『泉州本草』には,蓬莱は薬草で,田の畔や水辺に生えていると記されている。地名としての蓬莱に関しては,漢武帝から秦始皇帝にかけて二つの神話がある。詳細に違うところがあるが,大体似ているところが多い。ひとつは,前漢の武帝が仙山に長生不老の薬があると聞き,海の近くの山で遠くを眺めるが,仙山は見つけられず,遠くに赤い光を見つけて,方士が蓬莱草を仙山蓬莱と解釈したというものである。もう一つは,ほぼ同じであるが,主人公は秦の始皇帝で,方士は日中で有名な徐福となっている。
地名としての蓬莱は,実際中国に二カ所ある。ひとつは山東省の蓬莱で,渤海・黄海に近い。もう一つは浙江省舟山群島の蓬莱で,東シナ海側に位置する。どちらの蓬莱も古代から人々の美しい願いと神話に関係している。
《泉州本草》中,蓬莱是药草,生长在田边堤岸。关于蓬莱作为地名的由来,有汉武帝和秦始皇的两个版本,故事的脉络不尽相同,但大致意思相似。版本之一,传说汉武帝听说海中仙山有长生不老药,来到海边山头筑城眺望,没看到仙山,只看到海天尽头的一片红光浮动。随行的方丈灵机一动,把蓬莱草解释为仙山蓬莱。另一个版本,脉络几乎一致,只是主人公变成了秦始皇,方丈也就是在中日历史上知名的徐福了。
叫做蓬莱的地方,在中国有两处。一是在山东省蓬莱,濒临黄渤海。另一个在浙江省舟山群岛,位于东海之滨。无论是山东蓬莱,还是舟山蓬莱,都因人们追求美丽神话的心愿而诞生。
筆者が,初めて山東省の蓬莱山に登った時は,夜に遼東半島の旅順から船で出発し,朝霧の中に仙境のような蓬莱を遠くに見て,八仙過海の姿が美しかった。2100年前からこの地は世の中の人間仙境と言われている。蓬莱閣へ向かう道中では,海波,海霧に囲まれ,仙境を実感した。
蓬莱を求める道を進め,瑯邪と徐福に辿り着いた。大連出身の筆者は,海の彼方の蓬莱を毎日眺めていたので,秦の始皇帝に関して長生不老仙薬の神話を信じ始めた。友人は車を運転しながら,黄島から瑯邪について徐福と蓬莱を語り始めた。
初次登山东省蓬莱,夜里乘船自辽东半岛旅顺出发,清晨见隔海相望的蓬莱仙岛,雾气蒙蒙中神话般的蓬莱仙境,八仙过海的身影,美不胜收。据说早在2100年前,这早已是人间仙境。走在去蓬莱阁的小路上,海雾,海涛,一路仙风缭绕,这一瞬,仿佛亲近仙境。
于是,寻蓬莱一路上就走到了琅邪和徐福。也许出生在大连的我,每日在海雾中翘望海那端的山东蓬莱,自然喜欢谈起长生不老仙药的第二个版本。朋友开车带我从黄岛到琅邪,一路上一直在说着徐福和蓬莱。
司馬遷『史記』の「淮南衡山列伝」には,徐福が,秦の始皇帝に,「東方の三神山には長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し,受け入れられて,3000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を伴い,五穀の種を持って,東方に船出し,「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て,「止王不来」王となり戻ることはなかったと記されている。
关于徐福的记载最早见于《史记》的”淮南衡山列传“。当时,秦始皇苦求长生不老,徐福则毛遂自荐,称在东方的三座神山中,有神仙栽培的长生不老仙药。于是秦始皇派徐福率领童男童女三千人和数百名技工随行,带谷种粮食等入海赴东方求仙药。出海后,徐福来到”平原广泽“,便”止王不来“,自立为王,不再归来。
東方の三神山とは,蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山は,のちに日本でも広く知られ,『竹取物語』にも「東の海に蓬莱という山あるなり」という記述がある。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島を指し,現在では禅宗寺院の住持の意味などにも使われている。瀛州はのちに,まさに日本を指す名前となっている。「東瀛(とうえい)」ともいわれる。
东方三座神山,也就是常说的蓬莱·方丈·瀛洲。其中蓬莱山与日本渊源颇深,在《竹取物语》中记载着”东海中有一蓬莱仙山“的字句。而方丈,曾被解释为东海仙人居住的仙岛,现在则被称为寺庙内的主持。至于瀛洲,估计可以考证为日本,后来也被称之为”东瀛“。
