日本の近代高等教育システムは明治維新期に政府の強力な主導で成立したものである。自然のなりゆきとして,官製教育システムの急速な発展に応じて,それに対抗する教育思想が現れた。「その他各種の学校」と呼ばれた学校群の中で,東京専門学校(1882年創立,後の早稲田大学),同志社英学校(1875年創立,後の同志社大学),そして慶応義塾(1858年創立,後の慶応義塾大学)は,公教育ならびに私学教育について優れた教育哲学を打ち立ててきた。永井道雄はこれら三校を「自由主義派」(注1) と名付けたが,この三校は今もなお日本における私学のリーダーであり続けている。
これに対し,他の多くの私学は,二流の高等教育機関としての地位に甘んじて,帝国大学の入試に落ちた若者たちに教育の機会を与える役割を果たした。官立学校の教育プログラムに追随するだけのこうした私学を,永井は「適応派」と呼んだ。さらにまた,永井が一括して「伝統主義派」と呼ぶ私学群もあった。これは,森有礼が目論んだ官立学校よりも遥かに保守的であり,当時の日本の時代精神を反映して,西洋的合理主義よりも国学と東洋精神をより尊崇するものであった。
しかし,こうした三つの私学モデルのうち,日本の教育史における最大の遺産は,東京専門学校(早稲田),慶応,同志社という自由主義派私学の創立者たちとその同志たちによって,作り上げられたものである。
創立時より,東京専門学校が標榜したのは,「学の独立」であった。大隈と彼の同志小野梓は,官立大学が時の政権の利害関係によって支配され,学問が政治的な思わくに左右される限り,そこには大学の自治と学問の自由は期待できない,と主張した。彼らは,大学は政府から独立していなければならない,と宣言したのである。
当時の日本の高等教育機関においては,外国語による教育が普通であった。しかし東京専門学校においては,西洋文化の不適切な影響をカットするために,すべての科目が日本語で教授された。
創立者である大隈は有力な政治家であった。伊藤博文と彼の同志たちが権力を握った1881年の政変時に大隈は政界から追放された。後に伊藤は首相となり,文部大臣森有礼とともに,帝国大学を確立していく。これに対し,大隈は自ら私学を創立するにあたり,同年の東京大学卒業生の多くを引き抜いたのであった。大隈の学校は,政治からの独立を標榜していたのだが,このことによって反政府の学校というレッテルを得ることになった。その頃,議会においても政治勢力は再編成を繰り返し,反政府の政治活動と高等教育との複雑かつ微妙な関係は,政治思想と大学の自治の問題として追及されて行った。
大隈は同志の小野梓に学校経営を任せていた。大隈自身は後年政権に返り咲き,二度首相の地位に就くことになった。しかし教育と政治との分離を表明するため,その間彼は特別な式典の日以外,自分の学校に足を踏み入れなかったという。学校は自宅の目と鼻の間にあったのだが。(注2)
同志社大学の創立者新島襄は,日本がまだ鎖国時代の青年期にアメリカへ密航した。アマースト大学に学んだ彼は,帰国直前に教会で演説して寄付を集め,それを基に京都にキリスト教の学校を創立した。敬虔なクリスチャンであった彼は,キリスト教に基づく教育によって,この地に神の国の実現を目指したのである。創立者が密航者でかつクリスチャンであったため,この学校も反政府的と見られ,弾圧を受けることになった。
これに対し,慶応義塾の創立者福沢は特に商学と西洋医学に力をそそいだ。1853年(明治維新よりも前である)彼は商業学校を開き,1873年には医学校を開校した。1890年には学内に大学部を開き,アメリカ人教授を招いて大学レベルの実学教育を開始した。(彼と森有礼は,若い頃は良き同志であり,「明六社」と名付けた学者の団体を作った)。思想的には,福沢は森と同じく,科学的合理主義者にしてプラグマティストであったが,森との大きな違いは,教育から政府の干渉を排除することを主張したことであった。彼はミドルクラスに対する教育に力を入れた。彼の信ずるところでは,文明の進歩を担うのは官僚たちではなく,主としてミドルクラスの多数派の知力によるのであった。大学の役割は国家を指導するエリートの養成にある,とする森の考えと,これは正反対であった。
