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Accumu Vol.2

バイオテクノロジーは何をもたらすか

西岡 一

京都コンピュータ学院では,1989年度に「バイオテクノロジー」の講義が通年で行われた。長谷川学院長のご依頼で,私が世話役となり,数人の専門家によるリレー講義という形式をとった。バイオの各専門分野で研究しつつある専門家によって,最先端のバイオ技術が,若い学生諸君にこのような形で紹介されたのは画期的なことである。この科目設置に対する学院長のご熱意に敬意を表するものである。

私たちにとってバイオテクノロジーはすでに身近な存在となっており,21世紀に向けて熱い期待が寄せられている。

成長ホルモン,インターフェロン,血清アルブミン,ウロキナーゼ,肝炎やインフルエンザのワクチン,インシュリン……。遺伝子工学によるこれらの物質の生産が次々に報道されている。人類最後の先端技術と言われた遺伝子操作はすでに実験室を飛び出し,試験管の中の産業革命として耳目を集めた。こうして遺伝子工学は,既に実用化の段階に入った。それにしても,この急速な展開は目を見はるものがある。次々に打ち出される規制の緩和は,これらの急展開にはずみをつけている。当初,危惧されたバイオハザード(生物災害)や倫理の問題は,どこかへ消し飛んだかに見える。しかし,生命現象の根幹を成す遺伝子を自由自在にあやつる技術であるだけに,これに対してなお一般市民が不安を抱くのは当然のことである。ここでは,急成長して実用化時代を迎えた遺伝子工学に対する期待と,なお残る問題点を探ってみよう。

ノリとハサミ

遺伝子DNAの秘密が解き明かされて30年が過ぎた。1953年,Nature誌に掲載されたDNA分子の構造や機能に関するたった2ページの短い論文こそ,遺伝子工学の,そもそものルーツということができる。印象的なまでに美しい二重らせん,膨大な情報を記憶するたった4つの文字,全生物種の共通の遺伝暗号,今日ではこれらは高校の生物の教科書に明解に記載されており,現代人の常識であり,体制となっている。神秘のヴェールに包まれ,神の摂理だった発生,遺伝,受精,老化などの生命現象は,分子反応として理解され,現代人の生命観に大きな影響を与えている。

こうして誕生した分子生物学は,バクテリアやウィルスなどを材料に生命現象の基礎研究から始められた。DNAの複製のカラクリ,突然変異のメカニズム,遺伝情報伝達の機構が徹底的に研究された。研究のための新しい技術が次々に開発され,遂には,DNAそのものを,まるで紙細工でもするように切り貼りするまでに至ったのである。

遺伝子操作は技術的に必ずしも難しいものではない。制限酵素という特殊な酵素をノリとハサミ代りにして,A生物の細胞から遺伝子を切り出し,人工的に組み換えて,種類の異なるB生物の細胞に移し,BにAの遺伝的特徴を発揮させるのである。ちょうど,録音テープを継ぎはぎして編集し直し,新しい音楽を作る要領である。A生物とB生物はそれぞれ,バクテリアでも,酵母でも,植物でも,魚でも,鳥でも,もちろん人間でもよい。バクテリアから人間まで全ての生物種で,DNAは共通の基本構造と機能を持っているからである。この方法を用いると自然界に存在しない人工生物を合成することが可能である。現実に植物の新品種を誕生させることは比較的簡単である。農業分野で今後,この方式による新品種が,続々,誕生するであろう。

工学分野では,当然のことながら,具体的に利潤を目的とする生産活動を行うこととなる。医薬品の分野が現在のところ,最も活発である。既に現実のものとなっているのは,人間の遺伝子の一部を大腸菌に移して,大腸菌に人間のホルモンをどんどん作らせる技術である。人間のホルモンを作るこの大腸菌は一種の人工生物ということができる。こうして細胞内合成された成長ホルモンは実際に,下垂体からの成長ホルモンの分秘が不足して,130センチ程度で身長が止まる遺伝病,小人症の治療に用いられ,成功を納めている。

