょくわたしは一言も発言できなかった。けど,わたしは,とてもためになったと満足している」(P.86)