他の多くの私学がもっぱら時代の趨勢に「適応」していたのに対し,これら3人の私学創立者たちは,いずれも独自の主義・哲学を持っていた。これら三つの自由主義派私学は今日も一流の学校として輝ける典型であり続けている。そして,創立者たちが注ぎ込んだその教育哲学こそが,彼らの学校の永続性の第一の要因であったと言えるだろう。
この三つの私学のリーダーたちは,多かれ少なかれ,アメリカ的な大学観に影響を受けていた。そして,今日においても,「アメリカの,寄付金に乏しい私立教育機関と同様に,こうした私立教育機関は独力で生き残りをかけて,奮闘しなければならない(注3) 」。ここに我々は,日本の私学がアメリカの私学と共有する,いくつかの重要な類似点を見て取ることができる。特に,私学の目指すところは,中央集権的な国家の教育体系の意図するところと,真っ向から対立することがあるという,隠れた事実をそれが映し出す時に。
官製の教育体系が確立するまでの間,私学に対する国家の政策は「援助なし,統制なし」であった。私学は法制上は大学ではなかった。つまり,私学は学位を授与する権利をもたなかったのである。当然,学生達の社会的地位にも違いがあった。官立大学の学生だけには徴兵の一時的な免除がみとめられていた。また,医師の資格などに関する国家試験についても違いがあった。学士号をもつ帝大の卒業生だけが多くの試験を免除されたのである。したがってそれら私学が,大学としての公的認可を受けることはますます緊急の課題となった。このことが,明治も35年を経て,「援助なし,統制なし」から「援助せずして,統制する」への,政府の政策の巧妙な転換,の引き金となったのであろう。(注4)
私学に対する最初の包括的な統制は,1899年の私立学校令であった。この法令は,日本とイギリス,アメリカ,フランス,ドイツ,との間に結ばれた条約の改正(治外法権の廃止と関税自治権の一部回復を獲得)を直接の原因として発案された。この時点で政府は,多くの外国人が日本へ来て,それとともに,外国人によって多くの学校が設置されることを予想したのであった。そのためそうした学校が,日本人の文化的自律性を犯すことのないように,監督する必要があると考えた。(注5)
その後,政府はいくつかの学校を選抜して,兵役免除といくつかの国家試験免除の特権を与えることにより私学を統制しようとしはじめた。そして,ごく少数の私学だけがその特権を享受した。私学は法的地位を得,政府は左記の法令によって私学の組織化を開始したのである。
1903年,大学以外の高等教育機関に対し,「専門学校令の公布」が発表された。日本の教育関係法の中では,この法律と省令「公立私立専門学校規則」はその後長く存続することとなった。第二次世界大戦後,専門学校が廃止されるまで,わずかの改正はあったものの,専門学校にとっての基本的な法的規制はこの規則の中に記されていた。
この法律によって種々の学校が一つのカテゴリーに統一され「実業学校令」は廃止された。こうした実業学校は専門学校に含まれることになった。専門学校で学ぶのは法律・医学・経済学・商業等だけでなく,美術・音楽の勉強も含まれた。この法令によって大量の私学が認可された。さらに,日本女子大学校(後の日本女子大学),女子英語塾(後の津田塾大学),そして東京女子医学専門学校(後の東京女子医大)など,いくつかの女子専門学校も認可された。この法律によって,私立公立の高等教育機関は,大学ではなく,「専門学校」として認可されたのである。
専門学校令によると,専門学校は中学校卒業生あるいは4年の中等教育機関(あるいはそれと同等の)卒業生を受け入れ,そして3年以上のコースを設置する。それはまた,高度の学術技芸を教える高等教育機関をも含む。また,専門学校は予科,研究科,そして別科をおくことができた。認可を受けるためには,公立私立学校は所定の手続きを満たし,文部大臣の認可を受けなければならなかった。公立私立専門学校に対するこの法令は,学校の施設・設備,教員の資格,入学資格および入学試験の実施等を定めていた。(この規制の仕方は現行の大学認可の手続きの源である)。
専門学校の入学定員は政府の権限で定められた。学校は土地・建物,そして校具やその他必要な設備をも含め,最低限の要求を満たすことが求められた。教員は帝大卒の学士号をもつもの,あるいは,海外の大学を卒業していることが要求された。さもなければ,文部大臣の特別な許可が必要とされた(これは,教員のなり手を大幅に制限することとなった)。正規の中等学校を卒業していない学生は,文部省の実施する検定試験に合格しなければならなかった。
