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Accumu Vol.12

古都逍遥 百万遍校周辺

米田 貞一郎

校友会会員の皆さんお元気ですかアキューム誌上での「古都逍遥」も三度目この度は百万遍校周辺でお付き合いを願うこととしました

ところで「百万遍校とは」といぶかる方があるのではないでしょうか確かに近年卒業の方には馴染みが薄いのも無理はありません市内左京区百万遍交差点を上った西側落ち着いた二階建の建物以前はここで授業が行われていて学生の出入りも多かったのですが今はいわば学院本部の所在地です周りは京都大学を中心として発展してきた学生街でも訪ねてみるべき箇所はいくつもあります暫らくご一緒に参りましょう

百万遍知恩寺

学舎の玄関を出ると東大路通を隔てた向かいの森の上に大きなお寺の屋根が浮かんで見えます百万遍知恩寺です

浄土宗大本山の一つ法然上人(1133~1212)を開山と仰ぎ第二世源智上人が師法然の恩徳を偲んで恩の寺として建立したといいます初め現在の今出川烏丸付近に建てられたのが時を経て徳川時代に現在地に再建されましたその間1331年(元弘元年)8月疫病が流行した時時の第八世善阿上人が後醍醐天皇の命で参内し17日を期して百万遍念仏を修し疫病を退散したことから大念珠とともに「百万遍」という寺号を賜ったとのことです

今出川通に面した三門を潜ると石畳の参道が御影堂に向かってまっすぐに伸びその手前向かって右(東側)に釈迦堂左(西側)に阿弥陀堂が向かいあって建ち整った伽藍配置です

御影堂
御影堂

御影堂には室町時代作の法然上人の尊像が安置されていますがこれはあちらこちら数ある尊像の中で最も古くすぐれたものだといわれます堂内では毎月15日に「百万遍大念珠くり」が行われていますリズミカルな鐘の音にあわせ一枚起請文(法然が臨終の床にあって浄土往生の要義を簡潔に一枚の紙に記して残したもの)の唱和のあと参詣の善男善女が大念珠をとりかこみ膝の上に乗せて隣の人へ順に手で送っていきますこの大念珠は先に後醍醐天皇から賜った大念珠の功徳を受け継ぎ1980年(昭和55年)につくられたもので円周約100メートル重さ320キロ世界最大といいます

たまたま私は去る11月1日寺内宝物館の特別展観開催中と知ったので出かけたのですが御影堂での「十夜法要 秋の集い」に出合いました

「十夜法要」は「お十夜」ともいって秋11月十昼夜を一期として修する浄土宗の特別念仏会堂内では月々の「大念珠くり」同様説教法要のあと参詣の老若男女があの大念珠を念仏を唱えながら手送りしています荘厳の中にも和やかな雰囲気が漂っていました

古本まつり
古本まつり

もっとも私がお寺を訪ねたのにはもう一つ目指すものがあったのですそれは御影堂の前庭で年一回催される「秋の青空古本まつり」です市内の古書店がつくる「京都古書研究会」が昨今の活字離れに歯止めをかけようと開き始めてから2002年で26回目小雨の中19の書店がビニール掛けの露店に持ちよった学術書や絵本文庫本から江戸時代の和本中国の拓本や鉛印本約20万冊が出品されているというのです初版本や絶版本など掘り出しものにありつけないかと古書ファンが結構つめかけていました


詩碑
「旅びとの夜の歌」山々は
はるかに暮れて
梢吹く
ひとすじの
そよぎも見えず
夕鳥のこえ木立にきえぬ
あわれ はや
わが身も憩わむ
(大山定一訳)

