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Accumu Vol.11

古都逍遥 鴨川校洛北校周辺

米田 貞一郎

校友会会員の皆さんお元気ですか。

前回のアキューム(10号)では,京都駅前校周辺を一緒に探訪して頂きました。この度は,鴨川校・洛北校の周辺を逍遥してみようと思います。しばらくお付き合いをお願いします。

ユリカモメと大洪水

晩秋11月にもなりますと,鴨川には,北の方カムチャッカ半島で繁殖の仕事を終えたユリカモメの群が帰来して,川面に美しい白の絞模様を描いています。鴨川校の窓から見ていると毎夕暮,琵琶湖南湖西岸のねぐらに帰ろうとして,幾組にも分かれ大きな群舞を演じながら飛んでゆく「鳥柱」が見事です。

さっと一羽が水面から勢いよく飛び立つと,あとを追って二,三羽,続いて数羽,やがて十数羽が末広がりの編隊をつくって大空を旋回すること二,三回,東の方に姿を消してゆくのです。

行方を見定めようと学校を出て目の前の賀茂大橋に立ちますと,東には五山送り火の一つ「大」の字も鮮やかな大文字山,北には糺の森をかすめて高野川の奥に,同じく「妙」「法」の字を刈り込んだ松ヶ崎西山と東山が望まれます。

この賀茂大橋は鴨川と高野川の合流地点に,1933(昭和8)年に架けられ,長さ141.4米,幅22.1米で鴨川に架かる36の橋の中では最長です。1935年の大洪水にも流失しなかったものの一つです。

鴨川の洪水といえば昔から有名で,平安遷都(794年)直後の795年から1935(昭和10)年までに149回(8年に1回)も襲ったといわれます。白河上皇(1053~1129)も「賀茂川の水,双六の賽,山法師,是ぞ朕が心に随はぬ者」(天下三不如意)と嘆いたという話が残っています。

その昭和35年6月28日深夜から29日の朝にかけての梅雨前線に伴う集中豪雨は,1時間に最高47ミリ,断続的に4回も襲ってきました。鴨川の増水は,ほぼ全域で3米を超え,四条付近では最高5米に達したほどです。架かっていた橋で無事だったのは26のうち4つ。上流からの流材・流樹が橋につかえて堰のような状態になり,増水した水が堤防上から溢れて町中に浸水,泥海同然でした。

この水害を契機に「千年の灌水」と呼ばれる防水対策の近代化が図られ,時を逐って今日見る景観へと変わってきたのです。

鴨川の成り立ち

鴨川はまた賀茂川とも表記されますが,厳密な使い分けはないようです。1965(昭和4)年3月24日付の政令では「北区雲ヶ畑町から旧中津川区域を含む二万三千四五米を『鴨川』と定め,今日に至っている」(京都新聞社編『京都いのちの水』)と,源流からすべてを鴨川と呼ぶことにしていますが,通常はこの賀茂大橋のあたり,即ち高野川との合流点を境として,上流を賀茂川,下流を鴨川と書きならわしているようです。

表記もさることながら,鴨川の成り立ちについては説が分かれています。その一つは,平安遷都が定まった時,流路がつけかえられたというのです。現在の上賀茂から下鴨のあたり東南方に向かって新しい流れを開き,旧賀茂川の水を落としたので,旧賀茂川は減水して現堀川となったというのです。いかにもこの高野川との合流点から川上を見渡しますと,上賀茂あたりまで流路がほぼ一直線に見えますし,地図の上でも旧賀茂川との分岐点からまっすぐ南へ延長しますと堀川と重なります。

他方,そうしたつけかえ説を地質学や自然史学の立場から否定する説もあるのです。もしつけかえられたとしたら,当時の技術力で掘り出された莫大な量の土砂はどう始末されただろうか。また,地下鉄烏丸線工事のための発掘現場の調査などからも地質学的に,鴨川は古くから現在の位置を流れていたとするのが妥当だというのです。

