[English]
長谷川 亘
Japan's System of Post-Secondary Education
by Wataru Hasegawa
Teachers College, Columbia University in the City of New York
Department of Organization and Leadership
- Education Leadership -
All contents copyright © Wataru Hasegawa, Teachers College Columbia University. All rights reserved.
Revised:May 1, 1999
Japan's modern educational system was established in the midst of rapid modernization after the revolution of 1868 and was reformed after the Second World War. The first modern university was a direct consequence of the governmental policy of Westernization, and was specifically authorized to serve "the needs of the state," as a kind of bureaucrat training center. There had been private higher educational institutes in Japan previously, but until the national educational system was completely established, these were classified only as non-university educational institutions. This contrasted with the situation in Western countries, where the very beginning of the modern university was always private. These same pre-war policies and purposes for higher education remain influential to this day.
Nowadays in Japan, there are national, public (prefectural and municipal), and private universities, as well as non-university higher educational institutes. Contrary to the universities, which are more or less supported by the government, private non-university institutions keep the freedom that financial dependence upon the government would jeopardize.
The structure of Japan's higher education has been developed from both national and private origins, in tandem for more than a thousand years. This paper is a overview of the history of Japan's educational institutionalization, especially focusing upon the non-university private institute, the Special Course School (Senmon Gakko) peculiar to Japan, which is farthest from governmental control.
日本の高等教育において私学は,教育システムに大きな影響を与えている。一世紀以上にわたって日本の教育システムは国による厳密な定義と強力なコントロールによって,官公立の学校群を中心に確立されてきた。しかしこれには,より革新的で柔軟性をもった私学の影響も大きい。本稿は法制度史を通して高等教育(*1)における私学の影響を研究するものである。
一般に,日本の高等教育システムはヨーロッパ方式を採用していると言われる。そして,そのヨーロッパ方式の価値観に基づき,多くの学者・教育者たちには米国で重視されているような実学を疎かにする傾向がある。
1878年に日本が国家的な教育システムを確立し始めて以来,中等後教育の本流であるそれは,保守的な国家指導下で急激に発展した。特に第二次世界大戦後の日本の急速な復興は,ほとんどが政府の管理統制下の,それまでの教育の結果であると言える。この政府主導の教育システムは日本に偉大な進歩をもたらしたが,私学もまたそれに対して大きく貢献した。
急速な発展は厳格にコントロールされた官学とよりフレキシブルな私学の,すなわち主流と傍流の同時進行でもたらされたものと言い得よう。
ここでは教育の制定と中等後教育の私学との関係,及び私学のそれへの貢献を概説する。従来,日本教育史は常に官立学校を主として考察されてきており,私学はあまり重視されてこなかったが,その理由についても触れておく。
1878年に制定された学制に起源をもつ現代日本の学校システムは,戦後大きく改正され,学校教育法第1条により大学と短期大学が制定された。これらは戦後の中等後教育の主流である。他方,戦前戦後を通じての傍流としての,専門学校(*2)(例えばコンピュータの学校)や各種学校が挙げられる。それらの非大学教育機関は1947年に制定された別条項に基づいている。
上記にいう傍流としての私学セクターは米国の二年制短期大学やコミュニティカレッジ,その他の職業教育短大などに類似している。それらの国内教育機関のなかで,特定の専門学校は短期大学の準学士と同等の専門士称号を授与することができる。なかには,米国の大学と強力な提携関係を結び,米国の学士号のみならず修士号を授与するところもある。それらの学校は政府の厳格なコントロールをさほど受けないために自由競争原理に基づいており,より良い学生を獲得するために政府指導下では為し得ないような進歩的な教育内容を実現することも多い。
同時にそれらの非大学高等教育機関は,弱点も持っている。政府の管理がほとんどないために社会的あるいは経済的に諸々の問題が起こることがある。一般に,多くの,それら非大学高等教育機関は教育の質を維持せず,学生の平均的な学力も大学を下回ることが多い。さらに,それらの学校の中には,社会の真の要請に対する基本的な配慮をせず,営利事業と自称してはばからないところもある。
しかしながら,そのなかでも幾つかの学校は日本の教育システムにおいて大きな影響を及ぼしており,工夫して成功を収めてきた。これら非大学高等教育機関への入学者がかなり重要な意味を持つようになってきているのも事実である。1995年までには,高等教育機関(*3)の学生のうち4分の1以上(27%)を占めるようになった。また,1995年には,コンピュータ教育のような特定学科を見ると,全体の90%以上に達する学生が,私立専修学校(専門学校)の在学者によって占められている。事実,日本の大半のコンピュータ関係業務従事者は,傍流システムである専門学校の卒業生である。そして,そうした教育機関が急速に発展変化する時流に対応して,時代の要求を担ったことは看過できない事実である。さらに,傍流でありながら主流の教育システムに貢献している点もいくつかある。
アメリカ式のプラグマティズムの観点からみると,日本の教育システムの別の側面の有用性が明らかになる。日本の教育システムは政府の強力な管理統制下にあり,固定化している。一般論として,そのような厳格なシステムは,教育の質の低下を防ぐには有効に働くが,時々刻々変化する社会や時代の要求に応えることは難しく,特に,急激な変革の時代にあっては,それはほぼ不可能である。しかし,政府はついに,厳格な管理統制下の教育システムの悪影響を理解したように思われる。政府は,私学を自由な状態に置き,自由競争下で各種の可能性を模索させ,好結果をもたらした場合はそれを主流教育に援用するようになった。コンピュータ教育は1970年代から1980年代にかけて,まさにそうやって確立されたものである。いくつかのコンピュータ科目のカリキュラムは,公立高等学校で開発されてきたものであるが,それらは,専門学校で行われていたコンピュータ関係のカリキュラムと非常に類似している。当初の専門学校の教育現場ですでに試行されたカリキュラムそのものが,その後の高等学校科目のモデルになったことは明らかである。私学が自らの責任で果たしたトライアルアンドエラーは,結果として公立システムに応用された。その成功の結果は政府文部省(2001年より文部科学省)によって主流システムに統合・融合されたと言えよう。
近年,文部省は専門学校の発展を促進させ,同時に,教育の質が劣っているという点から,短大を無視する傾向にあるという。(*4)戦後長い間にわたって,準学士を授与できるのは短大だけであったが,1996年になって特定基準を満たした専門学校が,専門士称号を授与できるようになった。加えて,1998年から,専門学校から大学への編入が可能となった。
日本の教育システムが急激に変化しつつある今,日本における傍流の教育システムについての議論をなおざりにせず,日本の教育の歴史すべてを包括的に認識する必要がある。また,私学に関する制度の影響を見極め,ここ数十年間におけるいくつかの私学が経験したことの特質性を明らかにすることも必要である。
私立の非大学高等教育の影響について分析をしている研究が,なぜほとんど存在していないかについては,いくつかの理由がある。
現在まで日本では,教育機関についての学問的研究は,専ら政府管理下の主流システムに焦点を当ててきた。一方,日本の私立非大学高等教育機関についてのいくつかの研究報告は,外国において入手可能となっている。日本におけるこれら私立の非大学高等教育機関に関する学問的研究の少なさは,次の3つの理由によると思われる。
第一に,高等教育の学問的研究は,大学をその中心的対象としてきたためである。これはヨーロッパ伝統の,大学を高等教育の主流に据える考え方による。例えば,米国におけるいくつかのより新しいプラグマティックな教育(実学教育)は,ヨーロッパにおいてはいまなお重要視されていない。同様に,日本においても,研究者は非大学高等教育機関を重視しない。これはあきらかな偏見であり,文化的な欠落と言わざるを得ないものである。
第二に,それらの非大学の私立高等教育機関は政府の管理統制下から遠い分,自由競争原理に晒されるためである。自由競争にはその長所もあるのだが,他方,自由競争に加熱するあまり教育の質を維持することが難しくなることも多い。そして,その質的維持の難しさをもってそれらの教育機関を営利事業視する人も多く,そういった競争環境を嫌悪して傍流システムに対する偏見が増長される。
第三の理由としては,日本の大学入試産業によって生み出された大学の偏差値ランキングもまた,社会的偏見を生じさせているということが挙げられる。日本においては,営利組織が入学試験の難しさに応じて厳密に大学のランク付けを行っている。実際のところ,幾つかの専門学校には,大学より進歩的な教育カリキュラムを提供しているところがあるのだが,しかし,そのような教育の質を無視した入学試験の偏差値による大学のランキングによって,非常に単純な偏見が横行し,非大学高等教育機関はそのまだ下に位置付けられることが多い。今なお多くの人は,ただ単に,少しでも偏差値ランキング上位の大学に行けば良いと信じている。何を学ぶかは二の次で,大学名を重視するのである。(例えば,しばしば受験生は,目指す大学に入学するためにはその入試科目さえ合致すれば,文学部,法学部,教育学部,経済学部,政治学部等,どんな学部であろうと合格への必死の望みを抱いて出願する。)そのような偏差値ヒエラルキー観念は,偏差値下位ランクの大学を蔑視するという差別感まで醸成する。さらには,偏差値ランキングに登らない非大学教育機関に対する偏見は根強くなる。そのため,たとえそれら非大学教育機関が良質の教育を提供しているとしても,無視されるのである。
偏差値ランキングが低いことが即ち教育の質の低さあるいは社会的アウトサイダーを表すものではないにも関わらず,少なくとも上記3つの理由で,非大学教育機関は研究対象としても無視される傾向にあった。
教育制度の研究のためには,非大学高等教育機関の歴史と教育制度への影響を分析することが,如何に重要なものであるかということを明らかにしなくてはならない。分析を進めるにあたり,現在,日本の学校教育法第82条の2によって規定される非大学高等教育機関,すなわち専門学校は,機能的観点から言えば,少なくとも米国における二年制カレッジと同等のものであるということを念頭に置いておくことは有用であろう。傍流の教育システムが主流のシステムに多大な貢献をもたらしたことは事実である。今こそ,傍流システムが,いかにして日本の教育全体に貢献を果たしたかを研究するときである。
中等後教育機関とは,高等学校(中等教育)の後に進学する教育機関で,学位を授与できる高等教育機関と,それ以外の教育機関すべてを含む概念であるとされる。現在日本の中等後教育機関は,米国のそれと大きく変わるものではないが,ユニークな存在として専門学校がある。これは,米国の基準で見ると,短大や高等専門学校とともに「非大学(非四年制大学)」に分類されるが,そのカリキュラムを見ると,米国よりも幅が広くバラエティ豊かである。
1996年から特定基準を満たした専門学校の卒業生には,専門士称号が授与されることとなったが,これは日本では短期大学の準学士,米国ではアソシエイトディグリーに相当するものである。そして,1998年から,専門学校卒業生の大学への編入が法的に可能となった。このことは,専門士称号授与権のある専門学校が大学と同等の高等教育機関であることを示している。事実,文部省ではそのカリキュラムを基準に達したものとして認めている。専門学校への高卒進学者数は,過去20年間増加の一途をたどっているが,その一方で短大への進学者数は減少している。
1999年の時点において,文部省は,日本の高等教育において,専門学校は短大よりも重要な役割を果たすであろうと考えているとのことである。(*5)短大でのほとんどのカリキュラムは,教養科目に重点を置いているのに対し,専門学校では,就職の際にも容易に適応できるような実学教育により焦点を当てている。したがって,専門学校は日本の経済において主要な役割を果たす可能性を持っている。以下に現代日本の中等後教育機関を概観しておこう。
日本の大学(大学院を含む)及び短期大学は,日本の高等教育において主流システムを構成している。日本の現行制度では,高等学校の上に位置し,修業年限4ヵ年の大学(ただし医学および歯学の学部は6年以上)と,2-3ヵ年の短期大学とがある。また,大学院の修業年限は,修士課程の場合2ヵ年,博士課程の場合5ヵ年となっている。
設置者による区別として,国立,公立(都道府県立または市立)および私立(学校法人の経営するもの)の3種類がある。
日本の大学が現在のような制度になったのは,第二次世界大戦後1947年以降のことである。それより約70年前の明治維新後に,日本はヨーロッパ諸国およびアメリカの大学制度に倣って,いわゆる近代大学の制度を導入した。これにより,現実には旧制度下の大学と新制大学の二種類(講座制と学科制の相違等による)が併存することになったが,法制上はすべて大学という単一概念で括られている。
日本の大学の目的は,1947年制定の学校教育法によれば「学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする(同52条)」とされている。これは,一般教育,専門教育,諸能力の育成などの教育的機能を重視した規定であると言い得る。
二年または三年制の大学を短期大学,あるいは略して短大という。第二次世界大戦後の教育改革により,大学は四年制を原則とすることになったが,その基準に達せず,しかも価値ある旧制専門学校の伝統を存続させるため,アメリカのジュニア・カレッジ制度を参考に1950年度から暫定的制度として発足した。その発足には,実際的な専門職業教育や中堅的社会人養成の要求も反映していた。
その後「専科大学法案」が国会に上程されるなど短期大学の性格をめぐって紆余曲折があったが,大学の制度的枠内での存続を望む関係者の要望と短期大学教育への社会的要求によって,1965年に高等教育機関の一種として恒久化された。しかし学部を置かず学科制をとること,大学院を設置できないこと,卒業生に学士号が与えられないことなど,四年制大学とは差異がある。短期大学においては,準学士号という学位のみ授与される。1960年代に,主に女子の高等教育機関として発展し,1965年には369校,学生数約14万7000人に,さらに1978年には519校,約38万人に達している。女子学生の割合も年々増加し,1980年にはほぼ9割を占めるようになった。また,短期大学の学校数のうち80%を占めているのが私立である。主な学習領域は,家政系,人文系,教育系(教員養成)である。これら3つの分野は,教授される全分野の6割以上を占めており,全体の7割以上の学生がこれら3分野に集中している。1976年に短期大学設置基準が文部省令として整備され,多様で弾力的な制度運用が可能になった。そのため,地域・生涯教育に対して増大する要求への創造的解決が図られるようになった。
1994年に短期大学の学校数は593校,学生数は52万人に達した。しかしながら1990年代中頃から始まった学齢人口減少と専門学校の台頭に関連して,現在では学生数は減少傾向にある。1995年より四年制大学への編入が公式に認められるようになった。
産業界の要請を背景に,中堅技術者不足を解消する目的で,1961年学校教育法を一部改正して1962年度から新たに設けられ,発足した学校である。中学校卒業者を対象として,5年(一部5年6ヵ月)の一貫教育を与えることが特色であり,その意味では高等学校と短期大学を一本化したものということができるが,6・3・3の学校体系(小学校6年間,中学校3年間,高等学校3年間)からすれば傍系の学校である。発足当初は工業学科のみであったものが,1967年度からは商船高等専門学校が創設され,1971年度からは電波高等専門学校が新設された。その多くは国立であり,1994年現在,総数62校中55校が国立, 4校が公立, 3校が私立となっている。国公立の学校数は1975年以降変化していないが,私立は1960年代のピーク時に7校あったのが,4校減少した。高校,短大,大学がいずれも拡大するなかにあって,高等専門学校のみが拡大をみなかったのは,次の2つの理由による。まず第1に,このコースが短大レベルまでの袋小路(その後の進学ができない)となっていること,第2には,中学校卒業時点ですでにこうしたコースを選択することが困難であること,などから志願者があまり増加しなかったためである。
そのため1976年には技術科学大学を新たに設け,袋小路解消のための方策がとられた。1977年4月より発足した長岡および豊橋技術科学大学では,工業高等学校卒業者を第1年次に,工業高等専門学校卒業者を第3年次に受け入れている。1994年度現在,高等専門学校の学生数は約5万6000人,卒業者のうち約90%は就職している。1995年より,四年制大学への編入が公式に認められるようになった。
中等教育終了後の教育のあり方や各種学校の水準向上が論議されるなかで,1975年学校教育法一部改正により新たに制度化された学校が,1976年より認可された。「職業若しくは実際生活に必要な能力を育成し,又は教養の向上を図ること」を目的とする。この新しいカテゴリーは,「専門及び一般課程の組織的な教育を行う学校」と規定されている。それまで各種学校と称せられていた学校のうち,次の3要件を満たしている学校が専修学校となった。
1;修業年限が1年以上であること,2;授業時数が年間800時間以上であること(夜間などの場合には450時間以上),3;教育を受ける者が常時40人以上であること。
課程としては,中学校卒業者を対象とした高等課程,高等学校卒業者を対象とした専門課程,特に入学資格を定めない一般課程の3種類がある。高等課程を置いた学校を高等専修学校,専門課程を置いた学校は「専門学校」と称することができ,専門学校と称するかどうかは各学校に任されている。専門課程を置く学校は急速に増加し,高卒後の新たな高等教育機関の一種として注目されるようになった。学科としては,工業,農業,医療,衛生,教育・福祉,商業実務,家政,文化・教養などがある。1995年5月現在,専修学校は3437校,在学者数は84万人を超える。
現今では,短大進学者数を超えている。なお,1996年より,文部省の規定基準に達している専修学校の中で,2年課程以上の修了者には専門士という称号が授与されるようになった。これは,米国における二年制短期大学の準学士と同等の称号である。また,1998年より,四年制大学への編入が公式に認められるようになった。
各種学校の名称は,1879年の教育令に法令上初めて用いられた。現在ではこの名称は,学校教育法第1条に規定されている学校以外の,学校教育に類する教育機関の総称として使われている。1975年に,これら各種学校のうち,一定の要件をそなえたものは,専修学校として制度化された。
〈各種学校規程〉(1956年文部省令)によれば,修業期間は1年以上で,簡易に修得できる技術・技能などの課程では,3ヵ月以上1年未満とすることができる。1年以上の修業期間の場合には,年間授業時数680時間以上とされている。主要な科目は,和洋裁,簿記会計,自動車整備,自動車操縦,調理,栄養,看護婦,保健婦,タイプ,理容・美容,英会話,工業などである。各種学校は,学校教育法に規定される学校だけでは対応しきれない学生の要求を満たしている。課程別生徒数では予備校が最も多く,次いで家政関係,自動車整備,簿記会計という順となっている。また,各種学校の在学者のうち,3分の1は高等学校卒業者である。平均して,修業年限1年以上の課程在学者は,全体の3分の2強に達している。
予備校及び塾は,上級学校への進学志望者を対象に,入学試験合格のための実践的指導をする教育機関をいう。法的には,学校教育法で規定する各種学校または専修学校に含まれるものが大半であるが,中には株式会社や個人経営のものもある。大学の入学試験合格のための学校が圧倒的に多かったが,学歴社会化や高校進学熱の高まりに伴って,1960年代から高校受験コースが,1970年代からは小学生向けの有名中学をめざす進学塾も急増した。最初の予備校は1870年代末に現れ,1879年の教育令における〈其他各種ノ学校〉のなかに,中学予備,師範予備などの名称が見られる。1900年ころには研数学館,正則予備校,早稲田高等予備校,開成高等予備校など,中・高等教育進学向けの予備校が出現している。しかし,この初期の予備校は,政府の中等学校整備が立ち遅れていたのと,当時の入学試験の水準が高かったために学力補充が必要になったという過渡的現象であるといわれる。現在の予備校の原型が姿を現すのは第一次世界大戦後であり,進学率の増加と同時に学校間格差が生まれ,より偏差値上位の学校をめざす国民の進学競争の始まりを示している。第二次世界大戦後の予備校の隆盛は,新制大学発足期(1949年前後)にみられるが,さらに本格化したのは1960年代の経済成長と,学校,特に高等教育の拡張期においてである。予備校生は1960年には8万3000人,1965年には9万6000人,1970年13万人,1975年18万7000人,1980年22万6000人と増加の一途を辿っている。
