2012年には,我が国の大学業界で大きな話題になった事象がふたつあった。
ひとつは,民主党政権の末期に文部科学大臣が,既に認可が決定している新設大学3校を不認可にすると言い出して物議を醸したことである。大学設置審議会のメンバーも見直すとのことであったが,昨年度まで問題なく認可されてきた780校に達する大学群をそのままにして,局所的対処をしても大学問題においては部分的解決にすらならない。大臣発言は数日で撤回されて事なきを得たが,背景にあるのは,安易な許認可で増え続けた大学数と,その結果としての教育の質の低下の現状であり,大卒者の就職難が問題の要である。これは大学の分野別の質保証の問題として議論が続いている。しかし,東京大学や京都大学を頂点とした強固な偏差値ヒエラルキーのピラミッドを構成する種々の大学を,夫々分野別に質の保証を実現することには難題が多い。
もうひとつは,東京大学が秋入学に移行すると発表したことである。トップレベルの大学数校がそれに追従するという。しかし,現行の日本の教育制度において,大学だけが入学時点を秋に「後ろ倒し」にすると,海外からの留学生が増えたとして,現役で入学する日本国内の高卒入学者は,それら秋入学の留学生の一歳年上の「一年浪人」になってしまう。アメリカでは,日本の春入学制度に比べると,幼稚園から大学まで,すべてが半年間「前倒し」であるため,結果として日本の高校三年生の9月時点から大学に進学できるからである。日本の高卒生が全員,世界標準の秋入学の国からの優秀な留学生と一年遅れで机を並べるのは,自国の高卒生に対する国際的差別の疑いがある。日本の中学や高校が全て単位制で構成されていれば,高校の単位を全て早期に取得し,海外からの留学生と同年齢で大学に入学することも可能になるが,国内の高校生を飛び級で入学させると,学年制度で構成される日本の中等教育制度に多大な影響がでる。東京大学の発表によると,学部課程を実質3年半にして,卒業時期は現行と同じように4年目の3月にするそうだが,現状の大学学部課程の科目群を3年半で履修するのは,優秀な学生ばかりの東京大学では容易だろうが,中堅以下の大学はどうすればよいのだろうか。学年制度に基づく現行の教育制度を引きずりながら,大学が3年半になってしまうと,私立大学では学費政策に多大な影響が出る。780ある大学の頂点に位置するトップクラス大学が,大学制度や中等教育制度に対して,どのようなリーダーシップを取ろうとしているのかは見えてこず,疑問ばかりが残る。
このふたつの事象は,一見関係が無い別問題のように見えるが,それらの根源は共通している。東京大学とそれに追従しようとする大学も,危うく不認可になりかけた3校も,同じ「大学制度」の内にあるとともに,高等教育全体をなす約4500校の中ではごく一部分である数校でしかない。両事象における当事者たちの観点は,「木を見て森を見ない」というところで共通している。日本の大学制度下では,東京大学から小規模私立大学まで,大学の質が大きく異なっているので,一部の事情を全体に敷衍するのは危険と言う他ない。自民党安倍政権になってから首相直属の「教育再生実行本部」が設置され,6・3・3・4制も見直すことになった。その意味では秋入学問題は,制度全体の改革を誘起することになるのかもしれないが,教育制度に明るくない政治家や東京大学が改革の先鞭をつけることについては,後述のように,敗戦後の学制改革を彷彿とさせるものがある。
現在,少子化を大きな原因とする定員割れや,卒業生の就職難など深刻な事態が生じており,大学を始めとする諸高等教育機関の趨勢が大きく変化し始めている。その渦中において,「大学の質」の問題が今更議論になるのは,趨勢の変化が「教育の質による大学間自由競争の結果」ではなく,その前提となる制度設計の過誤に大きな原因があるからだ。これは,トップクラス大学には関係が無いと思われているようであるが,決してそうではない。この問題は大学数校や大学業界だけに留まらず,教育制度全体に大きな歪みをもたらす可能性が高い。
本稿では,日本における高等教育の現状と問題点を述べたのち,職業人教育の観点から,明治期および戦後の高等教育制度史を概観し,戦後の部分的解決のみを念頭においた局所的対処が全体を破壊したことを示して,高等教育と職業人教育を考える一助としたい。
平成の現代,大学は,短期大学と専門学校(専修学校),高専,大学校などの「大学外高等教育機関」に取り巻かれており,それらと進学者獲得の競争状態にある。2012年8月27日の日本私立学校振興・共済事業団の発表によると,「全国の四年制私立大学の45.8%が定員割れになった。大学の規模別では,入学者が1500人以上の大規模校では充足率は微減だったが,100人未満や600人以上800人未満など中小規模校で苦戦が目立った。学部別では医・歯・薬・保健・教育など資格取得に結びつく分野が入学者を増やしている。反面,社会科学や人文科学の学部は落ち込みが大きい。短期大学で定員割れだったのは230校中69.7%となり,過去最悪になった」という。他方,同年の学校基本調査によると,現役高校生の大学・短大進学率は53.6%で大学のみの進学率が47.7%であることに対して,専門学校(専修学校)進学率は16.8%で,これは前年度より0.6ポイント上昇している。専門学校(専修学校)の学生数はここ3年増加し続けており,大半は小規模校であるが学校数は3300校程に上る。この統計結果が示すのは,不景気による就職難と国民の実学志向である。また,文科省が発表している18歳人口と進学率の推移を見ると,過去10年間で大学への進学率が頭打ちで定員割れが継続し,短期大学への進学者数が半減している。その一方,専門学校への進学者数は,全体の約2割を維持している。定員割れに苦しんでいる大学の主なライバルは,専門学校である。
就職難や実学志向の問題に限らず,日本の大学問題あるいは高等教育問題を解り難くしているのは,戦後の教育改革によって作られた現状の高等教育制度に起因している。現在,中央政府文科省直轄の四年制大学は全て単一の制度下にあり,その中には,頂点の研究型大学である東京大学や京都大学から,第三者評価機関に大学の要件を満たしていないとされる大学や,少子化の波で倒産危機に陥っている大学まで,様々な大学があり,実のところ同じカテゴリーに属する事が疑問である程,多岐に渡る。その中では偏差値ヒエラルキーのピラミッドが確立されていて,大学間では本質的な意味での自由競争が成立していない。
その一方で,文科省直轄の短期大学と高等専門学校,文科省外の省庁管轄の大学校,地方自治体管轄の専門学校(専修学校)など大学外高等教育機関が多種多様に存在しており,高等教育機関の総数は4500校程になる。そして,大学制度の外の,所轄官庁が異なる様々な大学外高等教育機関の中には,通常の大学を遥かに超える研究実績や教育効果の高い高等教育機関が現実に存在する。
