京都情報大学院大学が日本最初のIT専門職大学院として認可され,2004年4月に開学する運びとなったが,その(現在のところは唯一の)専攻分野は「ウェブビジネス技術」である。インターネットが急速に普及し,ブロードバンド接続も一般的になった昨今,インターネット上に設置されたウェブサイトをベースにした商取引が次第に拡大しつつある。また,企業内・企業間の情報システムについてもウェブ技術に基づくものが主体になりつつあり,この分野に精通したソフトウェア技術者,システムアナリスト,システム管理者,さらにはCIO(最高情報統括責任者)に対する要請が多くの企業で高まっている。本学のウェブビジネス技術専攻はこのような産業界の声に応え,この分野の高度な専門職業人を養成するために設置されたものである。以下,最近のウェブビジネスの現状,ウェブビジネス技術者育成のための教育体制,本学での取り組みについて述べる。(この分野では「eビジネス」という言葉もよく用いられる。ウェブビジネスとeビジネスは厳密にいうと必ずしも同じものではないが,ここでは両者の区別はしないものとする。)
コンピュータ技術はその黎明期から,その応用分野に二つの大きな流れがあった。一つは,(1)科学技術計算への応用であり,もう一つは,(2)企業活動への応用である。コンピュータ技術・ITが発展するに従い,そのソフトウェア技術や利用の方法論は,これら2分野の間で次第に異なったものとなってきた。特に,(2)においては,単に技術的なことだけではなく,企業経営手法の知識・ノウハウとの密接な連携が重要であり,純粋な意味でのコンピュータ技術やコンピュータ・サイエンスとは一線を画した専門分野が展開されてきた。このような専門分野を「情報システム(Information System)技術」あるいは「IS技術」と呼んでいる。
コンピュータ・サイエンス(CS)の教育体制は当初より多くの大学関係者などにより精力的に研究・展開され,アメリカにおいては最大手のコンピュータ系の学会であるACM(Association for Computing Machinery)による大学学部課程用モデルカリキュラム「Computer Science 68」が1968年に公表されている。このモデルカリキュラム(およびその後の改訂版)は世界中の多くの高等教育機関における情報教育・コンピュータ教育の基盤となってきた。一方,IS技術のための教育体制は少し遅れ,ACMからは1972年に最初の修士課程用モデルカリキュラムが,続いて1973年に学部課程用カリキュラムが発表されている。CS用カリキュラムとIS用カリキュラムの大きな違いは,前者が学部課程を中心にしているのに対し,後者は専門職課程(Professional Degree)としての修士課程に重点を置いている点である。これは,CSが体系的な学問分野として認識されていたのに対し,ISは企業での実務を前提とした教育内容を目標としていたからと考えられる。
日本では,1970年に最初の情報系学部・学科が数大学において開設されていたにもかかわらず,組織的なカリキュラムの検討がなされたのは1990年になってからである。このJ90と呼ばれる学部課程用カリキュラム(「大学等における情報処理教育のための調査研究報告書(平成2年度報告書)」)は,情報処理学会が文部省の委託を受けて作成したものである。また,ISカリキュラムについては,やはり情報処理学会が文部科学省の委託を受けて作成したものが2001年に公表されている(「大学の情報系専門学科のための情報システム教育カリキュラム―ISJ2001―(平成12年度報告書)」)である。これは学部課程用のものであり,わが国では修士課程用のISカリキュラムはまだ発表されていない。
