近畿産業考古学会は9月22日,KCGコンピュータ博物館の見学をさせていただきました。ここでは見学記とともに,これらの計算機たちと関わってきた自分も振り返ってみたいと思います。
「えっ,なぜ,ここにあるの?」単に懐かしいだけでなく,よくこれだけのものが残ったとは驚きです。
通常,計算機は新機種へのリプレースが決まると次期システムの導入に向けてあわただしく準備が始まります。現用システムから次期システムへいかにスムーズに移行するかが最大の課題です。永年にわたり計算機の運用にかかわってきた者にとって現用システムには愛着はあるのですが,データ,設置スペース,電源,空調などの移行作業を考えると,とても旧システムの保存にまで手が回りません。と言いますか,常に前を向いて突っ走らないと乗り遅れてしまうので,旧システムは即時撤去となり,産業廃棄物と化すのが正直なところでした。
長谷川靖子先生が「計算機は文化である」,「学生には惜しみなく本物を与える」とおっしゃっておられましたが,生まれて半世紀が立ち,今回の見学でやっとその意味が少し理解できたような気がします。先人達が苦労して作り上げ,運用されたシステムが,時代とともに簡単に葬り去られてしまうのではなく,次の時代の糧にならないといけません。記録も記憶も何も残らなくなってからではもう間に合わないのです。
玄関を入った左手にPDP-8,11,VAX11-780が鎮座しています(写真1)。当時1万ドルマシンと呼ばれたPDP-8をはじめとしてミニコンのガリバーと呼ばれたDECのマシンが勢ぞろいで並んでいます。1985年ミニコンの世界標準と呼ばれたVAX11-780を筑波万博のアメリカ館で憧れをもって見ていた記憶がよみがえりました。当時IBM360とCPUが同性能であるとのことから,VAX-11 / 780の性能を1MIPSとして常に比較されていたことが思い出されます。CPUの性能は同じでも価格は1桁違ったことが,DECが成功した要因だったのでしょう。時代が変わり,事業所の隅でもう廃棄処分を待つだけとなったこれらのマシンを,旧DECのエンジニアたちが後世に残そうと運送費をカンパし,ここに設置されたと聞き,再びその思いを知るところとなりました。
昭和も終わりに近づいたころ,私の勤務先では採用と前後してOKITAC 4300,4500システムが引退しました。廃棄されるまでのしばらくの間,ラインプリンタのインターフェースを解読してパソコンと接続し,自分専用のラインプリンタとして活用して遊んでいました。OKIのラインプリンタはフライングベルト方式を採用しており堅牢で安定した動作で,技術的に未熟だった私でも簡単に制御でき,素晴らしいスピードで印字できたのが感動的でした。これ以降,周辺機器でプリンタのOKIのブランドが浸透し,主力商品のひとつに育ったのはご存じのとおりです。
ここにOKITAC4000シリーズの当時の修理伝票を取り上げてみました(写真2)。ラインプリンタに障害が起きたのですが,2名のCEが2日間に渡って原因を特定しJ-Kフリップフロップ(SN7473)ICの交換をしていることが読み取れます。現在では当たり前のように基板交換をおこなうのですが,不良ICを特定しICチップ1個のみを交換しています。計算機のCEが手当たり次第に基板を交換して修理をすることから,エンジニアをチェンジアと揶揄するようになって久しいですが,当時は相当の技術力を持ったエンジニアが保守維持にあたっていたのでしょう。紙テープに穿孔された保守用テストプログラムも,多数保管されていて,テストプログラムを動作させながら故障原因を追いこんでいったものでした。猛者と呼ばれる人の中には紙テープを見ただけでアスキーコードに変換することができました。大規模システムの顧客先には,まだメーカのSEやCEが常駐していた時代の話です。
1990年に入るとダウンサイジングの波が押し寄せ汎用機も終焉を迎えるようになりました。このM770は私が管理した最後の汎用機と同型です。汎用機はミニコンやEWSとは違い金融や生保でも安定した運用ができるように作られ,内部は,オーバースペックとも言える作りで,それが信頼性の証でもありました。ゴゥーと響くファンの騒音の中でコンソールに座り,システム管理をしていた頃が懐かしく思い出されます。しかし,あのマニュアルの量は尋常ではなくとてもエコとは呼べるものではありませんでした。
現在,私の研究室の壁にはM770のCPUボードが掛かっています(写真3)。大きさ約50cm四方,24層のプリント基板に百数十個のLSIが載った1ボードCPUです。撤去される際にせめてCPUボードだけでも残して欲しいと担当営業に現地廃棄をお願いしたのです。多くの人はこれを見て,「粗大ごみ」と悪口を言いますがこれは私の宝物です。
多くの計算機たちが理解ある人たちによって集められ,保存されることはうれしい限りです。しかし,日本の高度成長期にこれらの開発や運用に携わった団塊の世代の人たちが,そろそろ表舞台から降りようとしています。今,彼らの記憶と記録を計算機とともに残すべき時期に来ているのではないでしょうか。おそらく10年後では間に合わないでしょう。モノの展示と併せて,そのモノから生み出された製造技術や背景を残していかねばなりません。昨今の社会情勢からみても,簡単ではないのは十分承知ですが,当面は有志による地道な作業が必要でしょう。私は未だ薄学であり,そのような資格があるとは到底思えませんが,なにかお手伝いができれば幸せです。計算機は私の半生のうちの多くの時間と,多くの苦悩を費やし,ほんの少しの成果を与えてくれた,パンドラの箱だったのかもしれません。
最後に見学時の写真を掲載させていただきます。(写真4)