校友の皆さん,お元気ですか。この「古都逍遥」も,回を重ねて第8回となりました。この度は,洛東白川左岸流域を琵琶湖疏水あたりまで南下することにいたしましょう。
白河校の裏門を出て白川にかかった「浄楽橋」を渡り,だらだら坂を東に向かって登ると「哲学の道」です。並行して流れる「疏水分流」に沿って南行,その行きついた先の石橋を左に渡ると山を背にした社殿が見えてきます。熊野若王子神社です。
創建の由来については,永暦元年(1160),存命中32度も紀州熊野権現に御幸したという後白河法皇(1127~92)が,権現を勧請したのが始まりとも,また,永観堂を始めた僧真紹(しんしょう)がその鎮守社として創祀したともいわれます。
足利尊氏(1305~58)の崇敬を受けて以来,足利代々の将軍から厚く信仰されましたが,応仁の乱(1467~77)では焼亡の憂目を見ました。その後,豊臣秀吉(1536~98)の支援によって再建。昭和53年(1978)には,明治時代に拝殿の奥に並んで修築された本堂・熊野若王子(にゃくおうじ)神社新宮・那智・若宮の四社殿が一社相殿の形に改められ,今日に至りました。
境内の入口には,樹齢四百余年という京都名木の一つ,椰(なぎ)の木がミソギ(祓=罪や汚れを掃う)の樹としてそびえています。また境内には桜樹が多く,春の花見時には参拝客が後を絶ちません。
神社背後の若王子山山頂に登るとキリスト教会墓地があり,そこには同志社創立者の新島襄(1843~90)が遥かに京都市中を見下して静かに眠っておられます。その墓碑銘はかの勝海舟(1823~99)の書を陰刻したものだということです。
若王子神社を出て西に,だらだら坂を下ってゆくと左手に楓の森が見えてきます「秋はもみじの永観堂」です。
正式の名は「聖衆来迎山無量壽院 禅林寺(しょうじゅらいごうざんむりょうじゅいん ぜんりんじ)」。浄土宗西山禅林寺派の総本山です。仁寿3年(853),僧空海の高弟真紹が,この地にあった文人・書家の藤原関雄(せきお)の山荘を買い取り「無量壽院」と号し,真言密教の道場として整備したのに始まります。貞観5年(863)には清和天皇(850~80)から勅額を賜わって「禅林寺」と称しました。
その後,承暦(しょうりゃく)年間(1077~81)に奈良東大寺から永観(ようかん)(1033~1111)が入寺,本尊を創立以来の大日如来に代えて阿弥陀如来とし,浄土念仏の道場としました。このことから永観は第七世中興の祖と仰がれ,寺の呼称も「永観堂」として広がることになったのです。
この本尊阿弥陀如来立像は平安時代の作,木造で高さ77センチあまりですが,首を左に向けてうしろを見返るような独特の尊容から「見返り阿弥陀如来」として知られています。『京都の寺社505を歩く』の著者・槇野修は,「永観が永保2年(1082)2月15日の早朝,いつものように念仏を唱えながら行道(ぎょうどう)(仏堂や仏像の周囲をめぐり歩くこと)をしていると,壇上から本尊の阿弥陀如来がおりてこられ,永観を先導するように行道をはじめられた。突然のことに驚いて立ちつくす永観に,阿弥陀如来はふり返り『永観遅し』と声をおかけになったのである。阿弥陀如来は見返ったまま『奇瑞(きずい)の相を後世永く留めたまえ』といい,その尊容はもとに戻ることはなかった。この霊験から彫られたのが『見返り阿弥陀』であるという」と,その由来を興味深く述べています。
永観以後,禅林寺が正式に浄土宗西山派に転宗するのは十七世浄音の時でした。その後,応仁の乱などで寺域は荒廃しましたが,15世紀から16世紀にかけて復興勧進や天皇家の援助などで復興,御影堂・書院・方丈・回廊が建てられ,慶長12年(1607)には阿弥陀堂も完成して今日の寺観が整えられました。