修士課程用の最も新しいISモデルカリキュラムは,ACMから出されているMSIS2000(Master of Science in Information Systems,2000年版)である。ところが,その2年後の2002年にその改訂版ともいうべきレポートが出されている。"Masters in Information Systems: A Web-Centric Model Curriculum"と題されたこのレポートは,MSIS2000の編集委員長らによって書かれたものであって,2000年度には具体的に示されていなかった「ウェブベースのビジネス」の重要性を指摘し,その方向に沿ってモデルに修正を加えたものである。すなわち,21世紀初頭の急速なインターネット技術の浸透に対応して,(基本的な哲学は変わらないにせよ)カリキュラムを臨機応変に改変する必要が生じてきたと言ってよいであろう。すなわち,現在では「情報システムはウェブベース」という考え方が標準になってきたと言えるわけである。さらに,従来は基本的には企業内部に限られてきた情報システムというものが,顧客,仕入先業者など企業活動のあらゆる側面に拡大されるべきという見方が主流になりつつある。すなわち,「eビジネス/ウェブビジネス」という新しいパラダイムに基づいて企業活動を考えねばならない状況になっていると言えるであろう。
これまで述べてきたように,21世紀を境とするインターネット技術(ウェブ技術)のビジネスへの浸透には目を見張るものがある。その原因としては以下のようなことが考えられる。
(1)企業のグローバル化による競争の激化
(2)ネットワーク・インフラの整備の結果としてビジネス活動が高速化したこと
(3)顧客の動向に敏感に対応する必要が高くなったこと
(4)上記の要件に対応できるようなインターネット技術(ウェブ技術)が開発され,また開発が続けられていること
景気サイクルの短縮により,企業が敏速に経営環境に対応する必要が高まってきたため,全ての企業活動にわたって柔軟性が不可欠となっているが,これを実現させるのがウェブ技術を中心とするITである。この種の技術をいかに適切に活用できるかが,企業の存続に関わってくるといっても過言ではないであろう。逆に,うまく活用できたら他企業を大きくリードすることになる。
身近な例を挙げると,DELLコンピュータがある。これはウェブ技術を使って極めて効率のよいサプライチェーン管理(Supply Chain Management, SCM)の実現に成功した例である。注文はウェブサイトから受け,それに対して必要な部品のみを調達して製造を行い,部品の在庫をゼロにして製造コストを最小限に抑えようとするものである。このため,ウェブを用いた極めて効率のよいB2Bのオペレーションを実現している。また,書籍販売のアマゾン・ドットコムはきめの細かい顧客管理(Customer Relationship Management, CRM)と流通業者とのシームレスなタイアップをウェブ上で実現し,成功を収めている。
上述の技術動向はそのほぼ全てがアメリカ主導によるものである。わが国においては,残念ながら多くの側面で少なからず遅れをとっているのが現状である。ウェブビジネスの普及率は向上しているものの,その規模・内容においてアメリカやドイツにリードされていることは否めない。また,ウェブビジネス(あるいは一般にeビジネス)による企業の組織再編成・業務の再構築も遅れており,それが日本経済の不振の原因の一つになっていることも識者の認めるところである。
この苦境を脱出するために最も必要なことが高度の技術教育であることは論を待たないであろう。ところが,このような高度専門教育を従来型の大学(学部・大学院)で実施することが困難であることが次第に明らかになってきた。この困難を克服するための政策が「専門職大学院」制度である。従来の大学院が少なくとも形式的には研究者養成を目的とする教育体制をとっており,研究活動が重視されていたのに対し,専門職大学院は高度な実務教育を目的とし,修士論文も必須とされていない。すなわち,アメリカにおけるプロフェッショナルスクールにその範をとったものである。
京都情報大学院大学は,京都コンピュータ学院で長年にわたって蓄積されたコンピュータ・IT教育のノウハウを礎とした専門職大学院として認可され,2004年4月に日本最初のIT専門職大学院として開学した,単一研究科(応用情報技術研究科)・単専攻(ウェブビジネス技術専攻)を有する独立大学院である。