専門学校や大学校などの大学外高等教育機関を比較対象とした,言葉としての「大学」には,「文科省が同じカテゴリーとして管轄している」,「文科省のお墨付きを得ている」ということ以外に,あまり意味がない。東京大学と地方小規模単科大学を同じ尺度で測っても,同一の俎上に並べて比較しても,あるいは共通のルールを考えても,意味がないのは明らかだろう。また,大学関係者が,「大学」というとき,大抵は自らが卒業した大学か在職している大学を指すが,その意味するところの「大学」が実際には様々なので,そもそも議論の前提が構成されない。大学外高等教育機関が多数存在しているので,排他的に,「大学は専門学校ではない」,「大学は大学校とは違う」などと言うことはできるのだが,それでも,制度上の区分以外に意味を成さない。大学概念そのものが,制度的にも社会通念的にも曖昧なので,例えば「大学の質の保証」を論じたところで空論になりやすいのである。
昭和の時代,大学数がまだ少なかった頃は,大学,大学校,短期大学,高専,専門学校,各種学校は,おおよそ順に偏差値序列化されて,上位の学校の滑り止めとして下位の学校が機能していたが,平成の大学全入時代になってからは必ずしもそうではなく,偏差値上位の大学群以外は,単に選択の幅という程度にマーケットに認識されているのが実情である。国内にある780校の大学の内,海外の大学と競争しなくてはならないトップクラス大学数校を除いて,それ以外は,学生募集や卒業生の就職問題で,大学外高等教育機関との競争に晒されている。しかし,大学制度の中では,ピラミッド型ヒエラルキーにより大学間競争が成立しないばかりか,「大学は学問・研究の場」という意識が根強く,職業人教育に特化した学校を多量に含む大学外高等教育機関とは,制度自体も異なるので,それらと対等の競争もできないようになっている。教育機関の質の保証は,大学に限らず,どのような教育機関でも必要なことなのだが,教育の質の競争が成立しない限りは,実現も遠いと言わざるを得ない。
大学や専門学校(専修学校),高等専門学校や大学校など,制度的に細分化された各高等教育機関は,所轄官庁が国と地方自治体という「縦」にも,別の省庁という「横」にも異なり,悪評高い縦割り行政と相俟って,内容が曖昧なまま制度区分が異っている。その結果,統計なども多種多様で現状を理解しにくい状態が継続している。例えば,文科省関係やマスコミなどで,「大学」が議論されるときは,文科省直轄の「大学と短期大学」だけがその対象となり,「大学進学率は50%程度だから,OECD加盟国に比べて進学率は低い」,などと国際比較にならない誤った理屈が展開されたりもする。実際には,日本の大学,短期大学,専門学校(専修学校)を含む高等教育全体への進学率は既に79.3%に達しており,これはアメリカとほぼ同等で,アメリカと同様に,「大学」というカテゴリーの中に,日本における短大や専門学校のような高等教育機関が含まれる韓国の72.5%を上回っている。高等教育全体への進学率は,国際的に観てもかなり上位なのだ。
専門学校(専修学校)は文科省生涯教育局の間接的管轄で地方自治体の直轄であることにより,文科省高等教育局は長らくこれを高等教育の範疇に入れなかった。今でも大学や短大を直轄する高等教育局の各種統計からは除外されることが多く,大学問題を議論するときの俎上に乗ることは少ない。明治以来の社会通念として,「専門学校」という呼称が確立されていたこともあり,法的には「専修学校は専門学校と称しても良い」とされている。しかし,これは,「当該学校がその正式校名として『○○専門学校』と称してもよい」という意味に過ぎないので,地方自治体の統計資料などには法的な名称区分である「専修学校」と記載されるのが常であるが,「高等専門学校」を直轄する文科省の統計資料には,「専門学校」と通称で記載されることが多い。文科省が公表している「平成24年度学校基本調査(確定値)の公表について」という文書には「大学の在学者は,287万6千人で,前年度より1万7千人減少。大学全体,学部学生,大学院生いずれも,長期的に見て増加傾向にあったが,前年度過去最高になり,今年度は減少した。専門学校の在学者は,57万8千人で,前年度より4千人増加。3年連続の増加となった。」との記載があるが,この「大学の在学者」の中には大学院や短期大学が含まれる。このように,海外の大学や国内の大学外高等教育機関である専門学校や大学校とは同じ尺度での比較が難しいので,大学制度の現状認識にすら難渋する。
所轄官庁の異同,もしくは縦割り行政による横の連携の無さや勢力争いの如きものは,日本の高等教育制度を解りにくくさせている原因のひとつである。高等教育機関の所轄官庁が中央政府内部でも地方政府にも散乱しているのは,高等教育学や教育行政学の見地からすれば,制度整備されているとは言い難いのだが,日本ではそれが現実の姿である。
日本の「大学」は,明治維新政府が設立した東京大学が最初である。1886年(明治19年)の帝国大学令に定められたその目的には,「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スル」とあり,帝国大学が国家目的に応じた教授・研究をするところであるという性格が法制的に定義された。東京帝国大学は,近代化のための職業人教育を目的とする,「国家ノ須要ニ応ズル」大学である「大学」と,「大学院」で構成された(1)。各分科大学は理論及び応用の教育機関で,法科,医科,工科,文科,理科の5つであった。大学院では専門職業人としての研究者を育成し,分科大学の法科は法曹関係の専門職,医科は医者,そして他の科もそれぞれ各分野の国家上級官吏の資格と直結していた。
大学院はアメリカが世界に先んじて発明した制度であるが,日本に大学院が出現したのは,アメリカに遅れることわずか10年程のことである。当時の日本における帝国大学の制度設計は,1862年のモリル法案による米国のランドグラントカレッジ(国有地公布大学)が創設の当初から工業技術や農業技術の専攻を設置することを規定していたことと呼応しており,ヨーロッパの古くからの大学や,米国のハーバードやエール,コロンビアなどの伝統的大学が,実用性よりも真理の探究,また人文的な教養を中核としていたこととは対照をなしていた。帝国大学に最初から工科分科大学が含まれたことと,追って1890年,農科分科大学が設置されたことは,まさに急速に近代化を進めるための社会改革の装置として高等教育システムが成立したことを示している。米国のランドグラントカレッジは伝統的な大学観を持つ人々からカウカレッジと揶揄されたが,大衆教育に大きく貢献した。そしてドイツでは科学を除く技術系の諸学問がヴィッセンシャフト理念故に大学の外に追われたが,それらは職業人教育機関として発展した。日本においてはトップエリート大学として帝国大学の名の下,工科や農科も,他の伝統的な学部と総合して設置されたのである。