日本の近代の高等教育は,欧米諸国の大きな影響を受けて成立し,明治維新以来,120年の間に,急速に発展した。この近代高等教育システムの基本理念は,それまでの封建制社会のものとは明らかに異質であったが,近代の高等教育が成立する基盤となったのは,やはり,それまでに積み重ねられてきた伝統や歴史である。
アジアにおける高等教育の歴史を振り返ると,その大学の起源は,ヨーロッパのそれとは全く異なる様相を持っている。アジアにおける大学の概念は,中国に始まるのだが,伝統的な中国の高等教育機関は,東周(Tong Chou)の時代(B.C.771-221年)に遡ることができる。(*6)Universityの訳語で,今日でも中国や日本において使用されている「大学(Da Shwei)」という言葉は,隋から唐の時代(隋Suei 589-618年・唐Tang 618年-907年)の中国において出現した。この言葉は,もともとは「偉大な学問」を意味していた。隋の時代の初めから唐の時代の終わり(589-907年)にかけて,当時では斬新的な国家システムであった律令制度(Lue Lin Dje Du)において,「大学」という言葉は,国家官僚を養成する場として機能していた「国家に付随する一機関」を表すために使用された。
現在の米国のDoctorあるいはPh.D.の訳語にあたる,学位である「博士」という概念もこの頃に現れている。かつては,その学位が世襲制で,父から子へと相続された時代もあった。博士学位は,武力における技能とは別の,国家官僚の最高位を表す知性の証明であった。中国と日本とを比較すると,博士学位の概念はそれぞれ違う意味を持っていたし,今日でも,学位そのものの概念がヨーロッパとアメリカの間では異なっている。近代日本における博士学位の概念は,ヨーロッパの「大学教授職」の概念と同等のものである。また,日本において博士学位は,実際の研究成果を承認するものとして設けられているのに対し,米国においては,博士学位志願者の,研究手腕の将来性を評価するために設けられている。
以下本章では,日本の高等教育の生成を中心に,近代以前の教育史を概観する。
推古天皇の摂政であった聖徳太子は,仏教,儒教に通暁した知識人であったことは広く知られている。太子は天皇中心の国家体制を確立するため,臣下の踏むべき道徳条項を盛り込んだ憲法十七条を作成し,天皇記,国記など,史書を編纂して国体の基礎を整えた。
602年,百済の僧,観勒が暦本,天文,地理などの書籍を持って訪日した際に,太子は学生にこれを学習させ,自ら講義を行った。また,太子が建立した有名な法隆寺は,学問寺であり,当時の特殊な教育施設としての性格を備えていたものと考えられている。さらに彼は,中国(隋Suei)に留学生を多数派遣し,外来文化の摂取にも努めた。
また,この時期に,中国(隋Suei)から帰国した留学生によって「私塾」が多数創設された。(本稿において「私塾」とは,教師の自宅で開かれた小規模の学校を指す。)
日本においては,博士という学位は645年の記録に現れるのだが,著名な僧旻(Min)及び高向玄理(Takamukuno Kuromaro)は,同年(大化元年),国博士に就いている。
その後,676年の天武天皇在位時代の記録には,大学寮の記事があり,しだいに上述の教育機関が大学寮として整備されていったことが伺える。これが,現在のUniversityを意味する「大学」という言葉を冠した教育機関の日本で最初の記録である。このころは,仏教が隆盛を極めるようになり,同様に儒教や教学,史学に加え,天文学,暦学,数学,陰陽学等の学術が特に著しく進歩した。
701年には,文武天皇によって,大宝律令という政治に関する革命的な法律が公布され,これにより郡県制に基づいた官僚政治形態が確立された。この官僚政治形態は,朝廷の役人のための官僚養成機構を必要とした。このようにして官立学校の制度である学令が定められたのであるが,学令によれば,都に「大学寮」を,地方の国ごとに「国学」を置くことが決められていた。この最高学府である「大学寮」が官吏養成機関であったという制度が,その後の日本の高等教育制度に中心的な影響を保持し続けるのである。(*7)
当時の国立大学に相当する「大学寮」は,教育に関する官庁にして学校を兼ねたものであった。そこには事務官のほかに教官として,博士1人,助博士,読音・発音の博士,書法の博士,算道の博士などの各2人が置かれ,学生数は400人であった。入学資格はこのころの支配階級である貴族の,一定以上の位のものとされ,入学年齢は13歳以上16歳までであった。
大学の学科は,儒教の経典を学習する経学を中心とし,書と音を入門部,算を専門部とするものであった。ここで留意しておくべきことは,この時代における書とは,中国語を書くことであり,音とは,中国語を音読することであったということである。すなわち,さらに進んだ学問のための必要条件は,語学の習得であったのである。後に,この学科は明経,紀伝(文章),明法,算の四道となった。律令には他に専門教育機関として,典薬寮,陰陽寮,雅楽寮なども定められている。朝廷はまた,この頃には奨学を行っていた。さらには天皇が,自己所有の田畑を大学に寄付してそれを学生の勧学田としたこともある。(*8)
国ごとに置かれた国学は,入学資格を郡司の子弟とし,定員未満の場合は被支配階級である庶民の入学も許可することになっていた。学生の定員は国ごとに異なっていたが,その5分の1は医学生とされ,教官は国博士及び医師が少なくとも各1名置かれた。国学のうち例外は九州の大宰府に置かれた府学であるが,大学に準ずるものでかなり大規模なものであったという。
794年に平安京(京都)に遷都された後,貴族が400年間繁栄した平安時代には,各貴族が自身の教育施設として,寄宿舎を完備した学校である曹司(ぞうし)を設けた。曹司は,同族の勢力を拡大するために,官吏登用を目的として設置されたものである。これは,当時の政府によって承認されたものだったので,学生は官吏登用試験を受ける権利を得ることができた。学生たちは登用試験合格のために,主に音を学んだ。曹司のなかには,菅原・大江氏の文章院など大規模なものもあって,一般の曹司とは異なり,これらは姓氏を問わず入学を許可していた。
国家が創立した大学寮や国学が官学であるとすると,貴族が作った曹司は私学ではあるが,支配階級である貴族の官吏養成教育機関であるという意味では,官学に準ずるものであることは明らかである。それに対して,純粋な庶民のための私立学校が828年に現れている。僧空海によって京都に創立された綜芸種智院である。ここで空海は,階級や僧俗を問わず,広く庶民の子弟に対し仏教及び儒教を教授した。哲学的視点から仏教,道教,儒教を比較する彼の講義は,多くの人に感銘を与えた。空海自身は,若い頃に官学である大学寮に学び,さらに唐に2年間留学したことがあった。それ故彼は,官僚制度に都合のよい貴族教育の不利益や欠点について熟知していたに違いない。(*9)そこで彼は入学者の階級差別を排除した純然たるこの私学を興したのである。この学校は日本における私学の起源であり,西洋的な意味での大学やカレッジに真に類似する教育機関の原点でもある。(西洋におけるUniversityは,教師と学生の組合Uniを意味する私的組織である。)
官学である大学寮は,官費の支給によって成り立っていた。しかし,この私学は庶民の授業料に依存していた。綜芸種智院は十年足らずで財政的に破綻し,活動を停止してしまった。(*10)
ここに,日本における官学と私学の最初の対立図式を見ることができる。すなわち,エリートのための官吏養成機関としての大学寮という官学と,庶民の教育機関としての私学である。この異なる二つのセクターの対立図式は,この後千年にわたって続いていくことになる。
古代における貴族中心社会は,武士の台頭によって武家中心社会に取って代わられた。武家社会では,武芸や武士道の修練が家庭内教育として重視され,公の教育機関の著しい発展は見られなかったが,寺院によって創設された私学は繁栄を見せた。多くの僧侶や学者たちが寺院において学問を修め,いくつかの注目すべき学問的功績を残した。この時代の京都五山,鎌倉五山は,禅(臨済宗)の高等教育機関として著名であり,そこでは朱子学,漢文・漢詩及び国文学に通じた学僧を多く輩出している。それは(支配階級の中では)階級を選ばず,誰でも自由に学ぶことができ,才能を伸ばすことができる教育機関であった。
後に,庶民の地位が向上し,また仏教が普及したことにより,一般の寺院が庶民に対する教育を始めるようになった。特に室町時代(1393-1575年)において,少年少女に対して読み書きや算数を教えることが,一般的なものとなった。これら寺院による私立教育機関は特に,後の「寺子屋」の芽生えといえる。
同じく中世の私立教育機関としては,神奈川県の金沢文庫と栃木県の足利学校が挙げられる。金沢文庫は称名寺(しょうみょうじ)という寺院に附属する図書館がその由来である。記録によれば,金沢文庫は一万二千以上の書物を所蔵していたということである。また,11世紀の終わり頃設立され,近世まで「郷校」として残った足利学校では,儒学のほか兵法も講じられていた。(*11)スペインの宣教師であるフランシスコ・ザビエルは,インドのゴアに宛てた書簡で,この学校について「この大学には四方から好学の徒が多数集まっている」と述べている。
このザビエルが鹿児島に来日し,キリスト教を伝えたのは1549年である。その後,宣教師が多数来日し,布教を徹底するための教育施設として各地にいわゆる天主教学校が設立された。その中には,司祭を養成する高等教育機関であるコレジョ(カレッジ)があった。また,宣教師たちは16世紀後半の数年間,京都にアカデミヤ(アカデミー)というものを設けて数学・天文学を教えたこともあった。後にキリスト教の排斥によりすべて消滅するが,これらが日本におけるキリスト教学校の最初である。
日本は1633年から1868年まで鎖国政策を取ったが,その結果,国家は平和を満喫し,閉鎖された国内では文化の熟成が進んだ。そして,江戸時代の武家は中世とは異なり,確立され安定した幕藩体制のもとで高い教育を受けることが求められるようになった。一方庶民は,経済の発展に伴い,より進んだ日常生活に必要な知識を身につけることを求めるようになった。その結果,時代の要求に即した各種の教育機関が発展した。
武家の学校としては,公立セクターとして,幕府直轄の学校,諸藩の藩校などがあった。他方,庶民の学校としては,私立セクターである規模の小さい「私塾」などが多く存在し,これらは,教師の自宅において経営され,武家と一般庶民との両方に対して開かれていた。また,女子だけのための教育施設もいくつか見られるようになった。これら江戸時代の各種の学校は,明治時代以降の近代学校の原型となった。また,そのうちのいくつかは大学に発展した。以下に,江戸時代の鎖国をしていた時期における主な教育機関を列挙しておく。
4-1 昌平坂学問所(幕府によって設立された高等教育機関)
昌平坂学問所は江戸時代の最高学府である。この学問所は林羅山の家族のための私塾として,幕府の許可と保護を受け,1630年に始まった。1632年には,名古屋藩主徳川義直(よしなお)から聖堂(孔子廟)を寄贈され,やがて1797年に幕府の直轄学校としての体制を整え,昌平坂学問所と称されることとなった。
当初,昌平坂学問所は,旗本や諸藩の俊秀を集めて藩校の教員養成を行っていたが,後には,幕臣及びその子弟のみが入学を許可されるようになった。教育内容は,経書・史書,作文(漢文)が中心であり,朱子学を正統として,1790年以降は他の学派の学問は禁止された。
昌平坂学問所の主管者は大学頭と呼ばれ,幕府の学問所を管轄するものであった。主管者に大学頭の職名が与えられ,それが引き継がれていたことから,同所が江戸時代の大学として位置付けられていたことがわかる。これが,後の東京帝国大学の原点である。時に,米国最初の大学であるハーバードカレッジ(1636年)が創立された頃であった。
4-2 藩校(武家の学校,後に地方の公立学校)
藩校とは,藩士の子弟の教育を目的として設立された学校を指す。私塾を起源とし,後に藩校として整備されたものが多いが,大部分は幕府の学問所をその模範とした。基本的には,入学者を武家からの学生に限定していたが,一部には,前途有望な庶民の子弟を受け入れるところもあった。時代がさがるにつれこの傾向が強まり,たとえ被支配階級であっても,優秀であれば教育を受けることができるようになっていった。この身分的制約の解除は幕末から維新期に至って急速に進展した。
藩校では,教育内容は儒学が中心であり,それに武芸を加えていた。後に,西洋的なカリキュラムである算術,医学,天文学,語学,兵学などを設けるものが多く見られた。藩校の在学年令はおおむね7,8歳から15,16歳であった。幕末における藩校の数は,およそ250といわれている。
4-3 郷学(郷村の学校)
郷学は郷村の学校という意味である。藩が直接藩の中に設けて藩士を対象としたものと,藩あるいは庶民が藩の許可を得て開校するものとがあった。寺子屋とは異なり,藩の許可を得て設立されるものであって,教育程度はそれなりに高いものであった。(*12)明治維新以前には,全国に120以上存在していた。
4-4 寺子屋(一般庶民の子弟のための私立教育施設)
中世末期における寺院による庶民教育に起源を持つ私立教育機関が寺子屋である。経済が発展した江戸時代には実学的教育を受ける需要が庶民の間で高まり,寺院だけでは収容し切れなくなった生徒を,医師,神官,書家,武士などが小さな私塾を開いて受け入れるようになっていた。
残された記録によれば,明治維新前までに寺子屋の総数は全国で15000にまで達していたということである。しかし,実際には未調査のものも多く,幕末にはおそらくその2倍近い数であったともいわれている。(*13)寺子屋においては,男子も女子もいわゆる「よみかきそろばん」の教育を受けた。この寺子屋と上記の郷学は,1868年に日本が西洋諸国に対して開国した後,小学校の基となった。
4-5 私塾(高等教育機関としての民間教育機関)
江戸時代においては,幅広い専門領域における様々な学者が,自宅に私的で「先進的な」学校(私塾)を設け,成年に対して開いた。これらの学校では,儒学のほか,国学(*14),洋学の教育も盛んであった。吉田松陰の松下村塾(1855年)や,オランダ人医師シーボルトの鳴滝塾(1823年),緒方洪庵の適塾(1838年)などが著名である。私塾は幕末から明治維新にかけて急速に発展し,その数は1482校に及んでいる。これら先進的な私塾は,当時の支配階級である武士の子弟ばかりではなく,縁故のある一般庶民をも受け入れた。
松下村塾の吉田松陰は,特に江戸時代末期に浦賀に来航したペリーの軍艦を目の当たりにした後で,一国の軍事力は科学及び技術の力によるものであることを見抜いた。松陰は,日本が植民地化するのを防ぐためには,軍事力の近代化が必要であるということをよく理解していた。そこで彼は自らの私塾において,政治学とともに技術を養うための数学や科学を教えたのである。ちなみに当時の官学では,封建的体制維持のために有用な伝統的儒学が重視されており,技術や科学は重視されていなかった。松下村塾における門下生には,伊藤博文や高杉晋作など,その後,維新政府のリーダーとなった者も多い。
幕府は,文化的なプライドのために,西洋思想をたいてい拒絶したのであるが,西洋の医学についてはその価値を実感していた。当時,幕府のもとに開業させた医師は,漢方医学に関する有力な唱道者であって,しかも官立学校では西洋医学を無視し,漢方医学を重視していたのだが,それは主として政治的な理由からである。事実鎖国の時代であったにもかかわらず,幕府はシーボルトに,長崎にオランダ医学の学校を開設することを許可した。
また,緒方洪庵の適塾では,オランダ医学のみならず広く蘭学を教えた。シーボルトの娘の一人も,適塾に学んでいる。松下村塾の出身者がほとんど政治の道を選んだのに比べて,適塾は幅広く様々な人材が学び,巣立っていった。日本陸軍の創設者から,在学中は塾頭を務めた教育家・文明評論家である福沢諭吉など,多彩である。福沢はこの適塾の経験を生かして,後に慶應義塾を開校することとなる。
当時,洋学は,最先端を行く学問であった。(*15)そして上記藩校や郷学が経営者と教師が別であるのに対して,寺子屋や私塾では教師がその教育機関の経営者でもあった。さらに付け加えると,前述した昌平坂学問所も,もとは林家の私塾で,武士階級のみならず一般庶民を多く受け入れていたのである。しかも,紅一点ではあるが,女子の生徒がいた記録も残っている。以上のようなことから,これら私塾は近世の私立市民大学であったとも言える。そして,それらの卒業生の多くが,次の変革の時代を担ったのである。(*16)
4-6 洋学校(西洋の学問に関する学校)
幕末には西洋の学問が急速に発達し,開国後は蘭学に限らず,特に英学が盛んになった。
江戸幕府は早くから天文方を設置し,そこでは天文暦道のほか,後には地図の作成,洋書の翻訳,外交事務なども扱っていた。1856年,洋学の中心機関としてこれを改組し,洋学教授及び翻訳を司る蕃書調所と名を変えた。これはその後,開成所と改称され,後の東京帝国大学の基盤の一つとなった。
開成所と並んで幕府が設置した洋学機関として医学所がある。これは,1858年に伊東玄朴らが設けた種痘所がその原点である。これはその後幕府に吸収され,政府直轄の種痘所となり,1861年に西洋医学所,1863年には医学所と改称された。この医学所も,後の東京帝国大学医学部の起源となる。
私立の洋学校としては,私塾の一種であるが,前述の福沢諭吉による1868年の慶應義塾などがある。これは現在の有力私立大学のひとつである慶應義塾大学の原点である。
ハーバード大学教授であるサミュエル・P・ハンティングトンは,世界の文明を9つに分類している。その9つとは,欧米・ラテンアメリカ・ロシア国教・イスラム教・ヒンドゥー教・仏教・アフリカ・中国・日本である。これらのうち,ある興味深い点において中国と日本は他と識別されている。すなわち中国と日本においては,宗教が現存する文化に合うように変えられ,政治のための道具のようなものとして使われたのだが,決して文明の基礎とはならなかったという点である。(*17)また,日本においては,高等教育機関が宗教の力に匹敵する権力を持つことは決してなかった。そして宗教そのものの力も,政府の権力には決して及ばなかったのである。(*18)
ここでもう一度注意すべきことは,宗教は日本の教育の発展に重大な影響を及ぼさなかったということである。学位は,千年にわたって政府によって授けられてきたので,大学は国家の一機関であり,政府から独立して権力を持つことは決してなかった。宗教の出現は,大学寮のごとく,機械的な制度であり,形式主義的であった。
他方私学は,より自然的,自治独立的に発生した。それは,主に庶民のためのものであり,庶民レベルでの一般的な教育を提供してきた。また,政府の統制から自由であった。しかし,それが発展し,国家にとって役に立つという理由が認められたときは,政府に必要とされた。あるいは,そうでない場合は,政府によってしばしば解散させられた。したがって私学は,政府との密接な関係においてのみ,高度に発展することが可能であったのである。
またひとつここで注意すべきことがある。それは,庶民に対する教育は,常に私学によって先導されてきたのだが,並行していくつかの官学も,優秀な庶民を受け入れるようになったということである。日本では,私学が一般庶民の社会的地位向上に関して先頭に立ってきたということができる。
以上のように歴史を振り返ってみると,日本の教育システムは,官学という上からの力と,私学という下からの力とによって成立されたものであるといえる。1000年以上もの長い間,私学と官学は縦並びで発展してきた。
日本は常に先進外来文化を摂取し,それを現存する伝統と上手に混合してきた。日本は主に中国を中心として,海外の国々から様々なことを学んできた。このことは中国本土に広く行きわたっている民族主義と強い対照をなしている。(中華人民共和国の「中華」とは,「中心で輝くもの」を意味している)例えば,外国語に熟達するための練習について取り上げてみよう。外来の文化を学ぶとき,日本語に訳していると時間がかかる上に概念乖離の危険性がある。それゆえ,外来の文化に関する知識を習得しようとする学生は,外国語に通暁した上で学ばなければならなかった。
以上が,明治維新前夜までの日本の教育の概観である。この後,明治維新後の短期間のうちに,新政府は外国から教育システムを輸入し,日本的近代教育システムを確立していくのである。
近代の到来以来,日本は二回にわたってアメリカの影響で大きな教育改革を行うことになる。最初の改革は明治維新で,第二の改革は第二次世界大戦の敗戦による米軍の占領による。
第一の維新期の改革は,それまで200年以上にわたって鎖国してきた日本が,4艘の軍艦に大砲を携えて浦賀に来航したアメリカのペリー(Commodore Perry)に通商を迫られ,開国を余儀なくさせられたことによる。この時点で,もし日本が対抗策を講じなければ,西洋諸国による植民地化という危機が切迫するであろうことが明らかとなってきた。皮肉なことであるが,おそらくこのことは日本が抵抗してきた西洋の文化の基本,すなわち科学と技術を吸収し,同様に西洋型の教育理念を採り入れる必要があることを意味していた。(*19)
1868年に,明治維新とともに大きな変化は始まり,続いて1872年には近代教育制度が採用された。このことは,教育制度改革の歴史上で最も成功した事例であると一般的には考えられている。(*20)アメリカの歴史を通じて,大学はしばしば社会改革の道具と見なされてきた (*21)が,日本は教育制度が社会改革を果たした例のひとつである。(*22)以下に見るように,この例は,今日,高度に公式化された日本の教育システムの根源でもある。この時,同時に,教育システムを構成する主要な構造上の諸要素がすべて,明確な目的によって位置付けられたのであった。
日本における近代教育システムは,西洋の教育システムをモデルにしている。しかし,それが正確にはどの国をモデルにしているかについては様々な意見がある。ルース・ベネディクトは,日本の近代教育システムは,フランスの教育制度にかなり類似していると述べている (*23)が,特に私学のセクターにおいて(*24)は,アメリカの影響も見られる。なおその上,19世紀後半にはたくさんの日本人がアメリカ同様ドイツにも出かけ,医学やこれにやや遅れて法学を学んだ。事実,同様にそれは大きな影響をもたらした。工業と技術教育の分野では,イギリスの影響が見られ,医学においてはすでにしばらくの間オランダの影響を受けていた。つまり,日本は,西洋諸国の様々なシステムから部分的な選択をし,それら各部分の混成物としての近代教育システムを作り上げたのである。(*25)
第一章ですでに述べた重要な点を再記したい。たとえそれが政治改革や占領によって引導されたとしても,他の各種の文化的機能と同じように,最も基礎的なレベルにおける教育というものが,突然根本的に変化することは不可能である。教育は他のすべての社会的機能と同様に,何世紀もの間にわたって,形作られるものである。
事実,維新政府は,日本古来の伝統的方法に対して新しい方策を見出した。そしてその過程の中で近代的な大学を頂点とする新しい教育システムを制定した。この明治期の教育改革は,日本古来の文化的伝統の上に導入された,新規輸入の西洋的概念や方法として理解し得る。この改革は,政府の強力なリーダーシップと経済的資源のみによるものではなく,古くから存続する文化的基盤,すなわち寺子屋や私塾のような,私学セクターをうまく活用したのであった。これは,当時の政府の偉大な業績である。