専門職大学院としての京都情報大学院大学は独立大学院でもあり,アメリカにおけるプロフェッショナルスクールと同様の形態である。したがって,アメリカのIT系プロフェッショナル・スクールから学ぶべきことが少なくない。また,われわれが目標とするウェブビジネス技術はACMのMSIS2000改訂版の教育目標と多くの点で一致するため,同レポートを本学におけるカリキュラム設計のベースとすることにした。
MSIS2000改訂版のモデルカリキュラムは,基本的に技術指向のものである。ウェブビジネスの基本概念から始まり,それを実装するための諸技術(データベース,ネットワーク,システム開発手法など)およびプロジェクト管理手法をその中核とし,選択科目として具体的なアプリケーション分野,たとえばウェブベースのSCM(Supply Chain Management, 部品調達管理)やCRM(Customer Relationship Management, 顧客管理)などの手法を修得するものとなっている。もちろん,技術分野以外に経営に関する知識も必要となるが,これについては,別枠で履修することになっている。
われわれの場合は,MSIS2000改訂版の基本科目は中核として設定しつつも,このモデルより広い範囲の科目群を用意し,学生のバックグラウンドに応じて適宜選択できる形態をとることとした。このような拡張科目群として,経済・経営系の科目,教育系の科目を配した。教育系の科目を導入した主な理由は,企業における人材育成・人材管理の重要性,およびウェブビジネスの一環としてのeラーニングの手法を修得するためである。
先に述べたように,専門職大学院においては修士論文研究が要求されていない。本学のカリキュラムにおいては,これに代わるものとして6単位の修了プロジェクトを数科目用意した。学生はこの中から1科目選択して,修了後に職場で直ちに活用できるような実務知識と高度な技術を身につける。
上図は本学のカリキュラム概要である。入学者は,コンピュータ・ITに関する基礎知識を持っていることが望ましい。具体的には,コンピュータのハードウェアとソフトウェア,手続き型言語によるプログラミング,ネットワーク,データベースに関する基礎知識と基礎技術である。もしこれらについての知識が不十分な場合は,必要な科目を京都コンピュータ学院の専門課程で履修し,不足分を補うことができるようになっている。これらはいわゆる“ブリッジ科目”であり,卒業に必要な単位数には加算されない。
このようなブリッジ科目を用意することにより,情報系の学部課程を修了していない学生も本学に受け入れることができる体制になっており,入学者に対して広く門戸が開かれている。従来型の大学院では学部課程との連続性を重視するあまり,入学者選抜の範囲を極端に制限してしまっていたわけだが,この方式を採用することにより,大学側としても広い人材プールから良質の入学生を選抜できるようになり,また入学希望者にとっては人生設計についての融通性が一段と広がるものと期待される。
本学における開講科目は以下の3群に区分されている。
・ITコア科目群
・ウェブビジネスコア科目群
・キャリア強化科目群
(1)ITコア科目群
これらの科目はウェブビジネスを実現するために必要な技術系の科目であり,MSIS2000改訂版を基にしている。すなわち,ウェブビジネス展開のために用いられる諸技術と,その基礎となるべきIT系科目(データベース,ネットワーク,システム設計,プロジェクト管理など)から構成されている。本学のカリキュラムではさらに,理論系の科目をいくつか追加した。これは,ITのめまぐるしい進展に将来的にもフォローアップできる生地を学生諸君に身につけてもらうためのものである。
(2)ウェブビジネスコア科目群
これらの科目は,本学の修了生たちが実際のビジネス環境においてその技術力を十分発揮するためのバックグラウンドをつくるものである。大きく分けて,企業の経営管理に関するもの,ビジネス戦略に関するもの,経営・経済の応用知識に関するもの,そして教育・人材育成に関するものから成っている。(理論系を除く)ITコア科目のほとんどが実質的には必修となるのに対し,ウェブビジネスコア科目については選択の範囲が広く,学生が将来の進出分野を考慮して様々な組み合わせで履修できるようになっている。
(3)キャリア強化科目群