このように,日本の帝国大学制度は,実は,専門職業人教育を意図して設計されたものなのである。バートン・クラークは,「東京大学を頂点とする帝国大学は学士課程で専門職教育が行われ,卒業後さらに学修を続ける者は研究中心のPh.D.ではなく,専門職学位の取得を目指した」と述べている(2)。一方で,博士プログラムは未発達のままで,いわゆる「論文博士と課程博士の制度的混在の問題」が証明するように,戦後も明確な制度整備がなされないまま推移した。帝国大学の擁する学生数は,常に同一年齢人口のごく数%でありトップエリートの集団であったので,専門職業人としての研究者は無論,医者や判事などの各種上級資格職の育成が可能であった。
この時代,国のトップクラスのリーダーを帝国大学で育成し,その次に位置する数校の私立大学や専門学校,特に私立専門学校は,より大量の中堅クラスの実務家を輩出し,それがそのまま,政治は無論,経済,工業,農業など,社会のあらゆる側面でヒエラルキーを構成した。明治維新政府樹立の1868年から僅か30年ほどで大学システムの原型が構築され,維新から50年で私立大学までを含む日本的教育制度が出来上がったのである(3)。このときの教育制度は,海外視察や外国から教育制度の専門家を招くなどして,欧米の先進国の教育制度を徹底して研究した上で全体設計されたものであった。そしてその教育結果が,後の第二次世界大戦へと突入していく国を挙げての結集力や,戦後の急速な復興の基礎となった。これは世界他国に例を見ない極めて賢明な政策であり,小学校から大学までを含む全体の教育制度は非常によくできた社会改革の装置だった。戦前の軍国主義教育を忌避する余りに戦前の教育制度までを否定する向きもあるが,元来,教育制度は社会改革や国の発展を招来する単なる装置・仕組みであるから,教育内容と混同すべきではない。もし,戦前の教育制度に共産主義教育を注入したら,日本は人類史上最強の共産主義国になっていたに違いなく,国家神道以外の特定宗教教育や反軍国主義教育を行っていたら,まさしく世界一のそのような社会になっていたことだろう。
敗戦直後にGHQは,民主主義と自由競争の高等教育制度を日本に成立させようとしていた。アメリカでは,「カレッジ&ユニバーシティ」として一括される学校群の中には,アイビーリーグのようなトップクラス私立や州立の総合大学から,州立や市立,私立の各大学,コミュニティカレッジ,そして日本における短期大学や専門学校(専修学校)のような高等教育機関,職業人教育機関,ほぼ全てが含まれる。それらの学校群は高等教育(Higher Education)としてひとつのカテゴリーの中で,州政府と連邦政府によって階層的に所轄されている。また,カーネギー分類などによる各階層別,地域別,分野別などに夫々区分され,各区分の中で明確な自由競争原理に晒されており,毎年ランキングが変動する。
よく知られているように,日本では戦後に大学になった多くの新制大学はもとより,明治期からあるすべての私立大学は旧制の専門学校であり,それらは元来,職業人教育機関であった。戦後のGHQの指導下で教育改革が実施されて,研究型大学の帝国大学や旧来の専門学校などが押し並べて大学となったのだが,そのモデルは,20世紀で最も成功したと言われているアメリカ型高等教育制度であった。
敗戦後のGHQの支配下で1946年(昭和21年)に,教育使節団(The United States Education Mission to Japan)が来日し,日本の教育の抜本的改革の勧告書を連合国軍最高司令官マッカーサーに提出した。同書には,日本の近代教育のための指針が示されていた。しかし,この基本案は実は日本製で,当時の東京帝国大学総長南原繁の組織する「日本側教育家委員会」の報告書として,事前に使節団と文部省に秘密文書として流されていたものであった(4)。アメリカ側に対する日本の主体的な対応は,戦後日本の教育改革が外圧だけではなく,内的に準備されていたことを示している。
米国教育使節団の勧告書に基づき,戦後の教育改革について審議するために内閣総理大臣の諮問機関として,上記「日本側教育家委員会」を改組拡充し1946年「教育刷新委員会」が正式に設置された。この委員会は米国教育使節団の勧告に沿ってすすめられ,教育基本法,学校教育法,私立学校法,教育行政の四項目を立案した。そして学校教育法が公布され,教育改革が具体的に制度化された。教育使節団は,戦前の帝国大学令における目的や存在意義を否定し,「高等教育を広く一般に開放するべきこと」,また「大学における一般教育の重視」を提言したが,それを契機に,戦前の「帝国大学」,「公立私立大学」,「専門学校」,「旧制高等学校」,「高等師範学校」,「女子師範学校」,「師範学校」,「青年師範学校」など八類型の高等教育機関をすべて統合して,単一の「大学」という制度に一元化することとなった。他方,戦前から続く「各種学校」は文部省直轄の大学制度には含まれず,地方自治体の管轄とされた。
同学校教育法には,大学の目的は,「学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展開させる」ことと定められ,高等教育を広く一般に開放して,一般教育を重視し,人間的教養を基盤として学問研究と職業訓練を一体化しようとするところにアメリカ的な特色があった。しかし,このうち「職業訓練」が,後に全く否定されることとなる。
1947年(昭和22年)7月,大学基準協会が発足した。これは戦前の制度で認可されていた大学47校のうち5年以上存続している46大学,即ち旧制の大学を公式な会員とした団体であった。同年12月,大学設置委員会が発足した。これは学校教育法第60条によるもので,文部大臣の監督下にあり,その諮問に応じて大学設置の認可及び学位に関する事項を審議するものとなっていた。これにより,大学設置委員会が文部省として認可の責任を持ち(チャータリング),認可後は,大学基準協会が大学の質を審査し判定する(アクレディテーション),というアメリカ方式が導入された。これはアメリカと同様に,全ての高等教育機関が同一の土俵で平等に競争し,互いに切磋琢磨して発展することが意図されていた。
ところが,すでに高い水準を持つという自覚を持っていた帝国大学を始め,その他の旧制有力私立大学の関係者は協力的ではなく,その新制度の趣旨は実現されなかったのである(5)。そして,大学基準の適用対象から,東大・京大の両旧帝国大学と,早稲田・慶應の両私立大学の4大学は最初から除外されることになった。すなわち「大学基準」は,新制大学の基準であって,「すべての大学を互いに審査する」という本来の発想は受け入れられなかった(6)。戦前の大学の権威序列が戦後もそのまま残ったのだが,ここに,単一制度である大学制度の中に「部分的例外を創った」という点で,戦後の大学制度設計のきわめて重大な過誤の始点があった。単一制度内に,当初から区別が内在すると制度そのものが成立しないこともある。GHQは帝国大学を頂点とする日本のピラミッド型教育制度を否定していたので,この結果をもたらしたのは,戦前から存在する旧制大学の権威たちであったことに疑いは無い。