さてこの御影堂の背後の墓地に私たちが敬慕してやまぬ本学院創始者初代学院長 長谷川繁雄先生が眠っておられることを忘れてはなりますまい先生のお人柄業績などについては直接謦咳に接し薫陶を受けた方取り分け教職員が尽きない思い出を「アキューム」※の毎号に述べられているので閲読されるよう望みます私たち教職員は毎年7月2日のご命日を「閑堂忌」と称し先生の教育理念教育思想を改めて想起することにして墓参をしていますその墓碑の傍に先生が生前愛誦されていたゲーテのことばを刻んだ石碑がありますここに転写することにいたしましょう

喫茶店進々堂

進々堂
進々堂

百万遍のお寺を出て今出川通を東へ100メートル余古めかしくタイルをあしらった石造りの正面入口上には「カフェ進々堂」と唐草模様の金具のついた看板が出ています

重い扉を開けると奥行は長く小暗い向こうに植込みのある小庭が京の町家の坪庭を思わせます床は板張り重厚でちょっとやそっとでは動かせそうもない木製の長机がゆったりと並んでいます椅子も長椅子掛けると木の温もりが伝わってくるようです

創業は1930年(昭和5年)といいます来店の学生は大切に扱われテキストやノートを持ち込んでのレポートづくりに長時間居すわっても文句も言われずもちろん学生同志大勢で話し込んだり先輩や先生から話を承ったりの集まりは常時のこと以前私も度々利用したものです

京都大学と三高

京都大学正門
京都大学正門

進々堂を出て今出川通を南へまたぐとそこは京都大学のキャンパスです

京都大学元京都帝国大学は日清戦争(1894~95)後の1897年(明治30年)6月若い頃から東京に対して京都に関西の学問の中心をおき大学をつくることを念願していた時の文部大臣西園寺公望公(1849~1940)のもとで設置の議が定められましたすでに発足していた東京帝国大学が官僚養成中心となってしまっていたのに対して政治にとらわれない自由の天地で真理を探究し学問を研鑽することを使命づけられたのでした

旧三高正門
旧三高正門

校舎はすでに開設されていた第三高等学校(略して三高)の校舎設備をそのまま引き継ぎ理工科法科医科文科の四科が相次いで開設されました爾来古くから京都の土地に育った学問技術の伝統を脈々と伝え外からの権力に屈せず大学の独立を守り学問の自由を天下に誇示してきたのです戦後は1949年(昭和24年)の学制改革で新制京都大学となり三高を「教養部」として合併今日の盛大を見るに至りました

その間幾多の俊秀が輩出されましたが取り分け日本人でノーベル賞を受賞された12人のうち湯川秀樹朝永振一郎福井謙一利根川進野依良治ら5先生がいずれも京大理工学部の出身であることは特筆大書されるべきではないですか長谷川靖子現学院長が入学式でいつもこのことに触れて就学の実をあげるよう励まされているのも宜なるかなといえましょう

三高歌碑
三高歌碑

戦後の学制改革で京都大学の教養部として吸収合併された旧制第三高等学校はその源を1869年(明治2年)に大阪に開設された「舎密局」に発します舎密とはオランダ語の「化学」の宛字で文字通り科学技術の導入の拠点として開かれました幾変遷の後1889年(明治22年)第三高等中学校と改称大阪から京都に移転5年後の学制改革で第三高等学校となったのです京都帝国大学が設立されることになって校舎を施設もろとも譲渡して南向かいの現在の総合人間学部の敷地に移りました戦後新学制のもと京都大学に吸収合併されたことは前に記したところです

東京の第一高等学校(一高)と対抗し「自由」を標榜した校風はノーベル賞を受賞された京都関係者7人のうち湯川朝永江崎玲於奈利根川の4先生が旧三高出身者であることと深いつながりがあるといえないでしょうか