この改革においては,ある種曖昧な典型的に日本的な改革方法が効を成した。日本式の改革方法は,このような文化的収斂において,固有の不和を解決するために作用したばかりではなく,堅固に融合され,中心へと導かれた方法で教育のシステムを作り上げるためにうまく作用したのである。
本章では,第一の大きな教育改革からそれが完成するまでを概観しながら,近代型大学の樹立とともに,日本独自の制度である「専門学校」の生成を見ることとする。
1867年10月,幕府の大政奉還が行われ,同年12月には王政復古の大号令があり,首都は京都から東京へ移された。新しい政府である維新政府は,翌1868年,最高学府であり,かつ,教育行政機関の中心としての大学の創設を計画した。この明治維新は,王政復古を確実にするために周到に計画された。そして,天皇に敬意を表するという最も主要な統治原理は,全体的近代化運動を保守的な形式へ押し込めた。1868年(明治元年),国学において著名で保守的な学者である矢野玄道(Yano Harumichi)は,政府より大学の制度のためのモデルを企画するよう命じられた。5世紀の大学モデルを基礎に置く彼自身の計画は,結局否認されたが,まさにその企画の提出が,いずれ始まる新構想の機運の引き金となる。
同年,政府は大学政策を開始した。その年の6月から9月にかけて,旧幕府の昌平坂学問所,開成所,医学所が,それぞれ,昌平校,開成学校,医学校として復興され,翌年,1869年(明治2年)には,政府はこれら3つを統合して「大きな学校」すなわち大学校(多かれ少なかれ「大学」を意味する)を創設する計画を発表した。同年7月,官制改革により,大学校は教育行政官庁となり,長官として松平慶永が任ぜられた。彼は,今日の言葉でいうと,大学の総長であると同時に文部大臣であったということである。また,大学南校と大学東校も設置された。(*26)この改革のもとで,大学は2つの学科を持つこととなった。すなわち,教科(神教学,修身学)と文科(紀伝学,文章学)である。大学南校及び大学東校における学問的中心も明示された。すなわち前者は法科,理科,文科(哲学)のための学校であり,後者は医科のための学校である。今日の言葉でいうならば,大学本校は官吏養成所かつ中央官庁であり,他の2つは学部であるといえる。大学本校は中央官庁であり官吏養成所である。ここでの組織分類は明らかに西洋的なものである。しかし内容は,東洋の伝統的なものであった。
儒学の影響を大きく受けた,先の昌平坂学問所であった大学(本校)には,当初最も保守的な国学の学者がたくさん留まっていた。(儒学は,昔の武士たちにとって主なイデオロギーの支えであった。)しかし,まもなく増大する近代的な西洋の学問の影響により,儒学者と国学者との間の衝突が生じた。このことは大学本校の機能を維持することを不可能なものとした。1871年に,文部省の設置とともに,大学本校は廃止された。(大学南校は南校,大学東校は東校と改称された。)この時点で大学という名称は一時消滅した。(*27)
3-1 文部省の設立
維新政府は1871年(明治4年)7月18日に文部省を設置し,全国の教育行政を総括するようになる。これは大学の廃止を伴うものであった。「明治4年の組織」を統治する,同年の官制によると,文部省は,行政事務官として貴族を置き,教官として大・中・少博士,大・中・少教授を置いた。ここにおいても,博士という学位は,官吏の職制であった。そして先の分裂の結果として,国学派と漢学派は締め出されており,もっぱら洋学派が主な管理組織を構成した。
政府は,統一的な教育制度を企画していた。1870年(明治3年)までには,政府は小学校,中学校,大学という教育の3段階すべてについての,包括的な規則の細目を明示していた。これは,西洋諸国の学校制度についてかなり研究した上でなされたことである。また,アメリカ人宣教師のフルベッキ(Verbeck,G.F.)が,政府顧問に就いた。
1871年の学制起草にあたり,政府が任命した委員は,7名の洋学者,2名の国学及び漢学者,そして3名の行政事務官,すなわちもとの洋学教官であった。これらのうち,フランスの学者が委員会のなかでは重要な位置を占めた。(ドイツ,イギリス,オランダの学者の影響力も多分にあったのだが)当然このことは,委員会から出された組織的な決定に影響していたと考えられる。(*28)
学制は,1872年に公布された。これは109章から成り,学区,学校,教員,生徒と試験,海外留学,学費などについて定めたものであった。そして,次の年に専門学校などの規則を定めた2編が追加(「学制二編追加」という)された。したがって,学制は全文で213章になった。ここにおいて初めて,法律上に「専門学校」の名称が現れた。
3-2 学制公布後
1872年(明治5年)に発せられた太政官布告第214号は,学制の前文に当たるもので,多数の宣言から成る。そこでは,人生の成功や資産を確実に管理するために,学校において学問を受けるべきであることを説いている。これによると,学問はもはや武士のためだけのものではない。いずれにしても華士族の教育は,個人ではなく国家のための明白な利益を供給してきたが,結局,それは毎日の生活にとって真に実用的な教育ではなかった。学制が目標とするところは,すべての人々に対しての教育である。すべての社会階級の人々,すなわち華士族,農工商,男,女,そして子供等皆すべてが学校へ行かなくてはならない。授業料は,個人あるいは家族の財源より提供を受けるべきである。なぜなら,国家に対し,教育にかかる費用を押し付けるのはよくないからである。(*29)政府の財源負担の対象は,政務のための訓練教育に制限され,一方で私人である個人の勉強は,個人の経費負担と責任で行うという伝統的な考え方の原点をここに見ることができる。(日本においては,「一私人の教育は,私費で賄うべきであり,公費は国という意味で公のための教育に使用されるべきだ」という考え方が依然根強い。)
このように,学制は,以下の2つの点において,伝統的な儒学思想からの離脱を図ったものである。2つの点とはすなわち(1)社会階級の平等を謳っている点,(2)西洋の近代的なシステムを構造上のモデルとし,実利性を正当化している点である。
この時点で,中央政府は地方の政府機関にその計画を実行するよう命じた。全国に公立の小学校や中学校が設立され,目立って確かに変革が成し遂げられる。それらのうちのいくつかは新しいものであったが,他は従来からの学校を基にして作り直されたものであった。小学校は,郷学や寺子屋,私塾の一部を基に作られ,中学校は,私塾や以前は武士の訓練校であった藩校を基礎として設立された。そして,すべては中央政府の管理下に置かれたのである。さらに,小学校や中学校の教師を養成するために,師範学校が法制化され,創設された。小学校の教師は,「20歳以上」で,「中学校か師範学校を卒業」していなければならなかった。東京師範学校には,アメリカ人教師のM.M.スコットが招かれ,小学校教育においてはアメリカの教授法が一般的なものとなった。
過去において,郷学と藩校はそれぞれ,先の政府の支配下にあった公立学校のようなものであったが,一方で寺子屋や私塾は個人・私人のものであり,比較的自然発生的な自治的な教育機関であった。したがって,中央政府によるこの接収は,かなり急進的なものであり,実際の完成までにはいくらかの時間を要した。慶應義塾(後の慶應義塾大学)や同志社英学校(後の同志社大学)のようないくつかの学校は,しばらくは私立学校のまま残ったが,しかし,それら私学は,この後30年にわたって政府の管理下に吸収させられていくこととなる。
3-3 法的に定義された大学
先に述べたように,現実の存在としての大学は廃止されたが,かつての大学の名称を持っていた他の2つの学校,すなわち大学南校と大学東校は残っており,それらは今度は単に「東校」「南校」と呼称されるようになった。それにもかかわらず,この学制においては大学の法的な概念が定義されていた。すなわち,「大学ハ高尚ノ諸学ヲ教ル専門科ノ学校ナリ」という規定であり,その学科は,理学,化学,法学,医学,数理学の5学科であった。大部分の学科は4年間とされた。(*30)ここにおいては,法制度上の概念定義はあるものの,法的に認められた大学は存在していなかったのである。
3-4 専門学校の形成
1873年に2編の条文が学制に加えられた(学制二編追加)。一方は,「外国語で専門的な学問を教授する」専門学校についての条文である。もう一方は,その専門学校の予備門の役目をする「外国語学校」についての条文である。専門学校としては,法学校,医学校,理学校,諸芸学校,鉱山学校(鉱物科学に関する学問を行う),工業学校,農業学校,粧業学校,獣医学校などが法律上定義された。入学資格は,小学校を卒業し,その後,外国語学校の下等の課程を修了した16歳以上の者と定められていた。
しかし,この法律が制定されたとき,官立の専門学校は2つしかなかった。大学南校をその前身とする開成学校と,大学東校をその前身とする医学校である。他の公立(県立と市立)の学校と私立学校は,この専門学校の範疇に含まれてはいなかったのである。このことはすなわち,この時点で実際には,大学のシステムとして残されたものが公式に専門学校として認定された一方,大学の概念そのものは,ただ法的概念として明示されただけであったということである。また,すべての私立学校は法的に定義付けされなかった。それらは公式には「学校」ですらなかったのである。
さらに明治政府は,全国民を教育し,欧米先進諸国の学問,特に科学と技術に関して精通した指導者を育成しようとした。先に触れたように,大学というものは西洋のモデルに基づいた最高機関でなくてはならなかった。しかし,ここにはひとつ問題があった。西洋の技芸や科学を教えるための技量を持った日本人教師が,現実には,ほとんどいなかったのである。当時,開成学校と医学校においては,外国人教師が大半で,授業はすべて外国語で行われていた。
政府が専門学校の制度を創設したのは,日本語でこれら科目の講義を担当できる教員を養成するためであった。これは,単なる暫定的措置であった。(*31)したがって,1873年から1877年までの間は,実際には「大学」という教育機関は存在しなかったのである。『東京帝国大学50年史』によれば,正真正銘の官立総合専門教育機関である開成学校は,「中学でもない,大学でもない,その中間に位置するもの」になってしまったとのことである。(*32)
一方では,政府は同時に,「専門学校ニ類スル学校」という言い方により,実際に存在している学校を統制する法的概念を定義しようとした。この「専門学校ニ類スル学校(しかし公式には専門学校ではない)」という分類は,先の3-2で言及した「私立学校としてそのまま残ったもの」を含んでいた。これらの中には,慶應義塾や同志社英学校,地方に設立された公立の医学校やその他の公立及び私立の学校があった。これらがたとえ法的な地位を持っていなかったとしても,当時すでに,「専門学校」と呼ばれていたということには,着目せねばならない。(*33)日本の学校制度は,この時点ですでに曖昧で,複雑なものであった。
このように学制は,全国民を対象とする学校体系を確立した。幾分平等主義的な傾向のものであったにもかかわらず,これはアメリカのような単線型(unitary system)ではなかった。例えば,開成学校や医学校は,唯一国家の指導者のための学校であり,国民教育組織とは異なるものだったのである。
ここで再度着目すべきは,この初期の段階においてさえ,専門学校の目的と地位の概念は,それ以後長く残る,曖昧さを如実に反映しているということである。(*34)
3-5 文部省以外の省庁所轄の実業専門教育機関
また,この時点で,文部省以外の省庁所轄の教育機関がいくつか存在していた。司法省によって設置された法学校,工部省に設置された工部大学校,そして内務省管轄下に設けられた駒場農学校である。後に,これらは文部省に移管され,東京帝国大学に合併された。また,1872年に開拓使によって開校された札幌農学校も,結局東北帝国大学に吸収され,その後,北海道帝国大学として独立した。やがてこれらは大学の工学部や農学部の起源となるのだが,当分の間は大学でもなければ,公式な専門学校でもなかったのである。
4-1 摩擦と混沌
以上に見たように,1872年の学制の公布は,理想主義的なものであって,民衆の生活と大きな隔たりがあった。政府は,中央集権化された,強制的な小学校の制度を確立するために,むりやり寺子屋や郷学を接収・統制していった。また,授業料は個人の両親に負担させる一方で,個人の決定権に関する許容度がほとんどなかった。というのも,学区取締という役人が,各家庭に対して子供の就学の必要性を強く主張したからである。加えて,教育内容は西洋のスタイルをモデルにしたものであって,伝統的な日本の教育を手本としたものではなかった。また,教科書には翻訳本が使用されており,何一つとして一般的で大衆的なものはなかったのである。
そのころまだ,そろばんに頼っていたような国民にとって,これらすべてはほとんど理解できない事態であった。人々は新しい制度に当惑させられたのである。1873年にはさらに徴兵令も発布された。そして,これらの新制度に反発して,農民の暴動が起こり,いくつかの都市では,小学校が大衆の怒りの標的となり,そのうちの多くは焼かれ,破壊された。
また,高等教育においても,同様な反応があった。東洋の学問の支持者と国学派及び儒学者が再度台頭し,古来の教育思想を主張し始めたのである。江戸時代からの伝統的な儒学思想と,貴族の時代からの伝統的な国学,そしてアメリカの独立とフランス革命に影響された西洋の民主主義哲学といった3つの異なる文化の観念が同時に存在し,結果として,互いに拮抗する思想が寄せ集まった状態となったのである。
4-2 東京大学の発足
高等教育の最初の変化は,こうした混沌の中で生じた。1877年に,政府は東京開成学校と東京医学校を合併して東京大学と称する布達を発した。そして,それぞれの専門学科,すなわち法学,化学,工学,および医学の発展を継続させたのである。
ここに至り,政府の計画が実現する運びとなったので,大学は,外国の学問,特に近代的技術に関わるような学問の重要な中心となっていった。
4-3教育令の公布
1876年,田中不二麻呂は渡米してアメリカの教育制度を綿密に調査した。翌年,彼は帰国し,1872年に公布した学制の改革に着手した。また,アメリカから招かれたデビッド・マレー(*35)は,後に彼自身の改革案を提出している。それは伊藤博文によって完成された。(*36)
1879年に,政府はそれまでの学制を廃止し,「教育令」を発布した。学校教育制度についての規約である教育令は,アメリカの制度を手本としたもので,それまでの中央集権的な一律支配を排し,地方分権の教育体制を確立しようとした。
教育令に定める学校は,「小学校,中学校,大学校,師範学校,専門学校,其他各種ノ学校」である。これには,重要な変化があった。というのは,私立学校は,その学校の状況を政府に公式に届け出ることにより,公立小学校に代用し得るものとして許可されたのである。これにより,私立学校のほとんどが,正式に小学校になった。しかし,いくつかの私立高等教育機関は,そのままであった。もっと重要なことに,「其他各種ノ学校」として届けられた学校は鎖国時代から続いていた私立高等教育機関(私塾:今日の私立大学を含む)を含んでいた。この「其他各種ノ学校」という法的定義は,今日の公式な「各種学校」の起源である。
官立の教育システムについていえば,政府は,地方官吏に代わり,教育委員会制度を採用することを決定した。その上,授業料は廃止された。もちろん,これはアメリカのシステムをモデルとしたものである。しかし,この自由主義的な制度は,理論上は改良されたもののように思われたが,その履行は再び重大な問題を引き起こした。つい最近まで,先の制度を推進しようと努力してきた地方の教育関係者や地方官が,再度の急激な変化に混乱させられたのである。そして,結果としては授業料収入が途絶えたことによって,たくさんの学校が廃止され,就学率も低下した。社会的基盤には,まだそのような基準を採択するほどの準備ができていなかったのである。そして,新しい制度はたった1年しか持たなかったのである。
4-4 改正教育令
激動し混乱する世相にあって,急激な欧化主義の風潮に引導され,教育は知育に偏重した。それに対し,伝統的な価値観や慣習を重視する立場から,仁義忠孝に基づく儒教的な道徳を確立する必要性が求められるようになり,1880年(明治13年)の改正教育令では伝統主義的な思想が謳われるようになった。他方,実業教育の重要性も同時に重視され,ここに,知識才芸の開明主義と仁義忠孝の伝統主義の両方を包摂する,実に日本的な混在型教育が芽生えたのである。また,フランス革命やアメリカ独立宣言の影響で高まってきていた自由民権運動への対策として,政府は就学率を向上させ伝統的道徳教育を重視するという文教政策を強力に推進し始めた。そして,教育令は1885年(明治18年)再度改正された。不況化の経済のもと,地方財政を軽減するために学費の受益者負担は復活し,学務委員は廃止され,再度町村の学事はまた官吏が司ることとなった。
このとき,公立学校のうち,府県立のものはその設置・廃止について文部卿の認可,町村立のものは府県知事の認可を経なくてはならなくなったが,私立学校は以前と同様に届け出るだけでよかった。
また,改正教育令では,他方で実業教育もいっそう重視され,「農耕ノ学業ヲ授クル所」として,農学校,「商売ノ学業ヲ授クル所」として,商業学校,「百工ノ職芸ヲ授クル所」として職工学校が定められた。1881年には東京職工学校が設置され,これはのちに国立の東京工業大学になる。また,1885年に農商務省から文部省に移管された東京商業学校はのちに一橋大学に発展する。ここにも実用教育学校が大学に発展する系譜の源流が見られる。
4-5 教育令期の高等教育
この教育制度が二転三転する間,一方では東京大学が設立され,大学は東京大学ただ一つであったのに対して,他方,1879年(明治11年)の最初の教育令において,専門学校が再定義されることになる。同令によれば,「学校ハ小学校中学校大学校師範学校専門学校其他各種ノ学校」から成るものとされ,「大学校」が「専門諸科ヲ授クル所」であるのに対して,専門学校は「専門一科ノ学術ヲ授クル所」となった。つまり,法律上は大学と専門学校との区別は,それが総合制の高等教育機関かそれとも単科かという一点に,求められるようになったのである。そして「其他各種ノ学校」には特に定めはなかった。
この1879年(明治11年)には,「専門学校」は公立私立あわせて62校にのぼったが,そのうちの私立専門学校の多くは2年後の1881年(明治13年)の「文部省年報」では除外され,「専門学校ニ類スル『各種学校』」として算入されたので,同年の統計上では専門学校の数は激減した。同年報において,初めて現れた「各種学校」という項目では,「学科が不完備の学校及び正規の学校種別に入れ得ない諸学校を包括する概念であること」が示されている。年度によって専門学校に分類されたり各種学校に分類されたこのカテゴリーは,官立私立をあわせて「専門学校」と一般には呼称され,専門一科の学校のみならず,大学以外の高等教育機関をすべて包摂するものであった。
このころ,私立の「専門学校ニ類スル」,「其他各種ノ学校」が盛んに設立されるようになっていた。大学進学志願者が増加する一方で,帝国大学に入れなかった者のために,それらの私学が今日と同じく「すべり止め」になっていたのである。それらには,法政大学の前身である東京法学社(1879・明12),専修大学の前身である専修学校(1880・明13),明治大学の前身である明治法律学校(1881・明14),そして早稲田大学の前身である東京専門学校(1882・明15),関西大学の前身である,大阪にできた関西法律学校(1886・明19),やや遅れて日本大学の前身である日本法律学校(1889・明22)などがある。政治・法律に関する学校が多いのは,自由民権運動が活発化するにつれ,当時急速に整備されていった法制度において,弁護士の資格試験が始まり,その試験に合格するための予備校としてそれらの学校が機能したからである。
制度はそれができてから実態である学校が創設されることもあるが,それは官立の場合が大半で,私立は制度の確立よりもむしろ社会の情勢や需要から自由に発足し,制度はそれに追従する。この制度的に混沌の時代には,欧米から近代法学が輸入され,法律家の需要が発生し,社会全般に法律を学ぶ必要性が生じた。ところが,官立学校である唯一の大学である東京大学の入学定員はごく少数に限られていたので,その道を閉ざされた者に対する立身出世の途を開くことに,これらの私学に対する需要の多くがあったのである。したがって,それらの,一般に「専門学校」と呼ばれ,法律上は「専門学校ニ類スル」曖昧な学校群の大半は,実際には,官立大学の次に位置する補助的高等教育機関として機能した。
5-1 帝国大学の誕生
1886年(明治19年)になると,以上のような高等教育の制度的な混沌状態に,第二の極めて大きな変化が起こった。この年,森有礼文部大臣は教育令を廃止し,それに代わるものとして「小学校令」「中学校令」「帝国大学令」「師範学校令」,以上4つの勅令を発し,直ちに東京大学を帝国大学に改組し,新たに5校の高等中学校を創設したのである。ここに,明治維新以来展開してきた日本的な形での近代的教育制度が確立され,これはその後の日本の教育制度の基礎となった。
森の教育観は「学制」当時における立身昌業のそれとは異なり,日本独自の国体を基本とし国家の富強を図ろうとするものであった。そして,小学校から大学に至るまで,それぞれの学校を個別のものと考えるのではなく,互いの有機的関係性をもって,頂点の大学へと至るピラミッド的な教育システムを創ることを画したのである。
同年3月に発せられた帝国大学令では,帝国大学の目的を,「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スル」ことと定義しており,国家目的に応じた教授・研究であるという性格が明らかにされた。帝国大学は大学院と分科大学により構成され,前者は研究機関であり,後者は理論及び応用の教育機関で,法科,医科,工科,文科,理科の5つであった。各分科大学の入学資格は高等中学校または同等の学校の卒業者もしくは試験に及第したものであり,分科大学の修業年限は医科大学が4年,他はすべて3年,また大学院の攻究期間は2年以内であった。法科には以前の司法省管轄であった東京法学校が合併された。追って1888年,工部省所轄であった工部大学校が吸収された。そして,1890年(明治23年)には,農科大学を設けて,6つの分科大学から成る総合大学となった。この時点でも無論,「学士」などの学位授与権を持つのは,この帝国大学だけであった。
この推移は,先に述べた改正教育令期の農学校,職工学校とあわせて,1862年のモリル法案による米国のランドグラントカレッジ(国有地公布大学)が創設の当初から農業技術工業技術を設置することを規定していたことと呼応する。そして,ヨーロッパの古くからの大学や,米国のハーバードやエール,コロンビアなどの伝統的大学が,実用性よりも真理の探究,また人文的な教養を中核としてきたこととも,対照をなしている。米国のランドグラントカレッジは伝統的な大学観を持つ人々からカウカレッジと揶揄されたが,大衆教育に貢献し大きな機能を果たすこととなった。そしてドイツでは科学を除く技術系の諸学問が,ヴィッセンシャフト理念故に大学の外に追われたが,それらと対照的に,遅れて最後に急速に近代化した日本においては,最高学府の確立とほぼ同時に,そのなかにおいて農業・工業技術の学科が設置されたのである。これにより,東京帝国大学は,米国を除けば世界で初めて農工技術系大学を含む総合大学となり,加えて,それが最高学府であったのである。ヨーロッパの産業革命に遅れた日米両国が,次の技術革新期にともに世界の最先端に立ったことは,おそらくこれら二国の大学革命と無縁ではなかろう。