カモ族と糺の森

ところで,カモという名についてですが,これにも古い因縁が語り継がれています。

それは神武天皇東征説話の中の,軍の先導役八咫烏が,賀茂建角身命の化身であって,これをカモ氏が祖神と仰いだことから始まります。カモ氏は初め大和の葛城山に住み,次いで山城国岡田鴨(今の相楽郡賀茂町の岡田鴨神社はそのゆかりの神社)に移りました。その後木津川を下って鴨川と桂川との合流点から鴨川を遡上して北山の麓,賀茂郷に安住したといわれます。

さて,賀茂大橋に立って北の方,鴨川と高野川の合流点に見える河原は糺河原,また河合河原とも呼ばれます。今は小公園ですが,古くは若狭街道の入口で人の集散も多く,軍事上の要地でもあったのです。足利時代には将軍義教・義政を始め,公家大名らが観世音阿弥を中心とした勧進猿楽を楽しんだといわれます。江戸期には鴨川中流の四条河原と並ぶ納涼地として水茶屋も出て,大いに賑わったということです。

ここから北へ続くのが糺の森です。下鴨神社と攝社河合神社などを包み込んだ南北約一粁の社叢。「糺」の名は,河川合流点を意味する「只洲」に由来するとも,また糺すの字義,「理非を明らかにする,偽りを糺す」からともいわれます。古代から禊を行う場所としても知られ,また都の東北の出入口―大原口・鞍馬口に近いので,軍勢が布陣されたこともありました。

鬱蒼とした木立には落葉樹林主体の種々の樹木があり,樹間を流れる御手洗川・泉川は今こそ木の下蔭に入っていますが,古くは蛍も飛び,これまた納涼の絶好の場として人々に喜ばれたところです。森の西端に沿って南北に走る馬場があり,「葵祭」の流鏑馬神事が行われるところですが,平素は大人子供の格好の遊戯場。時にボーイスカウト・ガールスカウトのキャンプ地に活用されたり,古本市が賑々しく開かれたりしています。

傍らに「第一蹴の地」と刻まれた自然石の碑があることは,あまり知られていません。これは,1910(明治43)年初夏に京都に初めてラグビーフットボールが東京の慶應義塾大学蹴球部の選手によって紹介され,旧制第三高等学校の選手たちがここで,ボールを蹴り始めたことを記念して,1969年に建てられたものなのです。

下鴨神社

下鴨神社 楼門
下鴨神社 楼門

糺の森の南口から北に向かってまっすぐに参道を進むと鳥居があり,その奥に下鴨神社が鎮座しています。正しくは賀茂御祖神社。祭神は前述の賀茂建角身命とその女玉依姫命です。上賀茂神社とあわせて賀茂社と総称し,上賀茂神社を上社,下鴨神社を下社とも呼びます。下社の祭神二柱と上社の祭神賀茂別雷命をめぐっては次のような伝説が有名です。

『山城国風土記』逸文によりますと,賀茂建角身命は丹波の国神野の神伊可古夜日女を娶って,玉依日子,玉依比売を生みました。その玉依比売が瀬見の小川で川遊びをしていますと,川上から丹塗りの矢が流れてきました。それを拾って帰り,床の辺にさしておくとついに身籠って男の子が生まれました。健やかに育ったその子が成人に達した時,神々の集った祝宴の後,祖父の建角身命が「汝の父と思う人に,この酒を飲ませよ」と告げましたところ,彼は屋根の甍を破って昇天し,乙訓の社に降りました。丹塗りの矢の本体はその社(向日町の向神社とされます)に坐す火雷神であることがわかりました。そこで,この子神は賀茂別雷命と名づけられ上賀茂神社に祀られたのです。

この話はいわゆる神婚説話です。その由来は,農耕民である賀茂氏にとって雨水は最も大切なものであり,旱天の時に慈雨をもたらす雷神こそ崇敬せねばならないという信仰から生まれたものと考えられています。また,大和系の賀茂氏が西方の出雲系の氏族と結ばれ,両系の結合された文化・信仰がここにつくり上げられたとも見られます。

下鴨神社では,祭神賀茂建角身命を西本殿に,玉依姫命を東本殿に祀っています。その成立は750年頃といわれ,平安遷都(794年)の折,上賀茂神社とともに王城鎮護の社,山城国一の宮として尊崇されました。その後も朝廷・公家・武家の信仰が篤く,わけても徳川家康は家紋の三つ葉葵が神紋の双葉葵に似ているので深く崇敬しました。

