現代詩に憧れを抱いて,自らの思いのままに言葉を書き連ね,生み出された言葉の堆積を詩であると考えていた僕にとって,俳句というと,なにか古臭くて枯れた印象がつきまとっていた。従って,句集には触手をのばすこともなく,愚かにも,俳句から学ぶべきものはないと思っていた。
しかし今,身近に,「連凧」という1冊の句集に接することで,その偏狭な考え方に疑問符が打たれつつある。
最初はこの句であった。
枯草の離れる魂か黄蝶翔つ
黄蝶の舞いあがる瞬間をとらえ,そこに象徴を読みとる感性のあり方は,ロマンティシズム以外の何物でもない,と思われた。その読後感は,英国ロマン派の詩人の作品に相通ずるものさえ感じられた。しかもこの句は,「魂」というたった一語の観念語を中心に据えて,「枯草」から「黄蝶」への転変のドラマが,17文字で鮮やかに描かれている。たった17文字で。
さらに,その隣の句。
古枝の路上に落ちて冬うらら
この句の面白さは,「古枝」や「冬」という,熱の感じられない冷たい肌触りの単語を「うらら」という言葉で括ることで,意味の逆転が為されている点にあると思った。「春うらら」ならよく聞くが,「冬うらら」というのは僕にとって発見であった。
音のない澄み切った空間とオブジェとしての枯枝。日常生活の目の高さでは見逃してしまうような対象も,詩人の目は逃さない。そしてそのオブジェに向けられた詩人の目は限りなく優しい。そんな詩人の姿勢を思い描いているうちに,ふと,フランシス・ポンジュの詩集の題名を思い浮かべてしまった。「物の味方」。
少年の大靴駆けるすすき原
この句も好きだ。ここにはイノセンスがあると思われた。そして,イノセンスを印象づける手法として,カメラ・アイの移動が効果的に使われていると思う。まず,レンズは少年の靴を大写しにしている。そこから,ずっと,カメラが引かれ,すすき原へと展開する。靴からすすき原へと視野が広がっていくそのダイナミズム。そこにイノセンスが息づき宿る。もはや,僕の頭の中では,すすき原であろうが,大海原であろうが,怖れを知らず駆け抜ける少年の靴音が響き続ける。
包丁置く無人スタンド熟柿売る
ドッキッとさせる句である。情景としては,谷間の山里などでよく見かける,農家が自分の軒先に台をしつらえ,野菜などを売る無人スタンドの様子であろう。それだけの光景を描いているのだが,どこか読む者を驚かせる雰囲気がある。「包丁」「無人」「熟柿」といった語句が効いているのだと思う。ぞっとするような孤独。
しかし,笑いもある。
にはとりの池に落ちたる十三夜
この笑いはどこから来るのだろう。僕は,この句を,神楽坂の中華料理屋でラーメンを食べながら見つけ,友人と2人で,大笑いをした。反射的な笑いであった。この句には様々な解釈が成り立つだろうが,敢えて字面通り十三夜の晩に,にはとりが池に落ちたという事件を受け取れば良いと思う。僕らの反射的な笑いの理由は,事件を扱う詩人の姿勢に隠されていると思う。
スタンダールの言葉に「笑いは憐憫の敵だ」というものがあるが,その憐憫がこの句には全くない。事件を詩人は突き離して見ている。その姿勢が諧謔を生むのだと思う。
凍て空を赤く引っ掻きヘリコプター
これは子供の目ではないだろうか? このヘリコプターは,児童の描くクレヨン画のそれであると思う。「引っ掻き」という動作も,どことなく児童のクレヨン画の無造作な筆致を思わせる。詩人の童心に出会い微笑んだ。
影のない猫の立ち去るチューリップ
これも絵だ。一瞬,寺山修司の名が思い浮かんだが,みずみずしく,幻想的な絵であると思う。こんな絵をもっと見たい気もする。
蜘蛛の囲に沖のタンカー居すわれる
蜘蛛の巣に,タンカーがかかっている。しかも「居すわれる」とくるので,タンカーの横柄さが諧謔味を増す。
ここに描かれたナンセンスは,空想が生み出すものではなく,知覚のいたずらに詩人が意味づけして生じてきたものである。この句の背後に,ナンセンスを生み出す詩人の理知を感じた。
俳句は,何とウィットやユーモアに富んだものなのだろう。しかしそれだけではない。人生を語る器としても,効力があるのだ。その証拠としてこれらの句。
老鹿の角伐られずに囲われて
もはや年老いた鹿は,その角で人に危害を加える怖れもない。角も伐られず,囲われているのは,他の鹿の角で,突かれないようにするためであろうか?
ストーブにもっとも遠く遺影かな
死者は暖を取る必要がない。詩人の遺影を見ながら,やはりストーブの傍にいる。暖を取ることの哀しみ。ストーブからの距離が死者と生者の距離を物語っている。
現代詩は,「言葉の過剰」に脅かされているような気がする。幾らでも言葉を連ねることは可能であるが,幾ら連ねても終着点はない。「自分の書いているものは本当に詩なのか?」という疑念が常に離れない。こういう状況での「言葉の過剰」は失語の裏返しでしかない。ただ「書く」という行為に,詩のありかを賭ける他ないかのようだ。
それに対して,俳句の世界では,なんと言葉が言葉らしいことか。その相違はやはり,自由詩と定型詩の違いに依るのだと思う。
現代詩でも,マチネ・ポエティックに見られる定型の試みが過去にもあったが,自由詩の発想には,五・七・五では書かないという意志も含まれているはずで,安易な定型への回帰は為されるべきではないと思う。その一方で,最近よく見られる言葉の破片を白紙の上に任意に布置したような現代詩も新奇に見えるが,いずれは消えるファッションなのだと思う。破壊のための破壊は何も生めない。
現代詩の書き手に必要なのは,自由であることの奢りを捨て,定型の中でのびやかに生きる言葉を見直すことであろう。そして,敢えて自由詩を書くことの意味を自問することであろう。そのような気持ちで「連凧」を読んだ。
「連凧」の詩人は,狂気を衒ったりはしない。自我への執着からも自由だ。代わりにこの詩人にはもっと大きなものに包まれたいという欲求があると思う。それは換言すれば,言葉の海(民族の集合的無意識の拠り所)に自らの理知で泳ぎ入るという姿勢となって現れる。
己れを捨て去って,言葉の海に泳ぎ入り,詩人が釣り上げてきた言葉たち。そして不思議なのは,その言葉たちが今度は,詩人の人格を雄弁に語り始めるということだ。
「連凧」の読後感は,日常,触れることのできる詩人の人柄のように,暖かく澄んでいる。