1970年代から80年代半ばに学院に学んだ校友にとって,TOSBACという名前には特別な思い出があることでしょう。プログラミングの課題作成に苦労したあのころがなつかしくよみがえってくる卒業生も多いのではないでしょうか。
ところで,このTOSBAC3400の基本設計に携わられた萩原宏先生は,95年以来学院の情報工学研究所長としてご活躍です。そこで,このたび学院では創立35周年を記念し,TOSBAC3400の開発にともに苦労された,かつての東芝側の責任者のお二人にもお越しいただき,座談会をお願いしました。一つの計算機を新しく生みだすまでの一部始終を,こうした形で記録に残すのは,希有なことであり,貴重な資料になるものと思います。また,特に若いひとたちには,新しい計算機を創るために,創意工夫を重ね,試行錯誤をくりかえしたパイオニアのひとびとの,熱意の一端に触れてほしいと思います。
萩原 TOSBAC3400が本学院でかつて教育用に利用されており,それが先程御覧頂いたような格好で残っております。それで3400の生い立ちや何かを,関係した人をお招きして座談会をやれという話が一昨年ぐらいからありまして,それで今日ここにお集まり頂いたわけです。よろしく御願いします。
天羽 そのTOSBAC3400というのは,KT-パイロットをもとにして高速化したものです。
萩原 だから3400を語るにはKT-パイロットからという事になるでしょうね。
萩原 その前に,当時の京大の状況を説明しますと,まず,昭和33年に京大の最初のコンピュータのKDC-1の予算がついたわけです。とにかく東大のTACは,真空管を使って我が国で最初に設計製作されたのですが,もたもたして,動きだしてからもひ弱であった。それから仙台(東北大)のSENACも,あれはあれでごたごたしてあまりうまくなかった。で,京大はもう絶対確実に動くものをつくらなければいかん。そこで,学内でいろいろ検討してトランジスタを使って日立(製作所)でやってもらおうということになった。それで日立にお願いしてKDC-1を完成させた。そういういきさつがあるものだからKDC-1は絶対確実に,スピードはもう二の次で絶対に安全にという事でやりました。KDC-1が出来て35年の秋に京大に据えて,それから約10年余り使いました。
萩原 その頃に京大で数理工学科が出来て,数理工学科の計算機の講座を,お前やれという事になって,僕は電子工学科から移って教育を始めると同時に,研究として何か新しいものをという話で,文部省の科学研究費を申請しました。その時の科研費のテーマが『超高速電子計算機の基礎的研究』だったと思います。KDC-1があまりにも遅いので,今度は速いやつを開発したいと考えました。その時東芝がシリコンのメサ型のトランジスタの一番速いのを試作していたので,東芝でやってもらおうという話になったわけです。それで東芝との話し合いで,設計や何かを全部おまえやれというような話になりました。その頃僕はマイクロプログラミングという事があるよという話をある人から聞いた。それから出来るだけ速くというので,東芝のメサ型のトランジスタでやったら,クロックを入れるとしたら30メガヘルツぐらいか,もうちょっと上になるか,それぐらいのクロックを使う事になると考えられた。しかし,当時30メガのクロックの分配は,とてもじゃないけども大変だと,その当時ではね。それでクロックを使わずにやろうと考えたわけです。マイクロプログラミング方式でクロックを使わない非同期方式であるというのが特徴でしょうか。そこでマイクロプログラムでやるのならば,マイクロプログラムを入れ替えられるようにしようではないかという話を持ち出しました。そういうもろもろの新機軸をKT-パイロットでやろうという事にして,東芝では天羽さんが中心でやってもらって,京大では僕がやって,それで昭和36年の4月か5月頃から打ち合わせを始めたわけです。いろいろ打ち合わせをして,36年の夏休みに設計をして図面を書かなければいけないという事になり,一人でその年の夏休み一杯かけて図面を書いたんです。それで9月になって一応図面もまとまったし,回路の方も固まったというので天羽さんが京都に来られて,京大の工学部1号館の3階の南側の部屋で打ち合わせをしていた。その時に台風が来たわけですよ。第二室戸台風といったと思いますが。あれは大変でしたね。今となっては懐かしい思い出ですが。