これらの科目は修士課程の最終学期に履修するもので,用意されている4科目,「ウェブ型顧客管理手法(CRM)」「ウェブ型サプライチェーン管理(SCM)」「ウェブ型企業資源計画(ERP)」「データウェアハウスと知識管理」のうち1科目を,選択して履修することが義務付けられている。いずれも,中規模のプロジェクト学習(6単位)で,入学以後の3学期間で学んできた知識・技術を現実のビジネス環境に近い形のシステム開発・アプリケーション開発で活用し,(修了後の)企業での実践力強化を目標とするものである。これらはいずれも現在のウェブビジネスで最も重要視されているアプリケーション分野である。そして,その導入が適切になされるか否かが企業の命運を左右するとみられており,これらに精通した技術者に対する企業側の需要は極めて高いものである。
先に述べたように,キャリア強化科目は従来型の大学院の修士論文研究に代わるものである。従来の修士論文研究は指導教員の研究テーマに沿ってなされるのが通常であるが,このような研究テーマは必ずしも企業等における実務に直接関係するものではない。そのため,これら修士号取得者が企業での実務になじまないことが多く,技術系の大学院教育に対する産業界の不満の原因となっていた。専門職大学院で修士論文研究が不要となったことで実務指向の技術教育を実施しやすくなったわけで,本学のカリキュラムはその利点を最大限に活用し,実務指向教育を目指すものである。
かつて「企業における情報処理部門はデッドエンド」と言われた時代がある。情報処理あるいはIT部門は「縁の下の力持ち」あるいは「裏方さん」で,そのような部門にあまり長くいると出世の妨げになるというわけである。この理由として,当時は情報システムというものが企業の経営にそれほど大きな影響を持つものではなく,情報処理・ITの専門家が経営のトップレベルで必要とされていなかったため,あるいはジェネラリストを重視する日本企業の伝統により高度の技術専門職が経営のトップレベルでは敬遠されていたため,と考えるであろう。
ところが,企業経営と情報システム管理が密接に結合してしまっている現在においては,IT部門にいかに有能な人材を配置するかが企業の存続にも関わる重要課題になっている。かつてのように,IT設備のベンダーにまかせっきりで情報システムを運用するという方式では不充分になってきた。かといって,入社してきた新人を社内訓練により情報システム担当者に育て上げるという従来の方式も現実的でなくなりつつある。最新の高度専門技術を持つような人材を社内で育成することは,コスト的にも引き合わなくなってしまっているからである。さらに,経営のトップレベルで企業戦略を策定する際において,情報システムの専門家の存在が不可欠になりつつある。すなわち,経営のトップレベルにITの専門家が必要とされる時代に入っていると言うことができる。
本学の修了生は,情報技術修士(専門職)として,企業等におけるIT関連の種々の業務を担当することができる。伝統的なものとしては,
・情報システムの企画
・情報システムの設計と運用
・企業の情報戦略の策定
・CIO(Chief Information Officer,最高情報統括責任者)
最近の技術に重点をおいた職種としては,
・eビジネス戦略の策定
・ウェブ型SCMやウェブ型CRMなどのアプリケーション開発
・最新情報技術の導入やアウトソーシング
あるいは,独立した自営業として
・システム導入のコンサルタント
・ウェブビジネス用のサイトの設計・製作
などが考えられる。
IT専門家の育成を使命とする本学のカリキュラムは日進月歩の技術革新に対応して,その内容を常に更新してゆく必要がある。その意味で,法科大学院のような長い期間にわたって教育内容があまり変わらない専門職大学院とは事情が非常に異なる。各科目の授業内容は多くの場合,毎年のように改良してゆく必要があろう。カリキュラム中の科目の追加・廃止なども頻繁に行う必要があるものと思われる。また,まったく新しい専攻の設置も必要となるかもしれない。すなわち,本学のカリキュラムにおいては,その融通性・流動性こそが発展の生命線となるべきものである。このような方針は現行の文部科学省の諸規制と必ずしも相容れるものではないので,それをいかに解決するかが今後の大きな課題である。