初秋の一日,斑鳩の里を探訪した。
30数年前に訪れたことがある「結崎駅」(近鉄―橿原線)に降り,街道筋の風景が一変しているのに驚いた。新興住宅が建並び,道路は舗装され,川西町役場は文化ホールを併設した近代的な新庁舎に様変わりしていた。
庁舎を過ぎると赤い鳥居の「糸井神社」がある。(約1000年前の延喜式という書物にその名が記された由緒ある古社―県指定文化財)
その前を通り過ぎると寺川の堤に出る。橋を渡って左手の堤防の上に「面塚左一丁」と刻まれた石塚と「面塚の由来」を記した立札があり,堤防の左前方に面塚らしき木の繁みが目に入る。
この結崎の地に伝わる説話に「室町時代のある日のこと,一天にわかにかき曇り,空から異様な物音とともに寺川のほとりに落下物があった。それは一個の翁面と一束の葱,村人は翁面をその場に懇に葬り,葱はその場に植えたところ見事に生育し,戦前まで結崎ネブカとして名物になった」がある。
この天から降った翁面を葬った跡が,「面塚」と記されている。(町教委資料)
領主の「上島家歳用覚」の書物に,天保2年に面塚守になにがしかの知行を与えたことが記されており,古くから何等かの塚のしるしがこの地にあったことが推察される。
この「面塚」と並んで「観世発祥之地」の碑がある。(能楽五流の一つ観世流のこと)
観世発祥の地の由来は,観阿弥・世阿弥父子の時代に遡る。
観阿弥は大和猿楽座の一つであった「観世座」を伊賀の国に立てた。そうしてその子世阿弥の幼名を「観世丸」と名付けた。
当時,猿楽座は奈良の興福寺や春日若宮社等の寺社の法会や祭礼に参勤していた。
その後,観阿弥はこの大和の国結崎に居を移し,地名から結崎姓を称して,結崎清次と名乗った。座も「結崎座」として,その当主となった。
観阿弥の「観世座」,世阿弥の幼名が「観世丸」。また「観世」は結崎座の当主を意味する通称となったところから,この結崎の地が観世発祥の地となっている。
昭和11年に先々代観世流宗家観世左近師が史実にもとづいて,この地に「観世発祥之地」直筆の碑を「面塚」と並んで建立した。
昭和27年に寺川の拡張工事のため現在の堤防下に移設されたが,それ以前は寺川堤(堤防の上あたり)にあった。
この碑の周囲は玉垣で囲われ,玉垣には寄贈された観世流能楽師の方々や流友の人達の名が刻まれ,今は亡きなつかしい方々のお名前に接することが出来る。
この地は観世阿と世阿弥,結崎と観世,能楽史の一編にふれることが出来る所である。
結崎を後に,結崎駅から2つ目の駅「田原本」で降り,世阿弥の菩提寺であり,参学の地として知られる宝陀山補厳寺を訪ねる。
駅で道順を尋ねたところ「徒歩では一時間以上かかりますよ」と言われ,仕方なく駅前からタクシーを利用して,15分程で着いた。
古びた山門前の道端に「宝陀山補厳寺」の石標があり,山門を間近に見ると瓦は葺替えられてかなり新しいが,門柱や扉は痛みも激しく老朽化している。
山門右側を見ると「世阿弥参学之地」と記された碑が建ち,またその右側に,これも相当に老朽化して,損傷が激しいのかブルーシートで一部を覆われた鐘楼がある。
山門から足を踏入れると,そこは畑で夏野菜が植えられ,その左奥に墓地があり,右に古びた一軒の民家が建ち,本堂らしきものは見当たらない。
声をかけたが,人の気配がなく,墓地に足を運んだ。そこには苔むす古い墓石が4~50基程点在していた。
やがて,山門に人の気配がして,年老いた女性が帰って来られた。来意を告げて住居の玄関に迎えられた。
この女性から「世阿弥参学之地」の碑が建立された経緯や,ここ補厳寺が世阿弥夫妻の菩提寺であることが,納帖から判明したこと。また毎年8月8日の世阿弥の命日には多くの方々が参詣し,法要が営まれていること等を親しく聞くことが出来た。
補厳寺の由来は,足利時代の初め,この地の豪族十市城主が結崎出身の了堂真覚(道元より七代目)を鹿児島より呼び戻し,宝陀山補厳寺(大和最初の曹洞禅寺)の開祖とした。
当時,この辺りは興福寺の勢力が強かったが,補厳寺は新鮮な宗風と修行が天下の耳目を集め隆盛期を迎えていた。
やがて,戦国時代となり,開祖から約200年後に十市遠勝が松永弾正との戦いに敗れて十市家は滅亡し,十市家の菩提寺であったこの寺も大半を焼失している。
その後,徳川時代となり,領主藤堂高虎によって寺は再建され,幕末まで藤堂家の祈願所となっていたが,安政五年放火により山門と鐘楼を残して焼失している。
また,この補厳寺と世阿弥とのかかわりは能楽研究家故香西精氏により解明されたのである。
香西氏が現代に伝わる世阿弥の数多くの古文書を研究されて行く中で,世阿弥自筆の金春禅竹宛の書状に「仏法にも しうし(宗旨)のさんがく(参学)と申すハ とうほう(得法)以後のさんがく(参学)とこそ ふかん寺二代ハ おほせ候しか」の一文に目を止められた。
