当日夜,京都にいて帰宅途上にあった私に,学院広報部員から,「NYの世界貿易センターに飛行機が衝突した」との携帯メールが入った。帰宅して見たTVでは,ツインタワーの片方から煙が出ており,風穴があいている光景が報じられたが,それがツインタワーのどちらなのかは当初,明らかではなかった。広報部員に深夜出勤を指示する一方で,1号棟79階のNYオフィスのスタッフに順番に連絡を取ったところ,日本人スタッフの一人はイリノイにいることが,すこし遅れて別の日本人スタッフはロチェスターでRITの教授たちと,本学院とのジョイントプログラムの会議中であることが判明した。一方,衝突30分後,NYの現地スタッフのひとりから,家族も含めて無事とのEメールが送られてきた。彼女は崩壊した世界貿易センタービルの2ブロック南の向い側に居住しており,飛行機衝突の直後,電話で自宅にいる家族の無事を確認し,関係者や友人全員にもうひとつの職場であるチャイナタウンの学校からEメールを送信したのだった。
もうひとりのNYオフィスアメリカ人スタッフにも電話したが,有線・携帯とも連絡がとれず,数分後再度携帯に電話してみると,すでに不通になっており,その直後には,日本からの国際電話回線はビジー状態になった。
すでに安否の確認のできた現地スタッフにEメールでそのことを伝え,他の者ともほぼ同期通信で連絡を取り合い,同じマンハッタン内から安否の確認を試みたが,マンハッタン内でも携帯は事故の後すぐに不通になり,有線電話もまもなく不通になった。このときほどインターネットのありがたさを感じたことはない。米国の教育機関は大抵の場合,太いバックボーンに直結している。各種電話が不通になっても,インターネットはずっと生きていた。
その間,最初に飛行機が激突したのは1号棟の方で,激突した部分は80階から上だと報道された。KCGのオフィスは79階であり,窓は残っていても,衝撃で天井が抜けていることが予想され,スイート7967の人々に被害が及んでいる可能性が高い。数分後,2号棟の中間部に2機目の飛行機が激突し,2号棟が崩壊した。その後,現地スタッフの一人から,「1号棟の89階より上の人たちが助かった」という報告が入ったが,まもなく1号棟も崩壊した。人々が避難している間,階段を駆け上っていた300人の消防士たちを内部に残したまま,1号棟は崩壊したのだった。
衝突から1時間も経たないうちに,京都のヘッドオフィスには報道機関各社から電話が立て続けに入るようになり,新聞社とテレビ局が数社来訪された。状況の説明を求められても,現地スタッフの1人が行方不明である上,学院広報部側が,未だアメリカで起こっていることの全体像を掌握できていない状況であった。広報部員は,電話応対に追われながら,確認の取れない現地スタッフの安否を気遣った。アメリカ人とはいえ,来京し教壇に立ったこともある大切な仲間である。しかし日本のマスコミは,邦人ではない我々のスタッフの安否には興味を示さなかった。
その後,タワー両方が完全に崩壊し,ペンタゴンにも飛行機が激突,ピッツバーグでは墜落し,数機が行方不明と報道されていた。四方手を尽くして安否不明なアメリカ人スタッフの確認を試みたが,アクセスできないまま時間は過ぎてゆく。この間,実に8時間以上の時間が流れた。
コロンビア大学ティチャーズカレッジの教授たちによると,教授は全員無事であったが,学生のなかには行方不明の者もいるとのことであった。ニューヨーク大学(NYU)では,体育館が一時的に避難場所になったが,まもなく退去命令が出されたという。NYUの学生寮がウォール街のすぐそばにあるが,寮の学生も全員避難したそうだ。マンハッタンの混乱する様子が,リアルタイムにEメールで伝えられてきた。
確認の取れないスタッフの安否を絶望的と感じ始めたとき,ようやく本人から連絡が入り,安否の確認ができた。日本時間の朝6時半のことである。
彼女は事件を目の当たりにした後,長い時間をかけて,多くの人々とともに,それこそ命がけでマンハッタンから脱出してきたのだった(参照:事件翌日のコメント)。京都のヘッドオフィスでは,徹夜で情報収集にあたっていた広報部員たちが,涙を流しながら仲間の生存を喜んだ。
予想外のテロで,世界貿易センタービルが崩壊したことは,遠く京都にいる私たちにとっても大きなショックであった。私たちは世界貿易センタービルを,一般のオフィスビルよりもセキュリティが高いビルと認識していた。アメリカ経済を象徴するこのビルが,一瞬にして消え去ることなど予想だにしてはいなかった。
ニューヨークの学院スタッフは全員無事が確認されたが,彼らスタッフが受けた精神的ダメージは計り知れない。怒涛の一夜が過ぎた後,数日間たっても,実際に炎上を目撃したスタッフは実家で寝込んだままだった。また,安否確認の心労から体調を崩し,心因性ショック症状と診断され入院した者もいる。付近は1ヶ月に渡って立ち入り禁止となったため,ひとりはマンハッタンの自宅アパートに帰れず,ニュージャージーの親戚宅に長逗留を余儀なくされた。私自身も派生した様々なことにより1ヶ月後,過労で罹病した。
