私は1971年に新設された京都大学工学部の情報工学科の1期生です。萩原先生はその設立時に数理工学教室から転任されました。3年次になって,先生の専門科目の講義を初めて聴講し,「きちんと」された服装はもとより物静かではあるが威厳に満ちた口調に「これが大学の(専門課程の)先生なんや,講義なんや」という強いインパクトを受けました。
その次の1973年の学部4回生の卒業研究のための研究室配属に際して,「コンピュータ(当時は電子計算機)をまるっぽ作りたかった」私はためらうことなく萩原研究室を選びました。コンピュータをブラックボックスにせずにハードウェア構成まで目を向ける研究テーマを提示している研究室は萩原研しかなかったのです。3回生で受けたあのインパクトの因であった萩原先生の講義科目が「計算機の構成」であり,また萩原研の呼称が「計算機システム」であることも私の配属先の希望を後押ししました。
先生のご子息が私のすぐ後の世代であり,先生と私は親子ほどの世代間ギャップがありましたが,以来,先生とは40年のおつきあいでした。京大での萩原研の学生と萩原研の教員として先生が停年退官される1990年までの18年間はもとより,京大退官後の龍谷大学や京都情報大学院大学(KCGI)時代にも日本学術会議会員をされていた先生のカバン持ちや中国遠征等の大学人としての仕事でご一緒することが多々ありました。
先生はご結婚を期して居を構えられていた修学院から1990年前後に松ヶ崎のご実家に転居されていましたが,私も先生の京大退官の後を追うように現籍の京都工芸繊維大学に転任しました。先生の松ヶ崎のご自宅は同じ松ヶ崎にある京都工芸繊維大学の西側すぐの所にあり,先生が京都工芸繊維大学へ来られて一緒に昼食を食べたり,先生宅へおよばれに行ったり,松ヶ崎と修学院の中間にある高野川畔への散歩の途中で出会い立ち話をしたりして,親しく過ごさせてもらいました。
萩原先生はもろもろの点で「きちんと」されていました。たとえば,京都の暑い盛りでも,ネクタイと背広は欠かさずに着用されていましたし,私が助手に採用されて初めて講義をする際にも,「講義は学生さんとの勝負,きちんと(対峙)せなアカン」と注意されました。ただ,萩原先生の場合には,「きちんと」が,がちがちに堅苦しいのではなくて,まさに,大局的な余裕を感じさせる整然さや正確さであったのです。
コンピュータアーキテクチャ研究の黎明期には「コンピュータアーキテクチャはコンピュータハードウェア」というのが大方の認識でしたが,萩原先生は「コンピュータはハードウェアとソフトウェアが機能分担しているシステムだよ」と断言されていました。情報工学教室での萩原研が,「計算機システム研究室」と呼称するとともに,国内外のコンピュータアーキテクチャ研究に「コンピュータアーキテクチャはハードウェアとソフトウェアによる機能分担方式」という先鞭をつけたのは,この先生の(静かなる)惹句あるいはアジテーションによる所が大だと思います。
萩原先生は「漢字」に造詣が深く,それによって「漢詩(の創作)」や「篆刻」などの趣味の域を超えた技芸を生み出されていました。また,先生は毛筆による書でもペン字でも達筆でした。まだ手書きの時代に,拙文の添削をされ,「字がきれいでないのは筆順が誤っているからだよ」と具体的な(「必」という字でした)指導を受けたこともあります。
萩原先生が定年の定めによって京大を退官された1990年の秋に,武漢大学からの招待を受けて,先生と私とは2週間に渡って中国に滞在しました。北京から入り,武漢大学に1週間滞在して二人でかわるがわる講義しました。武漢大学の宿舎での私の最初の仕事がトイレの修繕だったこと,同所での最初の晩に先生が密かに持参された携帯ボトルのウィスキーで二人ともしたたかに酔っ払い先生をベッドに寝かせるのに苦労したこと,同所でシャワーの湯が出ずに先生がしたためられた漢字のメモをかざしての私の守衛との談判が先生の達筆のせいで通じなかったこと,最後の休みに夜行の寝台列車で桂林へ行っての漓江下りの船中で怪しげな石の押し売りを先生が科学的に喝破されたこと,などなど文字通りの弥次喜多いや黄門様と弥次さんの道中でした。先生はこの頃から一段と漢字への興味をかき立てられたご様子で,帰国後,漢詩の創作に熱中されました。
萩原先生のドライバー歴は長く,大学での勤務には愛車で修学院の自宅から往復されていました。ドライブそのものがお好きで,人を乗せることや長時間のドライブも楽しんでおられました。私たち情報工学科1期生の4回生への進学に合わせるようにして1973年頃に竣工した(旧)10号館の眼前に2個所あった駐車指定区域のひとつが,8時30分から17時まで「時間厳守」で,萩原先生の愛車専用となっていました。先生が出学されているかどうかはその専用区域に愛車が止まっているかどうかで分かりました。野洲にあった会社への工場見学にも愛車を出されたことがあります。そのとき,高速道の出口を間違われて到着が遅れたのですが,見学のスタート時刻には(何とかではなくて)「きちんと」間に合わせられました。
(時間に)「きちんと」しておられるのは,いろいろな状況を大局的に検討・判断される先生のお人柄だと思います。
晩年を過ごされた八瀬の居に1年ほど前にお邪魔したときに長尺の杖を携えられている立ち姿に接して,やはり「きちんと」されて過ごされているとの感に打たれました。萩原先生,長い間のご指導をありがとうございました。