2009年7月22日に待望の皆既日食が起こりました。前回わが国で見えた皆既日食は46年前,しかも早朝の知床半島でしたから,ほとんどの人は噂だけで見ていません。次に日本国内で見える皆既日食は26年後ですから,今年は千載一遇のチャンスだと多数の天文研究者,天文愛好家は奄美大島へトカラ列島へ中国へ向かいました(図1)。京都でも食分0.8の大日食でした。でも悪天候でがっかりでしたね。図2は奇しくも晴天に恵まれた硫黄島付近海上で撮られた貴重な皆既像です。
母なる恵みの太陽が白昼消えてしまう皆既日食は古代の人々にとって驚異であり脅威でした。古代オリエントにあったメディアとリディアは交戦中に不意に起こった日食を天の怒りと思い戦いをやめたそうです。これは前585年5月28日の日食であり,実はタレス(前624年 ~前546年頃)が予言していたと言われています。これはまぁいいとして,古代中国の夏王朝第4代仲康の時代(この王朝の実在は未確認だが紀元前20~19世紀ころか?)では日食予報をサボッた義氏と和氏という天文官がクビ(罷免ではなく死刑)になったとか,恐ろしい話が伝わっています。天文官たるもの,命がけで計算して予報を出さねばならず,星空を楽しむ余裕はなかったようですね。
日食の周期を発見したのは紀元前7~6世紀ころバビロニア(別名カルディア)の占星術師でした。その周期は6585と約1/3日(約18年10日8時間)で,今日サロスの周期と呼ばれています。サロスの周期ごとに太陽と地球と月が相対的にほぼ同じ位置に来るため,日食または月食は1サロス後にはほぼ同じ条件で起こります。ただし1/3日という端数のため地球上で1/3日の時差(経度にして120度)の地点に移ります。そして3サロス(54年1ヵ月)後にはまたほぼ同じ地点で見られるのです。こんなことをバビロニアの占星術師はどうして知ったのでしょうか? 星座の起こりもバビロニア,彼らの天文学はギリシア,インドそして全世界へ伝わっていきました。
今回は天気が悪くて見られなかったが,次の皆既日食は26年も待たなければならないのかという質問は多数受けました。日食とは月の影が地球に落ちる現象ですから,実はほぼ毎年(時には2回)起こっています。ただし地球表面の約7割は海ですから地上に,ましてや狭い日本列島に影ができることはまれです。日食地点はいつも西から東へ移動していきます(図3)。来年は1月15日に金環食が,7月11日には皆既食が起こりますが,どちらも日本からは見えません。2012年には,5月21日には金環食が,11月13日には皆既食が起こります。金環食は皆既食のようにコロナやダイアモンドリングは現れないので,見劣りすると言われますが,そうでもないでしょう。わが国では朝7時半ころ南九州から関東にかけての各地で見られます(図4)
この金環食を見るには東が開けた所がいいでしょう。わずか2分足らずですが黒い日輪を眺めるには,伊勢志摩あたりから熊野灘をバックにするまたは,比叡山頂から琵琶湖を眼下にするのがオススメです(図5)。これより3サロス前の日食は1958年4月19日の金環食で,読者の皆様の中にはご覧になった方もいらっしゃるでしょう。筆者には子供のころ,うす暗くなった校庭で見たような朧な記憶があります。ともあれ54年ぶりの大金環食となります。
わが国で見られる次の皆既日食は 2035年9月2日に能登半島から北関東を横切る地帯で見られます(図6)。午前10時ころですから日帰りで見に行けます。また全国ほとんどの地域は部分食とはいえ9割も欠けるはずです。その2年後の10月25日の金環食も京都から眺められます。21世紀の皆既食金環食はその他にもいくつかありますが,京都にいながら大日食を眺められるチャンスは2012年,2035年,2041年の3回で,これらは今年7月22日の日食より大規模になるはずです。