公立私立専門学校規定は,学生数に対する専任教員の割合を定めていなかった。そのため,専門学校は必然的に非常勤教員に依存することとなった。当然こうした学校の質は官立学校に比べると劣るものであった。しかし多くの専門学校が夜間学校であったため,官立学校では満たすことの出来ぬ人々のニーズに応えたのである。したがって,実際のところ,政府は非常に安価な手段で教育システム上の不備・欠陥を補完するために,高等教育をこうした教育機関に依存したのである。政府は,私学に対しては経済的な支援は行わずに,ただ規制し統制することによって,一定の教育の質を維持することができた。こうした流れの背後には,国民の,教育を尊ぶ伝統的な儒教的な考えを見て取ることが出来る。こうした文化的な基礎が,高等教育を受けることによって,より高い地位を得たいという,若者達の夢を刺激したのであった。
この時期までに,高等教育を受ける学生の半数以上が私学に学んでいた。1902年の文部省発表の統計データによれば,官立専門学校の学生数は6,206名,公立専門学校の学生数は1,829名であった。これに対し,私立専門学校は15,393名学生を登録している(65%)。(注6) このデータは二つ以上の教育機関に属する学生を含んでいるが,それにしても,私学の貢献を無視するわけにはいかない。卒業生の割合は帝国大学の20%に対し専門学校卒業生は80%であった。(注7) 高等教育を受ける学生の大多数が私学に在籍していたのである。さらに,この統計にカウントされていない多くの私立各種学校があったので,それを加えれば,私学の占める割合はさらに大きくなる。
日本の私立専門学校は,アメリカのアイヴィリーグのような,欧米における大学の地位を得たことはない。しかしそれらの私学は,帝大から一歩だけ距離をおいて量的に社会に貢献してきたのである。明治維新から第二次世界大戦までの間ずっと,専門学校卒業生の大学卒業生に対する割合はいつも変わらず二倍以上あった。(注8)
第二次世界大戦後50年が過ぎた今日,アメリカにおいて高等教育を受ける学生の80%は公立校に属する。これに対し,日本では80%が私学に在籍する。この傾向の源はこの時期にまで溯るのである。日本では市民の多くは,教育を受けるのに身銭を切らざるをえないのである。
1903年の専門学校令と前後して,政府は官僚仕事としても,とりたてて巧妙な政策を取り始めた。
専門学校令公布の1年前,政府は東京専門学校だけに,特例として大学の呼称を認めた。私学のリーダーであった東京専門学校は,公式に早稲田大学と改称し,盛大な記念式典を挙行した。創立者大隈と同校の首脳部はその大イベントを記念して,オックスフォード式のガウンを着用しそれを祝ったという。
次の年,専門学校令は,最低基準を満たした専門学校ならば,いずれも「大学」を名乗ることを許した。この動きは実際に,学校分類の体系全体を弱めることに成功したといえる。なぜなら,ここには,法制上はまぎれもなく専門学校でありながら,ほんのすこし官僚による修正を受け入れるだけで,学校制度上もっとも誉れたかい名称を使うことを許された,そういう教育機関を作ったからである。当の学校が1年ないし2年の予科をもち,大学レベルのコースをもつなら,政府は名称を変えるのを許したのである。
この見直しの後,多くの学校が正規に専門学校とされ,そのうちのいくつかが大学へ「変わる」特例の適用を受けた。早稲田に続いたのは,中央,明治,立教,立命館,関西,同志社であった。その他に大谷大学のような宗門系の学校も続いた。1905年までに「大学」に分類された専門学校は63校中15校を数えた。(注9)
帝国大学を統治する本来の大学令を無視した,このかなりおかしな言葉あそびの背景は興味深い。もともと,専門学校は大学の多学部構成と対照的に,単科制である点で区別されていた。法学校や工部大学校のような官立学校はかつて専門学校として分類されていたが,帝国大学の一部として吸収された。その段階では大学と専門学校との間に大きな法的差異はなかった。そこで,当然,他の公立学校は大学とみなされることを要求した。例えば,官立の専門学校の一つ札幌農学校は,大学という地位へ昇格する権利を得るため,かなり強力なロビー活動さえ始めたのであった。