東山の山腹に張りついたように並ぶ諸堂宇を大玄関から見て廻り,斜面をかけ上る回廊「臥竜廊」を経て多宝塔に至ると遥か向こうに京都市街が広がって見えます。
総門をくぐった右手の放生池周辺も含めて寺内の楓樹は3000本を超えるといい,秋の参拝時は正に真紅の波間を分けて行くことになりましょう。
樹間に高く多宝塔をふり仰ぎながら,永観堂の総門を出て左に,近代的な建物となった私立東山中学・高校とその向かいの瀟洒(しょうしゃ)な平屋造りの野村美術館の前を南下すると,「大寂門」との表札がかかった南禅寺の北入口です。
南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山,山号を瑞龍山(ずいりゅうざん),正式の名を太平興国南禅禅寺と呼びます。文永元年(1264),亀山天皇(1249~1305)が母大宮院の御所として,もと園城寺(おんじょうじ)(三井寺)の別院最勝光院の跡地(現在地)に造営した離宮禅林寺殿が始まりです。正応2年(1289),天皇はここで法皇になられましたが,当時東福寺の三世無関普門(むかんふもん)(大明(だいみん)国師,1212~91)が離宮に出没した死霊を法力によって鎮めたということから無関に帰依し,同四年無関を開山として離宮を龍安山禅林禅寺と改めました。翌年無関の没後,規庵祖円(きあんそえん)(南院国師,1261~1313)が二世として迎えられ,以後15年を費やして七堂伽藍(がらん)を完成させたので,南禅寺では祖円を創建開山として仰いでいます。
永仁7年(1299)3月,亀山法皇は「禅林禅寺起願事」という願文を書き,南禅寺の歴代住持(寺の長,住職)は法脈を問わず,「器量卓抜」(すぐれた才能)のものを選任するようとの規定を定めました。以後,中国人禅僧の一山一寧(いっさんいちねい)(1247~1317),その門生の虎関師錬(こかんしれん)(1278~1346)や夢窓疎石(むそうそせき)(1275~1351)ら名僧が住持をつとめました。
建武元年(1334),後醍醐天皇(1288~1339)は鎌倉の寺院に限られていた寺格,五山の制を改めて,南禅寺を五山第一位と定めましたが,室町幕府三代将軍足利義満(1358~1408)は至徳3年(1386),南禅寺を京都五山の上,「天下五山之上」に置きました。以後,寺運は隆盛を誇りましたが,応仁の乱を含む3度の大火によって主要伽藍を焼失するなど,苦難の道をたどりました。
それが豊臣秀吉(1536~98)や徳川家康(1542~1616)らの支援をうけて再興の途につき,慶長10年(1605)塔頭金地院(たっちゅうこんちいん)の以心崇伝(いしんすうでん)(円照本光国師,1569~1633)が住持となった頃から一段と伽藍の整備が進みました。
明治維新後は,新政府の神仏分離令などによって,江戸時代三十二宇もあった塔頭が明治3年(1870)には十三塔頭が合・廃寺となり,また境内地も江戸時代の10万坪以上(約30万平方メートル)から約4万5千坪(約15万平方メートル)に減少して今日に至っています。
大寂門をくぐって右側に並ぶ塔頭の前を直進すると築地に突き当たります。左手を見ると,開かずの桧皮葺(ひわだぶき)の四脚門があります。寛永18年(1641),明正(めいしょう)天皇(1623~96)から京都御所の「日華門(にっかもん)」(日の御門)を築地とともに拝領して移建したという勅使門です。国の重要文化財に指定されています。
門を背に振り返って東を見ますと,南禅寺山を背景に,勅使門から三門・法堂(仏殿)・方丈が松や杉,桜楓などの樹林の中を高みに向かって一線に整然と並んでいるのです。同じ伽藍といいながら,先に参ってきた永観堂とは全く違った配置に落ちつきと近づき難さを覚える禅寺特有の光景です。