一方で,敗戦直後から文部省の戦争責任を追及する声が高まっており,文部省を廃止し,代わって中央教育委員会(文化省)を置くという改革案が出されたこともあった。1948年(昭和23年)の国家行政組織法の改正とともに,中央行政機関である文部省については,翌年文部省設置法の公布があり,従来の指揮監督を行うものから,指導助言を行うものへと,その権限は大幅に縮小された。戦前の制度における大きな特徴は,文部大臣の教育制度すべてに対する監督権の大きさであった。戦前の文部省は,学校設置時における厳格な認可権,方法,手続き,手段などの基本的要件の要請,設置後の大学に報告の義務を課し,検閲,命令ができるなど,広大な統制権限を持っていた。この改革でそれらの権限は形式化され,大学監督権は喪失された(7)。大学監督権を喪失した文部省に代わって,旧制大学における権威者たちの勢力によって成る大学基準協会が,その「権力」を得たと言える。
そして,帝国大学や有力私立大学,専門学校,高等師範学校,師範学校など,八つの基本類型に分かれて,夫々に社会の各層へ専門職業人を輩出していた全国525以上の膨大な高等教育機関が,一元化された「四年制大学」へと再編成された(8)。
新制大学の設置は,1948年に大学設置委員会(翌年大学設置審議会と改称)の審査に基づいて認可された。1950年(昭和25年)には,学校教育法の一部改正により,戦前の専門学校や各種学校のうち,新制大学の基準に達しないものに対する暫定措置として,修業年限を2年または3年とする「準大学」として短期大学が置かれることとなった。ここでも,大学という単一の制度内に部分的例外が生じた。
数多くの新制大学の基になったのは旧制の専門学校などであるが,その中の多数派である専門学校は,特に太平洋戦争が始まったころから,乱立されていた。1935年に183校だった専門学校は,戦後の1947年には368校と2倍以上に膨れ上がっていた(9)。その間,増加した185校のうち80%は,1941年から1947年までに集中しており,その大半が医学,薬学,そして工業系の官私立専門学校で,特に女子医学専門学校(看護婦の養成)の増加が戦時体制を物語っている。中には軍需会社が工場設備の一部に併設したような小規模のものもあった。この新制大学への移行措置は,早稲田や慶応義塾が専門学校から私立大学として法制化された1918年(大正7年)の大学令のときに比すると遥かに大規模な制度改正であり,大量の新しい大学が生まれることとなったのだが,敗戦直後の混乱期であったこともあり,同大学令による大学基準は無論,戦前の専門学校令期の設置基準に比べても,かなり杜撰な措置であった(10)。特に,私立学校に対する大学認可は極めて杜撰で,私立学校では大学としての教員資格を満たすために,かつての専門学校教員が他人の論文を拝借したり,届出上の教授数と実数が食い違ったりすることなども多くあったという(11)。
この時点での私立「大学」への昇格は,単なる名義上の変更に過ぎず,実態は戦前の専門学校や各種学校に変わりはなかった(12)。法的には大学の地位を得ても,内実は戦前の専門学校どころかそれ以下の学校もあり,法律上の地位を得ながら中身の伴わない,いわば「名前だけの大学」が多く発生した。その一方で,新制大学はその設置基準により,教員資格に大卒者を求めたので,旧制大学の上位から順に卒業生が教員として採用されていった。1960年代になっても,国内の大学の教員の6割以上が,東大と京大の卒業生で占められていた。これらの大学の多くに,戦前,帝国大学の他,僅かの大学しかなかったときに生成した,学問の府としての「大学概念」が,学問の府の権威を背景に持ち込まれ,各新制大学は旧制研究型大学を模倣した。換言すれば,戦前の職業人教育機関が大学認可を得たことにより,大学制度全体としても,新制大学各校内部の組織文化においても,かつての職業人教育機関から「学問研究の場」へと転換していく強い力学が生じた。これに加え,戦前の専門学校内における「大学への憧憬」もその大きな要因となっていた。
戦前は大学院設置を許されていたのは帝国大学だけであったが,新制の大学院は,1950年に早稲田など私立の四大学に設置されたのをはじめ,1953年度には国公立大学にも多く設置された。新制大学のカテゴリーに入ることを自ら拒否した東京大学と京都大学,早稲田大学と慶応義塾大学は,戦前に築き上げられていた権威と多大な国庫補助を背景に頂点に位置し,明治初期から第二次世界大戦の前までに認可されていた大学47校の下に,戦後の新制大学が大量に誕生して,新制大学は旧制大学の下部構造を成した。それ以来,日本の大学はピラミッドの裾野に向かって拡大して大衆化が進むとともに,その制度的な位置付けと実態との関係は,最初から曖昧さを内在したまま,さらにそれが助長するばかりとなる。新制大学の誕生はアメリカ的民主主義に基づく大学制度が導入されたものだと誤解される向きもあるのだが,決してそうではない。「日本側教育家委員会」とその後継者たちのリードの結果,アメリカ型教育制度が中途半端な建前のように輸入されただけで,アメリカの高等教育モデルのような大学間の平等的競争は実現されず,戦前の国内制度ともアメリカの制度と比べても,部分的例外が大学制度の内外に存在する全く異質なものとなってしまった。戦前に確立されていた,職業人教育を主眼として構成された旧制度は確実に破壊され,卒業後就職する社会層の学生に対して,旧来の学問の府の権威によってその価値体系を押しつけ,職業教育を受ける権利を付与しないという欺瞞が公然のものになったと言える。トップエリート大学では,専門職業人としての研究者や国家上級資格職の育成は可能であるが,それ以外の大学でそれが不可能であることは自明である。この高等教育制度の改革により,戦前からある旧制47大学が東京帝国大学を頂点とする大学階層性を確固として維持したまま,その権威を証明する遥かに大規模な下位構造を得た。占領下では権威と権力は混同されたまま,結局のところGHQが意図していた,「高等教育機関の民主主義的競争原理」と「学問研究と職業訓練を一体化しようとするアメリカ的な特色」は全く実現されず,その一方で職業教育の重要性は滅失した。また,この頃導入された単位制度という概念は理解されないまま学年制と混交され,春入学もそのまま継承されることになったのである。
経済成長とともに四年制大学,短期大学への進学率は1960年代に飛躍的に上昇し,同一年齢層に占める大学進学者の割合は1966年には16.3%になり,数値上はマーチン・トロウのいうエリート段階からマス段階,即ち「大学の大衆化」段階へ移行した。戦後の専門学校である専修学校制度が施行された1976年には大学への進学率は39.2%となり,専門学校(専修学校)進学者を含めると,日本の高等教育進学率は70年代後半には49.6%に達し,殆どユニバーサル化に至ったのである。経済成長は激しく,国民は均質の中学校,ほぼ均質の高等学校から,皆同じように大学へと殺到するようになった。増加した進学者の大半は,卒業後就職を望む職業人予備軍であった。
この間,増加する一方の進学希望者を受け入れるための大学が数多く新設され続けたが,それは政府の積極的な文教政策・教育行政ではなく,戦後の新制度の下で,いわば無政策の政策で,政府は私立大学の新設をほぼ放任し,私学セクターの自由な拡大を許容することによって,極めて経済的に(国費を消費せず)国民の進学要求を充足させたのである。