萩原 その時にさっき話がでたように,マイクロプログラムでやるのなら,マイクロプログラムを入れ替える事が出来るようにしようではないかということで,その時まず考えたのが,フォトトランジスタのマトリックスを作って,その上にカードを置き,そのカードに穴を空けて上から光を当てるようにする案でした。カードを取り替えるとマイクロプログラムが変わる,つまり計算機のコントロールロジックが変わるということになります。そうするといろいろ面白い事が出来るでしょうということでやったんですけども,フォトトランジスタがひ弱で故障する。ところが故障したら取り替えるという事を予想せずに組んであるものだから,どうにもならんようになってこれはあきらめ,結局マイクロプログラムを取り替えるのはプラグボードを使うことにしました。プラグボードでマイクロプログラムロジックを組むという仕掛けでした。まあそれで非常にうまくいったのです。
萩原 非同期方式というのはあの頃米国のイリノイ大学で開発されたILLIAC2というのがあって,それが非同期でやった。しかしあの真似をしたら素子が非常に沢山必要になって大変なんです。そこでマイクロプログラムでやるんだから,1マイクロ命令ごとにコントロールシグナルを出すわけですが,それを非同期的に制御することにして,それをマイクロオペレーションの種類によって変えるようにしたのです。例えば加算はデータによって所要時間が変わるので,桁上げの伝播終了をもってコントロールシグナルを出し,次のステップに移るようにした。
それからメモリーは動作に時間がかかる。あの時のメモリーはサイクルタイムが10マイクロ秒だった。われわれのコンピュータの場合,メモリーは単独で動くから早めにメモリーにコントロールを渡しておいて,マイクロプログラムは次に進める。メモリーの動作の進行状況を見て,本体のコントロールが先に進んでいたらマイクロプログラムはそこで待つ。メモリーからデータが先に出ていたら,メモリーの方は,そのデータを置いておいて制御を終了する。当初のメモリーは素子はコアだから,読み出しと書き込みとタイミングが違うでしょう。だから読み出しは読み出し終了だけ,書き込みは書き込み終了まで行って,次のマイクロプログラムの制御に移る。それからその後の後始末があるから,次の読みだし,書き込みはそれが済んでからでないと出来ないので,そこで待つわけです。そんな事をいろいろとやって非常に速く動かせるようになった。
萩原 それからその後に,東芝の研究所で磁性薄膜のメモリーを試作された。これは容量は少ないんだけれども速いんです。
天羽 容量は128語でしたね。その装置を付けたんです。
萩原 付けたのは良かったんだけども,調整に苦労しました。なにせ磁性薄膜でしょう。外部磁界の影響を受けるわけです。それで二重シールドにしてもって来られたんです。調整するためフタを開けて調整して,その状態でうまく動くようにした。ところがいざ磁気シールドのフタをしたら動かない。原因をいろいろ考えてみると結局地磁気が問題だった。あれはいい勉強になりました。その他にもいろいろな勉強をしました。
萩原 もう一つ面白いのはね,マイクロプログラムのメモリーがかなり大きいんですね。それで本体につながるところの近くと遠くに同じマイクロプログラムを作っておいて,それぞれを動かしてみたら時間が違うんです。それで線の中を電気が走るのにやっぱり時間がかかるということを,身にしみて感じた。本当に,同じ動作をするマイクロプログラムを,本体に近い所と,本体から離れた所に置いて動かしたら,時間が明らかに違いました。
松下 光の速度で1ナノセコンドで30センチですね。
萩原 だけど線の中だからもうちょっと遅くなって,1メータあたり5ナノセコンドというのがだいたいの値でした。