目の前に聳えて見える三門は,寛永5年(1628)藤堂高虎(とうどうたかとら)(1556~1630)が大坂夏の陣(1615)の戦没者慰霊のために寄進建立したといい,「玉鳳楼」とも呼ばれ,これもまた国の重要文化財に指定されています。
五間三戸,二階建て。階上の鏡天井に描かれた極彩色の鳳凰・天人の図は狩野探幽(1602~74)らの作。その下に宝冠釈迦座像を中心に十六羅漢像や徳川家康・藤堂高虎・以心崇伝らの木像が安置されています。楼を取り巻く廊下からは岡崎公園あたりまでが遠望できて,思わず「絶景かな」と叫んでみたくなります。
「絶景かな」といえば,この三門にはかの怪盗石川五右衛門(?~1594)の伝説があります。史実ではありませんが,戯作者(げさくしゃ)の初世並木五瓶(なみきごへい)(1747~1808)が歌舞伎『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』で,五右衛門がこの楼上から「絶景かな,絶景かな」と感歎する場面を巧みに描いたことで,三門が広く一般に知られるようになったというのです。三門をくぐって樹蔭を少し登ると法堂です。五間四間の単層の建物。裳階(もこし)付,入母屋造り,本瓦葺です。豊臣秀頼(1593~1615)の寄進で建てられた法堂は明治28年(1895)に焼失,明治42年(1909)に造営されたのが現在の建物です。天井画の龍は,寺内の塔頭に眠っている日本画家今尾景年(1845~1924)の畢生の大作といわれ,息を呑む思いで見上げねばなりません。
法堂から低い石階を上ると国宝の方丈です。大方丈と北に接する小方丈とに分かれています。大方丈は慶長16年(1611)の内裏造営の際,後陽成天皇(1571~1617)からその清涼殿を拝領したものだと寺伝ではいいますが,実は南禅寺側の願いが叶わず,女院御所の御対面御殿が移築されたものだといわれます。単層,入母屋造りで柿(こけら)葺,寝殿造りの美しさを感じさせる建物です。内仏は重要文化財の平安時代作・聖観世音菩薩立像で,内陣を囲む前後左右五室の間仕切の襖絵は狩野元信(1476~1559),その孫永徳(1543~90)の傑作です。
小方丈は豊臣秀吉の伏見桃山城を移築したもので,「虎の間」といわれる三室の襖絵は狩野探幽の作,中でも「水呑みの虎」には魅せられます。
大方丈の南側の庭園は,慶長年間(1596~1615),茶人の小堀遠州(1579~1647)の作。樹木と石組を一ヵ所にまとめ,広い余白を楽しむ借景式で,石組の巨石の姿から「虎の子渡し」と呼ばれ江戸初期禅宗寺院方丈の枯山水庭園の典型とされています。国の名勝指定庭園の一つで,方丈の広縁に座って眺めていると,自(おのずか)ら心の落ち着くのを覚えます。
寺内には,前出の国宝の亀山法皇宸翰(しんかん)禅林禅寺御起願文案をはじめ重要文化財など多数が所蔵されていて,屈指の古刹であることを証明しています。
方丈の庫裡を出て西の方を眺めますと,中門に向かっての参道には敷石が敷かれ,左側にまた塔頭が並んでいます。その並びの手前で左奥を見ると,赤い煉瓦を積み上げた半円アーチ型の建物があります。陸橋「水路閣」です。
琵琶湖疏水が蹴上(けあげ)舟溜から分かれてこの上を流れ,南禅寺山裾・永観堂裏山を回って若王子神社前の疏水に連がります。明治21年(1888)に完成したもので,閣の全長93.1メートル,幅4.5メートル,高さ13メートル。2基の橋台,13基の橋脚で大小の連続アーチを形成し,毎秒2トンの水を流しているということです。
重厚な寺領内の雰囲気にはそぐわない建物ですが,今や古色蒼然として周囲の樹木とも融け合って,映画やテレビのロケ地として人気を集め,参拝者も盛んにシャッターを切っています。