経済成長とともに,戦後のベビーブームの要求にこたえるために,大学設置基準は1961年ごろには形式的なものになっていった(13)。また,審査対象の大学が実際には最低基準に達していなかった場合でも,大学設置審議会はとにかく設置を許可するようにたびたび勧告した(14)。そして,最低基準を満たした新制大学は半永久的に大学としてのステイタスを保障された。一旦大学認可を得てしまうと,志願者数は常に許容定員を上回り,経済成長とともに増加する一方の進学者を受け入れていただけで,企業人が言うような「経営努力」の必要性は全く無かった。「大学」でありさえすれば,志願者が殺到し,学年制度に基づく定員規定によって溢れた学生は入試によって,増加を続ける下位大学に吸収された。言うまでもなく,これは大学間競争ではない。研究型大学を模倣した新制大学内部では研究に重点を置きすぎて現実が無視され,卒業後就職を希望する学生に対して,学問の府としての権威に基づいて実用教育・職業教育は放棄された。そのような組織的自己欺瞞は,外的要因としてはその制度の推移により,内的要因としては各大学の組織文化により,増殖していったと言える。
永井道雄は「1960年代の高度経済成長期には,十分な計画を伴わず,粗末な大学が増設され,他方,東京大学を頂点とする階層性は,高校以下の教育に過当な競争をもたらした(15)」と述べている。予備校などの受験産業の影響もあって,大学偏差値ヒエラルキーは,頂点はそのままで下部構造が順に構成されて裾野が拡大するという結果になった。
この現象は,「あらゆる大学が大衆化した」のではなく,「大衆向けの偏差値が下位の大学が増設された」ということである。欧米における「大学の大衆化」,即ち,「国民が望めば誰でもどの大学でも学べる」ということとは意味が異なる。現代においても,東京大学や京都大学への国庫予算は夫々2000億円,1000億円という規模であり,進学者の親の平均年収は一般のサラリーマンのそれを遥かに超えており,トップクラス大学は決して大衆が行けるレベルではない。その一方で国庫補助金が無いに等しい私立大学も珍しくはなく,私立大学は学費も高い。日本の高等教育制度は,戦後占領下でGHQが求めた教育制度とはかけ離れたものになっている。
1973年のオイルショックまで,好調な経済成長の影響で大学が急増したが,1960年代末の学園紛争,マンモス私立大学の出現,私立大学の大都市集中,水増し入学,私立大学の平均的な教育条件と質の低下など,弊害が続出した。そして1980年代の大学のレジャーランド化,1990年代の短大衰退へと至る。その後,平成になってからも大学数は増加し続けて,2012年度で780校に上る。その中には四年制に改編された元短期大学が大量に含まれている。
このように,戦後の大学制度下の学校群は数量的には拡大を続けながら,教育的には空洞化が進んだと言える。実のところ,戦後日本の大学制度は,教育行政学的に全体設計された訳でもなく,アメリカの高等教育のように自由競争原理で切磋琢磨する制度にもならず,社会全体や制度全体を考慮しない権威者や権力者たちに引きずられるまま,ただ歴史に翻弄されてきたのである。
前述したように,文科省直轄の短期大学は,明確に制度設計されたものではなく,戦後の制度改革の時点で,四年制大学の要件を満たせない各種学校や専門学校に対する事業体生き残りのための暫定措置として生成した制度であった。短期大学は理想としてはアメリカのリベラルアーツカレッジに倣おうとしたが,「男子は四年制大学,女子は二年制の短期大学」という,女子教育を低く見る傾向が根強かった社会思潮が主な要因で,大半は女子の教養教育主体のいわゆる花嫁学校として定着した。制度施行後の長期に渡って大学への編入が不可能であったが,1995年から,短期大学は高等専門学校と共に,大学へ編入することが可能となり,学士課程や大学院に進学する道も開かれた。
しかし,増加する専門学校(専修学校)の陰で,バブル崩壊後の1992年(平成4年)頃をピークにして短期大学進学者数が減少しはじめ,ピーク時には全国で593校に達したが,2012年時点で373校と大幅に減少した。工業系短期大学の中には,求められる教育を実現して今も隆盛なところが数校あり,高等専門学校に合併吸収されたものもあるが,多くは,教養教育主眼で職業人教育とはほぼ無縁であったまま,四年制大学へと改編されていった。また,男女同権の風潮に合わせて,多くは共学化したのだが,「女子短期大学だと学生を確保できない」という現実への対応策が主で,教育哲学の時代精神への対応と言えるものは少ないように見受けられる。従来の二年制の女子教養教育機関が,男女共学化し四年制大学に「格上げ」されるというのは,教育理念と異なる理由,つまり現実的対処を根拠に組織の制度上の位置付けが変わるという意味では,かつての「短期大学の制度化」と同じ轍を踏んでいるように見える。短期大学は,大学や大学外高等教育機関を比較概念にしながらも,その概念規定に乏しいまま,新制大学の大衆化とともに一時期発展して,その後,男女同権化の社会思潮とともに衰退していった,曖昧な制度である。
ここで留意すべきは,短期大学が四年制大学に改組されても,その学校文化は根強く残るという現実である。職業人教育とは無縁だった教養教育機関が,制度上の位置づけが変わっても,その旧来の学校文化を転換することは容易ではない。これらの学校群が,大量に大学制度の中に流入したことは,いわば「大学制度下に職業人教育の経験に乏しい大学が増えた」訳である。短期大学の誕生から衰退までの推移が外的要因に留まるものではなく,この現象が現在の大学制度が抱える問題の一因となっているとすれば,明確な制度設計に欠ける現実への部分的対処が,後々まで禍根を残すことの証左のひとつとなろう。
次に,戦後の職業人教育の系譜を観てみよう。現在,大学外高等教育機関としては,高等専門学校,専門学校(専修学校),そして大学校がある。
戦後すぐに実用教育・職業教育,あるいは職業人教育への要求が顕在化した。1948年の新制大学の設置,1950年の短期大学制度化の後,実際的な専門職業教育や中堅的社会人養成への要求を反映して,1958年に「専科大学法案」が国会に上程された。翌年の「教育制度の改革に関する答申」と同時に示された大綱には,「職業教育を行う五年制の専科大学の設置」が挙げられている。これに基づき,職業教育に重点を置いた五年制の教育機関の設置が答申された。