糖尿病に劇的な効果をもつ特効薬,インシュリンは,ブタやウシのすい臓から抽出され使用されている。世界の糖尿病患者は約6000万人,うち400万人がインシュリンを必要としており,この需要を満たすためにも,インシュリンの量産が求められている。遺伝子工学では,ヒト・インシュリンを大腸菌に作らせることにより,製造コストを大幅に低くすることができ,しかも,動物インシュリンで,しばしば生じるアレルギー反応が避けられるのである。

最も注目を浴びてきたのは,インターフェロンである。インターフェロンは強い抗ウィルス作用を有するたんぱく質であるが,ガンやウィルス性疾患の革命的治療薬として期待されており,世界の医薬品業界は,これまで文字通り血まなこになってきたものである。これまで人間の細胞を培養してようやく極微量を得てきたが,コストガ高く,量産は不可能とされてきた。ここで登場するのが遺伝子操作である。大腸菌にインターフェロン生産の遺伝子を組み込ませると,いともやすやすとインターフェロンを量産してくれるのである。

ブームと焦り

1980年10月14日,米国の証券取引上,記録に残る大波乱があった。新興遺伝子産業の旗手「ジェネティック社」の株が公開されるや買いが殺到し,35ドルの株はアッという間に89ドルにはね上がったのである。試験管から金鉱を掘りあてようとする山師を見る思いであった。この小さな会社は,1976年の創業以来,人間のインシュリンや成長ホルモン,α・β・γ,3種のインターフェロンを微生物に作らせることに成功し世界中から注目を浴びていたのであった。

米国のハーバード大学では大学内に遺伝子工学企業を設立し,莫大な収益を上げる計画を公表した。確かに,これが成功すれば大学の運営に大きいメリットが生まれるだろう。一方企業側からの科学者の争奪戦も激しかった。確かにこの技術は既成の化学産業,特に,製薬や発酵の従来の技術を色あせたものにしてしまう。

わが国でも,政府と財界が官民一致して,この先端技術をものにしようと懸命のかまえであった。通産省は56年から10ヶ年計画で進める次世代産業基礎技術研究開発制度の中心に遺伝子工学を据え,予算化をはかってきた。一方,産業界も通産省の動きに呼応して55年10月三菱化成,住友化学などの大手の化学関係5社が「バイオテクノロジー懇話会」を発足させ,「国で基礎技術の開発を」と通産省の尻押しを買って出たのである。

ここには,遺伝子工学の基礎研究面はもとより,産業化の面でも諸外国に遅れをとり,このままでは欧米に主導権を完全に握られ,特許は押えられ,莫大な利益をただ眺めるばかりという焦りがある。例えば,日本の発酵技術は,現状では世界一と言うことができるが,これは,従来の技術に改良に改良を重ね,ギリギリまでに高めた技術ということができる。もともと日本人は「創造」より「二次的創造」というべき「驚くべき改良」が得意な民族である。現在の日本の繁栄はこの驚くべき改良によると言ってもよいだろう。自動車しかり,カラーテレビしかり,コンピュータしかりである。実は,このやり方こそ,これまでは最も効率のよいやり方であった。しかし,遺伝子工学という画期的先端技術による産業革命に遅れをとれば,わが国の発酵技術は何とも色あせた旧態依然たるものになりかねないのである。

こうして遺伝子工学に触手を伸ばす企業は,微生物に実績を持つ医薬品,発酵,食品関係はもちろん,脱石油を目指す化学,繊維など100社を越す会社が,バスに乗り遅れまいとバス停に急いだのであった。中には,行先も決まらず,乗るバスもわからないまま,ウロウロする会社も出る始末であった。

沈静と淘汰

80年,81年の異常とも言える遺伝子フィーバーは,82年に入ってようやく沈静化のきざしを見せた。熱いまなざしを受けてきた,ベンチャービジネスもかげりを見せるようになってきた。インターフェロン生産を開始した米国マイアミの会社が倒産したり,ボストン郊外の会社が従業員の3分の1を解雇したりした。淘汰の時代に入ったとも言えるが,遺伝子工学への期待もやや下火になったようでもある。その理由は,遺伝子工学の技術は,それを修得することより,「何を作るか」こそが最大の課題であること,つまり,従来技術では手も足も出ないような「もの」の創出,さらにコスト的に圧倒的な差を得るものを見い出すことが,意外に難しいことであることが気づかれたからであろう。また,遺伝子工学の技術的進歩の速度が最初の予想より,必ずしも速くないこと,成果が出るまで10年を見込む必要があり,期待した程のウマ昧がない,というような思惑も働いたようである。いずれにしても,ブーム初期のバラ色の夢はややアセたものになった。しかし,新技術は常にブームから始まり沈静化して本物となるのである。