ここにはもうひとつ,米国と日本において対照的な状況,すなわち社会との関係が存する。米国では,「土地無償給付運動は,産業と農業が達成した急激な発展に応えるために発生した。大学は紳士の枠を超えて,また,教師や牧師や法律家などを生産するという伝統的任務を超えて,より広範囲な職業人を訓練することにより,農業や工業の技術進歩に関連する研究活動を通じ,また多くの,否,究極的にはほとんどすべての経済的,政治的社会単位にサービスすることによって,この産業の発展を助けることを要求されたのである。」(*37)
一方日本では,上述の東京職工学校を設立するにあたって,当時の文部官僚で後に東京大学総長を務めた浜尾新は,「本邦においては……工業工場があって工業学校を興すのではなく工業学校を興し卒業生を出して,而して工業工場を興さしめんとした」と述べている。この1886年の帝国大学の設置にあたって,最初から工科分科大学が含まれていたことと,追って1890年,農科分科大学が設置されたことは,まさに急激に近代化を進めるための社会改革の道具として高等教育システムが成立したことを示している。
また,このときに大学院が設置された。この時期には,アメリカ以外に大学院はなかったから,大学院についてはアメリカをモデルにしたことは明らかである。しかし,米国の大学が学科制であるのに対して,日本はヨーロッパ式の講座制を採用した。19世紀初頭のフンボルトによって創設されたベルリン大学が,その後の世界の大学の唯一のモデルとなったことは広く知られている。(*37-2)この時期の帝国大学の組織形態はドイツの大学組織に倣っているものである。また,この最高学府は官立であるべきという考え方も,同じくドイツの影響が大きい。文部大臣森有礼を推した当時の総理大臣伊藤博文は,立憲君主制の確立にあたり憲法の調査のため,1882年ヨーロッパに赴いており,ドイツでは,スタイン(Stein)やグナイスト(Gneist)など著名な公法学者に集権的な官学主義を説かれ,普通教育の重要性も学んだが,官僚養成機関としての大学の必要性を大いに力説されたという。(*38)さらに,国立であったドイツの大学の組織とその思想を輸入するのみならず,当時ドイツでも総合大学とは別に設けられていた工科大学までもが,ここ日本においては帝国大学の名の下,官立として,他の伝統的な学部と総合して設置されたのである。
ところが,帝国大学は僅か一校であって,その次位で,大多数の学生を受け入れたのは公立私立の専門学校であった。そして,それらの専門学校は帝国大学に比すると比較的自由に放置され自由に発展した。これが,私学セクターが米国に類似していることのひとつの原因である。
5-2 小学校令――裾野の整備
1886年の諸学校令においては初等中等教育もいっそうの整備が進められた。これによれば小学校は尋常小学校4年,高等小学校4年の二段階であり,少なくとも6歳から10歳までの児童はすべて尋常小学校に学ぶことが義務化された。それまでの教育令が子弟を就学させることは親の責任であるとしていたのに比べ,法制上初めて義務という言葉が使用された。小学校は追って1900年には改正小学校令により義務教育は完全に無償化され,1907年に修業年限は6年に延長された。義務教育の就学率は年々飛躍的な向上を見せ,1905年には95%に達した。
5-3 中学校令
中学校は,「実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラント欲スル者ニ須要ナル教育ヲナス所」と定められ,中学校を尋常中学校(修業年限5年)と高等中学校(2年)の二段階に分けた。入学資格は満12歳以上(高等小学校2年修了以上)とされ,初等教育に接続した。尋常中学は地方財政の支出で全国各府県1校程度50校を配置し,高等中学校は文部省直轄で全国に5校が置かれた。高等中学校は,尋常中学校卒業入学資格とし,これは帝国大学の予備段階であるとともに,社会の上層に位置する指導者層の育成を狙ったものである。したがって,小学校,尋常中学校,高等中学校,帝国大学へと,複合的な4段階編成が成立したと見ることができる。なお,上の文部省直轄の高等中学校5校は,後に高等学校(いわゆる旧制高校)と改称され,帝国大学につながる予備門として独自の発展を見ることになる。
5-4 師範学校令
小学校の整備を行うとともに,師範学校も整備された。尋常師範学校と高等師範学校の二段階にわけ,軍隊教育の手法を大幅に取り入れ,国粋主義的な教員を養成した。森は全国の小学校で国家主義的教育を行うには,各小学校に依存するよりも,まず教師を徹底教育したほうが効率的であると考えたのである。
5-5 学問研究の発展
近代的な学問研究は,明治時代の最初は外国から多くの専門学者を招聘して官立大学を中心に進められた。やがて明治政府樹立から20年を経た頃から,日本の学者が自主的に西洋の近代科学各分野の研究ができるようになり,専門的な学会も多く設立された。人文科学・社会科学の分野では,初めは英米系の自由主義的傾向のものが中心であったが,次に述べる明治憲法の制定をきっかけにドイツ系の国家主義的な学問が優勢となった。日本史や日本文学史などの分野でも,西洋の研究方法が取り入れられて科学的研究が始められ,従来の国学者の面目を一新させた。自然科学の分野では,医学,薬学,天文学,地震学,物理学など,明治時代中期から世界的水準に達した独創的な研究や発見が次々と発表された。唯一の官立大学であるがゆえの豊富な経済的資源と,国内の秀才が全国の小学校から帝国大学ただ一点に集中されたことにより,学問研究においても,これらの短期間の発展がもたらされたのである。
5-6 明治憲法と教育勅語
1889年(明治22年)2月11日大日本帝国憲法が公布され,翌年11月29日をもって施行された。これにより天皇主権及びその神格性が明確にされ,国民の参政権を認め,三権分立を取り入れた立憲制が明確化された。同憲法には教育に関する条項は設けられず,教育は,憲法第9条に示される天皇の大権(行政権)に属するものとみなされたのである。教育は同条にいう「臣民の幸福を増進する」ものであるとの立場から,学校教育の目的や内容などに関する事項は法律によらず,もっぱら勅令ないし命令によって定められた。それは,教育問題を政争の渦中から避けるとともに,議会に対する行政府の優位を狙ったものということができる。(*39)
明治憲法の公布の時期において為政者には天皇を絶対のものとする考えが定着しており,これに応じて天皇と臣民との関係を明確にする必要性から,教育勅語が渙発されることとなった。これは,建国以来天皇と臣民が一体となってきた美徳である国体の精華を教育の源とし,次いで臣民の守るべき徳目を列挙したものである。これにより国民道徳の基本が定められ,天皇中心の絶対主義的な臣民教育が,教育の根本目的となった。ここに,封建的儒教主義と近代的な立憲主義の,日本的な結合をみることができる。教育勅語は全国の小中学校で唱和され,暗記させられた。
5-7 工業化対策
また,維新以来の殖産興業は,維新から20年を前後して産業の基礎が整えられるようになり,1890年代に入ってから産業革命期を迎えることとなる。1893年(明治26年)に井上毅(Inoue Kowashi)が文部大臣に就任して,産業教育の振興が急速に進められた。森の後を継いだ井上文相は教育と産業がかけ離れている状況を憂い,国家の将来における富力を増進するために科学・技術・実業を一致配合した教育を確立することを構想した。実業教育の諸法令が相次いで制定され,その発展の基礎が敷かれた。そこには森文相以来の教育政策を補完し,国家体制に即応した教育制度の形成が見られる。そして,実業教育諸学校が制定され,小学校を卒業し実業に携わる大衆勤労青年のための学校として,農業補習校,工業補習校が設立された。これは初歩レベルの技術工を育成することに主眼があった。
したがって頂点は帝国大学の工学部,中位は専門学校,底辺はこの実業学校に至るまで各レベルで富国のために,工業技術教育も徹底して整備されることとなった。
5-8 一大官製教育システム
このようにして,遅れて成立した工業技術教育面でもヒエラルキー化が確立され,小学校では忠君愛国を徹底して全国民に教え込み,そのなかから優秀な者を高度な教育に段階的に吸い上げ,頂点の帝国大学では,世界水準の近代科学を学ばせるというシステムができあがった。
かくして,日本は立憲君主国家としての根幹である帝国憲法の下,近代型教育システムの確立を見る。加えて,教育勅語により国民教育の思想的バックボーンを得るのである。これは先に述べた古くからの伝統の儒学中心の思想と,王政復古によって再興しさらに熟成された国学に基づく皇学思想,および西洋からの輸入である近代思想の,それら三者の融合と調和の上に立つ,極めて巧妙にかつ強力に確立された「一大官製教育システム」であった。明治維新において武士から商人への4段階の階級制度は廃止されたが,それに代わって知的能力によるヒエラルキーが構成されて,社会改革の実現をもたらす教育システムが完成したのであった。1905年,日露戦争に勝ち,日本はアジアの主要国となるが,高等教育はそうした近代化過程の重要な部分であった。(*40)
1897年(明治30年)には京都帝国大学が設立され,同時に帝国大学は東京帝国大学へと改称される。京都帝国大学は第三高等学校の土地建物が転用され,法科,文科,医科,理工科の4分科大学から構成された。1907年(明治40年)には東北帝国大学,1910年(明治43年)には九州帝国大学,そして札幌農学校は東北帝国大学の分科大学となり,その後(大正7年)独立して北海道帝国大学となった。これら3帝国大学では,理・農・工・医といった,当時社会的要請の強かった自然科学系の学科が目立って設置された。そして最終的には7つの帝国大学が出来上がったのである。
6-1 私学思想
次第に整備されてくる官製高等教育システムに対して,もちろん異なる思想や対抗する勢力があった。上記4の後段に述べた「専門学校に類する各種学校」である多くの私立学校の中で,大隈重信による東京専門学校(後の早稲田大学・1882年〈明治15年〉創立),新島襄の同志社英学校(同志社大学・1875年〈明治8年〉創立)そして,江戸時代から続く福沢諭吉の慶應義塾(慶應義塾大学・1858年〈安政5年〉創立)の3校は,他の私学は無論,さらには官学に対しても明確に区別されるそれぞれの建学理念と教育哲学を持っていた。永井道雄はこれら3校をして,自由主義派私学と呼び,他の私学から区別している。(*41)
私立学校が,官立学校に入れなかった者に対する立身出世の途を開いたことにより,官立大学の次に位置する補助的高等教育機関として機能したことはすでに述べた(上記4-5)。これらは,大局的に見れば官立学校に追従したと言うほかなく,永井はこれらの私学群をして「適応派の私立学校」と呼んでいる。もうひとつの潮流として,「伝統主義派」と永井が呼ぶ一連の私立学校群がある。それらは森有礼が意図した官立学校よりも遥かに保守的で,科学的合理主義よりも国学と東洋精神の伝統によって国家の方向性を示そうとした。以上三つが,永井による日本の私学の3パターンである。
そして,当時の明治黎明期において,日本の思想史と教育史に偉大な足跡を残したのは,そのなかの「自由主義派私学」の創立者とその賛同者達であった。
後の早稲田大学となる東京専門学校が1882年の創立時に標榜したのは,「あらゆる勢力から離れた学問の独立」であった。次第に整えられてくる官製大学システムにおいて,大学の自治や学問の自由は,国家権力と結びついた官僚養成機関で果たされるべくはない。学問の方向性も政治によって左右され得る。したがって大学は政府から独立すべしと大隈は説いた。また,第一章最後に強調した如く,当時は東京大学のみならず高等教育機関では外国語で授業を行うのが常識であったが,ここ東京専門学校ではすべての授業が日本語で行われた。したがって,政治から独立し,西洋諸国から独立して,日本独自の学問体系を確立せねばならないというのが,同校の教育哲学の根幹をなすものであったのである。
このとき,当時の有力政治家であった大隈は「明治14年の政変」で政界を追われて野に下り,反政府の立場に晒されていた。大隈一派はその時,森有礼を推した後の首相である伊藤博文ら薩長派と激しく対立していたのである。そして伊藤博文ら薩長派が政権を取り,伊藤が後年総理大臣になって文部大臣の森とともに,帝国大学を確立していったのであった。東京専門学校設立にあたり大隈は,同年の東京大学卒業生のほとんどを引き抜き,自らの学校の中心に据えた。これは,養成された官僚の卵を引き抜かれたという意味で,政府にとっては打撃であった。同校は学問の政治からの独立を標榜していたが,それらの様々な背景によって反政府の学校と見られたのである。政府と教育システムと文化文明の何もかもが急激に変化しながら確立していくこの頃には,議会でも勢力の再編成が繰り返され,反政府の政治運動と高等教育,さらには政治思想と学問の自由や大学の自治の哲学が複雑で微妙な関係を持っていたのである。大隈はその後2度総理大臣の座に就くが,政治と学問を明確に分離するという思想を貫きそれを体現するために,自らの創立した学校が自宅の向かい側にあるにもかかわらず,よほどの式典の日を除いて,政治家である自分自身は校内に立ち入ることさえなかったという。(*42)
新島襄は,幕末に米国に密航して,アーモスト大学に留学し,教会で演説して寄付を集め,その基金を下に京都に同志社を創立した。敬虔なキリスト教者であった新島の教育思想は,政治よりもキリスト教の良心を国民に育成し,地上に神の国を実現することにあった。同校は英語学校として発足し,近代科学や実学も重視したが,上述の東京専門学校と比すれば,その重点はやはり宗教教育であった。創立者が幕末期といえども密航者であったことと,キリスト教主義であったことなどから,同志社も反政府の学校とみなされ,弾圧を受けた。
慶應義塾は上記の2校のいずれとも異なり,商学に力を注いでおり,早くに1873年には慶應義塾医学所を開いていた。また,遅れて1890年(明23年)には独自に学内に大学部を設け,アメリカ人教授を招いて大学レベルの実学教育を行い始めた。それらのことからも明らかなように,欧米の科学技術を実際の生活に活用することに主眼を置いていた。創立者福沢諭吉は,帝国大学を作った森有礼とはかつての盟友で,他の数名とともに明治の初期に明六社という学者の団体を組織している。福沢の精神は,官立学校教育システムを計画した森の科学的合理主義,実用主義に似ているが,学問と教育に対する国家の干渉を全く排除した点に大きな違いがある。福沢が重視したのは社会のミドルクラスの教育である。福沢は,文明の進歩を担うのは国の執政や官僚ではなく,国の中等の多数派がある程度の知力をもって世の中を指導するのが近代社会のあり方であると考えた。これに対して森は,すでに見たように,最上級のエリートを国力をもって養成し,国の指導者に仕立て上げるのが大学の使命であると考えていたのである。この両者が如何にして異なる教育思想を形成していったかは詳述しないが,このように当時の各高等教育機関の創立者やシステムの指導者を個人の思想との関係で見ると,大学と教育と政治との間に,複雑な力関係があったことがうかがえる。
少なくとも以上の私学3校は,官学の教育思想とは全く異なるそれぞれ独自の思想で学校を興してきた。そのような独自の思想を持って開校に及んだ数校を除いて,後年私立大学になった二十数校とそれ以外の私立学校の大半は,時代の趨勢に適応して,あるいは官立学校に追従して設立されたものであった。崇高な哲学を有する私学の割合が相対的に低いのは今日と変わりは無いが,しかし,この3校が1世紀を経て今なお凛として光彩を放っているところを見ると,やはり学校においては,創立時から確固たる教育哲学を持つことがその後の運命を決するように思われる。そして,上記の私学のリーダー的存在であった3校が,それぞれ多かれ少なかれ,アメリカの影響を受けていたのも事実である。また私学は,アメリカ合衆国の寄付金に乏しい私立機関と同じく,私立機関は独力で生き残らなければならなかった。(*43)このあたりにも,私学セクターがアメリカに類似している原因の一つがある。そして,それら私立学校は官立大学とは異なり,「大学」とは認められなかった。ここにも,悠久の昔日と同様に官学と私学という対立が見られるのである。
6-2 私学と専門学校令
唯一の大学である帝国大学を頂点に,官立学校体系が整備されていく当初,私学は援助も統制も受けなかった。そして,それらは大学ではなかった。大学でない以上は,学士号等の学位授与権はない。また,大学とそうでない学校との徴兵猶予には差異があった。各種国家資格試験の免除においても,「学士」とそうでない者の差があったのである。したがって,上記の自由主義派私学3校に続く当時の私学の大学化への要求は高まる一方であった。そして,政府の政策は35年を経て徐々に,「援助せずして統制する」方向に転換してきたのである。
私立学校に対する最初の包括的な規制は,1899年(明治32年)の私立学校令である。これは,明治維新の開国前後から問題となっていた,イギリス,アメリカ,フランス,ドイツなど西洋各国との不平等条約が改正されたことによって,外国人の内地雑居が進行することが予想されたことが直接の原因であるとされる。(*44)各地に外国人が開設する学校が増えることが予想され,その国民精神教育に及ぼす影響への警戒などから,それを監督する必要が生じた。(*45)同令では,私立学校は地方長官の監督に属すものとされ,設置については監督官庁の認可を必要とし,廃止と設置者の変更については届出を要することとされた。また,校長,教員の資格についても若干の規定が定められた。しかしながらこれらは,文化的防衛対策の意味合いの強いもので,私立学校が上記の官立教育システムが構成されていくことと直接の関係はなかったと言える。
また他には,各種国家試験の受験資格や試験免除,あるいは徴兵制上の特例といった特権を与えることを条件に,教育の質の向上を図りはしたが,その特権にあずかった私立学校は僅かであった。私立学校が学校としての法的地位を得て,包括的に官製教育システムに取りこまれていくのは,次の専門学校令からである。
6-3 専門学校令
1903年(明治36年)に専門学校令が公布され,「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校」は「専門学校」と規定された。(*46)この専門学校令と省令「公立私立専門学校規程」は,数多い教育関係法規の中でも最も長い生命を持ったもののひとつであり,第二次世界大戦後に廃止されるまで,若干の変更修正はあったものの,専門学校制度の基本法規であり続けたのである。(*47)
同令では,それまでの実業学校令は改正され多様な専門学校は制度上の統一を見る。そしてそれまで「実業学校ニシテ高等ノ教育ヲ為ス」学校として別に分類されていた「実業専門学校」は,専門学校の一種として同令の適用を受けるようになった。(*48)また,同令による「専門学校」には,従来からの医学,法学,経済,商科などに加えて,美術学校や音楽学校も含まれた。(*49)これにより,私立の専門学校も相次いで認可され,後の日本女子大学となる日本女子大学校,津田塾大学となる女子英語塾,東京女子医大となる東京女子医学専門学校などの,女子専門学校も認可された。(*50)したがって,従来の法律上の専門学校と,「いわゆる専門学校」である各種学校のなかで,基準に達したものが,すべて法律上の専門学校として認可されたのである。これにより,事実上,非大学の高等教育及び中等後教育機関のほぼ全てが,専門学校という単一の分類に統合されたのである。
この専門学校令によれば,専門学校とは,「中学校若ハ修業年限四箇年以上ノ高等女学校ヲ卒業シタル者又ハ之ト同等ノ学力ヲ有スルモノト検定セラレタル者」(第5条)を入学させる,修業年限「三箇年」(第6条)以上の,「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校」(第1条)であり,「予科,研究科及別科ヲ置ク」(第8条)ことができた。(*51)官立学校とは別に,公立・私立の専門学校の設置に際しては,「公立私立専門学校規程」による手続きを経て,「文部大臣ノ認可ヲ受」ける(第4条)必要があった。(*52)
この「公立私立専門学校規程」には,専門学校としての認可を受ける学校が備えるべき施設・設備のほか,教員資格・入学資格についても定められている。これは,現在の大学設置基準の原型であると言える。同規程によれば,専門学校は「学則」を有し,定員を定めねばならず,一定の校地・校舎・校具その他必要な設備を整えることを要求され,また,教員は,帝国大学その他官立学校卒業の,「学士」以上の学位を有することを原則とし,それ以外の者については文部大臣の認可を必要とした。生徒については,正規の中学校卒業者以外は,文部省の行う学力検定試験の合格者だけが入学を許されることとなり,別に,「専門学校入学者検定規程」が定められた。(*53)
この公立私立専門学校規程には,施設・設備の最低基準,校舎と生徒定員,それに教員数と生徒数の関係などについてはほとんど基準は無く,もっぱら入学資格,教員資格,教則などを規制の対象とするものであった。このため,この時期の専門学校はほとんどが専任の教師を持たず,官立帝国大学の教員の非常勤にそれを依存しており,官立の学校に比すれば施設・設備も貧弱なものが多かった。
当時の事情から見ると,西洋式の諸学を教授できる学士資格を有した教師の数は限られていた。即ち,少数の官立大学の卒業生か,留学帰りの「学士」しかいなかったのであるから,官立学校からの非常勤に依存するという形態は,それはそれで時代の事情に合致していたのである。多くの私立専門学校は夜間授業を行っており,その講師を務めるのは帝国大学からの非常勤であった。そして,大半が私立であるこれら専門学校によって,官立学校だけで満たされない高等教育への進学を希望する国民のニーズが満たされていたのである。そして,政府は向学心旺盛な国民の私費に依存するという,極めて経済的な方法で高等教育を補完していたのである。
すでに見たように,急激な近代化と経済の成長とともに,国民の高等教育への要求は高まる一方であったので,それに適応して,多くの私立専門学校が設立されてきた。そこで,その機運を見た政府は,規制のみを行うことで教育の質の維持を図ることができたのである。その理由には,学問や教育を至上のものとする儒教的価値観が,日本文化のベースに内在していたという伝統的な背景と,解除された身分制度に代わって学歴による社会階級が構成されつつあった当時の状況がある。高等教育を受けて「一旗揚げる」のは,当時の学生の中心的目的であった。
そして,この頃すでに,私学が高等教育の学生の半分以上を受け持つという状況は確立されていた。すでに見た学校令が公布される前年,すなわち1902年(明治35年)の日本帝国第五回統計年鑑及び文部省年報によれば,官立専門学校の学生総数6,206名であるのに対して,同年の公立専門学校の学生数は1,829名,私立専門学校の学生数は15,393名である。(*54)専門学校の学生のなかには複数の学校を掛け持ちする者も多く,その意味ではこの統計には重複が含まれているが,この時期の私学の貢献は看過できないものがあろう。また,この年,高等教育機関としては,他には帝国大学があったが,帝国大学と専門学校卒業生の比率は2対8くらいであったから,少なくとも,高等教育の4割以上が私学で担われていた。もちろん,統計上現れない小規模の「専門学校に類する各種学校」もあったので,それらを含めると,高等教育における私学学生の比率がさらに多くなる。言うまでも無く,それら私学は,政府の分類においてもそれに牽引される国民の評価においても官立帝国大学の次位以下に位置するものであり,決して米国の名門私学ような地位にあったのではなかった。そして,戦前期を通じて,高等教育卒業者の大学卒業生に対する官公私立すべての専門学校の卒業生比が,二倍を下回ることは一度もなかったのである。(*55)戦後50年を経た現在,米国では高等教育の8割を占めるのは公立(州立―米国に国立は無い)大学生である。他方日本では,8割が私立大学生である。その源流はこのころからすでに出来上がっていたと言える。