また今回の事件でオフィスの管理会社の多くの社員の方々が犠牲となられた。いつも窓口で笑顔を絶やすことなく受付を行っていた人たちも連絡がつかないままである。大きな喪失感と,悲しみの怒りが私たちを包んでいる。
不幸中の幸いながら,NYオフィスでは,他のIT関連企業と同様に,コアコンピタンス以外を徹底してアウトソーシングしていたため,物理的被害は最小限度で済んだ。サーバは失われたが,データのバックアップは残っている。しかし,関わった人々の心に残る傷は永遠に癒えることはないだろう。
KCGニューヨークオフィスの目指す理想は,究極的にはコンピュータ技術の平和利用による人類全体の融和にある。コンピュータもインターネットも,そもそもは戦争の道具として発明された。先端技術はいつも戦争とともにある。その先端技術の平和利用が,本学院建学の理念のひとつである。私たちは,今回の衝撃から一日も早く立ち直り,建学理念に基づく理想の実現に向けて邁進したい。
犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈りします。
この日の朝,ブロードウェイのコロンビア大学前にいて,世界貿易センタービルのオフィスに行こうとしたとき,最初の飛行機が飛び込んだ。大きな音がして煙が立ち上り,マンハッタン中に焼け焦げた臭いが充満した。一瞬自分のアパートに帰ろうと思ったが,動悸が激しくなり,このまま一人でいてはいけないと思い,何も持たずに,ローワー・ウェストフィールドにある母親の家の方角に向かった。南の方からは灰と埃を被った人達が歩いて逃げてきており,地下鉄は全て不通,携帯電話も繋がらなかった。そこでバスに乗り,マンハッタンの北部から,メトロノース(郊外電車)に乗って母親の家まで向かった。バスや電車は全て無料になっており,満員だった。母の家までは本来1時間で着く距離だが,3時間かかった。母親が簡単な食事をつくってくれたが,少し食べると,そのまま眠ってしまった。現在,地下鉄はまだ動いていない。14thストリートから南は何も動いていない。誰も入れない。マンハッタンは怒りと恐怖に包まれている。
(2001/09/12 13:00)
京都コンピュータ学院がオフィスを構えた世界貿易センターが崩壊したことに,心よりお悔やみ申しあげます。
あの日以来,我々は,コロンビア大学ティーチャーズカレッジのコミュニティー,地元住民,児童の保護者,またニューヨーク州の教育委員会や学校のために,精神的なカウンセリングを行っており,それは今(9月27日現在)も続いています。そのため大学院のカリキュラムは停滞しています。
教育者の使命はヘブライ語2語「Tikkun Olam」(世界を修復する)という言葉が一番適切に表していると思います。京都コンピュータ学院にかかわる全ての人々がこの言葉を念頭に置き,それぞれの立場で,精一杯ご健闘されるよう心から願っております。
2001年9月27日
ご心配ありがとう。かなり危ない状況にいた人もいたが,今のところ私の知人はみな無事です。まるで世界に存在する地獄だと思わないか?でも結果的にこの悲劇が,教育における君の仕事をより重要なものにするだろう。どうか私の言葉を覚えておいてほしい。心配してくれてありがとう。
2001年9月12日
心配してくれてありがとう。状況は困難だが,私達はみな無事で大学は普通に戻ろうと努力している。
2001年9月12日
心配してくれて,ありがとう。私も家族も無事でした。しかし,私達の学生の多くの家族や友達が犠牲になり,それは大きな悲劇です。どうか今,平和のためにお祈りください。私達は戦争という過ちを犯し始めるでしょう。爆弾の脅威やニューヨークに潜む狂気により,何もかもが危険です。友よ,どうか安全を心がけてください。
2001年9月12日
京都コンピュータ学院の皆さんが,全員無事だったことを幸いに思います。私の友人や家族の無事も確認されました。私は,仕事で世界貿易センターを頻繁に訪れており,その多くは金融業キャリアへの準備プログラムのためでしたが,幸運なことに,その日に予定は入っていませんでした。私達はその日の悲劇をただ周囲から,煙のにおい(電気から起こる火のにおい)やビルからの避難,警察の警備地点,そして私達がくぎ付けになっている終わりのないニュースをとおして経験しただけでした。この出来事を受け入れるのはとても難しく,私達はビルが崩壊する映像をただ何度も見つづけています。
生存者とボランティアの方々に力が与えられるよう祈ります。私達のことを心配していただきありがとうございます。
2001年9月12日
メッセージありがとう。私達は無事でしたが,この体験により恐怖に震えています。他の何千もの人の上に不幸が訪れました。国際集団の援助に心を打たれています。あなたの学校,京都コンピュータ学院NYオフィスの教職員が皆無事であったことを,幸いに思います。
2001年9月16日