水路閣のアーチの間から見える石段を上ると南禅院です。南禅寺の別院で,亀山法皇の離宮禅林寺殿の「上の宮」の跡というからには,南禅寺の発祥の地といえましょう。嘉元3年(1305),法皇の崩御の後,その遺命によって分骨を埋葬した所です。応仁の乱後は衰退していたのを,元禄16年(1703),徳川五代将軍綱吉(1646~1709)の母桂昌院(けいしょういん)が再興。現在の本堂(方丈)は当時のもので,寺格にふさわしく上段の間が設けられ,亀山法皇の木像(重要文化財)が安置されています。
庭園は離宮当時の面影を残すといわれ,鎌倉時代末の池泉回遊式で,国の名勝史跡庭園に指定されているのです。
中門を出て参道を西に進むとすぐ左手に,ひときわ大きな塔頭が目に入ります。金地院です。
本尊は地蔵菩薩。もともと応永年間(1394~1428)に足利四代将軍義持(1386~1428)の帰依を受けた南禅寺六十八世大業徳基(だいじょうとくき)が洛北鷹ヶ峯に創建した禅刹を,慶長10年(1605)ころ,「黒衣の宰相」とまで呼ばれた権力僧以心崇伝が徳川家康の信任を得て現在地に移築再興したものです。
寛永3年(1626)には大造営に着手し,伏見桃山城の旧殿を移して方丈とし,同5年には境内の南に京都には珍しい権現(ごんげん)造りの東照宮を建立,家康の遺髪と念持仏を祀りました。
この大規模な工事には,小堀遠州を起用し,方丈裏に茶室「八窓席(はっそうせき)」,方丈前に庭園を完成しました。
庭園は,東西に長い平庭一面に白砂を敷きつめて海に見立て,背後の築山を蓬莱(ほうらい)山として三尊仏になぞらえた石組と石燈篭を立て,その麓に鶴島・亀島を左と右に,その間に細長く島と見える石組を置くという,壮大豪華な枯山水構想で,これまた国の特別名勝に指定されています。
金地院を出て中門前の,湯豆腐名物の料理店や美しい植込みのある料理旅館の並ぶ参道を西進すると南禅寺橋です。橋の上から下を見ると,山手から流れ下る水路に並行して桜並木に彩られた古い軌道が走っています。これがインクラインです。
琵琶湖疏水による舟運ルートの一区間。日ノ岡第三トンネル西口前の舟溜から下手の南禅寺舟溜まで約582メートルの間の傾斜地に,琵琶湖と京都の水位の差33メートルを考慮して15分の1の勾配をつけて敷設した軌道で,その上を疏水を渡ってきた舟をそのまま台車に乗せて電力で運んだ傾斜鉄道です。その台車の上り下りに要する運転時間は13分だったといいます。
このインクラインは琵琶湖疏水の敷設工事に伴い,明治20年(1887)に着工,同22年に完工後,同24年から運転が開始され,昭和の初頭まで,大津・京都間の陸運に代わって物資輸送に大きな役割を果たしてきました。ところが,鉄道の東海道線や東海道道路の整備が進むに従ってその効能が減少し,遂に昭和23年(1948)運行停止。史蹟公園に準じた保存処置を講じていましたが,平成8年(1996),国の史跡に指定され,今見るように元の軌道上に舟を乗せた台車が復元されることになったのです。
三方を山に囲まれ,海には遠い京都の住民にとって琵琶湖の存在は,交通運輸の面からも古くから関心を持たれてきました。
今から400年もの昔,あの保津川掘削をした角倉了以(すみのくらりょうい)(1554~1614)は,江戸幕府の支持をえて,慶長19年(1614),琵琶湖と京都を水路で直結しようという計画を立てました。琵琶湖から流れ出る「勢多(せだ)川より舟を操って宇治に出る」というものでした。しかし,実行には移されませんでした。