6-4 名前だけの「大学」
この専門学校令と前後して,政府はまた,曖昧でかつ巧妙な政策をとっている。専門学校令公布の前年,政府は最初に,当時の東京専門学校に改称を認め,「大学」を名乗ることを特例で許可した。私学の雄である東京専門学校はこれに際して早稲田大学と改称し,盛大な記念式典を挙行して,創立者大隈重信を始め,同校の首脳部はオックスフォード型のガウンを着用して「大学」の開設を祝ったという。
そして専門学校令では,一定程度以上の条件を満たした学校は大学を称して良いという特例条項が付与されることになったのである。制度上はあくまでも専門学校にすぎないが,中等学校の卒業者を入れる一年半程度の予科を置き,その上に専門教育を授ける大学部を開設した専門学校に,大学の名称を使用することを認めるという曖昧な政策を施しているのである。
翌年,専門学校令がそのように改正されたあと,多くの専門学校が法律的に正規の専門学校となり,同時に,そのうちのいくつかが特例の適用を受けて,「大学」と改称した。先の早稲田大学をはじめ,中央,明治,立教,立命館,関西法律学校,同志社などの有力私学が次々と改名し,大谷などの仏教系学校も大学を称した。この頃に校名の一部に「大学」の名称を加えることを許された専門学校の数は,1905年(明治38年)の統計によれば,63校中,すでに15校に上っている。(*56)
一方で大学令で大学を規定しながら,他方,別のカテゴリーである専門学校令で,「大学」の名称使用を認めるという,この曖昧な政策には次の背景がある。すなわち,教育令期の専門学校は,それが総合制か単科かという一点によって,大学に区別されていた。そして,当時の専門学校は,追って東京大学に包摂された官立の東京法学校や工部大学校が,専門学校として類別されていたように,法制度上の専門学校は大学と肩を並べるものであった。したがって,その他の官立専門学校が,大学への昇格を求めたのは当然のなりゆきであった。官立の「高尚なる専門学校」であった札幌農学校も,1890年(明治23年)ころから,積極的に大学への昇格運動を開始している。
私立学校のなかでは,すでに述べたように,福沢の慶應義塾が1890年(明治23年)にすでに独自に学内に大学部を設けており,アメリカ人教授を招いて大学レベルの教育を行っていた。他には大隈重信の東京専門学校,新島襄の同志社などのように,設立の当初から大学の設立を理念として掲げるところも多かった。そして特にこの三私学は,最初から法技術の伝授を目的としたほかの私立学校とは,はっきりと違った性格を持っており,単なる専門一科の学校とは異なり,総合的な教育機関,すなわち欧米と同様の総合大学を目指していたのである。そういった私学では,大学として認可を受けることは長年の悲願であったと言って良い。そして無論,それら私学は大学への昇格運動を政治的にも繰り広げていたのである。
また,例えば東京専門学校(早稲田大学)は,国内では正規の大学と認められなかったことから,海外他大学との提携を進め,大学として認められるように運動を展開している。最初は1899年(明治32年)に,コロンビア大学と提携し,東京専門学校の卒業資格が学士号(バチェラー)と同等であるとの認定を受け,翌年卒業生が同校にて修士号(マスター)を受けた。さらに1901年(明治34年)にはシカゴ大学,1906年(明治39年)にはペンシルバニア大学,1908年(明治41年)にはプリンストン大学のそれぞれの大学院から卒業生の入学許可を受け,対海外的には大学としての地位を確立していた。(*57)
したがって,この「名称を認めるという政策」はそうした動きに対する現実的な対応策でもあった。そして,海外から大学と認められていても,国内法上は大学の地位はなく,名前だけの「大学」が生まれたのであった。これらに学士号授与権は無く,徴兵制度免除の特権も少なく,また,各種資格試験においても帝国大学に差をつけられたままであった。
7-1 私立大学の誕生
その後,1918年(大正7年)になって大学令が公布される。これは日本の大学制度に画期的な変革をもたらした大学の増設計画であった。従来大学は帝国大学に限られていたが,この大学令によって,公立私立の大学が認められるようになったのである。同令では,大学を「国家ノ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並ニ其ノ蘊奥ヲ攻究スル」ものと定め,大学の設置は,勅裁によるとされた。
大学の構成は法学,医学,工学,文学,理学,農学,経済学,商学の各学部のうち数個をもって編成することを原則としたが,一学部のみの単科大学の設置も認められた。学部には研究科を置き,数個の学部で編成される大学の研究科を総合して大学院を設置すること,また必要に応じて予科を設けることなどを定められた。ただし,大学院設置を許されたのは帝国大学だけであった。
この大学令が施行されると,それまで「大学」という名称だけを認められていたトップクラスの公立私立専門学校は,正規の大学への昇格を目指して施設・設備の拡充や募金収集の努力を次々に開始した。公立では,1919年(大正8年)府立大阪医科大学が認可され,翌1920年(大正9年)に県立愛知医科大学,1921年(大正10年)に京都府立医科大学が,それぞれ医学専門学校から大学となり,やや遅れて大阪市立高商も大学になった。私立では,1920年(大正9年)の慶應義塾と早稲田,やや遅れて同志社,中央,明治,日本,法政,国学院の8校が認可され,同年の官公私立大学の総数は全国で16となった。翌年1922年(大正11年)には東京慈恵会医科大学,専修,立教,立命館,関西,拓殖などの私立大学が誕生し,1930年に官公私立大学総数は46に達した。そしてそれらの大学は学士号授与権を得たのである。札幌農学校は官立であったため,専門学校でありながら特例で早くに「学士」の学位授与権を得ていたが,名前だけの「大学」である私立学校にそれはなかったのである。
同令では,私立大学の設置者は財団法人でなくてはならず,大学を維持するに足る一定の利子収入を生む基本財産を持ち,それを国に供託しなくてはならなくなった。また,一定の基準を備えた私立学校は大学と認められ,官立大学とほぼ同等の待遇を受けることになったが,一方で,それまで名称だけを許されてきた専門学校は,大学という名称を使用できないことになったのである。(*58)
さすがにこのような政策は大変な批判を浴びた。しかし,一旦「大学」の名称を冠した学校がその名を剥奪されると,学生数の激減を招くことは必至である。また実際に,立命館のように同令に抵抗を示し,専門学校の範疇に留まろうとした学校もあったが,特定職業に就くには学士号が必要とされていたことと,「大学」が専門学校よりも一段上であるという,すでにできあがっていた社会通念に打ち勝てず,入学志願者数が激減したのである。私学にとっては学生数の減少は存亡に関わる。したがってそのような私学も,追って大学への昇格を余儀なくさせられた。
このときの政府の政策は,それまで要求の強かった「専門学校という法的カテゴリー全体の正規の大学への昇格」ではなく,専門学校のうちから大学への昇格意欲を持ち,それに必要な条件を備えているものだけを正規の大学として認めるというものであった。政府は,一定の設備を備え一定の利子収入を生む基本財産を持った私学に,大学という権威と権利を与えることにより,各私立学校が独力で,物質的経済的側面から教育の質の向上を実現するように駆り立てたのである。
振り返って見ると,16年前の1902年(明治35年)から始まる,私立専門学校の高度なものだけに大学の名称のみを認めるという政策は,この大学令を想定したものであったと考えられる。(*59)そう見ると,すでに在るものをそのまま大学として認めずに,経営的に自らの努力を促して,一度は曖昧な権利を与えながら,さらに厳しい基準と同時に既得権益を剥奪する可能性を示すことにより,それらをさらに育成するという政策が取られたのである。ここでも政府は,その経済的資源を民間に徹底依存するという極めて経済的で曖昧かつ巧妙な方法で大学を増設したのである。
そしてその一方で,経済の発展に伴う進学需要に対して,私立専門学校はますます増設された。専門学校令発布以来,1905年には63校の専門学校があったが,その後増加率は101校に達した1920年を境にさらに上昇し,1930年には177校に昇った。それら専門学校がなお,多少は増加した「大学」の次位で,大量の学生を擁していたのは変わらない。
そしてこの大学令で公立私立の大学が生まれたが,裾野の拡大に伴って,法律により大学院設置は帝国大学のみに許され,帝国大学は新しい大学にまた格差をつけたのである。
7-2 私立大学の弱体化
この大学令により,その後,昭和の戦争までに,1928年(昭和3年)認可の上智大学,東洋大学,1932年(昭和7年)の関西学院大学などの私立大学が生まれた。先の大正期の私立大学とあわせて,戦前の私立大学は28校に上る。しかし,この大正7年の大学令による正規の私立大学の制度上の誕生は,今日なお残る日本の私立大学問題の発生でもあった。
第一に,「国家ノ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並ニ其ノ蘊奥ヲ攻究スル」という大学の定義は当然私立大学にも適用された。これにより,私立大学もまた,憲法公布時に完成を見た「官製一大教育システム」に統合されるようになったのである。教育理念や教育目的は国家によって一元管理され,当然,それに反することはできなくなった。加えて,同令では,校舎・図書館などの設備の最低基準が細目に至るまで定められて,教員の採用にも文部大臣の認可が必要となった。すなわち,国による教育の統制である。(*60)
第二に,上述の基本財産の国庫への供託義務は,財政的に大きな負担をもたらした。その供託金は,1大学につき50万円で,1学部増える毎に10万円増という,当時としては莫大な金額であった。当時の官立大学の授業料は年間120円で,私立学校はそれより低いのが一般的であったから,この金額が一私立大学にとって,どれほどの負担であるかは窺い知れよう。早稲田大学の記録には,当時,学校を挙げて全国的に卒業生を組織し,大々的に募金運動を繰り広げたことが書かれている。また,それら私立大学の多くは経営上の理由から,学内に専門部として専門学校の機能を併設したままであった。(*61)
以上に加えて,看過できない当時の社会情勢との関係がある。1918年に終わった第一次世界大戦で,日本の資本主義は一挙に飛躍して発展した。この大戦を前後して,日本の国際競争力は強まる一方で,各種教育機関は,その発展を担う人材の輩出が求められるようになっていった。教育機関には,国全体としてそのような人材の育成が要求されていたのである。財政的に困窮している私学では,新しい特色ある教育を手がけることもままならず,多くは経済的な理由から官学と同様の教育を,官学よりも一段下の社会的ステイタスにおいて,官学に劣るレベルで行うことしかできなかったのである。(*62)
この一連の動きについて,バートン・クラークは次のように述べている。
「アメリカ合衆国の寄付金に乏しい私立機関と同じく,私立機関は独力で生き残らなければならないので,理事会と事業管理者たちは事業組織体の繁栄に大いに巻きこまれている。それと同時に,強力な文部省が存在し,さらに,政府管轄の威信の高い国立学校群が存在するのであるから,日本の私立セクターは大部分のアメリカの私立セクターと同様には政府の圧力や影響を回避することはできなかったのである。それらは政府と折り合いをつけなければならなかった。T.J.Pempelが述べているところによれば,『私立大学は大学令の公布により,もともと政府に対抗するために設立された当の政府システムの中に包摂されたのであって,ほとんど例外なく,政府からの高度な独立をそがれた』(*63)のである。私立カレッジ独立の錦の御旗を揚げるためのダートマス・カレッジの事例はここには合法的には存在せず,私立セクターは政府に接近しなければならなかったのである。」(*64)
この明治期の専門学校の英語への翻訳は,プロフェッショナルスクールとなっているのが一般的である。また,フランスのグランゼコール(grandes e'coles )のようなものという人もいる。また,現在の専門学校をして,同じくプロフェッショナルスクール,あるいはスペシャルコーススクール,スペシャルコースカレッジ,スペシャルトレーニングスクールなどという。また,ボケーショナルスクールと訳する向きもある。しかし,そのどれも日本の「専門学校」の訳としては適切とは言い難い。
ここで,専門学校の概念を検討するために,その原点を遡ってみよう。先述したように(3.文部省の設立と学制の公布),政府が「学制」により「専門学校」という名称を初めて使用した直後から,専門学校という名詞と概念はすでに社会通念となって育ち始めた。政府は「学制」上で想定した高度な大学を創出するために,それまでの「大学」であった官立学校,すなわち,東京開成学校(もとの大学南校)と東京医学校(もとの大学東校)の2校を,「大学」から一旦法的に「専門学校」にし,その後,東京開成学校と東京医学校を合併して,新たに東京「大学」を発足させた。
第一に政府は,「一旦法的に専門学校にして,再度,東京開成学校と東京医学校を合併して,東京「大学」を発足させた」ことによって,「専門学校が大学のルーツである」(*65)ことを現実に証明したのである。当時の政府の構想が,「専門学校」という法概念を一時的に創出し,それを「大学」につなげるという暫定的措置であったとしても,それと裏腹に,制度的にも近代文明の黎明期であったこの頃に,一般市民が私立官立の区別無く,最高度の教育機関,すなわち当時の高等教育機関を,「専門学校」と呼び始めたことは想像に難くない。
第二に,江戸時代から大学という名称の学校が社会的に存在していなかったため,この頃は,「大学」という言葉は「専門学校」と同程度に庶民にはなじみが薄かったことも考えられる。当時,福沢の慶應義塾は江戸時代から庶民の間でも最高度の教育機関として評判が高く,そして,慶應義塾は,外国語で「高尚な教育」を行っていた。それが制度上「『専門学校ニ類スル』各種学校」であったとしても,政府の作った唯一の「大学」とそうでない高等教育機関が事実として並存した。また,東京専門学校のように,その通りに名乗っていた私立学校も後年現れたのである。
以上のような由来から社会通念では,「大学」以外のそれらの高等教育機関はすべて「専門学校」であると解釈されるのは当然で,その社会通念が一般化されても不思議は無い。
第三に,大学令で私立大学が生まれた後も,当時の大学と専門学校の校数比を見ると,同令により大学になったのはせいぜい2割強で,残りの大半の私学は専門学校の地位に留まった。また,新しくできた私立大学の多くは,多角経営の一環として専門部,すなわち「専門学校」の部門を併設して残していたのである。無論それらは法的に「専門学校」であり,そう呼ばれた。したがって,一つの私立大学の内部でも,大学部と専門部の階級格差が生じた。したがって専門学校は大学の次に位置するものとの社会通念が補強された。
さらには,専門学校令が確立されてから,その制度が学校の一層の増加を促した。追って第一次世界大戦を前後して経済発展は加速し,それに伴って高等教育への進学者は増え,専門学校数も増えることとなる。そして,第二次世界大戦に向かっては,戦時体制のために医学専門学校や工業専門学校が乱立されることとなった。そして,学校数で見れば,初期の頃は無論,戦後の教育システムの大改革に至るまで,専門学校数は常に大学の数倍から数十倍であり,総学生数は2倍以上である状態が続いたのである。数の力によっても,大学の次に位置する高等教育機関として,「専門学校」という一般社会通念ができてしまったのは事実であろう。すでに,法制度上の専門用語という狭い範囲ではなく,大学という言葉と同様に専門学校という一般概念が,この当時に確立されていたことに疑いはない。
また,専門学校をして,実業教育を行う機関と考える向きもあるが,実業学校には,各種学校や中等学校レベルの実業教育諸学校(5-7)もあれば,後の工業大学になった職工学校など,文部省以外の省庁所轄の実業専門教育機関(3-6)や一般的な実業専門学校(6-3)もあった。他方,総合教育機関であった東京専門学校や慶應義塾のように実業教育機関でないものも各種存在した。したがって,専門学校とはそれらを包括する概念である。すなわち,職業訓練機関あるいは実業教育を行うもの(英語のVocational Schoolの訳)が専門学校であるとの解釈には無理がある。
専門学校とは,日本が近代大学を創出するときに派生的に出来上がった日本独特の学校概念であった。そしてこの概念は21世紀を間近にした今日なお残るのである。総合的に見れば,専門学校とは,「日本の厳格な法制度上の非大学高等教育機関」という他ない。
原因を原点にまで遡れば,専門学校という法概念が確立する前に,専門学校という名称の学校が現れたことと,専門学校という社会通念が一般化してしまったことは,当時,官立大学を確立することに重点を置いて,専門学校の名称使用を規制しなかった学制期の政府の失策と言えるかもしれない。しかし,そもそも明治維新から10年も経っておらず,近代法学が輸入されつつあった黎明期に,私学に対する名称の規制などにまで注意が払われなかったのに無理はない。後年,私学が大学を名乗ることが許されなくなり,追って専門学校令布達時(1903年〈明治36年〉)に,それが許されるようになったことを考え合わせると,そのあたりの政府の規制策に進展がうかがえる。無論,今日の学校教育法には,その基準に達しない学校はその分類の学校名を名乗ってはいけないことが明記されている。法的にであれ,哲学的にであれ,ある概念を定義すると,その裏で同時に,そうでないものの概念を定義することになってしまうからである。
先のバートン・クラークは,著書「高等教育システム」の中で,秩序と無秩序の関係から生じる拮抗から変動への動きを,「秩序と無秩序の発展的逆転」と定義して,「すべての主要な矛盾の中で,おそらく最も魅惑的なものは,システムへの秩序を欠いた接近によって秩序を導き,秩序のある調整によって無秩序を生み出すという方法である」と述べている。(*66)政府が帝国大学というシステムを創出するために,様々に趣向を凝らして概念を収束し,大学概念を創出し秩序ある教育システムを確立する政策を進めてきたときに,その背後で,私学は無秩序に放置され,大学に匹敵する確固たる私立総合高等教育機関から,「いわゆる専門学校」としか言いようのない私立学校まで,私学は無秩序に乱立して,玉石混淆の状態を生んだ。それらは,官立システムの対抗文化として量的に拡大したのみならず,政府がおそらく予想していなかったほど普遍的になった「専門学校」という社会通念と,その社会的存在をも確立したのである。
一方私学は,アメリカ型の大学を目指した早稲田や慶應,同志社の他,大学名称を得ることが単に経済的理由である私学も含めて,夫々が夫々の思惑で無秩序に大学を志向した。そもそも私学とは無秩序に自然発生するものであるが,確立されていく官立大学制度の背後で,それら私学が政府の確立する「大学」を目指せば目指すほど,私学は官立大学をモデルに自らを再編成していった。それにより資源の豊富な帝国大学が最上位のものであるという,まさに政府の狙った社会通念が醸成されたのである。そして,当初なんら規制されること無く,無秩序に放置されたそれら私学に対して,政府は徐々に規制を行い私立学校の最低基準を整備していったが,それにより,私立学校群から,公費を浪費することなく近代型私立大学が生まれたのである。
対抗文化である私学と官学は,相補いながら,相対立しながら,すなわち,秩序と無秩序の発展的逆転とさらなる相互補完的な関係を保ちながら,私学の頂点は官学に取りこまれつつ,教育システム全体を織り成してきたのである。私学と官学は,互いに独立した存在ではあるが,急発展のためには互いに相手が不可欠だったと言えるだろう。したがって,急速な社会改革を目指して,政府という強力な指揮者の手で為された官学と私学の「魅惑的」なデュエットが「大学」を歌い上げるとき,その背後で,他方,すなわち「専門学校」という法的に曖昧な存在に確固たる実存(existentiality)が与えられたのではなかったか。
日本の私立大学は,上述のような曖昧な政策を取られて,専門学校に類する各種学校から,専門学校へと,そして大学を名乗る専門学校を経て,私立大学へと,次第に政府の管理下へ吸収されながら,かつ,それなりに発展してきた。
これを森有礼の構想した東大を頂点とする「一大官製教育システム」の視点から見れば,大学令公布に至って明治黎明期の有力私学の多くをその中に取り入れ,さらに高度なピラミッドが出来上がったということになるのである。その中では,私立と官立,そして大学と専門学校という拮抗する関係が絶妙な内的力学のバランスをとっていた。
制度は現実の存在があってそれをあとから定義するものでもある。また,制度をつくることによって,現実の存在が生まれることもある。日本が教育によって社会改革をすすめたという仮定に基づけば,制度ができてから実態ができていたのでは,歴史の事実である日本の急激な近代化は不可能であっただろう。すなわち,日本においては,制度化は実態の整備とともに行われ,制度そのものにおいては,曖昧さが多分に含まれながらもそれは巧妙に施行されつつ,実態と制度はともに補完し合って,教育システムの歴史を織り成してきたのである。制度が創出する官立学校のシステムを模範として示された私学はそれに追従し,政府がそれに権威と権利を与えることにより,私学は上を目指し,官立学校に入れなかった学生は私立に私費で学んで,資格試験合格で一旗揚げることを目指して,全体として上昇を志向したのであった。その意味では,頂点東京帝国大学や主要大学の首席卒業者に与えられる天皇陛下恩賜の銀時計(*67)から,裾野は小学校の教育勅語の唱和に至るまで,天皇の権威が教育に有効に機能していた。そして学校も教育も,すべて勅令(天皇の命令)で定められていたのである。
国のトップクラスのリーダーは帝国大学で生産し,その次に位置する専門学校,特に私立専門学校では,より大量の中堅クラスの実務家を輩出し,それがそのまま,政治は無論,経済,工業,あらゆる側面でのヒエラルキーを作成したのである。そしてそれが,後の第二次世界大戦へと突入していく国を挙げての結集力や,戦後の急速な復興の基礎となったことは言うを俟たない。この間,維新政府樹立の1868年から30年ほどで大学システムの原型が構築され,維新から50年で私立大学までを含む今日まで続く日本的教育システムが出来上がったのである。(*68)
当初よりの官学優先の政策によって私学は常に不遇な状態に置かれた。しかし,その逆境がまた,私学を育成したとも言えるだろう。官学よりひとつ下で,その圧倒的な数で社会を支えるという状況も,官学が少数であった故のことである。そして,そのような逆境は庶民のレベルで自費で学び,社会を支える心意気を表す「私学人」という言葉と概念を生んだ。そしてその大量の私学人が,日本のあらゆる側面で,強力な中堅組織力として開花した。
この一連の過程を,日本人独特の曖昧さがあるとか,狡猾な政策などと批判するのはたやすい。しかし,このような方策を採らずして,如何にして急激な社会改革を実現しえたかというと,他に答えを見出すのは困難である。逆説的ではあるが,これは他に例を見ない極めて賢明な政策と言えよう。ただ教育システムだけに着目すれば,確かによくできた社会改革の道具であった。