萩原 その頃,計算機の速度をくらべるのに,自然対数の底のe或いは円周率のπの値を小数点以下何桁か,たとえば1000桁まで計算するのに要する時間を競うというのが流行っていました。それでKT-パイロットでこれをやってみることにしたわけです。この時は小数点以下100桁までの計算をしました。KT-パイロットはマイクロプログラムを可変に出来るから,一命令でいっぺんに100桁の計算をするマイクロプログラムを作ったわけです。だから計算のプログラムは,一つの命令で100桁の計算をいっぺんにやってしまう,しかもその時メモリーがさっき言ったようにうまく動いてくれるでしょう。つまり必要なデータはちゃんとあらかじめ呼び出して来て,記憶させておくものは記憶するように言っておいて,本体はつぎの計算をしているわけですから,驚異的に速かったわけです。それである人は,こんなに速く計算が出来るはずがないと言ったんです。
天羽 それは新聞も書いたんですよ。幻の計算機って。
萩原 そんなに速く出来るはずがないといわれたりして。はずがないっていっても,実際にできていたんですが,萩原は嘘をついているとまで言われた。そんな驚異的な事をやりました。これはマイクロプログラムを作り替える事が可能だから出来たわけです。まあ言ってみたらお遊びみたいな事だけども,そういう事が出来た。
萩原 マイクロプログラミングの提唱者のM.V.Wilkes先生は英国のケンブリッジ大学の教授でしたが,そのWilkes先生が京都に来られた時に,私の研究室にKT-パイロットを見に寄られました。その時はたまたま大学院の学生が手書き文字の識別をやっていた。手書き文字を書いて行くプロセスを使って文字を判定しようという方法です。Wilkes先生が来られた時はね,始めて間もない頃で数字だけだったんです。数字の1から9,0まで。それを,Wilkes先生に書いてもらった。そうしたら,Wilkes先生は5の字をね,一筆書きで書いた。一番はじめに第一画の上をね,右から左に向かって書いた。その手順をコンピュータに教えてなかったんです。それで分からんというメッセージが出てきたんですね。それでWilkes先生に,これは実はまだ教えてないんだと言って大笑いして,それで日本人が書くみたいな書き方したらうまくいった。
天羽 先生は気軽にマイクロプログラムと今言ってられますけどねえ,当時マイクロプログラムという事が分からないんですよ,みんな。我々も含めてみんなで勉強しながら進めていった。日本の某教授はねえ,マイクロプログラムっていうのは,いったいどういうプログラムなんだと言うんです,結局これはハードウェアなんですね。それを彼はソフトウェアの手法だと思ったらしいんですよ。最後まで。そういうわけでマイクロプログラムをほかの人に理解させるのは一苦労でしたよ。
天羽 それからKT-パイロットで苦労したもう一つのことは熱の問題ですね。いろんなところで熱の問題がありました。熱っていうのは現在でも問題なんです。小型化する時の一番の問題点なんですよ。高速になればなるほど小型化して,今でもハードウェアの設計からいうと一番問題です。で,あの時は冷却に何を使ったかと言うと普通の家庭用のクーラーを付けたんです,そのまま。それで冷やしたんですよ。
萩原 あの頃は水冷が多かったんだけど,あれは空冷だったんでね。それで窓から冷却のダクトを引っ張った。それからクーラーから計算機本体までもまたダクトを。トタンの板でダクトを作ってね。
天羽 これはちょっと本論からはずれますけどね,コンピュータの設計に於いてね,熱というのはいつも鬼門だと思うんですよ。第二の難問がいわゆる先ほどの高速回路なんですよね。使った高速回路というのはカレント・モードのフリップフロップと,ダイオード論理のエミッターフォロワーです。それでパワーを食うんですよ。要するに速いものはパワーを食うという原理があるんだな。だからその電源に困りましてねえ,電源のすごいのを使った。サイリスタ型のね,非常に大きな電源を使って。またそれが熱を出すわけですよ。それで冷やすという大きな問題があった。それからねえ,先ほどの速い回路を測定する機械が日本に限らずあまり無いんですよ。パルスが速過ぎちゃって。測定器っていうのは意外に盲点なんですね。
天羽 次は,先ほど先生もちょっとおっしゃいましたけどねえ,光の速度で考えて,やっぱり配線ということが一つの大きな問題なんですよ。これはとにかくスピードを速くしろという事と,もう一つノイズの問題とがあって,結局twisted pair(撚り対線)っていうのを使ったんです。