期待と不安

DNAの基礎研究の時代から,遺伝子熱にうかされた時代を経て,今,ようやく遺伝子工学は着実に実用化時代に入った。これから何が期待され,何が問題点であろうか。

私達の研究室(同志社大学工学部生化学研究室)でも大腸菌のDNAに関する研究はすでに長い。放射線や紫外線,さらに変更原物質を用いて,DNAに特異的な傷をつけ,突然変異細胞を作り,そのメカニズムの研究を行ってきた。また,DNAの「組み換え」や「切り出し」「接合」「誘導」などの技術を駆使して,さまざまな人工突然変異細胞を誘導してきた。最近ではプラスミドと呼ばれる環状の核外遺伝子を種類の異なるいろいろな細胞に導入したり,クローニングを行って酵素の産生能を高めたり,発ガン物質に異常な感度を示す細胞を創り出したりしてきた。

最近,私の研究室の大学院や学部の卒業生が,遺伝子工学に力を入れる会社の研究室に就職するようになった。時には,「将来,遺伝子工学をやりたいのですが」と相談に来る学生もあらわれるようになった。彼らは既によく勉強しており,こんな所にも実用化時代を迎えたとの印象がある。

地球に生命が誕生して,30数億年,その間,受精,生殖,発生,増殖,老化,成長,分化,遺伝などあらゆる生命現象は神のみわざにゆだねられてきた。その生命の根幹ともいうべき,遺伝子を人間が加工して,さらに「金もうけ」の対象にしようとする事に対して,各方面からの厳しい批判もまき起ってきた。一つは安全性の面からで,例えば,ガンなどの有害遺伝子を移された大腸菌が故意に,または誤って環境にまき散らされる,いわゆるバイオハザードの可能性である。このようなことになれば,人類は自ら作り出した人工生物で苦しむことになる可能性がある。このような危惧は既に予測され,1975年2月米国カリフォルニアのアシロマで行われた国際会議で議論され,研究指針(ガイドライン)が決められた。ところがここでは「遺伝子操作の研究は,人類に大きな利益をもたらすと予想されるので,危険を恐れて禁止するよりも充分な管理に基づいて進められるべきである」という結論が導かれた。ただし,毒牲の強いジフテリア菌や,ボツリヌス菌の遺伝子を大腸菌に組み込む実験などは禁止された。わが国でもこの指針に従うこととなった。

当初心配されたバイオハザードに対する規制は,米国ではレーガン政権下で産業界への規制を緩和し,産業振興を図る政策がとられたこともあって,次々に緩和されることとなり,わが国もそれに追随し,実用化時代は一段と進むこととなった。しかし,あれ程危惧された安全性の評価がこれ程短期間に急転回するのも奇妙なことである。新技術につきものの危険性は,決して全て解決されたわけではなく,初心を忘れることなく,なお慎重な対応を行政や産業界に望むものである。

また,遺伝子技術が生命に対する倫理の問題をはらんでいることも事実である。確かに,遺伝病の治療やガン研究などのために遺伝子操作が強力な武器となろう。しかし,産業は遺伝子工学を単なる「金もうけ」の対象と見ており,生命への倫理が忘れられているようである。生命の尊厳はどんな時代を迎えても変らない。遺伝子を操作する技術という禁断の実を手にした今こそ,私達は生命に対して謙虚でなければならない。

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西岡 一
Hajime Nishioka
  • 同志社大学工学部教授
  • 医学博士
  • 生化学専攻
  • 環境毒性研究所所長
  • 著書に「遺伝毒物」(講談社)「あなたの食卓の危険度」(農文協)「疑惑の食品添加物その毒性はどう現れるか」(講談社)「生命への警鐘」「続・生命への警鐘」(クレス生活科学部)など多数

上記の肩書・経歴等はアキューム2号発刊当時のものです。