長い間の鎖国を経た東洋の日の本の国では,頂点に極めてアジア的な官僚養成色の濃い帝国大学を頂く,近代型教育システムが短期間で成立したのである。それは急速に社会改革を成し遂げながら,同時に日の出の勢いで確立されてきた。日が昇り陽光が射すと陰ができる。そして光は,陰があってますます輝きを増す。古い中国の哲学に従えば,陰は陽を,陽は陰を必要とするのである。少数のエリート教育を担った官立大学を光とするのか,官学に追従しながらも大学化を果たした上位少数の私学を光とするのか,あるいは徹底した「官学」優先の国策の下で,広く庶民に就学機会を与え,大衆教育という数の力で近代化を担った多数の私学を光とするのか,いずれを取るかはそれぞれの視点に帰しようが,教育が教育それ自身を含む社会を急速に改革したことは事実であろう。その最も重要な証明のひとつが,大半が私学によって構成される「専門学校」という日本独特の制度であり,名称であり,存在であったことに疑いは無い。専門学校とは,日本が近代官立大学を創出するときに派生的に出来上がった「民」の高等教育機関である。これは欧米における王,教会から独立した大学の由来に等しい。
広島,長崎,アウシュビッツ,ダッハウ,南京,悲惨な災禍を残して戦争が終わった。敗戦の約一年前から激化する戦局の下,教育の機能は停止して,本土爆撃により物質的基礎である校舎校地は多くが破壊されていた。戦争による被災学校数は4096校に及び,総面積にして1000万平米に及んだという。日本は焦土と化していた。
戦前の教育システムは社会のシステムと融合して,その結果日本は急速な近代化を実現した。社会改革の道具として実に効果的な構造を確立したにも拘らず,問題は,それを軍国主義・超国家主義の国体作成の道具として使用したことであった。これにより,同じく短期間で日本は無謀な戦争へと突入していったのである。社会を変革する教育と,社会をリードする政治があまりにも密接に関係していたため,この方向性の過誤は日本の社会のみならず,教育さえも変化させることとなった。そして,超国家主義的なダウンスパイラルに陥っていったのであった。
明治維新後30年で基礎が確立された日本の教育システムは,第二次世界大戦を契機に大きく改変され,戦時体制を形作っていた。高等教育の原型は大正7年のものであったが,大学,高等学校,専門学校,師範学校などにより複雑な複線型を構成していた。中等以上の各学校の修業年限は短縮され,徴兵猶予は廃止されており,学徒動員によって中等以上の学校は軍需工場の労働力の供給場と化していた。焼け残った都会の小学校は学童疎開により機能は完全に停止していた。
GHQによる日本教育改革の最高責任者であったCI&Eのマーク・T・オアは,「戦前の,日本の教育の第一目的は,統治している独裁政治家に対する民衆の絶対服従を保証することにあった。政治手段としての教育は,日本が孤立した弱小国から,国際社会において勢力的地位へと躍進できた主要因の一つであったのは疑う余地がない」と述べている。(*69)教育と政治との関係はいつの時代も議論の種になるが,教育制度とその機能のみを分離して捉えた場合,制度は道具,教育内容は使い方と解釈できる。そうすると,戦前の教育システムが悲惨な結果を出したのか,あるいはその使用法が結果したのかが問われよう。
第二次世界大戦の敗北により徹底した焦土と化した日本は,その後,驚異的な復興を遂げ,敗戦によって壊滅したかと思われた経済が予想以上の復興を遂げたばかりか,戦後20年で世界を驚かすほどの成長率を示した。世界的に見ると,一方では,大戦後に誕生した新興諸国には期待したほどの経済成長は見られなかった。
本章では高等教育を中心に,戦後の日本教育制度の移り変わりを概観する。戦後の日本教育史は,連合国軍の占領管理下に置かれていた占領期と,1952年(昭和27年)講和独立以降の時期との二期に分けることができる。
2-1 GHQの政策と第一次教育使節団の来日
日本の第二の教育改革の契機は,この敗戦による米軍の占領である。ルース・ベネディクトの『菊と刀』やアメリカ教育使節団の報告書に見られるように,戦前の教育に含まれた問題点,とりわけ軍国主義を駆り立てた教育と社会との関係が指摘されている。
教育システムが重要な機能を果たしていることを見ぬいていたGHQは,その改革に乗り出した。GHQには各部局が設けられたが,そのうち教育を担当したのはCI&E(Civil Information and Education Section)であった。
GHQが教育面で最初に行ったのは,戦前の日本の超国家主義,軍国主義政策を徹底解体するための,否定と禁止の措置であった。戦争を支持した戦犯教員を追放し,学校から神道教育に関連するものをすべて排除したことに続いて,義務教育科目では軍国主義・超国家主義と特に深い関係があるとみなされた修身(天皇崇拝と軍国主義の道徳),日本歴史,地理の授業が即刻停止させられた。
1946年には教育使節団(The United States Education Mission to Japan)が来日し,日本の教育の抜本的改革の勧告書を連合国軍最高司令官マッカーサーに提出した。それ以後,占領下の教育政策はその報告書に示された勧告の線に沿って実施された。同報告書には,教育の目的に,「個人の価値と尊厳の承認」,「能力と適性に応じた教育の機会」などが掲げられ,それに基づいて,六・三・三・四制の学校制度,授業料無償と男女共学による義務教育の年数延長,住民の一般投票による教育委員会の設置,社会科実施の提案,四年制師範学校の組織,大学における教員養成と高等教育の一般への解放,など,日本の近代教育のための指針を示した。これは,当時,戦後教育改革の基本的な線を示したものとして一般には歓迎された。
しかし,この基本案は実は日本製で,東大総長南原繁の「日本側教育家委員会」の報告書として,事前に使節団と文部省に,秘密文書として流されていたものであった。(*70)このようなアメリカ側に対する日本の主体的な対応は,戦後日本の教育改革が外圧だけではなく,内的に準備されていたものであったとも言える。
2-2 日本国憲法の公布
1946年6月に帝国憲法改正案が帝国議会に提出され,若干の訂正を経て可決し,民主主義,平和主義を理念とする「日本国憲法」が11月3日付けで公布された。
新憲法の各条項のうち,教育に関するものに着目すると,精神の自由の規定である「思想及び良心の自由(第19条)」,「信教の自由(第20条)」,「集会,結社および表現の自由(第21条)」,「学問の自由(第23条)」,などがある。典型的な教育条例としては,「教育を受ける権利および教育を受けさせる義務(第26条)」が規定されたことは,明治憲法とは大きく異なる。欧米からの比較からみて特異なのは,憲法には教育を行う権利の規定がないことである。日本の教育法令は,1890年の第二次小学校令以来これを,教育の目的は何かという問いに対する答えに置き換えてきたのである。(*71)
2-3 教育基本法と学校教育法
米国教育使節団の勧告に基づき,戦後の教育改革について審議するために内閣総理大臣の諮問機関として,1946年(昭和21年)「教育刷新委員会」が設置された。これは,上記「日本側教育家委員会」を改組拡充したものであった。この委員会は米国教育使節団の勧告に沿ってすすめられ,教育基本法,学校教育法,私立学校法,教育行政の四項目を立案した。
旧憲法では教育は天皇の大権の一つとみなされ,もっぱら勅令によって規定された。新憲法では教育基本法が定められ,教育の基本原則が定められた。同法は他の教育法規の基本となる原理規定を定めており,教育憲章ともいうべき性質のものである。
同時に学校教育法が公布され,教育改革が具体的に制度化された。旧法が学校種別に個々の勅令で定められていたのに対して,すべての学校を包含して法律で定められた。これには,第一章総則,第二章小学校,第三章中学校,第四章高等学校,第五章大学,第六章特殊教育,第七章幼稚園,第八章雑則,第九章罰則,そして付則がある。
第1条では,学校とは,「小学校,中学校,高等学校,大学,盲学校,聾学校,養護学校および幼稚園とする」と定められた。戦前からの専門学校は新制度移行と共に廃止され,各種学校は雑則の中に定められた。従来の複雑な複線型システムは改められて,六・三・三・四制のアメリカ的な単線型となった。義務教育は延長され,中学校までとなり普通教育の向上を図った。
学校教育法は1947年(昭和22年)4月1日から施行され,小学校中学校は同日に発足し,高等学校は1948年(昭和23年),大学は1949年(昭和24年)にそれぞれ新法下に発足することとなった。当時の日本は焼け野原で,経済的にも敗戦の亡国であったが,CI&Eの強い要請で大事業が急速に進められることになった。
2-4 幼稚園と小中学校,盲学校,聾学校,などの義務教育
幼稚園も学校教育法の第1条に位置付けられ,基本事項が適用されることになった。
小学校は,戦時中に国民学校と名が変更されていたが,明治以来の小学校の名前が復活した。小学校は,「心身の発達に応じて,初等教育を施す」ことを目的とし,修業年限は6年で,就学義務は「満6歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから満12歳に達した日の属する学年の終わりまで」と定められた。学生指導要項(Course of Study)もアメリカに倣って作成された。
戦前の中等教育は中学校と高等女学校,各種実業学校などの選ばれたものの学校と,国民学校高等科および青年学校などの大衆向け学校の二系統があったが,すべて中学校に統一され,3年間の義務教育で男女共学となった。「小学校における教育の基礎の上に,心身の発達に応じて中等普通教育を施す」という目的が定められた。
戦前から盲学校,聾学校はあったものの,義務化されていなかったので,ここにこれらが義務化された。また,これらの特殊教育学校のほかに,小学校,中学校,高等学校に特殊学級を設置することができるようになり,通常の学級で教育を受けることが困難な者に対する配慮がなされるようになった。
2-5 高等学校
旧制度では中学校は5年,高等女学校は2年,実業学校は5年となっていたが,中学校の後の2年間が延長されて3年となり,三年制高等学校になった。GHQからの強い要請で,高等学校は学区制,男女共学,総合制を基本原則とすることになり,教育の民主化,機会均等を実現し,高等学校教育の普及を図った。高等学校教育には普通教育を行う普通科と,農業科,工業科,商業科,家庭科などの専門教育を主とする学科がある。また,通信制も創設された。夜間科は,1950年(昭和25年)の一部改正で全日制および定時制として定められ,定時制は4年以上とされた。
2-6 大学―旧帝国大学と新制大学
第一次アメリカ教育使節団は,高等教育を広く一般に開放するべきこと,また大学における一般教育の重視を提言した。これを契機に,戦前の帝国大学,公立私立大学,専門学校,旧制高等学校,高等師範学校,女子師範学校,師範学校,青年師範学校などをすべて統合して,単一の「大学」に一元化することとなった。
学校教育法によれば,大学の目的は,「学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展開させる」ことと定められ,一般教育を重視し,人間的教養を基盤として学問研究と職業訓練を一体化しようとするところにアメリカ的な特色がある。大学の上にはさらに大学院が設けられ,それは「学術の理論及び応用を教授研究し,その深奥をきわめ,(中略)文化の進展に寄与する」ことが目的とされている。
1947年7月,大学基準協会が発足した。これは公式には5年以上存続している46大学を会員として,政府と何ら公的な関係を持たない民間団体であった。同年12月,大学設置委員会が発足した。これは学校教育法第60条によるもので,文部大臣の監督下にあり,その諮問に応じて大学設置の認可及び学位に関する事項を審議するものとなっている。
これにより,大学設置委員会が文部省として認可の責任を持ち(チャータリング),認可後は,大学基準協会が大学の質を審査し判定する(アクレディテーション),というアメリカ方式が導入された。ところが,すでに高い水準を持つという自覚を持っていた帝国大学は無論,そのほかの旧制有力私立大学の関係者はあまりこれに協力的ではなく,そのシステムの趣旨は実現されなかった。(*72)そして,大学設置委員会による大学基準の適用対象から,東大・京大の両旧帝国大学と,早稲田・慶應の両私立大学の4大学は最初から除外されたのである。すなわち「大学基準」は,新制大学の基準であって,すべての大学を互いに審査するという本来の発想は受け入れられなかったのである。(*73)戦前の大学の力関係は戦後もそのまま残った。
1949年,新制大学が多数誕生した。8つの基本類型に分かれていた全国525以上の膨大な高等教育機関が,アメリカと類似の一元化された四年制大学へと再編成されたのである。(*74)そして新制大学の大半はもとの私立専門学校である私立大学であった。
また,同時に学校教育法の一部改正により,戦前の専門学校のうち,新制大学の基準に達しないものに対する暫定措置として,修業年限を2年または3年とする短期大学が置かれることとなった。そして,新制大学の設置は,1948年(昭和23年)に大学設置委員会(翌年大学設置審議会と改称)の審査に基づいて認可された。
ところが,戦前の専門学校は,特に太平洋戦争が始まったころから乱立されていた。1935年(昭和10年)に183校だった専門学校は,戦後の1947年(昭和22年)には368校と2倍以上に膨れ上がっている。(*75)増加した185校のうち80%が,昭和16年から昭和22年までの6年間に集中しており,その大半が医学,薬学,そして工業系の官私立専門学校で,特に女子医専の増加が戦時体制を物語っている。なかには軍需会社が工場設備の一部に併設したものなどもあった。したがって,この新制大学への移行措置は,大正7年の大学令期に比するとはるかに大きな規模で,かつ大量の大学が生まれることとなったが,戦後の混乱期であったこともあり,戦前の大学令による大学基準は無論,戦前の専門学校令期の設置基準に比べても,かなり杜撰な措置であった。(*76)特に,私立学校に対するそれは極めて杜撰で,私立学校では,大学の教員資格を満たすために,かつての専門学校教員が他人の論文を拝借したり,届出上の教授数と実数が食い違うことなどが多くあったという。(*77)したがって,私立「大学」への昇格は単なる名義上の変更に過ぎず,実態は戦前の専門学校や各種学校にかわりはなかった。(*78)そして,法的には大学の地位を得ても,内実は専門学校どころか,それ以下の学校もあったのである。ここに,法律上の地位を得ながら中身の伴わない「名前だけの大学」が発生した。(*79)そしてそれらは,新制大学と一般に呼称され,戦前から残る旧制大学とあらゆる側面で区別された。
2-7 各種学校
以上が,学校教育法第1条に定められた学校であるが,これのほかに,第八章雑則の中に各種学校が定められた。各種学校とは,「第1条に掲げるもの以外のもの」で,「学校教育に類する教育を行うもの」と定められた。文部省の調査によると,この当時の教育内容は,和裁・洋裁,簿記・珠算,調理・栄養,看護婦,理容,タイプ,英会話,無線通信,自動車整備等,きわめて多岐にわたる。それらの教育内容に明らかなように,新制大学において教授されないような職業に直結したものが多くなっている。
この制度について,文部省の調査局調査課が1953年(昭和28年)9月の日付でまとめた「教育調査・第35集」に次の興味深い記載がある。
「…各種学校制度は消極的,積極的両面からの存在の意義を持っている。前者は正規の学校へ成長,完成する過程の存在を許容する便法,即ち学校設置助成手段としてであり,…後者は変遷して行く社会の要求に副って,既成の型を脱した学校,新機軸の学校の創設が許される点である…学校教育法によって規定された固定的な学校系統の裡にあって,変化在る存在を認めてゆくためには,この各種学校の制度を活用する以外には道はないとも云える。今後の社会の進展,変遷はおそらく新しい学校形態を要求してくるであらうし,学校の概念自体が次第に変化して行くことも,過去からの学校の歴史をふり返っても容易に予想出来ることである。とすれば各種学校制度こそは伸縮性のある極めて妙味ある制度ではあるまいか。」(下線原文)(*80)
そして,戦前法による専門学校と一部の各種学校が新制大学や短期大学に「昇格」となったことにより,法律上の専門学校は消滅したが,民間では戦前に各種学校と専門学校を合わせて,一般に「専門学校」と呼称していた慣習は簡単に消えるべくもなく,これら各種学校は引き続いて「専門学校」と一般には呼称され続けたのである。そして,社会通念上の戦後の新制大学の誕生は,戦前の「専門学校のうち,多くが大学と短大に格上げされた」という通念であった。すなわち,GHQの求めたのは高等教育機関の民主化であったが,国民の観念は,最上位ランクの大学への格上げであったのである。これは民主主義に対する大きな誤解であった。ここに,実態は大衆教育であるにもかかわらず,大学となったからには,それは旧制大学と同様に研究を主とする学問の府であり,実業教育を行うところではないという誤解が蔓延した。
2-8 私立学校
教育基本法は第6条により学校の公共的性格を明らかにし,学校は国または地方公共団体のほか,法律に定める学校法人のみがこれを設置できることを定めている。1949年(昭24)12月15日に私立学校法が公布され,私立学校においては私立学校の自主的な運営を期待して政府の監督権が縮小された。同法は,私立学校の自主性を尊重して所轄庁すなわち文部省や都道府県知事の権限を限定し,設置者を従来の財団法人から学校法人という特別法人としたこと,憲法第89条の公の財産の支出または利用の制限との関係において,国または地方公共団体の助成を法的に明確にしたこと等が挙げられる。(*81)
学校法人と財団法人との違いは,解散時に残余財産が国庫または寄付行為にあらかじめ定められた団体に属すると定められたこと,および法人役員に最低必要人数を定めたこと,また,特定親族のみで構成されることを禁止したことである。これにより,私立学校は私人の個人財産の寄付により設立されるものとなり,したがって私立といえども私物ではなく,学校の所有権は半公的なものとなった。「あらかじめ定められた団体」とは,大抵の場合,行政指導により国か都道府県となる。これにより私立学校は公の支配に属するものと捉えられ,憲法89条を冒さず国庫助成を受けることができるようになったのである。
1952年には私立学校振興会が発足し,国の私学に対する融資や補助が行われることになった。しかし,私立大学は諸物価の上昇,人件費の上昇などから経営は悪化する一方であったので,さらに1970年,私立大学経常費補助の制度が創設されるに至った。同時に,私立学校振興会は解散され,新たに同年,日本私立大学振興法によって財団法人日本私学振興財団が設置され,これら私学補助制度の運用に当たることになった。
私立大学在学学生数の,全大学生数に占める割合は,1953年度には大学学部57.3%,短期大学82.5%であったのが,1970年にはそれぞれ75.5%,90.1%に増加した。(*82)ここでも,高等教育の拡張は民間資本に依存してなされたのである。
2-9 その他の制度改革
2-9-1教員養成
戦前の師範学校では,学費が支給され卒業者は指定する教育機関に就職しなくてはならなかった。第一次アメリカ教育使節団は新しい教員養成に対して,教員としての専門教育が施されることと,教員養成過程は一般教養,教科専門,教職専門の3分野で構成されること,師範学校は四年制の大学として再編成されるべきことを勧告した。これに基づいて教育者の養成は,新しい型の「学芸大学」でなされること,小学校,中学校の教員は学芸大学を卒業した者または一般の大学で教職に必要な課程を履修した者から採用することとなった。1949年(昭和24年)には各都道府県に置かれる国立大学には,必ず教育者養成の学芸学部あるいは教育学部が置かれ,単科大学の場合は学芸大学とする方針が定められた。また,教育免許法が定められ,教職課程の修了資格者に対して,免許が与えられることとなった。
2-9-2教育公務員
国立公立学校の教員の身分は1949年(昭和24年)に制定された教育公務員特例法で定められた。これは,教育を通じて国民全体に奉仕する教育公務員の職務と責任の特殊性について定めており,国公立学校の学長,校長,教員,および部局長,ならびに教育委員会の教育長および指導主事などの専門的教育職員を教育公務員とするものであった。国立学校のそれは国家公務員,公立学校および教育委員会のそれは地方公務員である。教育公務員はその職責を遂行するために研究と修養に務めなければならないことが特に規定された。
この背景には,戦後早くからつくられた教員の組合が,1947年(昭和22年)に全国的組織として日本教職員組合を結成したことがある。同組合の1952年(昭和27年)の定期大会では,教師の倫理綱領として,聖職者教職者観にかわる労働者としての教師観を宣言している。国内的には帝国主義が一挙に崩壊したことにより,長い間の圧政の反動もあって,また,国外的には社会主義国の樹立などの影響で,戦後の混乱期には左翼思想が台頭していたのである。
2-9-3教育委員会制度
第一次アメリカ教育施設団は,教育委員会制度に関する勧告も行っている。これにより,1948年(昭和23年)教育委員会法が公布された。同法によれば,地方公共団体の合議制の行政機関であり,各都道府県に7人の委員会,および市町村に5人の委員会が設置される。委員は,1人は地方議会の互選により残りの6人または4人は,住民の直接選挙によることとなった。しかし,短期間でこれは改正されることとなる。
2-9-4文部省の改組
敗戦直後から文部省の戦争責任を追及する声が高まり,文部省を廃止し,代わって中央教育委員会(文化省)を置くという改革案が出されたこともあった。1948年(昭和23年)の国家行政組織法の改正とともに,中央行政機関である文部省については,翌年文部省設置法の公布があり,従来の指揮監督を行うものから,指導助言をおこなうものへと,文部省の権限は大幅に縮小された。戦前の制度における大きな特徴は,文部大臣の学校監督権の大きさであった。戦前は,学校設置時における厳格な認可権,方法,手続き,手段などの基本的要件の要請,設置後の大学に報告の義務を課し,検閲,命令ができるなど,広大な統制的権限を持っていた。この改革でそれらの権限は形式化され,大学監督権は喪失された。(*83)こうした動向を反映して,前田多門(1884‐1962)文部大臣の登場以後,占領期においては8人の学者文相がつづいた。教育についての条件整備に重点が置かれることになり,調査機能が強化されるように図られた。
2-9-5教育政策の方向修正
自由主義諸国と社会主義諸国の対立という冷戦構造が確立されていくにつれ,教育もまたその影響を大きく受けることとなった。1949年(昭和24年)ころからアメリカの対日政策は変化し,保守的傾向が強まってきた。アメリカは共産主義の台頭を敬遠するようになり,労働組合の運動を抑えるようになってきた。また,占領政策は次第に緩和されてきて,日本政府の権限が拡大するようになり,そして,1950年(昭和25年),朝鮮戦争がはじまったことはこの傾向にいっそうの拍車をかけた。同年第二次アメリカ教育使節団が来日し,報告書が提出された。そこでは明らかな政策の転換が示された。
この報告書に基づき,内閣総理大臣の私的諮問機関として設置された「政令改正諮問委員会」は,経済,労働,警察,行政,教育などの審議を行い,1951年(昭和26年)「教育制度の改革に関する答申」を発表した。これには,「戦後の教育制度は民主的な教育制度の確立に資するものではあるが,国情を異にする外国の諸制度を範とし,徒に理想を追うに急で,わが国の実情に即しないものであり,わが国の国力と国情に合し,真に教育効果を上げることのできる合理的な教育制度に改善する必要がある」と述べられている。そして,同時に示された大綱には,中学校課程のコース化,高等学校学区制の廃止,職業教育を行う五年制の専科大学の設置,教育委員会委員の任命制,生活経験カリキュラムの見直しなどが挙げられている。