日経連など,経済団体は中級技術者の不足を問題視しており,日経連の技術教育委員会の要望意見には,「戦前については初級技術者は工業学校卒,中級技術者については工業専門学校卒,上級技術者については大学卒をもって,それぞれ充てられていた。しかるに戦後は,工業専門学校がすべて大学に昇格したため,工業高校卒は将来の初級技術者として,大学卒は将来の上級技術者として採用され,中級技術者となるべき者が空白の状態になっている」とある(16)。そのため「専門職業教育機関の実を備える」「高校の課程を合わせて五年とする専門大学」を設置する改正法案が出されたが参議院で審議未了のまま廃案となり,代わって工業教育を主体とする「高等専門学校」を創設する方針となった。中教審はこの問題を大学と切り離して結論を急ぎ,学校教育法は一部改正されて1961年に公布され,追って高等専門学校設置基準が制定されて,1962年度から新しく高等専門学校制度が発足した。法案が「専門大学」から「専門学校」に変化しているところに留意されたい。政府は,新制大学の制度とその教育内容を見直すことを忌避し,教育制度全体から見ると部分的対処として,別の新制度を創出したのである。背景には,専門大学制度に反対する勢力が伺える。専門大学が併設されると困るのは,旧制大学の下部構造をなす,かつての職業人教育機関,即ち旧制の専門学校であった新制大学である。
学校教育法には新しく「高等専門学校の目的」は,「深く専門の学芸を教授し,職業に必要な能力を養成する」と定義され,中学校卒業者を入学資格とする5年の一貫教育を行うものとされた。前述のように,「大学の目的」は,「学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展開させる」と同法に定められている。これらを鑑みると,この別制度の出現により,新制大学を含めたすべての大学が,「職業人教育をしなくてもよい」ということが,法制的にも成立してしまったと言えなくもない。大学制度の外に,本来求められている機能を創ると,大学制度の中の空洞化を招くことになり得る。
ここで,戦後GHQの指導下で一元化された6・3・3制度は再度複線化した。高等専門学校は,各都道府県に国立学校を最低一校という原則で,国立が大半を占めて55校,公立4校,私立3校が設置された。中学校卒業時にその年齢の少年が将来の職業の方向性を定めることは困難であるという現実があり,大学志向の普通高校の滑り止めとして機能したこともあって,高等専門学校はあまり発展しなかった。なお,この学校群は「高等専門学校」の名が示すように,戦前の専門学校の再来を予感するものがあり,国会答弁でも「新しい専門学校」と呼称されたりもした(17)。しかし,すでに,職業のための教育機関である「各種学校」が多く存在し,それらは社会的に「専門学校」と呼ばれていたため,社会一般には,「高等専門学校」は略して「高専」と呼ばれた。政府が設計した制度は,国民に受け入れられなかったのである。
その後,高等専門学校があまり効果を生まなかったので,産業界からのさらなる批判があり,1975年(昭和50年)7月に,新しく専修学校が法制化され,戦前の「専門学校」の民営下での再来を期すことになった。戦後の「専門学校」は,従来の各種学校の制度をさらに高度化するものとして,法的には「専修学校」という正式名称を掲げ,「職業もしくは実際生活に必要な能力を養成し,または教養の向上を図ることを目的として」,「組織的な教育を行うもの」と定められた。これは文科省の直轄ではなく地方自治体の管轄下で,各種学校の上位に位置づけられた。その結果,翌年から全国に専門学校(専修学校)が多数設置された。これは,社会一般に「専門学校」と呼称され,進学者数や校数も増加して制度施行から10年で短期大学への進学者数を超えた。専修学校は,戦後の昭和の中では,最も成功した教育制度である。
専門学校(専修学校)は法制化された後,景気変動に左右されながらも一定の学生数を確保しながら増加し,大半は小規模校だが校数は約3300に上る。1998年(平成10年)学校教育法が改訂され,短大と同様に,専門学校(専修学校)から大学への編入学が公式に可能となった。これにより大学編入に特化する学校も現れて,それらが大学への編入を謳う短期大学を凌駕している。また,2005年から高度専門士称号が制度化され,その授与権を持つ四年制の専門学校(専修学校)から大学院へ進学できるようにもなった。そして,人事院勧告の卒業後初任給も,短大や大学と同等になった。国民にとっては,一般の大学と同等の比較対象となっている。
18歳人口が減少している中で,過去3年間の専門学校(専修学校)への進学者数は増加傾向であり,ここ10年の間でも,常に18歳人口の2割前後が進学している。さらに,文科省直轄の大学,短大,高専の卒業者が,例年少なからず入学している。文科省直轄でないところから補助金もほとんどないかわりに,規制をあまり受けないため,自由な教育体制をとることが可能であり,高等教育制度の中では最も自由競争原理が働いている。
他方,「大学校」は,文科省管轄外の学校として実態があるにもかかわらず,法的な位置付けが無いまま現在に至っている。「大学校」を規定する法令がないため,「大学校」が行う教育訓練内容を規定する法令も「大学校」の名称の使用を制限する法令もない。専門学校(専修学校)の制度が成立したことに比すると,「大学校」という制度が無いままま現在に至っている。1991年に学位授与機構が設立され,文科省以外の各省庁が管轄する特定の大学校の卒業生に対して,学位を授与することが可能となった。それまでは文科省(文部省)が学位授与権を管轄するので,他の官庁はそれを授与することができなかったのである。そのように制度的には多少は補完されたのだが,学位授与機構による対処施策も,高等教育全体においては,局所的対処で部分的解決が図られたものと言える。
大学校は高等教育学や教育行政学の観点からすると極めて曖昧な学校群であるが,現実には,防衛庁管轄の防衛大学校や防衛医科大学校,国立看護大学校などのように学士号と修士号の授与権を持つところから,海上保安庁の海上保安大学校や気象庁の気象大学校など学士号だけの授与権を持つところ,さらには地方自治体が設置する専門学校(専修学校)で専門士や高度専門士の授与権を持って,正式校名として「大学校」を名乗るところ,他には,「大学校」を名乗る都道府県直轄の私立専門学校(専修学校)や私立各種学校など,多種多様な教育機関が存在する。文科省以外の官庁が設置する大学校は,各官庁が定める国家資格の教育と連動しているので,教育の質がそれなりに保証されているが,これらの学校群は所轄官庁が各省や各自治体と多岐に渡り,統一された施策もないので,社会的には玉石混交と認識されている。その意味では,基本的に自由競争原理が働いており,制度化されていないこともあって,同じく自由競争下にある専門学校(専修学校)と共に,「質の保証」は,さほど大きく問題視されていない。
2003年(平成15年)には,高度な専門職業人育成のための専門職大学院制度が施行された。その元となった2002年8月5日の中央教育審議会答申には,「これまで,我が国の社会においては,米国のプロフェッショナル・スクールのように高度専門職業人養成に特化した教育を行う大学院設置に対するニーズが必ずしも高くなく(18)」とあるが,これは,戦後の大学教育に失望した社会が大学院に期待するまでに至らなかったことを図らずも証明している。また,専門職大学院制度の内,法科大学院については,当初の制度設計は,法曹界の人材不足に対処するために,卒業すれば弁護士登録できるようなアメリカ式のロースクールを目指していたのだが,弁護士が安易に増えると困ると考えた法曹界が反対したため,その後制度が改変された。また,教職大学院も設置されたが,教員採用や校長免許とは連動していない。