殿舎の造替は,伊勢神宮の遷宮に準じて約2,30年間隔で盛大に続行され,近くは1994(平成6)年に執り行われました。

東西両本殿は国宝です。鳥居をくぐって正面に見る楼門,これに続く東西の廻廊,中に入ったところの舞殿,その右手を流れる御手洗川の上の橋殿など31棟の建物が国の重要文化財に指定されています。

境内にある攝社は数社。その中の第一攝社河合神社は森の西南隅にありますが,鴨川と高野川の合流点に近いことからその名があるといわれます。祭神はここでも地主神としての玉依姫命です。『方丈記』の著者鴨長明が後鳥羽上皇によって当社の弥宜に推されましたが,鴨一族内の反対で実現せず,これが彼の遁世の一因となったという話が伝えられています。現在は安産の神として信仰する人が多いといいます。

上賀茂神社

上賀茂神社
上賀茂神社

上社・上賀茂神社は正しくは賀茂別雷神社。祭神は先にも出ました賀茂別雷命。その成立は729年頃までの文献にその名が見えますが,社伝では677年に初めて社殿が造営されたとしています。平安遷都の時,下社とともに王城鎮護の社として神威を高め,山城国一の宮として尊崇されました。

殿舎は広大な神域内に,国宝の本殿と権殿(渡殿とも),重要文化財の34棟。緑したたる樹々の間に朱塗りの建物が見え隠れして荘厳です。

攝社は11社。その内境外攝社の一つ,大田神攝社は当社の東にあって,猿田彦命・天鈿女命を祀っています。参道脇のカキツバタ群落は古くから有名で,今は国の天然記念物に指定され,その開花期5月頃には訪ねる人の後が絶えません。

また,当社の北約二粁にある神山は,神奈備山ともいい,山頂に巨大な岩石が数個。古くはここに神霊が降臨した岩座だとされています。

1994(平成6)年12月,両社全域がユネスコの世界遺産に登録されました。

葵祭

葵祭
葵祭

上社・下社とも年間恒例の神事・祭礼は多いのですが,その中の最も著名なのが葵祭です。祇園祭・時代祭とともに京都三大祭の一つ。古くは賀茂祭といって,奈良の春日祭,男山八幡の岩清水祭とともに日本の三大勅祭の一つにも数えられました。また「祭」といえば葵祭とされるほど重要な祭です。

葵祭の始まりは7世紀の終わり頃。賀茂地域の人々を始め,広く山城の国の各地から多くの民衆が集まるようになり,見物席の取り合い,車争いを繰り返すなどの雑踏が,『源氏物語』『枕草子』などにも描かれました。

祭礼が官祭となった平安時代の初めの頃からは行列に参加する人も,未婚の内親王や女王から選ばれ紫野の斎院で精進潔斎生活をした後,神社に奉仕し祭事にもたずさわった斎王らも,頭に双葉葵をかざして都大路をパレードするなど,その華美・ぜい沢さに禁止令が出されるようになりました。

中世になると祭料の不足などから,華美の風は消えました。そして応仁の乱(1467~77年)でパレードは中止となりました。

復活したのは約200年の後,1694(元禄7)年のことで,その名も初めて葵祭と呼ばれました。祭の形が今日のようになったのは,明治になってからなのです。

さて毎年5月になりますと,15日に先立って上社では競馬足汰式,競馬会神事,御阿礼祭,下社では流鏑馬神事,歩射神事,御蔭祭などが行われます。斎王代も市民の未婚女性の中から選ばれ,十二単姿で御禊の儀を,上社下社一年交代でそれぞれの御手洗川で勤めます。

いよいよ5月15日の祭日となりますが,この日は,宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀の三つが行われます。

当日早朝,宮廷から差遣された勅使以下の関係者が御所に集まり,御祭文・御幣物を拝受するのが宮中の儀です。

その後が路頭の儀で,午前10時半ごろ,総勢約510名,牛馬約40頭,牛車2台,腰輿1基から成る全長約一粁の参向行列が御所建礼門前を出発します。

斎王代
斎王代

行列は,第一列警衛列(検非違使・山城使),第二列幣物列(御幣櫃),第三列走馬列(馬寮使),第四列勅使列(牛車・舞人・勅使=近衛使・風流傘・内蔵使),第五列斎王代列(腰輿に乗った斎王代・女人列47名・牛車)。平安朝の貴族たちそのままの服装で静々と,下鴨神社まで4.8粁の行進です。