前に述べたように,私学では慶応義塾は1890年にアメリカ人教授によって大学レベルの教育を開始していた。東京専門学校と同志社英学校は,創立当初から大学の地位を目指していた。そして,こうした三つの私学は他の私学とははっきり異なり,ある種の性格をもっていた。すなわち複数の学部をもち,自覚的に,西洋の大学像を倣っていたのである。また,たとえば,東京専門学校(早稲田)は,はやくも1899年にアメリカの大学と提携し,コロンビア大学は公式に,東京専門学校の卒業資格を学士と同等と認めた。そしてその年,一人の卒業生を大学院へ受け入れた(彼は次の年にはコロンビアから修士号を得ることになる)。1901年にはシカゴ大学,1906年にはペンシルヴァニア大学,1908年にはプリンストン大学などと,東京専門学校の提携は他大学との間にも進んだ。こうして東京専門学校はすでに,日本の外で「大学」としての地位を確立していたのである。(注10)
「名前だけの大学」という政策は政府の,こうした現状への対応策でもあった。二本立ての「大学」の名称が考案されたのであるが,それは以前から存在する制度上の区別をなんら変更することなく,海外の教育機関が与えた認定を実質的に追認するものであった。こうした新しい「大学」は,国内的には,(帝大には認められた)徴兵の一時免除の権利を欠き,また専門職の開業許可を得る地位に関しても,差がついていた。
ここで専門学校の概念を検討したい。専門学校は日本特有の学校制度であり,他国に例を見ない。現在,専門学校は「プロフェッショナルスクール」「スペシャルコーススクール」「スペシャルトレーニングスクール」「ボケーショナルスクール」とさまざまに訳されている。専門学校はフランスの「グランゼコール」に似ているという人もいる。しかしこれらの訳語は一つとして,「専門学校」の真の意味を伝えてはいない。実は,「専門学校」という語は日本では「大学」という語の反対概念として働く。なぜなら,その語は中央政府の統制から独立した私学に用いられてきたからである。そこで,この語をこうした広い使用法へ導いた道筋をさかのぼってみよう。
「専門学校」は1872年政府が学制の中に,その語を作ったのがそもそもの始まりである。政府は近代的大学の基礎となる二つの学校の名称には注意を払い,法律でもって,当初は専門学校と命名した。そうして後に,この二つの学校を合併して最高学府としての東京大学を設立したのである。
そうすることによって,政府は大学システムの根幹に専門学校を据えようとした。(注11) たとえこれが近代的な大学を創るための単なる一時しのぎの政策であったとしても,しかしこれらの学校は,当時の最高の教育機関であった。したがって,高等な教育機関としての専門学校の概念が,人々の意識に強く刻みつけられたに違いないと想定できよう。
他方,「大学」の名はその頃まで,何百年にもわたり,一般に使われることがなかった。江戸時代,つまり鎖国時代には,幕府内部の役職名に「大学頭」という言葉が使用されていた程度で,一般にはその語を使うことはなかった。したがって,明治初頭には,その語自身,「専門学校」と同じく目新しいものであった。
専門学校が法制化されると,専門学校の発展にはずみがついた。さらに第二次世界大戦へ導くことになった経済発展がそれに影響を与えた。専門学校の数は常に,大学の数に対し2倍から50倍に達した。そうした専門学校の数そのものが,人々の抱く専門学校の概念をさらに強めることになったのである。
さらに1918年の大学令によって私立大学が生まれた後も,大学の数は16,これに対し,専門学校の数は101であった。その上,新しくできた大学は,たいていキャンパス内に専門学校をもっていた。こうしたことすべてが,一般の人々の意識の中で,専門学校は第二位の高等教育機関,という考えを強めたのである。
そしてさらに事態を複雑にしたのは,「専門学校」が唯一,職業学校を指す名前というわけではなかったことである。専門学校のカテゴリーの中には「実業学校」があった。しかし他にいくつものタイプの学校があった。それゆえ,「ボケーショナルスクール」という訳語は,こうした複合体全体を説明できない。