萩原 しかもあれは特別の被覆が使われた。
天羽 発泡ポリウレタン。誘電率εの小さい物を選んだんですよ。これはねえ我々やっぱり随分新しい事を考えていたんですね。当時私も若くてねえ,先生も若かったわけだし,松下君も若かった。やっぱり,毎日毎日良く考えたもんなんですよ。この頃はLSIなんて買って来ちゃうとなんだかわからないですけどね。当時はやっぱり自分で設計するから,いろいろそういうものを考えましたねえ。つぎに回路の発振の問題がありましたね。伝送回路の反射の問題で非常に困った。そこでそのマッチングを付けるんです,マッチング抵抗を全部。それもねえ,場所によって付け方が違うんですね。これがまた苦労話の一つという事で。その何Ωがいいかというのを探すのも大変なんで。200Ωか何かに決まったんですけどね。IBMもその頃論文を出しましてね。IBMは,発振個所にトロイダルコアを入れると発振が止まると言っているのだけど,それを実験した所が止まらないですよ,うちは。そこでしょうがないから色々なものを実験して巻線型のインダクタンスをそこに入れたんです。それで止まったと言うんでねえ,インダクタンス入りのエミッターフォロアにしました。それからねえ,電源もノイズとか発振が起こるんでねえ,電源をねえ,全面アースにしたんですよ。全面アースにしてその上に電源線をサンドイッチみたいにして入れたんですよ。これもねえ,一点アースなどと異なり,新しいアイディアなんですよ。ところがtwisted pairを使った為に,配線がねえ,もう山のようになってしまうんですよ。とにかく手が入らないくらいねえ,普通の配線の2倍あるわけですからね。おまけに当時はハンダづけですからね。ハンダづけを下手にやるとそれで他の所を焼き切っちゃったりしてね,そういうまあ苦労がいろいろあった。とにかく配線は重いは,電源は重いは,クーラーはついているわでねえ,だいたい1トンなんですよ,KT-パイロットは。それでこれをねえ,京大に入れる時には大変苦労をしましてねえ,つり上げたんですよ窓から。ところが,2階の床が持たないというわけでそれで床の上の位置を考えて梁の上に設置したんですよ。そうして調整に入ったんですが,調整に入ってからは,やっぱりマイクロプログラムで,かつ非同期であり,回路はエミッタ結合型スタティック回路ですからね,非常に分かりいいんですよ。それで非常に速くメインループを回す事ができました。500ナノセカンドから1マイクロセカンドで回す事が出来た。
萩原 こんなに調整の楽な計算機は初めてですと言われていました。
天羽 とにかくすぐ500ナノから1マイクロセカンドで回す事が出来て,それを目標の250ナノセカンドにするには約半年間かかったと。
天羽 そこで,成果を学会で発表しようというので通信学会に出したのはいつだったのですかね。
萩原 昭和36年。
天羽 先ほどコンピュータ学院35周年ってお話でしたけど丁度これの頃なんですよ,昭和38年でしょう。その後論文を出そうという事で通信学会や情報処理学会には随分出してあるんですけどね,IFIP(国際情報処理学会)というのがあって第1回は1959年にパリであって,3年ごとに開かれました。それにねえ,応募したんですよ。萩原先生と。
萩原 '62(昭和37年)年にドイツのミュンヘンでやるので,それに投稿したんです。
天羽 そうした所がねえ,国内選考で三十何人の投稿があってね,国内選考委員が審査をして我々の論文について,これはつまらんといったけど,まあ誰かが面白いと言ったから出たんですよ。国内でまず10件ぐらい当選したんですよ。そうしてそれが今度はIFIPの本部に行くんですね。これは外国人らで構成されているわけ。そうしたら日本の応募論文の中で一番で通っちゃったらしいんです。日本人と外国人の評価はちがうのですね。日本から結局3件か4件通ったんです。それでミュンヘンに行ったんです,こんなに厚い本で…
萩原 その発表のときいろいろ質問がありましたが,その後,学会の会場があったミュンヘン工科大学の食堂でお昼を食べていた時なんですね。