なお,今後数百年間,京都では皆既日食は見られません。
年 月 日 | 種別 | 皆既金環地域 | 食分 |
---|---|---|---|
158年7月13日 | 皆既 | 若狭湾~伊勢湾 | 1.00 |
522年6月10日 | 皆既 | 対馬,山陰,北陸,北関東 | 1.01 |
975年8月10日 | 皆既 | 図7 | 1.00 |
1742年6月3日 | 皆既 | 北海道と関東以外 | 1.00 |
1852年12月11日 | 皆既 | 山陰,近畿,東海 | 1.00 |
1918年6月9日 | 皆既 | 鳥取 | 0.87 |
1943年2月5日 | 皆既 | 石垣島 | 0.82 |
1948年5月9日 | 金環 | 礼文島 | 0.82 |
1958年4月19日 | 金環 | 種子島~伊豆諸島 | 0.87 |
2009年7月22日 | 皆既 | 上海~トカラ~小笠原 | 0.81 |
2012年5月21日 | 金環 | 図4 | 0.94 |
2035年9月2日 | 皆既 | 図6 | 0.94 |
2041年10月25日 | 金環 | 若狭湾~東海 | 0.93 |
2042年4月20日 | 皆既 | 太平洋上 | 0.82 |
2063年8月24日 | 皆既 | 津軽海峡南北 | 0.79 |
2070年4月11日 | 皆既 | 太平洋上 | 0.87 |
2074年1月27日 | 金環 | 鹿児島 | 0.91 |
2095年11月27日 | 金環 | 中四国 | 0.91 |
過去2000年間,京都で9割以上も欠けた日食は多数ありますが,皆既日食は5回しかありません。そのうち最初の2回(158年,522年)は記録がなく,4回目と5回目は江戸時代です。3回目は平安時代で,山陰から関東まで皆既帯に入りました(図7)。歴史書『日本紀略』によると,円融天皇の時代,天延3年7月1日(=975年8月10日)のことで「如墨色無光,群鳥飛亂,衆星盡見」と書かれています。鳥が群がって飛び乱れ,たくさんの星が見えたとは当時の都人はびっくりしたことでしょう。当時は安倍晴明が天文博士の任にあって活躍していたころですから,この文章はきっと彼の部署で書かれたものでしょう。陰陽師とは妖しげな占師や超能力者ではなく,きちんと天文現象を観測記録していた専門技術者なのです。
247年3月24日とその翌年9月5日の日食は日本古代史に重要なヒントを与えてくれ,わが国古代史上最重要日食といえるでしょう。前者は図8のようにアフリカから朝鮮半島まで,中国(魏)の洛陽や長安では夕方,皆既が見られましたが,わが国ではすでに太陽が沈んだ後でのことです。しかし部分食は日没前に始まり,その欠け具合は西にいくほど大きいのです。近畿では日没時に半分強ですが,北九州では7割くらい欠けます。地平線近くで欠け始め,細くなりながら没する太陽,明日はもう昇って来ないのではないかという不安を駆り立てる壮絶な光景です。一方,後者の皆既ゾーンは図9のように能登半島から北関東さらに太平洋上に長く延びています。中国ではまだ夜明け前,朝鮮半島では低空の東天,この皆既日食が見えた陸地は地球上で本州だけ,ですから記録は世界中どこにもありません。太陽が欠けていく過程は見られず昇って来たときにはすでにやせ細った状態,そしてすぐに復円が始まり,7時にはすべて終了します。近畿でも九州でも太陽は9割欠けます。この日食の後半の過程を見た当時の人々はきっとホッとしたことでしょう。もしあなたがこれら2つの日食を眺めたとしたらどのように感じますか?
これらの日食は現在PCで再現できますが,記録伝承には残っていないでしょうか?