2-9-6中央教育審議会
当初の「日本側教育家の委員会」は教育刷新委員会,その後教育刷新審議会と名称を変更しながら,上記「政令改正諮問委員会」の答申を受けて,1951年(昭和26年)11月,中央教育審議会として,恒久的な審議機関設置の声明を発した。そしてこれは文部大臣の諮問機関として設置されることとなった。
3-1 教育の政治的中立
国際情勢が変化し緊張を増す中で,連合諸国との講和がなされ1951年(昭和26年)平和条約が締結されて,日本は独立を回復した。すでに占領政策への反発や,それへの抵抗など,各方面の政治運動が展開されており,国情は不安定であった。また,教育面でも偏向教育と呼ばれた左翼思想の強要事件が中学校などで発生していた。(*84)これらを契機に教育の政治的中立を期した「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」と「教育公務員特例法の一部を改正する法律」の2法が立法された。
前者は教員を党派の不当な支配から守り,自主性を擁護することを趣旨として,特定政党を支持させるなどの教育の教唆および煽動を禁止するもので,後者は,公立学校教員の政治的行為の制限範囲を,地方公務員より厳しい国家公務員法の適用を受ける国立学校教員の例によるとするものである。これにより公立学校の政治的偏向は緩和されるようになった。両法案は1954年可決されたが,その成立過程において強い反対や論議が繰り返される中で強行された。当時はいずこにも左翼思想と反政府運動が吹き荒れていたのである。
3-2 教育委員会制度の改正
この社会的状況の影響もあって,1956年(昭和31年)教育委員会制度は改正された。委員の直接選挙制は改められ,地方公共団体の長の任命制となり,委員長の任命に当たっては,都道府県の教育長は文部大臣の,市町村の教育長は都道府県教育委員会の,それぞれ承認を必要とし,さらに文部大臣は,地方公共団体の長または教育委員会の教育事務の処理が違法または著しく不適切な場合には,必要な処理ができるとなった。そして,教育委員会の予算・条例原案の送付権は廃止された。元来,教育の地方分権と民主化を理念として制定されたものであったが,発足当時の地方の民主性,自主性ないし独立性は大きく後退した。当然この背景にも,教育が左翼にゆさぶられていた当時の社会事情がある。
占領下の中央政府と地方行政府の関係は,いわば「対立」関係であり,前者の抑制と後者の自律性拡大がその基調をなしていた。(*85)しかし,50年代において徐々に,国に地方が協力するという「協力関係」になってきた。一方で事務の肥大化による行政機能の地方への分散,他方では国家意思による統一化の要請という形でバランスを取るようになった。
3-3 文部省の再編
文部省は,1952年の文部省初等中等教育局の権限強化,翌年の文部大臣の教科書検定権の明記,1956年の任命制教育委員会の発足にともなう文部大臣の措置要求権や都道府県教育長任命の承認権などの法改正にみられるように,再びその権限を回復してきた。それととともに,指導監督的な性格を強めてきている。同時に文部省の文教施策の重点は,1950年代からの教育課程・教科書の統制と学校管理の強化,1960年代からの能力主義教育政策と学校制度多様化などにみられる。
4-1 高等学校
1950年代後半には技術革新,経済の高度成長,国民所得水準の上昇という状況があり,義務教育の国庫負担は大幅に増進され教育制度は充実し,義務教育終了後の上級学校への進学率は著しく伸びた。特に,1960年代前半はそれが急激に増加し,1974年には,高等学校への進学率は90%を超えるようになる。
4-2 高等専門学校
先述した専科大学構想に基づき,職業教育に重点を置く五年制の教育機関の設置が答申された。これは中級技術者の不足を問題視する日経連など,経済団体からの強い要求に基づくものであった。(*86)日経連の技術教育委員会の要望意見には,「戦前については初級技術者は工業学校卒,中級技術者については工業専門学校卒,上級技術者については大学卒をもって,それぞれ充てられていた。しかるに戦後派,工業専門学校がすべて大学に昇格したため,工業高校卒は将来の初級技術者として,大学卒は将来の上級技術者として採用され,中級技術者となるべき者が空白の状態になっている。」(*87)そのため「専門職業機関の実を備える」「高校の課程を合わせて五年とする専門大学」を設置することが要求されている。その創設を内容とする改正法案が出されたが参院で審議未了のまま廃案となり,代わって工業教育を主体とする高等専門学校を創設する方針となった。中教審はこの問題を大学と切り離して結論を急いだ。
その後,学校教育法は一部改正されて1961年に公布され,追って高等専門学校設置基準が制定されて,1962年度からあたらしく高等専門学校制度が発足した。高等専門学校は,「深く専門の学芸を教授し,職業に必要な能力を養成する」ことを目的とし,中学校卒業者を入学資格とする5年の一貫教育を行うものである。これにより,六・三・三制度は再度複線化した。全国に数十校設置されたが,国立が大半を占めて55校,公立4校,私立3校である。数の上では少数であることと,中学校卒業時にその年令の少年が職業の方向性を定めることは困難であるという現実もあり,さほど発展は見られなかった。
また,高等専門学校の名が示すように,戦前の専門学校の再来を予感するものがあり,国会答弁でも「新しい専門学校」と呼称されたりもした。(*88)しかし,社会一般には,「高等専門学校」を略して「高専」と呼ばれるようになった。当時すでに,各種学校が多く存在し,それらは専門学校と呼ばれていたからである。
4-3 短期大学
短期大学はそれが制度化された戦後は暫定的措置として捉えられていたが,女子の進学が著しく伸び,いわゆる花嫁学校として定着してきた。まだ男子は大学,女子は二年制の短大という,女子教育を低く見る傾向が根強かったことが主な原因である。法的には,「深く専門の学芸を教授研究し,職業または実際生活に必要な能力を育成する」ことが目的として掲げられ,1964年,学校教育法の改正により恒久的な制度となった。追って1950年には短期大学設置基準が制定された。
4-4 大学
大学の設置は自主的団体である大学基準協会が定めた基準によっていたが,1956年に大学設置基準が制定され,認可基準は法令によることとなった。民間団体であった大学基準協会は無力化され,文部省の権限がさらに強化された。「大学の名に値しない大学が増えることは必ずしも好ましいことではない,新設の適否を判断する何らかの基準が必要であろう,その基準は大学の設置認可権をもつ文部大臣が制定するのが妥当であるという理由」であった。(*89)大学の設置認可に対する官僚統制の排除という戦後改革の原理は,少なくとも1955年に至る期間までは貫徹されていたという。(*90)なかでも官僚制度の排除を徹底化した顕著な例は,文部大臣の大学監督権の喪失であった(2-9-4)。(*91)ここに至って文部省は大学の設置認可に関する統制権を再度強めるようになった。
同基準は,学部組織,講座制・学科制,教員組織,授業科目,校地・校舎・施設等について細目が定められている。ここで,旧制大学は従来どおり講座制,新制大学は学科制と定められた。新制大学はほとんどが私学であったから,私学セクターはほとんどがアメリカ式の学科制になったのである。
新制の大学院は,1950年に早稲田など私立の4大学に設置されたのをはじめ,1953年度には国公立大学にも設置された。大学院は研究科を構成単位とし,当初は修士課程1年と博士課程3年を並列していたが,1955年には,修士課程2年,博士課程5年と改められ,博士課程は修士課程2年を含むことができるようになった。
その後,経済成長とともに大学,短大への進学率は1960年代に飛躍的に上昇し,同一年令層に占める割合は1966年に16.3%になり,1976年には39.2%となった。日本の高等教育はこの1966年以来,マーチン・トロウの言うエリート段階からマス段階,すなわち大衆化段階へ移行した。経済成長の上昇率は激しく,国民は均質の中学校,ほぼ均質の高等学校から,皆同じように大学へと殺到するようになったのである。
無論,それを受け入れるための大学が多く新設された。しかし,それは政府の積極的な文教政策で高等教育が拡充してきたのではない。戦後の新制度の下で,いわば無政策の政策で,政府は私立大学の新設を放任し,私学セクターの自由な拡大を許容することによって,極めて経済的に国民の進学要求を充足させたのである。1960年代の高度経済成長期には,十分な計画を伴わず,粗末な大学が増設され,他方,東大を頂点とする階層性が,高校以下の教育に過当な受験競争をもたらした。(*92)経済成長とともに,戦後のベビーブームの要求にこたえるために,大学設置基準は1961年ごろには形式的なものになっていた。(*93)また,審査対象の大学が実際には最低基準に達していなかった場合でも,大学設置審議会はとにかく設置を許可するようにたびたび勧告した。(*94)そして,すでに述べたアクレディテーション機能が発達しなかったこと(2-6)と,文部大臣の大学監督権が喪失したこと(2-9-4)により,最低基準を満たした新制大学は半永久的に大学としてのステイタスを保障された。そしてそれらの「大学」は,増加する進学者を受け入れていただけで,なんら経営努力をする必要は無かったのである。さらに,戦前の旧制大学が研究大学として機能していたことを模倣した新制大学では,研究に重点を置きすぎて実態が無視され,庶民のための実用教育が等閑にされた。
そして,1973年のオイルショックまで,好調な経済成長の影響で大学が増加したが,1960年代末の学園紛争,マンモス私大の出現,私立大学の大都市集中,水増し入学,私学の平均的な教育条件と質の低下など,弊害が続出した。そのような状況に対処するために,政府は時限付きで大学抑制政策をとるようになった。(*95)
4-5 専修学校
1976年から政府は大学設置の抑制策に転じた。戦時体制下に設立された専門学校で,戦後1949年から1955年までの間に新制大学になった大学と,その後60年代の高度成長期にできた大学の質があまりに低かったことが大きな理由である。そして,さらに,戦前から続く旧制大学,とりわけ高度な大学は1960年代には学園紛争で荒れていた。
大学の大衆化による平均的な教育の質の低下は,「大学に行っても就職難」という現実を招来した。それらは,一方で激化する受験熱とあいまって,あらたなニーズを生み出した。第一には実際に役立つ教育,すなわち,就職できる学校が求められた。第二に,大学指向と受験熱の過熱は,大学に入れなかった大量の入学志望者を生み出したので,大学の増設は追いつかなかった。そして各種学校がそれらを受け入れる機能を果たしていたのである。
各種学校のうちで一定の規模,水準を持つものを対象として,これらの教育の振興を図るため,1975年(昭和50年)7月に,学校教育法の一部が改正され,各種学校の制度はそのままに,新たに専修学校が定められた。同法「第1条に掲げるもの以外の教育施設」で「職業もしくは実際生活に必要な能力を養成し,または教養の向上を図ることを目的として」,「組織的な教育を行うもの」と定められている。そして,専修学校は中学校卒業者を対象とする高等課程を置く場合は,「高等専修学校」であるが,『高等学校卒業生を対象とする専門課程を置く場合は,「専門学校」と称することができる』と法に定められたのである。同時に,それ以外の学校は,「専門学校」を称することを禁止された。戦後久しく消滅していた法概念上の「専門学校」が,ここに再登場したのである。当時の文部大臣は永井道雄であった。
日本の他の高等教育機関に比すると,専修学校の教育編成の自由は大幅に許されており,学科の設置,変更,運営に関しても,他のいわゆる「1条校」に比べると遥かに柔軟性を持っている。よく言われるように,日本の大学設置基準は米国のどの州よりも厳しい。(*96)しかし,この専修学校設置基準は,米国の大学設置基準よりは緩やかである。したがって米国の大学の基準線を日本に当てはめると,実体としての専門学校の中に線が引かれることとなる。(*97)
戦後の高等教育制度の推移と関係して,看過できない重要な社会事象が少なくとも3つある。学園紛争と偏差値序列,そしてその結果の,後の大学のレジャーランド化である。
5-1 学園紛争
戦後の大学における大きな社会事象として,学生運動および学園紛争が挙げられる。1955年末の国立大学授業料値上げ反対運動を端緒として,終戦直後の混乱期以来,一時は治まっていた学生運動が活発化し,1960年の日米安全保障条約改定問題を機に過激に展開されるようになった。1968年ころから多くの大学で学園紛争が発生し,60年代を通して大学と一部の高校は政治と紛争の場となった。大衆化が進むと同時に政治運動の場となり,大学は荒廃した。
このような状況への対応策として,1969年(昭和44年)8月に「大学の運営に関する臨時措置法」が制定された。これは大学が紛争に対して緊急の措置を講ずる方策を定め,大学が自治能力を失うようになったときは設置者が教育研究機能を停止することができることを定めたものである。紛争の激戦地となっていた東京大学は,1969年度の入試中止に至った。学生による大学自治権は完全に消滅し,同年末以降,学園紛争は鎮まっていった。
学生が荒れた背景には,無論,60年代世界中で吹き荒れた学園紛争の影響があった。国内的には,大学進学率の上昇に伴って入試が激化し,東大を頂点とするヒエラルキーがますますその階層性を強めたこと,大学,とりわけ新制私立大学に入学しても,経営難の私学では満足な授業も受けられず,さらに就職先が無かったことなどがよく語られた理由である。
学園紛争が頂点に達した40年代の半ばに来日したOECDの教育調査団は,その報告書の中で,「日本の高等教育制度は,著しく階層的であり,その構造は急速な成長にもかかわらず,今世紀の間ほとんど変化していない」と述べている。(*98)
5-2 偏差値序列と予備校
日本の学歴社会の弊害を作り出したものに偏差値と予備校がある。60年代の初め頃から,民間の企業が大学受験の指導をするにあたり,偏差値という概念を導入し始めた。模擬試験を行ってその点数から平均値を出し,偏差値を出して合格を占うというサービスが始まったのである。また,加熱する進学指向にともなって,大学に入るための試験勉強を教える予備校が発展した。大学の序列化は予備校の発表する偏差値によってなされ,頂点のとがったピラミッドは,数字で段階的に区切られた。上昇指向を持つ受験生は,少しでも偏差値の高い大学を目指すようになった。これは日本の教育制度から派生した最悪のシステムである。受験勉強はするが,入学してしまうと勉強しないということが当然のようになった。
5-3 大学のレジャーランド化
学園紛争で荒廃した大学はその後一時無気力の雰囲気が漂っていたが,80年代に入ると経済はさらに成長し,日本は世界第2位の経済大国になった。その一方で大学の改革は進まず,就職に役立たない授業,マスプロ授業,入学できれば自動的に卒業,といったよく言われる日本の大学の欠点を継続して維持していた。他方,経済はバブルに向かって上昇を続けていたので,大学生は豊かになり,大学は楽しみを求めるための単なる基地となった。地方の国立大学は人気が下がる一方,大都会の私立大学は楽しみを求める学生の急増で偏差値が上昇した。都会のミッション系の大学は,都会にあって西洋の匂いがするという理由で無神論者や仏教徒が殺到して人気が上がった。青年向けの雑誌は,都会の大学がどのように「おしゃれ」か書き立てた。もはや政治運動は「ダサい」の一言で片付けられ,大学に入った後に真面目に勉強するのは「クラい」ことになってしまった。大学はレジャーランドと化したのである。
戦後のもっとも大きな社会改革として,情報化が挙げられる。そして,重要な教育問題として,コンピュータ教育がある。そして,情報化を担当したのが,上記のいわゆる1条校ではなく,各種学校,専修(専門)学校,その他の民間教育機関であった。
日本におけるコンピュータ教育は,1961年から東京大学と京都大学の大学院で始まった。私立では,1963年に,京都大学の宇宙物理学研究者であった長谷川靖子と同大学文学部哲学科出身の長谷川繁雄が,大学近辺の私塾で始めた夜間の講習会が最初である。当時は,コンピュータは高度な研究用の道具で,大学院の研究者が学び始めたばかりであった。その講習会が人気を呼び,大学関係者のみならず,近辺企業からの受講希望者が集まった。「京都ソフトウェア研究会」と名付けられたその講習会は,受講者の増加によりカリキュラムが整備され,さらには高校卒業生が増加した。1969年,その学校は当時の大学制度を批判する立場から,「明日を担う創造性豊かな技術者の育成」を理念として,京都コンピュータ学院と改称し,全日制の学校として開校した。(*99)これはプラグマティズムに根拠を置く昭和生まれの自由主義派私学である。
同学院の学生が爆発的に増加したことから,東京でも同様の学校が急増した。それらの大半は,古くからあった洋裁学校や,ラジオ通信の技術を教える各種学校で,永井分類に基づくと「適応派」の職業教育機関であった。そして,それらの学校は京都コンピュータ学院のカリキュラムをモデルにした。コンピュータ教育は高度な科学技術から一般的なオペレーションまで,様々であるにも拘らず,あまりにも多くの当時の各種学校がコンピュータ教育を始めたために,「それは職業教育にすぎない」という誤解が蔓延した。
大学ではコンピュータ教育への対応は遅れて,80年代に入っても授業を開講している大学はわずかであった。その当時でも,コンピュータは大学院の高度な研究道具か,あるいはそれを支える職業人としてのオペレーターのものとみなされており,アカデミズムを標榜する大半の「大学」ではコンピュータを教える教員さえいなかったのである。一方米国では,80年代の半ばにコミュニティカレッジのカリキュラムが変更され,一般使用としてのコンピュータ教育が全国的に始まった。(*100)その頃,米国中西部のあるカレッジが「それはリベラルアーツには属さない,職業に密接に結びついている」という理由で,コンピュータサイエンス専攻の設置を否決したことがある。(*101)その愚かなカレッジとまったく同様に,画一化されたすべての大学は当時,コンピュータ教育を職業教育とみなしていた。
しかし,社会情勢は大学人の誤解と関係無く変化する。70年代から80年代後半にかけて相次いで設立されたコンピュータ関係の企業は,自社のプログラマーをそういったコンピュータ学校に求めた。平均的な大学に比すると就職率があまりにも良いことから入学希望者は殺到し,全国にコンピュータ系の専門学校が設置された。それらの卒業生が現在の情報化社会を担っているのは言うまでもない。また,そのなかで,唯一当初からアカデミズムの風土を持っていた京都コンピュータ学院の卒業生が,カード印刷会社であった任天堂にコンピュータ部門を創設した。世界を席巻するコンピュータゲームは,専門学校から生まれたのである。この結果も,日本の大学制度の副産物と言えよう。
したがって,日本の大学人が,日本の情報教育は遅れているというのには,多分に偏見が含まれている。情報教育は専門学校で完遂されているのである。
7-1 臨時教育審議会
戦後の発展の歳月を経て,科学・技術は著しく進歩し,社会構造も大きく変わってきた。中央教育審議会の答申は,1971年の答申で,人間の可能性の開発を重視し自主的・創造的な人間の育成,生涯にわたってあらゆる場面で学習発達のできる生涯教育の構想,生涯教育における学校の占める役割とその改革を述べ,教育制度全般にわたる改革構想を示した。
しかしながら,その構想は十分な実現を見ないままであったので,1984年,政府は改めて臨時教育審議会を3年間の時限をもって設置した。1987年の臨教審答申では,21世紀に向かう社会の成熟化への展開,情報中心の科学技術への転換,新しい国際化への移行を認識した上で,教育改革の視点として,個性重視の原則,生涯学習体系への移行,国際化社会,情報化社会への対応などを挙げ,さらに改革の具体策を全般にわたって述べている。これを受けて政府は,1987年10月,教育改革推進大綱を閣議決定し,その実現に乗り出した。
7-2 改革の動き
1988年には単位制高等学校が制度化され,国立学校教員には1年間の実践的な研修を行わせるようになった。また,教職員免許法は改正され,普通免許状を3段階に分け免許基準を引き上げるとともに,広く社会経験を有する者に授与する特別免許状が新たに設けられた。学習指導要領は1989年に大きく改編され,さらに,1997年に改正され,外国人英語教師の雇用制度などが設けられた。高等教育においては,1987年に大学審議会が設置され,来る少子化現象に対して,大学の多様化を推進するよう,(文部省によって)様々な方策が講じられるようになってきた。1991年には大学設置基準が改正され規制緩和が図られた。また,学位授与機構が設けられて,大学間をわたって単位を修得することにより,学位が与えられるなど,柔軟化が図られた。
文部省の行っている情報化への対策としては,100校プロジェクトなどに見られるように,情報活用能力の育成,新しい学習システムの開発などが推進されており,また,国際化の進展に伴い,教育・文化の国際交流,留学生交流,外国人に対する日本語教育,海外子女・帰国子女教育の充実などが図られている。他にも,1981年の放送学園法の制定により,追って1983年,放送大学設立を見たことは画期的なことであった。
7-3 専修学校
専修学校(専門学校)は,自由競争の下,固定化された正系の教育制度に対する柔軟な傍系として機能を果たしてきた。制度発足後飛躍的な発展を見せ,経済発展に大きく貢献した。1975年の制度発足時に,学校数893,学生数131,492人であったものが,翌年,各種学校からの変更が相次ぎ,学校数1,942,学生数357,249人,その後1995年には,学校数は3,476に,学生数は813,347人へと増加の一途をたどった。(*102)日本の女子差別の表象であった短大が衰退する一方,専修学校への進学者数は著しく伸びた。
1995年(平成6年)から一定基準を満たした専修学校には,専門士称号の授与権が与えられるようになった。OECDの分類に基づく非大学高等教育の一種としては,確固とした制度的地位を獲得した。
制度上もっとも画期的な改革は,高等教育の複合的単線化への動きである。1995年より,高等専門学校と短期大学から大学への編入が可能となり,1998年から専門士号授与権のある専修学校も同様の権利を得た。これにより,六・三制の単線型義務教育の後の複線となり,それらは大学,大学院へと単線的に吸収されるという,複合型システムとなった。したがって受験生にとっては,受験地獄を経なくても,専門学校で良い専門科目の成績を取れば高度な大学へ編入できるという可能性が出てきた。偏差値教育で大学生の質が極度に序列化したことや,大学の改革があまりにも進まなかったことが大きな理由であろう。これは,少子化による定員割れを補充するための大学救済策のように見えるが,本質はそうではない。専門教育能力によって,学生が偏差値入試を経ずに大学を選べるようになる。これは一方で,学生の専門的実力を重視する大学の側から見れば,入試という一面的な評価ではなく,編入前の教育機関における成績などから,幅の広い評価で優秀な学生を選別できるということでもある。米国の大学がドロップアウトと中途編入で学生の平均的学力レベルを維持しているのと同様に,教育水準の向上を期する中堅以上の大学にとっては,またとないチャンスであろう。他方,これを定員割れの充足手段と捉えるような大学にとっては,当然,専門能力のある学生には素通りされて,さらなるレベルの低下をもたらすことになるのである。したがって,各教育機関の持つ教育能力によって,高等教育機関が再編成される時代になったということである。