出航地については,現在の山東省から浙江省にかけて幾つか諸説あるが,五大古港の一つ琅邪港も有力とされる。途中,現在の韓国済州道西帰浦市(ソギポ市)や朝鮮半島の西岸に立ち寄り,日本に辿り着いたとされる。東シナ海を出た3000人を擁する大船団は,ひとかたまりで動くことはなく,ある船は対馬海流に乗って東北地方まで,またある船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾,三河湾,遠州灘に面した地域や伊豆半島,八丈島などにばらばらに流れ着いた可能性は高い。
徐福的出发地,也有山东省和浙江省两种版本。其中由中国五大古港琅邪出海的记载最被推崇。途经韩国济州道西归浦市,沿朝鲜半岛西岸终于到达了日本。航行在东海中承载着三千余人的巨大船队,七零八落,千辛万苦。据记载,一部分曾被对马海流牵引着走入日本东北地区,也有乘黑潮直奔熊野海滩,到达纪伊半岛,伊势湾,三河湾,远洲滩等地,或者也有人传说,可能被冲入伊豆半岛和八丈岛附近。
実際に,日本における徐福伝説は,北は青森から南は鹿児島まで全国に散らばっている。船に乗っていたのは,青年男女数千人と機織り職人,紙職人,農耕技術者,漁業特に捕鯨などの専門家,木工技術者,製鉄技術者,造船技術者など生活に関わる技術を習得しているものが多数いたらしい。始皇帝による中国統一は,一方で斉の滅亡を意味し,徐福の船団は,万里の長城の建設などで多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満を抱き,東方の島,新天地への脱出〈エクソダス〉を企図したものであり,一種の民族大移動ともいえるかもしれない。日本にたどりついた徐福は永住し,その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」も日本各地に存在する。
在日本关于徐福的传说,北起青森南至鹿儿岛,处处可闻和徐福一起乘船远渡而来的青年男女数千人以及织布,造纸,农耕艺人,渔民中甚至也不乏猎扑鲸鱼的高手,还有众多木匠,铁匠,造船技术者等。后人赋予的想象,将徐福的传说,添写得更加美轮美奂。随着秦始皇统一疆土,齐国灭绝。齐民徐福率领的船队,也许在更深一层的含义中,是饱含对搜刮民脂民膏建设万里长城秦始皇政局的不满,奔向东方新世界。从这个角度来判断,这段传说也可以演绎为一种民族大迁徙。而今永远留在日本国土生活的徐福,其子孙也被称之为”秦“,而徐福的传说,流传于日本各地。
去年,琅邪の友人が仕事で来日した折に,久しぶりに徐福の話で一緒に蓬莱琵琶湖バレイに登った。日本最大のロープウェイが,多くの観光客を山上まで運んでいる。蓬莱山上は,360度のパノラマを楽しむことができ,北西の方角には,中国大陸まで見えるかと錯覚するほどだ。時には,山上より遠く徐福を偲ぶこともある。
去年,琅邪的朋友访日时,为续徐福传说的前缘,一起登上琵琶湖蓬莱山。山麓上日本最大的索道,源源不断将游客们带到山顶。蓬莱山顶,360度的视野,在这一瞬,远眺西北方,中国大陆好似漂浮在眼前,也在这一瞬,徐福仿佛也在山间云端。
中国には,徐福=神武天皇とする説もある。2016年は,神武天皇の2600回忌とされ,4月3日には,皇室も参列され式典が行われている。年代が少し異なるが,『日本書紀』や『古事記』による年代の正確さは,『史記』に譲る可能性は大だろう。徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われる。徐福は日本の国つくりに深く関わる人物であったかもしれない。
朋友说,徐福在中国也被称为神武天皇。2016年是神武天皇2600周年忌,4月3日,日本天皇也出席了庆典。也许年代会有些不同,日本史书和民间传说中记载,也许会略逊于史记,但也清楚的写着,徐福在离开中国的时候,带到日本的谷种中有水稻,还有金银,农耕机具,技术工人(也称之为五谷百工)这样的字句。由此,齐人徐福也在日本历史上被演绎为日本始源中一个重要人物。
遼東半島の大連から,現在,琵琶湖西岸,蓬莱山の山麓に居を構えている筆者は,4月3日に蓬莱の神武天皇の物語を読み,中国の蓬莱を夢に見て,また日本の蓬莱を目前にし,夢の中と目の前の蓬莱が,時々重なる。
寻徐福,一路从中国辽东半岛大连,来到日本琵琶湖西岸,蓬莱山终于留住了我的脚步。4月3日,在蓬莱山下,重读神武天皇的故事。中国的蓬莱,日本的蓬莱,梦里眼前,又见蓬莱。