天羽 どやどやっと5~6人やって来ましてね,俺たちはねえ,イギリスのIBM研究所のものだと。お前達の論文は非常に面白い。もう少しディスカッションをやりたいというわけだね。実は僕たちと似たことをやっている,はっきり言うとね。似たことをやっているから,帰りに,お前達ディスカッションする為にイギリスに来ないかって言うわけですよ。その時その場で少しディスカッションしたんですけどね。
萩原 僕は,ロンドンへ行くと言っていたんですが,その予定の日が向こうの(IBMの)バケーションで結局研究所には行けなかったんです。
天羽 その後IBMは360を発表したんですが,IBMでは仕事を各研究所にアサイン(割り当て)するんです。たまたまそのイギリスの研究所がマイクロプログラムを割り当てられてたんです。中型機の開発を割り当てられていた。
萩原 360のモデル30。
天羽 中型機ですね。中型機はマイクロプログラムなんですよ。それでたまたまイギリスの研究所はそれをやっていたんです,あの時に僕らとディスカッションしたのが。だから,それ以後にマイクロプログラムを使って360を出したために,マイクロプログラムがいっきに普及したんですよ。
萩原 それからマイクロプログラムで今のIBMの360の発表がある前にはですね「マイクロプログラムなんてあんなものは」といいうのが日本の大方の主張で,まあ大学で研究するにはよかろうという程度だったんです。それが360が発表されたとたんにね,あっちこっちからお座敷がかかって,マイクロプログラムの話をしてくれというんですね。何カ所からか引っ張られました。少し後になりますが,僕のマイクロプログラミングの本が出て,これに詳しくいろいろなことが書いてあります。
天羽 このKT-パイロットが母体になりましてTOSBAC3400という計算機が出たんです。
萩原 3400はKT-パイロットをもとにして,商品化したいというので計画された。スピードは速いし,調整は楽だし…
天羽 それから安くできるし。はっきり言うとマイクロプログラムだから,そう複雑な回路はいらないと。
萩原 コントロールロジックはいらないからねえ,楽ですよ。
天羽 だから安くて速い。
萩原 これを商品化した。ついては相談に乗ってほしいという事で,僕は引っ張り出されて相談に乗った。その頃,文部省がいろいろな大学に計算機の予算をつけていたんですね。3300万円の予算がつくということで,その3300万円で売れるシステムを作ろうではないかという,そういう値段の要求の下でラインプリンタがつく事と,それからコンパイラが動く事という条件の下で考えよう,という事で相談に乗ったわけですね。それで規模としては3300万円で収める為には,1ワード24ビットにしよう。数値は2倍長の48ビット。そうしたら浮動小数点でも10進,10桁分はあるという事でね。そういうのにしましょうというような事で。続いて,命令がどうとかアドレスの修飾子はどうするとかこうするとかという話を,何やらいろいろ。何回工場までおじゃましましたかねえ。それでやっと出来て,第1号機というか,第0号機というかそれが出来た。
萩原 それでコンパイラを作りたいというので,そのマシンを貸してもらい使わせてもらった。コンパイラを作るために東京まで行くわけにもいかんからというので,東芝の茨木工場ね,冷蔵庫を作っている,あそこの隅っこに据えてもらって。そこへ行って北川君がフォートラン。それから渡邉君と山縣君とでアルゴル。それから黒住君がアセンブラという分担をして作ったんです。いろいろ苦労はしたけれども,フォートランは一応完全なフォートランを動かした。
松下 すごく軽いのが出来ましたよね。
萩原 それからアルゴルはメモリ制限があるから,それによる制限はあるけれども,言語系としての制限はないものを作った。それまで日本でアルゴルを作った人は,なにやら言語系の制限はない。
天羽 KT-パイロットから3400にもっていくときに,商品化と言う事ですからね,必要な所は変えたんですよ。まず回路は東京工大の,川上研究室といっしょに高速回路をつくりました。カレントスイッチングでは電力を食い過ぎるというので,あれは何回路っていったっけ。
松下 いわゆるスタティック回路じゃないですか?