その後,文政12年(1829)には,湖水を大津尾花川から引いて如意ヶ岳(にょいがたけ)(大文字山の東の峯)の下をトンネルで貫き,鹿ヶ谷(ししがたに)から白川・鴨川に通そうという案,また天保12年(1841)には,洛西壬生(みぶ)村の農民から,尾花川熊野橋を起点に三井寺の北の山裾からトンネルで山科へ,更にトンネルで南禅寺に出て白川に合流する案などが立てられました。しかし,これらの計画も当時の土木技術の水準や資金の問題で実現を見ませんでした。
ところが,明治時代になって遂に待望の運河が日の目を見たのです。それが今日の琵琶湖疏水です。明治初年(1868),都が東京に遷ってしまったあとの京都は,政治的にはもちろん,経済的にも大きな打撃を受け疲弊しました。その逆境を克服し再生の道を開こうとした諸施策の一つが,明治14年(1881),第三代京都府知事となった北垣国道(きたがきくにみち)(1836~1916)の打ち込んだ琵琶湖疏水開設事業だったのです。
北垣知事はこの事業遂行のために,中央政界はもちろん,地元関係市民にも疏水の重要性・必要性を説いて納得を得ました。一方,東京工部大学院(現東京大学工学部)大鳥圭介校長に工事計画立案者の紹介を依頼。東京生まれで,学院に在学中の19歳の田辺朔郎(1861~1944)を推薦され,いよいよ疏水計画を進めることになりました。田辺は北垣知事からの依頼に基づき調査結果を学院の卒業論文「琵琶湖疏水工事計画」にまとめ,明治16年卒業と同時に京都府御用掛という職に採用されました。
こうして疏水工事は明治18年3月,田辺を主任技術者として着手され,5年の歳月を経て同23年4月に完成しました。大津三保関(みほがせき)取入口から長等山(ながらやま)トンネルをくぐり,山科盆地・蹴上を経て鴨川に至る全長11キロの難工事。幾多の犠牲を払ったものでしたが,とりわけ難しかったのが2436メートルにわたる堅い岩盤の長等山トンネル工事だったということです。
この工事の間にも田辺はアメリカに渡り,初めて開発されたという水力発電について学んで帰り,同22年に水力発電所の建設を疏水の付帯工事として決定し,23年起工,24年11月に蹴上発電所として完成して送電を開始しました。インクラインが始動したのもこの時です。
工事に要した費用は総額125万円余。東遷した天皇からの下付金(産業起立金),公債のほか,市民への総額25万円の賦課金などでまかなわれましたが,当時の京都市の年間予算の十数倍という膨大な額だったということです。
明治44年2月には,さらに水力電力の増強と水道用水確保のために,第二疏水工事が先の疏水とほぼ並行した暗渠となって完成しました。また45年には蹴上浄水場も関連施設として建造されました。
明治時代を通してこれら琵琶湖疏水事業は,①運河とインクラインによって大津・京都間の舟運が開かれ,様々な物資が運ばたこと。②水道用水が確保され,全市民の飲料水に活用されるようになったこと。③水力発電によって市内各所に電気が供給されるようになったこと。④やがて京都電気鉄道による全国初の路面電車が敷設されるようになったこと。⑤人口の増加を促し,西陣織など伝統産業の伸展を招いたことなど,京都市の近代化,工業化に多大の貢献を果たしました。
その根幹となったものは,やはり京都人特有の先見性・先駆性とプライド・意地だったのではないでしょうか。
この特性は,考えるとわがkcg.edu の建学精神に通ずるものであり,その伸長発展を支えているものだといっても過言ではありますまい。
校友の皆さん,どうかこの京都に育ったkcg.edu スピリットを忘れずに,ますます健闘されることを祈ります。
では,御機嫌よう。
京都の歴史6・7(京都市編)
京都大事典(淡交社)
京都(林屋辰三郎著)
京都の歴史がわかる事典(五島邦治編著)
京都の寺社505を歩く(槇野修著)
琵琶湖疏水記念館資料(京都市上下水道局)