このふかん寺から補厳寺を割出されたのである。
この知らせを聞かれた能楽研究家表章氏が補厳寺に行かれ調査された。そうして納帖の中に世阿弥の法名「至翁禅門」を見つけられた。
香西氏もその知らせで補厳寺に行かれて調査に加わり,世阿弥の妻の法名「寿椿禅尼」を見つけられた。
これによって,補厳寺が世阿弥夫妻の菩提寺であることが判明したのである。
時に昭和34年のことである。
書状の中に「さんがく(参学)とこそふかん寺二代ハ」とあるが,このふかん寺二代は竹窓知巌のことであり,この知巌が世阿弥参学の師であり,世阿弥の遺著「花鏡」等に見られる顕著な禅的教養は,知巌の教えに大きく影響を受けたものと考えられている。
その後,昭和57年に世阿弥の遺徳を仰ぐ人たちが発起人となり,全国各界の方々から寄金を募り,世阿弥の父観阿弥の没後600年,補厳寺開基600年に当る昭和59年に「世阿弥参学之地」の碑が建立された。
歌舞幽玄の能を大成し,その芸術性を高揚した世阿弥の偉業を顕彰するに応しく,また補厳寺が史跡としての意義を宣揚することを願ってこの碑が建立されたのである。
帰路,山門を出ると世阿弥も見たであろう夕日に映える美しい大和三山のうち耳成山と畝傍山の二山を正面目のあたりに見ることが出来た。
世阿弥は能の修練と心構え等について数多くの伝書を著述し後世に伝えている。
中でも「風姿花伝」,これは父観阿弥から受けた能役者としての教え,加えて世阿弥自身が芸の修業に励む姿を後世に伝えるため,実子元能と甥の音阿弥に伝書として書き送ったもので,能を演じる上では現在も生きている。
風姿花伝をはじめとする伝書は「世阿弥十六部集」吉田東伍校註となり,明治42年2月に発行されている。
また,昭和20年3月には「世阿弥二十六部集」川瀬一馬著が発行された。このように世阿弥の古文書解明が諸先輩の先生方の研究によって世に出ている。
それ以降においても,多くの方々が世阿弥の研究に尽力され,数多く伝書の解説書等が出版物となっている。
世阿弥は能を単なる趣味や芸事としてではなく,これを人の道に置きかえて,能の稽古を「習道」と見なし,伝書の題目には「至花道」「遊樂習道風見」「習道書」等と題している。
また,これ等の伝書にはことごとく「花」について書かれている。そのため「風姿花伝」「花習」「至花道」「花鏡」「拾玉得花」「却来花」等が花を題目にしている。
いかに世阿弥が「花」を大事にしていたか,「花」は能の命だといっている。世阿弥が言うところの「花」とは,全ての草木は四季折々に花を咲かせるが,一度咲いた花は必ず散り次の季節まで咲くことはない。咲くべき時に咲き,散ってまた咲くまでに永い時を要するからこそ,人々は咲くのが待たれ,咲いた時に美しさ珍しさを感じ,賞賛される。能も同じように見る人に珍しさを感じさせるところが,即ち面白いところであると。その花のために必要な工夫と努力が説かれている。
一言では言い尽くせないが,「風姿花伝」の別紙口伝や「拾玉得花」等に詳記される。
また 伝書の一つに「花鏡」がある,その(奥の段)に次の一句がある。
しかれば,当然に,万能一徳の一句あり
初心不可忘。
この句,三箇条の口伝あり,
是非初心不可忘。
時々初心不可忘。
老後初心不可忘。
この三,よくよく口伝可為。
この一句を解り易く言えば。
さて,私共の芸に,あらゆる功徳を一まとめにした金言がある。それは
「初心忘るべからず。」
というのである。これには三箇条の口伝がある。
「批判規準となる初心を忘れてはならぬ。」
「自分のそれぞれの時期における初心を忘れてはならぬ。」
「老後の初心を忘れてはならぬ。」
この三句は,よくよく口伝を受けるべきものである。となる。
この一句は,能の稽古や工夫が一生涯にわたってなされることを教えるものであるが,これ一つをとっても,ただ芸能修業のためのみに説かれたものに止まらず,同時に人間としての人生修業の大事なことと,人生探求を鋭く指摘しているものである。
青少年期の初心を忘れず身につけていれば,年老いてもいろんな利益がある。「前の非を知るのは,後の是を得るゆえんだ」と言われるように,初心時代の未熟さを忘れるのは,初心以後の芸を忘れることになるのではないか。芸の向上の過程において自覚反省がない者は,きっと初心時代の未熟さへ逆もどりする。現在の自分を自覚する必要のため,初心時代の未熟さをいつまでも忘れないように努めるべきだ。という人生訓になる。
この「芸」は時代が移り代わっても,人々が自分自身の身の回りに置き換えて,物事をしようとする時,絶えず心得ておかなければならない一句である。