丸太町通りから河原町通りを北行,出町橋を渡って御蔭通りに入り,糺の森南口から木の下蔭の参道を北進し,鳥居をくぐって正午前に社前に到着します。

ここで社前の儀が始まり,勅使の祭文奏上,御幣物奉納,斎王代奉拝,牽馬の儀,舞人の東遊奏上などの諸儀式が粛然と古式豊かに執り行われます。

その後,休憩の間にも馬場では走馬の儀が行われますが,やがて13時過ぎになると,上賀茂神社まで,3.4粁の路頭の儀が始まります。参向行列は下社の場合と同じ。境内の西口を出て下鴨本通りを北進,わが洛北校のすぐ近く,北大路通りの交差点を左折して北大路橋を渡り賀茂川堤を北に。王朝絵巻さながらの行進も桜並木を過ぎて御薗橋を渡るとすぐ上社の第一鳥居に到着です。時刻は凡そ15時半。騎馬の勅使官人たちも下馬,斎王代も腰輿から降りて,広い芝生の間の参道を徒歩で神前の社頭の儀に向かいます。

儀式は凡そ下社の通り。社頭の儀が終わりますと,社前の芝生の間の馬場で,行列に加わった馬14頭が1頭ずつ走り抜ける走馬の儀が行われて葵祭は終了です。

この祭に奉仕する人たちの中には,両社の旧社家出身の方がかなりおられ,今なおその社家の屋敷が残っています。上社の近く,明神川の清流を前に,「社家の町」として並んでいるのも奥床しいことです。1988年には,京都市の「伝統的建造物群保存地区」に指定されました。

植物園とその界隈

昔から,賀茂郷といわれた地域は広いのですが,その中心,賀茂両社のほぼ真ん中に,1924(大正13)年,わが国で最初に開園した京都府立植物園があります。面積24万平方米。東に比叡・東山連峰を望み,北に北山一帯を背景とした洛北景勝の地をひかえ,西には鴨の流れを見るという絶好の環境です。

第二次大戦の直後,進駐軍に接収されて,アメリカン・スクールまで設けられていましたが,1961年に新装・再開。1万種を超える植物を保有し,ドーム型大温室では冬季も種々の熱帯植物が見られるなど,近代的総合植物園に発展しました。

半木神社
半木神社

ところが,この園内ほぼ中央に,半木神社という小祠が祀られています。上賀茂神社の境外末社で,祭神は天太玉命。半木とは流木の訛りで,賀茂川の洪水で上流から流されてきた神がここにとどまったので社殿を設けて祀ったと伝えます。小さな池泉をめぐらし,朱塗りの建物ですが,樹々に包まれているので見過ごされがちです。しかし,最先端をゆく近代施設の中にこの古い小祠。京都ならではの光景で,ここにも古いものが新しいものを拒まず,新しいものがまた古いものを求める京都気質がうかがえるのではありませんか。

京都市営地下鉄烏丸線の延伸で,植物園の北側に北山駅ができ,北山通り南側に京都府立総合資料館と並んで京都市立コンサートホールが出現。通りの北側は若人向きのファッションストリートと,昔からの鴨川すぐき畑がここ3,40年の間にだんだん姿を隠してしまいました。

しかし,まだ賀茂の地には見るべき自然が残っています。春は鴨川・疎水べりの桜,夏は大田神社のカキツバタ,秋は植物園のもみじ,冬は鴨川の渡り鳥と,目を楽しませるに事欠きません。

その折々,いつなりと足を伸ばして母校の門をたたき,その発展ぶりを見てくださってはいかがでしょう。

皆さんの活躍と健勝をお祈りしています。


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米田 貞一郎
Teiichirou Yoneda
  • 京都帝国大学文学部卒
  • 元京都市立堀川高等学校校長
  • 元京都市教育委員会事務局指導部長
  • 京都学園大学名誉教授
  • 京都コンピュータ学院顧問

上記の肩書・経歴等はアキューム20号発刊当時のものです。