天羽 普通のスタティック回路を作りましてね。だからちょっと回路を変えたという事。それで電源を変えた。それから先ほど申しましたようにマイクロプログラムは可変じゃなくて,固定にしちゃった。それから,変えた事はというと,twisted pairは一応やめました。
萩原 ああそうですか…
松下 いや,短いのはそうしたけど,長いのはやっぱりtwisted pairです。
天羽 あまりにも配線が厄介で,もう工場でちょっと配線しきれないというか,量産には向かないというので。大きな設計思想は変わっていないけれど,そういう回路素子として変わったのは,まあそんなところだね。電源は勿論普通の電源に変えるわけです。それから空調も普通の空調になるわけです。だから3400というのは一応普通の計算機で,表から見ると中を知らなければ普通の命令体系の計算機です。安さと速さと,それからメモリーは0.8マイクロ秒の16K語なんです。
萩原 それに磁気ドラムを付けてねえ。そうでないとコンパイラは出来なかった。
天羽 先ほど見た,学院にあるのは一番初期のモデルです。その後だんだん進化してIC化しましたが,まだ初期の頃は磁気ディスクというのは無かったんですよ。
萩原 ディスクは無かった。だからドラムにした。
松下 マイクロプログラムは,結局何をやったんだろうなと考えますと,ハードウェアを結局ソフトウェア化しているわけですけども,じゃあソフトウェア化すると何がいいのかというと,結局オープンエンデッド(可変的)になるんですね。現在でもパソコンの中にBIOSというのがありますが,機器構成だとかCPUの速度もこのBIOSで決めているし,それからブートをどうするかも全部BIOSで決めているわけです。BIOSが結局命令体系の下にあるようなかんじですねえ,しかも今ではインターネットでBIOSを改造しましたという通知が出て,それをダウンロードしてパソコンのBIOSを入れ換えるというような事をどんどんやっていまして,そういう意味では非常にオープンエンデッドに現在はなっているわけですけれど。こういうソフト化のはしりだったというふうに思うわけです。それからハードウェアから独立して,純論理的に計算機を構築する事が出来るというメリットもありますし,開発コストは確かにかかるんですけど,製造コストが,ソフトウェアであればあまりかからないという事。メモリーに当時はまあダイオードを使ったりしておりました。最近ではコンパクトで安い半導体の純粋のメモリーで出来るようになって来て,ハードウェアのソフトウェア化はこれからも進んでいくと思います。もう一つは論理層を多層化する事のはしりだと思っていまして,最近もどんどんコンピュータは複雑化しますから,複雑化すると論理層を多層化して各層をより簡単にしていくわけですが,それの一つのはしりだなあと思います。先程来出ておりました,可変アーキテクチャの話ですけど,KT-パイロットとしては非常に面白いお仕事をやられたという事は,先ほどご紹介がありましたけれども,商業的にはこの夢は潰えたなあという感想があるわけなんですが。その理由はやはりソフトウェア資産が使えなくなるという事になって潰えたわけです。
松下 それからもう一つ,KT-パイロットから3400への歴史的な意味ですけれども,萩原先生の先見で当時の半導体の進歩を真っ先に先取りして,構成的,価格的,OS的にかなり手軽な形で,計算能力に特化した高性能マシーンが出来たわけです。こうした,身軽で高い計算能力という専門化に特徴があるのですが,その後ミニコンがこういう性質を持って出てきたので,言い換えるとミニコンのはしりのような位置づけかなあと思うんです。やがてこのミニコンがワークステーションになり,パソコンになりというふうに発展して来た一過程と私は感じております。パソコンが今非常に汎用化して重くなって来ました。マイコンがおかげさまで高速化しており,メモリーが大容量化していますので,見えないですが実は非常に重くなっている。それに対してネットワークコンピュータ,NCが最近また生まれて来つつあるわけで,このようにコンピュータの歴史は専門化と汎用化をくりかえしているのです。