日食そのものの記載はありませんが『古事記』,『日本書紀』には有名な伝承があります。
アマテラスは弟スサノオの乱暴にほとほと手を焼き,天の岩屋戸に籠もってしまった。日の女神が隠れたのだからこの世は真っ暗になった。困り果てた神々は協議し,安の河原でとんでもないどんちゃか騒ぎを開いて彼女を引き出した。
これの意味するところはまさに日食です。天の岩屋戸事件は日食をもとにした伝承に違いないということは,江戸時代いやもっと以前から知られていました。また3世紀前半のわが国のことを記した『魏志倭人伝』によると
邪馬台国の女王ヒミコが没し,後継の男王が立ったが互いに争い,内乱状態となった。そこでトヨという少女を女王に推し立てて争いは収まった。
前年3月の日食はヒミコの死・アマテラスの岩屋戸隠れを,翌年9月の日食はトヨの擁立による平和回復・アマテラスの再出現による世界の復活にふさわしいように見えます。前年3月の日食は邪馬台国の人々に凄惨壮絶な記憶をもたらしたでしょう。邪馬台国はどこにあったか,ヒミコは誰かということについての調査研究は,300年前の新井白石に始まり,さまざまな説が立てられ,大和・北九州のみならず国内各地から,はるかジャワまでの無数の候補地があるそうです。所詮『魏志倭人伝』の短い文章の解釈だけで推察するにはネタ切れで,もう新説は難しいでしょう。しかし天文計算という新たな手段を使えば「日食がよく見えた北九州」にあったとする説が有利になります。
アマテラス伝承の元になった日食の候補は多数あり,その特定のための議論は100年以上も続いていますが決め手はないようです。では,どれかひとつに限るのではなく,複数の大日食の記憶が重なり合った結果と考えたらどうでしょう。上記の2つの日食の後,記紀の成立するまでの大日食の中で,特にスゴイのは454年8月10日(倭の五王の時代)と522年6月10日(継体天皇の時代)の日食で,皆既帯が列島を縦断し全国ほとんどの地域で9割以上の日食が見られたはずです。しかしすでに文字が伝わって来ているのに,それらの記録はありません。どちらも忘れられてしまったようです。わが国最古の日食の記録は『日本書紀』巻第二十二に載っている推古36年3月2日(=628年4月10日)のもので,その記述は「日有蝕盡之」という5文字だけです。この日食が皆既だったかどうかは今も議論が分かれているそうですが,部分食としても大日食,しかもその5日後に,このわが国最初の女帝(在位593~628)は75歳(当時としては非常に長寿)の生涯を閉じるのです。さぁ,何かアヤシイですね!
このとき人々の間に「かつて推古と同じように群臣に共立され,日食とともに亡くなった女王がいた」という微かな伝承が蘇ってきたのではないでしょうか? しかし,今やそれがいつのことか,女王の名前もわからない。そこで歴史官たちは隋唐から入ってきた史書の中にそれらしき人物を探しました。史記~漢書~三国志~晋書~隋書…etc 。何年もかかってやっと見つけたのが『魏志倭人伝』の卑弥呼という名前,そして(そこには載っていないが)魏本国の247年3月の日食記録でした(248年9月の日食は中国では見えなかったので記録はないはず)。しかし彼らはそれをそのまま転載するのではなく,非常に大きな話にデッチあげた。すなわち2人の女王ヒミコとトヨを合わせてアマテラスという女神を仕立て,そして天の岩屋戸事件を創造したのです。時はまたもや女帝の持統時代(686~702)! この壮大なフィクションを国家プロジェクトとして立案編纂したのは誰でしょうか? 何人かの手を経て完成させたのは日本古代史を創り上げた藤原不比等(659~720)でしょうね,きっと。以上をまとめると多少の無理は承知の上で
九州にあった邪馬台国の女王で太陽神に仕える巫女であったヒミコは,亡くなる頃に起こった2回の日食により,死後は太陽神として崇められるようになった。その事件は細々と人々の記憶に残り,推古天皇の死を契機にアマテラス岩屋戸隠れ伝説が生まれた。
247年3月 ヒミコが没し内乱始まる=アマテラス岩戸に隠れる
248年9月 トヨのもとで平和がよみがえる=アマテラス岩戸から出てくる
と考えるのが妥当ではないでしょうか。
なお「卑弥呼」とは『魏志倭人伝』の作者が当てた字で,いわばAmericaをアメリカとか亜米利加と書くようなものです。わが国でいえばむしろ「日巫女」とすべきでしょう。筆者はどちらの漢字も使わずヒミコと記すことにしています。
シミュレーションにはいわゆるプラネタリウムソフトでは不十分で下記サイトに載っているものを使いました。
[1] 日食情報データベース http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10553/
[2] EmapWin http://www.kotenmon.com/cal/emapwin_jpn.htm
[3] NASA Eclipse WebSite http://eclipse.gsfc.nasa.gov/eclipse.html
斉藤国冶 『宇宙からのメッセージ』 雄山閣,1995