このように歴史的背景を鑑みると,昭和の戦後すぐの頃の高等専門学校制度,中期の専門学校(専修学校)制度,そして平成の専門職大学院制度の施行は,いずれもが「大学による職業人教育の不能」に対する「部分的対処」であることが見えてくる。また一方,法科大学院制度の失敗のように,厳格な国家資格試験がある業界では,その業界への現実的対処の結果,教育制度自体が壊れることもある。
これらの問題の原因は,戦前の帝国大学における日本的アカデミア礼賛主義が浸透し拡大していった新制大学に見出され,また同時に,新制大学に職業人教育を放棄させ続けたという点では,局所的対処や部分的解決の結果である大学以外の学校群に帰される部分もある。戦後の教育行政は全体的な制度設計もなく,既得権益に振り回されてきた。大学全体が職業人教育を放棄した結果,大学自体の就職指導能力が欠如して,大学の外に生まれた大学外教育機関がその能力を磨くこととなった。その影響も多大に受けて,大学の質が問われるようになった。制度における部分的対処は,このように制度全体の内的破壊をもたらすこともある。教育制度の抜本的改革は,決して部分的対処で成功するものではない。
ここで,アメリカの職業人教育を担うプロフェッショナル・スクールについて少し触れておく。アメリカにおいては,近代のプロフェッショナリズム(専門職業化)の進展とともに大学教育が充実し,大学はアカデミックな研究と研究者の養成を行う機能を果たすと同時に,他方で専門職業に関連した知識・技術を生み出す拠点ともなった。アメリカ社会が発展し専門職業化が進むにつれ,プロフェッショナル・スクールと専門職業はより密接に結び付き,今日においては,アメリカの大多数の総合大学にはロースクールやMBAプログラム,メディカルスクール(医大)などのプロフェッショナル・スクールが併設されて専門職業人を育成しており,プロフェッショナル学位の価値も確立されている。
専門職業人養成のための教育はその規模においても研究者養成の教育を凌いでおり,大学全体の教員数の中で,プロフェッショナル・スクールの教授陣は,実に60%以上を占め,そういった教員が関わっているコンサルタント業務の数や,産業界などから得る研究・教育資金も多大なものとなっている。研究者養成と専門職業人養成は,アメリカにおいては「大学の教育活動の両輪」であり,研究型大学院とプロフェッショナル・スクールの教育目標,教育内容には歴然とした区別が存在し,卒業生の進路にも明確な違いがある(19)。
研究型大学院の教育目標は研究者の養成であり,少数であろうと極めて優秀な研究者を輩出することにある。これに対し,プロフェッショナル教育(専門職業教育)は,適性資格のある専門能力を持った人材を質・量とも十分に供給せねばならない。高品質を保った多数の人材を供給するためには,異なる出身学部(異なる専攻)であろうとある程度多数の学生を確保して,短期間に同程度に,職業に必要な知識と技能が身につくような教育を行わねばならない。ここが日本で主流である研究型大学院と大いに異なるところである。アメリカのプロフェッショナル・スクールは狭義では大学院レベルを指すが,専門職業人育成のための博士課程も存在する。広義では,学部レベル,ジュニアカレッジレベルでもプロフェッショナル・スクールは存在する。また,全米各地に多数あるコミュニティ・カレッジでは,研究型大学と同等の教養科目群だけではなく,それ以上に職業教育の科目群が多岐に渡って開講されている。
そして,世界で一番発達したと言われるアメリカの高等教育は,教育のプロフェッショナル学位の制度とともにある。アメリカの教育大学院では,高等教育,教育行政や学校経営,教育アドミニストレーションの関連のプロフェッショナル学位が多種あり,例えばカリキュラム設計の博士号が無ければ就けないポジションもある。州によって異なるが,大学の学長や学校の校長になるには「学長・校長免許」が必要であり,そのための履修科目には,高等教育学や教育行政学,学校経営学,制度分析,政策分析,他には組織行動学などがあり,マーケティング理論や財務会計などのMBAプログラムの一部も含まれている。それらの教育分野のプロフェッショナル学位ホルダーたちは,自大学の経営を担い,教育制度設計を行い,市や州の教育委員会や他の教育関係組織でその職を担い,大学間で相互評価を行って,熾烈な大学間競争をリードしている。自大学のランキングが下がるとアドミニストレーターたちが,学生を集めて謝罪するほど,意識の高いプロフェッショナルたちである。日本における文科省のような省庁の無いアメリカでは,各大学の専門家たちが民主的にその制度を維持・発展させている。
また,アメリカにおいて確立されたアクレディテーションの制度は,各分野の専門職業人教育の質を担保するようになっている。日本では近年認証評価の制度が取り入れられて,これをアクレディテーションと誤訳する向きもあるが,アメリカのアクレディテーションは,原則的に大学間の相互評価のシステムであり,専門職業人教育においては,専門職業団体が参加してそれを行う。
2008年(平成20年)5月,文部科学省高等教育局長から日本学術会議に対して,「大学教育の分野別質保証の在り方に関する審議について」と題する依頼が出され,日本学術会議は審議を行った。その回答から注釈文を引用しておこう。
「米国の分野別アクレディテーションの大半は,専門職のアソシエーション(専門職能団体)が,専門職の養成課程としての大学の教育プログラムの質を認定するものである。これは同時に,当該教育プログラムを修了した者が,アソシエーションの構成メンバーたり得る適格性を有しているかを認定するという性格を有しており,この点は,分野別アクレディテーションとは区別される地域別アクレディテーション(Regional accreditation)においても同様である。即ち,地域別アクレディテーションにおいては,認定の対象とされる機関としての大学全体が,アソシエーションを構成するメンバーとして適格性を有しているかどうかを判断するのであり,この点で日本の認証評価制度とは本質を異にするものと言えよう(20)。」
アメリカの職業人教育のシステムと比較すると,日本には解決すべき問題が多く残っている。