天羽 ハードウェアというのは,LSIとか何かに組み込まれちゃって,ハードウェアを実際設計している連中というのは,あれは半導体側にいるんですよ。半導体側というのはおかしいですけどね。要するにシステム側にはいないんです。
松下 LSIを設計している人も,それが設計の裕度が与えられなくてですねえ,もうCADで決まっていると。
天羽 みんな何かこうひとかたまりになっちゃってね。だからコンピュータというと,何かソフトウェアだけになっちゃったような感じがするんですね。
松下 実は私,先月自分で部品買ってきてパソコンを組み立てたんです。ところがまあ,部品というのは全部プリント板だったり,ユニットだったりしますので,だいたいドライバーと,それから接栓を差し込む仕事ですね。平日の夜2日半ぐらいで組立は出来て,もうウィンドウズは動き始めたんですけど。そこから今度ウィンドウズをいろいろ使いこんで,ソフトウェア的な環境を構築するのに週末も含めて2週間半ぐらいかかりましたね。だからソフトウェアとハードウェアの重みの違いというのが出てきているなあと思います。
萩原 だから今言ったような,そのハードウェアを作るというようなのを学院でやっているわけですね。学生の実習に。
天羽 また3400の話ですが,さっき言ったように一部の新聞には幻の計算機とかって言ってね,カタログだけじゃないかと言われた事もあるんです。こんなに安くてこんなに速い計算機はおかしいと。それでねえ,当時はコンピュータ・ショーっていうのがあって,今は無いんですけどねえ。
松下 データ・ショーに変わりました。
天羽 当時は6社だけでコンピュータ・ショーというのをやりましてね。3400は数年出しましたよ。囲碁をやるとかね,囲碁なんてそれは今でこそ普通だけどね,やっぱり速くなくちゃ答えが出ないんですよね。それからねえ,玉突きをやったりね。それから作曲をやってその場で流すとかねえ,そういういわゆる速さを競うスピードショーをやったんです。当時はなかなか他の機械では出来ないんです。音声合成とかね。そういう意味で随分やった。それから泡箱ですね。
松下 過飽和の液体を作っておいて,そこに放射線を飛び込ませると泡が直進するものや円を描くものなど軌跡を描きます。全体に磁界をかけておくと,くるくるくるくるこうまわったり,いろいろな軌跡を示すので,それから逆算してその粒子がなんだったかを調べる。それをバブルチェンバー,泡箱っていうんですね。
天羽 うちの3400でばーっと計算するとすぐに結果が出るんです。
松下 曲率などを計算して。そうすると,どういうスピードでどういう質量のものが飛び込んできたという事がわかるんですね。
天羽 そういうところに出て非常に特徴のある計算機だったんです。他が出来ないことが出来た。
萩原 3400の場合はそういうまあ科学技術専用計算機として設計したからね。
松下 最後に,「知的中小企業の時代ですよ」「頑張って下さいね」という事を,若い人へのメッセージとして言いたいんですけどね。技術思考の業界であればあるほど知的中小企業の方が有利に戦ってきた歴史もあるし,これから益々そうなるのではないかという感じがします。
学院では,創立35周年記念事業の一環として,「コンピュータミュージアム(資料館)」の開設を準備中です。これまでに実用機器として,学院生に愛用されてきたコンピュータを一堂に集めて展示し,35年にわたる学院のあゆみを実証するとともに,人類の創出した最高の技術(コンピュータ)の歴史を,広く一般の人々に紹介することを目指しています。TOSBAC3400は,この資料館の主要展示物として公開される予定です。