要約すれば,専門学校は日本に特有の学校であり,それは近代的大学を創設する中で,むしろ予期せぬままに生まれたものであるといえる。その原因は,最初の近代的な学制という法制化の開始にまでさかのぼってみると,政府が,官立大学の確立に重大な意味を与えると同時に,他の学校,特に私立学校を事実上無視しようとしたことにあるのかもしれない。そこで巷の学校のなかには,深い考えもなく,「専門学校」の名称を使用し,一般の人々は,法制度上の「大学」以外のすべての高等教育機関を指すものとしてその語を使うようになった。これは明治維新から10年経った時のことであり,政府は当時他のことに気を取られていたのであろう,このことに多くの注意を払ったとは考えられない。ずっと後,1903年になって政府は教育全体の体系の統制に本腰を入れ始めた。そしてその時期になってやっと,規定に合わない私学に対し,専門学校と自称することを禁止し始めたのである。このことが専門学校というカテゴリーに新たに見出された意味を付与することになった。しかし,その頃までに,すでに専門学校として存在していた学校群は,それぞれが自己主張の強い雑多な集合であり,法制度上の大学ではないという一点でのみまとめ得るものであった。
かくして,私学は無視され,ただに放置されていたのである。この大学に無縁の私立学校群は一種の玉石混淆であったが,しかしそれは,学校数の多さのゆえにかなりの勢力を振るうことになった。バートン・クラークは「あらゆる主要矛盾のなかでおそらく最も魅惑的なものは,システムへの秩序を欠いた接近によって秩序を導き,秩序のある調整によって無秩序を生み出すという方法である。」(注12) と指摘している。政府の予想に反して,専門学校が長く存続したことは,おそらく偶然であったかもしれない。秩序のある調整が,無秩序の競争による錯綜した結果から生じたのである。
他方で,そうした私学は,それぞれが無秩序な戦略によって,大学になる事を目指した。初期には,アメリカの大学を模範にする学校もあり,また,別のモデルを選ぶ学校もあった。元来,私学は政府の政策にはほとんど無関係な,自然発生的な存在である。しかしながら,社会・経済的理由や他の多くの理由から,各私学は最終的には,法令によって急速に整備されつつあった官立大学をモデルにするに至った。大半の私学が大学の地位をめざすようになればなるほど,それらは官立大学に似るようになってきた。これは無秩序にもかかわらず効果的な発展であった。
こうして,官立と私立の学校は相互補完的な関係を保った。官立大学は,もしも私学が同様に発展しなかったなら,かくのごとくは発展しなかっただろう。ここに我々は,最上級の社会的権威であっても,下からの発展によって変更が加えられ得るのを見る。そしてまた私立大学も,もしも国家のシステムがあれほど威圧的なモデルを提供しなかったなら,かくのごとくは発展しなかっただろう。このストーリー全体は,かなり「魅惑的な」デュエットであり,そのなかで専門学校は優先的なモチーフとして現れるのである。
注1 永井道雄 近代化と教育 東京大学出版会
注2 早稲田大学八十年誌 早稲田大学刊 1962
注3 Burton R.Clark The Higher Education System,1983 (邦訳 「高等教育システム」 玉川大学出版部
注4 天野郁夫 旧制専門学校論 玉川大学出版部
注5 文部省内教育史編纂委員会編 明治以後教育史
注6 日本帝国第五回統計年鑑 文部省年報
注7 天野郁夫 前掲書
注8 天野郁夫 近代日本高等教育研究 玉川大学出版部
注9 天野郁夫 前掲書
注10 早稲田大学八十年誌
注11 天野郁夫 高等教育の日本的構造 玉川大学出版部
注12 Burton R.Clark 前掲書
○日本教育制度史 森秀夫 学芸図書 1991年
○日本教育史 堀松武一,入江宏,森川輝紀 国土社 1985年
○日本近代教育小史 仲新,伊藤敏行 福村出版 1984年
○改訂近現代日本教育小史 国民教育研究所編 草土文化社 1990年
○高等教育の日本的構造 天野郁夫 玉川大学出版部 1986年
○近代日本高等教育研究 天野郁夫 玉川大学出版部 1998年
*本稿は,米コロンビア大学教育学大学院に提出した修士論文“Japan’s System of Education”の第二章を翻訳加筆したものです。