アメリカの「カレッジ&ユニバーシティ」の単一制度内においては,コミュニティカレッジからトップクラス総合大学への編入が可能であり,その教育の質という点で,コミュニティカレッジは他の四年制大学と全く平等な競争環境にある。対して日本では,文科省管轄外の専門学校から大学編入や大学院進学が可能になったことと,大学外高等教育機関である大学校に学位授与の仕組みができたことなどにより,大学や短期大学と競合する文科省管轄外の大学外高等教育機関が公式に成立している。その結果もあり,「大学」という単一制度下の学校群を,多くの大学外高等教育機関が取り巻いて,進学者確保の競争が生じているのだが,夫々制度が異なるので,教育の質だけで平等に競争できるような同一の土俵が成立しない。高等教育全体の中で同一の基準で競争が成立するならば,大学は大学外高等教育機関とともに切磋琢磨して質の向上が図られるのだが,大学は偏差値ヒエラルキーでピラミッドが構成されている一方,競合相手の専門学校や大学校はほぼ自由放任といえる自由競争状態である。この状況を観ても,大学に関する諸問題は,数多ある高等教育機関の中の大学という制度下だけに留まるものではなく,高等教育全体の問題であることは明らかだろう。
アメリカのように「カレッジ&ユニバーシティ」という単一のカテゴリーとして,ひとつの制度下に置かれたならば,日本の高等教育制度の混乱も助長されなかっただろうが,大学制度の例外としての短期大学,そして高等専門学校,さらに職業人教育機関としての社会通念にある専修学校(専門学校)や大学校などの対位概念が次々と発生してしまったからこそ,フラッグシップたるべき「大学」は他の制度下の教育機関と比較して「排他的」に,「職業教育の場ではなく学問・研究の場である」という建前に収斂していったと言える。
明治維新直後の近代制度の発足時には職業人教育の重要性を理解し,欧米の伝統的大学に先んじてそれを制度化していたにもかかわらず,戦後の職業人教育は,戦前の帝国大学から継承される日本的アカデミアの美名の下に,研究職の専門職業人が大学制度をリードして支配し,他の分野の職業人教育は雲散霧散してしまった。だからこそ,大学外高等教育機関である高等専門学校,大学校,専門学校(専修学校)や各種学校がこれを補完せざるを得なかった。日本では,企業内教育が発達していると一般に言われるが,それも,教育行政の過誤によって企業が大学教育に期待を失った歴史的結果である。もし,卒業後職業人となるような「大衆」に対して,日本の新制大学が職業人教育を完遂していたら,このような状況にはならなかっただろう。
実社会での職業経験に乏しい大学の研究者たちと官僚たちが中心になって,戦後の教育制度を創出し維持してきたことにより,GHQによる改革で旧文部省直轄であったすべての高等教育機関が,戦後,一時は単一制度下とはなったものの,その内部では旧帝国大学を頂点とするヒエラルキーを確立した。それにより大学間の競争原理が働かず,また,職業人教育は滅失した。戦後の職業人教育に対する産業界からの要求には,制度全体を観ない部分的対処として,大学外高等教育機関が文科省以外の省庁や自治体の管轄下に多数生まれることとなった。現在の高等教育制度は,戦前とは全く異なる形態でありながら,アメリカの「カレッジ&ユニバーシティ」のような単一制度ではない。文科省の管轄する高等教育機関とそれ以外の省庁や自治体の管轄する大学外高等教育機関が併存しており「複線化」している。さらに,それらを全て俯瞰する監督省庁も無ければ,平等の競争も成立しないという,きわめて歪んだ状態なのである。これは各教育機関にとっても好ましい状態ではないばかりか大きな社会的損失である。
戦前は文部省が強権を有して教育行政を司っていたので,帝国大学内にその必要性がなかったのだろうが,戦後も長らく日本の大学には教育行政や学校経営の実務家育成の学部や専攻は設置されなかった。戦前の師範学校や高等師範学校は戦後教育大学となったが,教員養成を主目的としたまま,中央政府と対立する団体の巣窟と揶揄されるようなこともあった。教育制度のリーダーシップに関しては,教育行政学や高等教育学,大学経営学などの分野の学位ホルダーが極めて少ないのが実情で,自らの特定専門分野においての学識経験者が,専門外の分野である高等教育学や学校経営学にあまり明るくないまま,その任に就いていることが多い。独立行政法人化されたとしても,国立大学にとっての経営の競争は主として国庫予算の取得競争を意味する。私立大学の理事長,学長は大学経営・運営の実務者・経験者だといっても,偏差値ヒエラルキーで自由競争の無い制度の下では,企業経営と同等の意味での経営は成立しないので,競争的な経営実務の経験に乏しいのは否定できない。実際に日本の大学間には,アメリカのようなランキング・レイティングの競争が殆ど無い。
研究型大学における諸学問の「権威」であることや,「良い教師」であること,また,実社会での「有識者」であることなどが,そのまま,「教育学の専門家」を意味する訳ではない。また,「大学の権威」や「政府の権力」と,「教育制度設計や教育行政の専門家」の夫々は全く意味が異なる。「長らくその要職に就いていた」ことが即ち「専門家」を意味する訳でもないだろう。日本では権威と権力が混同されることが多く,専門家がいないときには有識者という言葉が横行する。旧制大学の既得権益が拡大し,他の様々な既得権益への配慮と部分的対処に終始してきた戦後の教育行政と教育制度の変遷の中には,本質的に要求に応えることのできた「専門家」はきわめて少なかったと言えよう。これは例えると,「場当たりの部分的対処とその結果」の,「設計士のいない建築」,「SEのいないプログラミング」,「監査能力のない観察」のようなものではないだろうか。
複数の高校や複数の大学を卒業する人は稀であるから,人は自らが卒業した学校を基準にして学校というものを判断する。そうすると,あらゆる学校や大学を客観的に観察して,対処する実務的能力が必要となるが,当然ながら,そのためにはそれなりの専門知識の習得と専門能力の訓練が求められる。権威や有識者という言葉に紛らわされずに,専門家とは何かということを検証すべきであり,まずは専門家の育成から始めなくてはならない。明治初期のように海外から招聘してもよいだろう。全てを含んだ教育制度の全体設計が必要である。
近年になって漸く,アメリカ型の専門職教育が提唱されて専門職大学院制度が施行され,大学院修士レベルで職業人育成の制度が成立したこと,中教審で高等教育のグランドデザインが検討されるようになったこと,大卒者の就職難という現実の下で大学の「教育の質」の保証が声高に叫ばれていることなどは,我が国日本の高等教育における歴史的転換の前兆である。アジア各国から日本経済は成熟していると言われるが,日本の教育制度は未だ成熟しておらず,まだまだこれからだ。取り巻かれる大学外高等教育機関や海外の大学制度をよく比較分析して,十分な見識を持って教育制度全体から問題を解決しようとすれば,ある程度は解が見えてくるように思う。冒頭に述べた東京大学の秋入学問題については,戦後すぐのときの,東京帝国大学総長南原繁の組織した「日本側教育家委員会」のリーダーシップがもたらしたような,制度混乱の一因にならないように願うばかりである。
その他については拙稿
Japan's System of Post-Secondary Education,Teachers College, Columbia Univ, 1999. http://www.kcg.ac.jp/edu/hst_e.html