吉田山と吉田神社

吉田神社
吉田神社

京都大学の東に浮かぶ緑の小高い丘が吉田山です標高105メートル余三高生が夜昼となく徘徊し放歌高吟して青春を謳歌したところです

頂上の吉田山公園には三高卒業生有志によって1958年(昭和33年)に三高の「逍遥之歌」の石碑が建てられました世間でも広く歌われる一節「紅もゆる丘の花狭緑匂ふ岸の色都の春に嘯けば月こそ懸れ吉田山」の第一句が掘られています三高生で詩人 澤村専太郎(胡夷)(1884~1930)の1905年(明治38年)の作三高OBどもは今や皆70歳を越えているのですが折あればこの碑の前で歌声を張り上げながら追憶にふけるのです

山の中腹に祀られているのが吉田神社と大元宮です吉田神社は859年(貞観元年)藤原氏が政治的進出を始めようとしていたころ氏神である奈良春日神を勧請したもので御所の鬼門にあたり皇室からも厚く信仰されました本殿には健御賀豆知命他三柱を祀った春日造の社殿が四つ朱塗りが美しく緑に映えています

この本殿から更に東南に登ったところに大元宮があります神社建築には珍しい八角堂で屋根の上の千木勝男木も風変わりです応仁文明の乱(1467~77)のころ神職の吉田兼倶(1435~1511)が伊勢の内外宮を始め全国の神社の宗源であるという独自の吉田神道(唯一神道)を創め大元宮の左右に日本国中の神々三千一百三十二座を祀り背後には伊勢内外宮を遷祠してこの大元宮に詣でれば全国六十余州の神社に詣でたと同じ霊験があると説いて庶民の信仰を集めました

吉田神社では2月2日から4日までの節分祭が最大の行事です2日の夜は追儺式(鬼やらい)が奉納されます黄の三匹の鬼を四つ目の仮面をつけた方相氏が矛楯を持って追いかけ勅使役の上卿がとどめの矢を三本放って鬼を退散させるという伝統的な儀式です地元の吉田神楽町の住民でつくっている「追儺保存会」の奉仕だそうです節分祭の3日間は東大路からの参道には露店が軒を連ね参詣者でごった返します

大文字山
大文字山

さて吉田山頂からの展望は休憩広場から東の方海抜476メートルという大文字山を手にとるように仰ぐことに極まります大文字山はいわゆる東山三十六峰の一つかの五山の送り火で有名です8月16日夜孟蘭盆会の行事他の四山に魁けて山肌の大の字に火が入ります火床は山の斜面に大谷石を設け松割木を井桁に積み重ねてその間に松葉を入れます「大」の字の第一画は80メートル第二画は160メートル第三画が120メートル火床の数が75弘法大師が始めたとか足利八代将軍義政が息子の将軍義尚が若くして病没したのを悲しんで設計させたとかいいます

1年ぶりに迎えたお精霊を火を灯して送るという古都ならではの夏の風物詩の一つ

来夏は是非母校訪問と兼ねてこのあたりを逍遥されては如何です

皆さんの御健康と益々の御活躍をお祈りしています

※アキューム

1号 牧野 澄夫 独立独行の人 学院創立者の思い出

2号 松村 隆雄 若き日の長谷川繁雄初代学院長

3号 山本 美智子 学院創立者 長谷川繁雄初代学院長の想い出 よき時代の想い出

3号 弘中 實 真の優しさ

4号 京大音研 初代学院長の思い出

5号 長谷川 由 初代学院長の思い出 前学院長父との別れ とこしえの夢(英文)

6号 末広 ゆかり 初代学院長の思い出

78号 榎本 茂子 初代学院長から伝えられた言葉

9号 牧野澄夫 閑堂忌について「一身独立の気力」

9号 作花 一志 初代学院長の思い出

10号 中川 由美 初代学院長の思い出

11号 植原 啓之 初代学院長の思い出 思い出は尽きない

この著者の他の記事を読む
米田 貞一郎
Teiichirou Yoneda
  • 京都帝国大学文学部卒
  • 元京都市立堀川高等学校校長
  • 元京都市教育委員会事務局指導部長
  • 京都学園大学名誉教授
  • 京都コンピュータ学院顧問

上記の肩書経歴等はアキューム20号発刊当時のものです