7-4 高等教育のユニバーサル化
高等教育への進学率は,大学,短大,高等専門学校,専修学校の合計では,1985年(昭和60年)に51.7%(3年前の中学校卒業者を100とした場合)となり半数を超え,1996年(平成8年)に,66.2%に達している。(*103)大学,短大,高専だけでは,46.86%である。大学と短大だけの進学志願率は54%(大学・短大へ願書を出した者/高校卒業生数)になっている。すでに,マーチン・トロウの言うマス段階を超えてユニバーサル段階に入っている。
明治から大正にかけて,階級格差を一時になくすと,庶民は,かつての最上級の階級を目指し,学士になることを望んだ。学士の士は武士の士と同じ漢字である。明治期の四民平等政策によって,かつての武士の官僚養成機関であった昌平校は,身分の差無く誰もが入れるようになり,庶民はそこに行こうとした。他の庶民の学校は官立校に近付こうとした。当時の政府はその指向性を巧妙に利用して私立大学を作り,高等教育を補充した。昭和になって新制大学ができたが,GHQや教育使節団の提言した大学の民主化は結局実現されず,戦前に築き上げられていた旧制大学の威信は強く残り,新制大学はまた一方で,かつての帝国大学になろうとしたのであった。
明治期においても,昭和期においても,日本における階級の解消は,最上階級への指向性に起因し維持するものであって,多様性の価値,すなわち民主主義を生み出すものではなかったのである。頂点の鋭くとがったピラミッドは,大学間の教育の質によって維持されているのではなく,多くはそういった国民の上昇指向観念によって維持されているのであると言えよう。
教育制度を道具と捉え,大学を相対的に位置付けて高等教育を一種の階級分化装置と捉えるならば,その内容を満たしたのは理想的方法論ではなく,戦前から残る参加者全員の観念であった。このむやみな上昇指向という戦前に確立された観念があるかぎり,制度が社会を変革するのは難しかったと言わざるを得ない。
戦前の複雑に階層化され複線化していた高等教育システムが戦後一時に単線化されたことにより,多くの摩擦が生じたのは事実である。そして,制度は単純化されても,その中身を満たすべき数々の政策は無論,教育者の観念や慣習,それら無数の原因が絡み合って,さらに複雑な舞台裏を構成したのであった。1952年に文部省が再編され,1956年の大学認可基準が法制化されたことは,一面だけを捉えると官僚支配の再来と言えるが,当時の社会情勢をみると,その反作用と言える部分も多い。制度は常に現実世界に揺さぶられるからである。
戦後,高等教育が発展したいちばんの理由はその制度のあり方ではなく,単に経済成長の急激さの結果であったとも言える。そして,経済界で戦後の成長を牽引したのは,戦前の教育を受けた世代であった。そう見ると,肝心の教育は,戦後発展したのかどうかは極めて疑わしい。その証左としては,戦前の旧制大学卒業者たちの主導による企業内教育の発展や,コンピュータ教育に典型的に見られるように,教育制度から最も遠い,まさに民間教育である企業内教育や,各種学校,専修学校の発展が挙げられよう。大半の大学は法的に安定した地位に安住し,旧制大学に倣って実用教育を放棄し続けた。日本の経済は成長し,大学が拡張されたが,戦後の大学は,技術革新を創造し,経済の発展を刺激することにはならなかったのである。(*104)
GHQは大学の一元化により,大学にスタート地点の平等とその後の民主的な自由競争を求めたが,それは戦前に築き上げられていた価値観と慣習,すなわち文化によって,全く理解されずに終わったのである。そしてむしろ,アメリカ的な教育機関の自由競争原理は,私学セクターの各種学校,専門学校へ引き継がれ実現されたと言える。少なくともコンピュータ教育では,明治期と同じように制度化の副産物が大量に発生し,社会的には成果を上げた。またしても,政府が制度を整えようと趣向を凝らし,さらに大学が教授会の自治を盾に現実に抵抗している間に,まさしくその背後で,最も緩やかな規制のもとで,民間教育機関は無秩序に発達し,政府が,そして多くの大学人が,おそらく予期しなかったほどの好結果が生まれたのである。
エリートの模倣に甘んじ,学生を獲得する努力と,効果ある教育を行う努力を放棄しつづけていた新制「大衆」大学の現状と,そして一方で今,発展した専修学校に,大学への編入,大学院へと進む道が与えられたことを考えあわせると,制度的に最も緩やかな専門学校がさらに新しい教育効果をもたらすことが期待できよう。
本章では,現代日本の高等教育システムが抱える構造的な問題を取り上げる。1991年をピークとして,その後若年人口は急速に減少しつつある。20年後には,現在の約2/3にまで減少する。これにより,数々の問題が起こりつつある。多くの人はそれを大学だけの問題として議論しているが,実際には,単に大学だけに止まらぬ高等教育機関全体に深く関わるものである。したがって,大学と並んで存在し,独自の歴史を有する「専門学校」をも,並行して考察する必要がある。
先にみたように,専門学校の概念は,日本に固有なものであり,日本が急速に近代化される過程で生み出されたものであった。専門学校は第二次世界大戦後,一時期廃止されていたが,1976年に再び法制化されることになった。
日本の大学設置に関する規定は非常に厳格である。一般に言えることだが,規定がことさら厳格でかつ杓子定規なものである時には,例外を吸収するシステムが必要となる。いわば,メイントラック(主舞台)のシステムにうまく適合できない人々を吸収するために,そのメイントラックに並走するフィールド上に別種の制度が必要とされる。そして実際に,戦前の「専門学校」は,現代の大学の基礎となった。これに対し,戦後の「専門学校」は,コンピュータ教育のような特殊専門化された分野において,めざましい発展を遂げた。
20世紀を通して,大学進学希望者数は常に,既存の大学の学生収容能力を超えたものであった。戦後,大衆に開かれた大学(大衆大学)の設立に重点が置かれはしたものの,一般に,この事情に変わりはない。そのひとつの結果として「専門学校」は,学生募集に関して,大学へ入り切らない,溢れた学生の収容機関という現実的結果により利を得てきたといえる。
しかし,この利が引き出されたのは,次のようなバランスを欠いた,従って非能率的な制度のコンテクストの中においてであった。戦後の学校改革は十分に行われたとは言えず,そのため,大学・専門学校等の法制度上の名称が,人々の意識の上に,あるいは社会的コンテクストのなかに,結局のところ有害に過ぎない序列として,強固に残存したのである。そして,既存の大学は,その世評に見合うだけの働きをすることもなく,新たな社会的リアリティが要求するような教育を提供しようとして来なかったのである。
鎖国時代を通じて,日本は厳格に定まった身分社会であり,ほぼ2世紀間にわたって,ほとんど変化はなかった。このことが,明治維新の際に起こった社会変化にまで影響を及ぼすことになったのは当然のことであった。1868年に近代化が始まり,士農工商の身分制は社会のほとんどの分野で廃止されたが,その一方で,学問・教育の世界では,一種の序列システムが残されてきた。学生であれ,十分な学力を実証できる人は,最高学府への入学が可能であったが,その一方で,種々様々な学校の相対的地位は,天皇を頂点とする序列を反映したのである。東京大学は国の最高学府としての評価を保持してきた。それは武士階級のための官僚育成センターとしての,かつてのポジションと似ていなくはない。こうした広範囲の学校群の中で,大学と正反対の端にあるのが,専門家養成学校,すなわち「専門学校」である。
しかし,こうしたかなり単純な分類は変化し始めた。「大学」という観念そのものが一時期拡大し,「専門学校」を包含するに至り,そして大衆がかつては選ばれた少数者にだけ用意されていた学問分野へ目を向けるようになった時,このことが,中級の大学の増殖をもたらした。しかしそうした大学は,当然一夜にして帝国大学が既に得ていた名声に達することはできなかった。かくして戦後の改革であった「大学の民主化」という目標は,ひどくその価値を損なわれたのであった。そしてこれは確立されつつあった高等教育の質にインパクトを与えた。旧来の,選ばれた少数者の研究センターとしての大学という考え方は相変わらず支配的でありながら,こうした事情の一結果として,実用的な職業教育の重要性は実際上,無視されたのである。まさに,経済成長によって,そうした実学に対する要求が増加してきた時に。
3-1 制度上の構造
1918年の大学令は,私立学校に対し,その地位を向上させる機会をもたらした。しかし,当時,大学院の設置を許されたのは帝国大学だけであった。戦後こうした諸高等教育機関―「専門学校」「医学専門学校」「師範学校」―がアメリカをモデルにして,「新制」大学として分類された。そしてこれらが今日の大衆大学となったが,概してこれらは,帝国大学のその色を薄められたクローンの一種であったと言える。ただし,制度上,学部構成に関しては異なっていた。新制大学に対しては,帝大の教室を支配していた講師職に基づく単位認定制度(ヨーロッパ式の講座制)が否定され,それに代わって学部に基づく単位制度(アメリカ式の学部制)が採用されたからである。
戦後すぐの頃は文部省の政治力はGHQによって弱められていた。しかし変転あわただしい冷戦時代の国際政治の状況は,アメリカ人プランナーたちの側に事態悪化の感を与えた。そうした視点から見れば,その頃徐々に一般化しつつあった比較的ゆるやかに管理される教育システムは社会不安に対し,弱いものと見えたのであった。その結果,再び文部省は相当な中央集権化された権力を再度手に入れ,そのために「新制」大学の独立性は消え去ることになった。1949年の私立学校法は,国家予算による私大に対する経済的助成を可能にしたので,これが徹頭徹尾マイナスであったとは言えない。しかし,これもまた,文部省による押しかけの監督を意味し,新規プロジェクトの企画も,真の自由競争がもたらすべきメリットとともに,政府による厳しい制限下に置かれるようになったのである。
この時期のもう一つ主要な変化は,法制上の名称に関するものであった。以下で見るように,このことの最終的な結果はかなり重大なものであった。戦後改革の一つの結果として,戦前の「専門学校」や各種学校で,新制度に適合できなかったものが「短期大学」として制度化された。つまり政府は,ある教育機関が「大学」の地位に値するかどうかという,教育の質を計る安直な方法を採ったのである。もちろんそんな安易な測定方法はあり得ない。これは中央集権化された監督の限界を示している。官僚の立場からすれば,最も好都合な分類法は単純に教育機関の物質的な資産目録である。そこで,ある最低基準の設備,おもに不動産資産を保有する「専門学校」は後に大衆大学となったが,それを保有していないものは一段低い「短期大学」に振り分けられたのである。しかし設備の規模の違いこそあれ,実際の教育の質は,こうした2種の学校間で実質的に異なっていたとは言い難い。さらには,学生が編入などで,大学と短大の両者間を移動することは非合法(不可能)であった。
こうした区別がもたらした結果は,さらに複雑なものであった。その区別の実際の働きは,大衆のための教育に対する有害な偏見を再び強めることであったからである。1970年代中頃まで理事会,教授会,そして入学希望者の側にひとつの誤解を助長し,それによって比較的定評のあった「専門学校」の制度上の後継者たち(戦後の新制大衆大学)は,新制の「専門学校」教育上の役割より一つ上の,基本的に異なる,神聖な(?)研究機関としての役割を持った「大学」であると考えたのである。しかしこうした大衆大学における実際の教育の質はその評判に釣り合うものではなかったのである。そうした大学は専門家養成学校に比べ,「大学」という一般的偏見に満ちた優位性を保証することもなく,また,彼らが入学させた大衆に実質的に利益を与えるはずの実用的訓練・実学のプログラムを採用することも断固として否定したのであった。
3-2 教授団
1949年の新制度は,新制の大学に対し,正式な資格と学問上の実績をもつ,十分な数の常勤教授を雇用することを要求した。当然のことながら,その供給源は唯一,旧制大学であった。
母校に常勤の地位を得ることができなかった旧制大学卒業生は,新制大学に職を得たのである。そして,私立大学の教授の定年は一般に国立大学より10年長くなり,国立大学を退官した教授たちは,定年後は私立大学に「天下り」,職を得た。この教員供給のルートは,ごく一般的なものとなった。そこでこうした私立大学は,旧制大学出身の高名な人々を歓迎し,招かれた教授たちは,旧制大学の学問的な雰囲気を,新制大学に広げることになった。このことは戦後の本来の制度改革の意図とは裏腹に,戦前のピラミッド型教育システムが,基本的に維持されていたことを意味する。
言うまでもなく,最も学業の優れた若者たちは旧制大学へ入学した。一方,新制大学においては,どんな研究が実際行われたにしても,大抵は帝国大学の学生の質に匹敵し得なかった。新制の学生群は,高度に完成された学生(偏差値最上位の学生)が普通要求しない一種の個人的な指導を必要としたのだが,帝国大学の時代から旧来変わらぬ基本的な教育方式,すなわちエリート相手の教育方法は,新制大学でも,変わらず行われてきたのである。これは,言うまでもなく教育の全般的な質的結果を生むものではなかった。
3-3 教育の制度的ポリティクス
戦後,文部省の政治力はGHQによってその力をそがれた。そこで1947年7月大学基準協会が組織された。これは私的な組織で政府からは独立していたが,そのメンバーは,創立されてから5年以上経つ46大学であった。すなわち,これらの大学は旧制大学である。
同年12月,政府は学校教育法の下に大学設置委員会をつくった。これは文部省に監督された諮問機関で,大学設立の認可や学位授与に関する業務を行うものである。こうしてアメリカ的な監督システムが出来上がった。しかしこれに対しては,旧制の帝国大学も,その他の旧制大学も総じて協力的ではなかった。さらに,最初から大学基準協会では,国立大学(東大と京大)と2つの私大(早稲田と慶應)が審査対象から除外されていたのである。そのため基準審査は,新制大学だけが対象とされた。これは多くの要因によって引き起こされたのであるが,東大と京大,私学の両雄という,戦前から残る威信が,評価され審査される対象となるほどプライドを捨てることなど考えられなかったのである。ここにも旧制の序列がそのまま残存した。
一方で,GHQは初めのうち,日本の帝国主義が帝大によって指導されたに違いないと考えていたが,こうした見方は単純すぎるということが明らかになったために,アメリカは帝大に対する監視をまもなく止めてしまった。事実,戦前に軍部を批判していた旧制大学の中には,アメリカ人の手になる改革に対し,かなりの賛同の動きがあった。戦後すぐに東京帝国大学総長南原繁は制度改革の基本プランを是認した。USEMJと文部省に提出された報告書に証明されているように,これはもともと南原が原案を作成したものである。明らかにこうした帝大の人々は,敗戦後直ちに,米国の当局にむしろ寄り添っていこうとしていたのである。
しかし後に明らかになるように,学問的な民主主義の概念は,日本の大学の中に賛同者らしき存在を見つけたにも関わらず,実際の実行にあたっては,アメリカの改革者たちの目標とうまく合致しなかったのである。民主主義のレトリックは,制度上の権力を維持する道具としても使うことができるのだ。前に述べたように,この「改革」のプロセスの最初から,大学基準協会は国立の東大・京大と私大の早稲田・慶應を正式の審査対象から除外していた。その結果,民主的改革を保証することを意図した基準審査は,あろうことか新制の大学にだけ適用された。これらの旧来の「確固とした権威ある旧制大学人」たちは,高等教育の民主的運営の意味を全く理解しなかったのである。帝国主義の下,巧妙に構築された戦前の序列は暗黙の内に戦後も保持された。「学問の自由」や「大学の自治」というスローガンは,外部からの干渉なしに,既存の制度の中で,現存するシステムを維持するために使用されたのである。大学基準協会の最近の方針でさえ,「この協会の目的は,大学の自己評価を助け,そして推進させること」そして「各大学の自治と学問の自由」を守ることであるとしている。これは教育システム内部が必要とする真の改革,つまり自由競争原理に真っ向から対立するものであると言える。そうした環境の下では,制度的な自律は単に官僚支配という旧来の概念に取って代わるだけである。より定評のある威厳を持った学校が,それ以前は政府が受け持っていた機能を引き受けるということに過ぎなかったのだ。
4-1 経済成長
戦後の急速な経済成長によって,高等教育を受ける者は増加する一方であった。このことは,高等教育の大衆化への変換を予示していたが,しかし,世間一般の教育思想は,この事実に適切に対応するには,常に遅れをとる。アメリカにおいては,コミュニティ・カレッジが大衆教育を担っており,そこでは,提供されるコースの内容が,より実学的・実際的なので,教員には,研究能力よりも教える能力の方が,より要求される。他方,日本では,高等教育はこれまでずっと,多かれ少なかれ旧制大学を模倣してきた。今やこのことに関わる諸問題が明らかになってきたのだが,多くの大学関係者は,こうした諸問題を教授会がカリキュラムを再編成する訓練を受けていないこと,また,そのための,政府からの経済的支援がないという事実に原因を求める。しかし,その根底にあるのは,本来の大衆教育,すなわち,「大衆に開かれた教育」を受け入れることに対する一種の拒否反応に他ならない。それは,「大学」の「専門学校」に対する,頑固な差別意識に如実に現れている。
4-2 受験テクニックを教える学校
1960年代までに,日本の高度経済成長は,いわゆる「大学ランク付け」専門の営利事業(予備校)を誕生させた。受験テクニックを教える予備校は,大学において現実に提供される教育の質を無視して,それぞれの大学・学部へ入学できた受験生の偏差値だけを基に,大学ランキングを公表し続けたのだ。これが受験生たちの間に,否,社会全般的に,学校を選ぶにあたって最も重要なことは,入試の点数に基づく,各学部の入学の難易度であるという印象を強めることになった。学生たちの受験能力を増すために,受験テクニック伝授産業が発展した。
ここで大問題なのは,学生たちが最も学びたい学科では全くなくて,相対的な難易度のランキングに基づいて,学校を選び始めたことである。学生は,たとえば,早稲田の政経学部の入試には落ちて慶應の文学部の入試に合格すると,ためらわずに慶應文学部へ行くことを選ぶ。多くのさまざまな学部が,その学部で学ぶ内容を考慮されず,偏差値という唯一のものさしでランク付けられる。多くの学生たちはそれぞれ最も難しい学部へ入らなければいけないと考えているかの如くである。
こうした,堅固な社会構造は,会社の求人活動にも反映されている。会社は大学の入試難易度に基づいて学生を選び,大学時代に実際に習ったことにはほとんど注意を払わない。
戦前には,日本の高等教育は8つのカテゴリーに分かれていた。その分類は,学力レベルによるだけではなく,意図され厳密に計画された教育の到達目標の相違に基づいたものであった。それぞれのカテゴリーは,また3つのレベルに分けられていた。たとえば,工学の分野では,そのヒエラルキーは,帝大の工学部によって指導され,その指導は,専門学校を経過して,工業学校へと下りてきた。つまり,大学はトップの経営者や指導者を輩出し,専門学校は中間管理者を育て,そして工業学校は,現場の職長を育てたのである。
しかし,戦後,大学のカテゴリーは,むやみに拡大された。その点で新制大学卒も,旧制大学卒と,ひとまとめにされた。しかし,結果的には,新制大学卒の初任給は,数が少なかった旧制高校の卒業生のそれを越えることは少なかった。他方で,二年制の短大としての資格を取れなかった各種学校は,政府の管理を全く受けることなく,職業訓練や実業教育を行った。そして以上のことが,人々の意識の中に植えつけられた。すなわち,職業教育・実学教育は,こうした各種学校に固有の領分であると考えられたのである。「大学」は,もちろん学問の砦という世評を維持し,その一方,短期大学は,女子の教養(花嫁)学校として発展した。これが今も解決されていない制度上の三角関係を生み出したのである。
アメリカと同じく,日本の教育者の間で繰り返される議論は,経済的意味でより実用的な,技術的訓練と対比されたいわゆる「教養」教育の位置に関する例の問題をめぐるものである。日本にも,すぐれた一般教養のプログラムはいくつか存在するが,それを模倣した大半の学校では,その教育に失敗している。このことは大衆大学で特に著しい。というのも,それは頑固にも,今日の社会の真の要請というよりも,ノスタルジアにしっかりと根ざした教育哲学をもつ教授たちによって,進められ維持されているからである。こうした種類の大学は,アメリカでは,「パーティ学校」と呼ばれるが,日本では,悪名高き「レジャーランド」へと身を落としてしまったのである。
「レジャーランド」大学は無用の産物である。そして企業もこのことを理解し始めていた。その結果として,1970年代,80年代の新たな社会的・技術的要求に応えて,多くの人が私立の実業訓練・実学教育機関を設立した。1976年までに,多くの各種学校やその他無認可の学校が,同様の理由から栄え,特にコンピュータ教育はそれらの学校の間で急速に広がっていった。そこで,同年(1976年)「専門学校」が法的に再制定された。
今日,多くの学者の考えは,専門学校が「職業教育を目指す」ものであるという点で,一致している。しかし,専門学校は実際に大学が今日まで無視しつづけてきた別の側面の遂行であるという方がより適切であろう。法的に解釈すれば,専門学校の真の目的は,職業教育に限定されているとは言い難い。同じく法的に大学が,古典的となっているデューイ流の用語である,教育自身の広範な可能性に対する源泉としての,「実際的訓練」に注意を払わないでよい理由などない。
専門学校の成立には,法制度上の締めつけは比較的少ない。したがって,現実には,主として営利目的の学校が多く,教育の質を考えるところが少ないのも事実である。そのため,専門学校間の教育レベルと教員の資質には,学校により大きな開きがある。政府は普段,財政的な支援を与えていないので,専門学校を統御することができない。(政府は,財政的支援を与えている学校だけを,財政支援カットを武器に統御できるのである。)このことの主要な結果は,以下のようになる。つまり学生は,その学校を選ぶ際に,何らかの孤立した評価(偏差値ランキングなど)によるよりは,むしろ単にマーケットでの評価・評判によるのだ。それは大学によって,全体的に偏差値レベル分けされた区別によって入学の可否が決定され,学生自身の資質や希望による入学ができないことと照応すると明らかである。
専門学校に対して,この法制度上の締めつけが比較的少ないことは,利点も持っている。コース内容と学科構成は,大学よりもはるかに簡単に改訂され得るのだ。大学が新しいコースを始めるためには,文部省の審査と許可が必要であり,認可には通常2年ほどを要する。他方,専門学校は府県の認可だけで済むので,通常6ヵ月で済む。
専門学校の世界では,マーケット自身が,一種の評価機関として働いている。入学者数や志願者数は広告量によって決まることが多いという欠点もあるが,しかし,もし学生たちの就職が満足できるものでなければ,専門学校の社会的評価は影響を受け,入学者の減少に至るのである。これはまさに自由競争原理である。
1991年,大学設置基準が改定され,政府の監督はより緩やかになった。1995年には高専と短大から,大学への編入が公式に認められた。1996年には,多くの高レベルの専門学校は,短大と高専が授与する準学士と同等の専門士称号を与えることが許された。そして最後に,1998年,専門学校から四年制大学への編入が可能となった。これは,高等教育システムに対し,きわめて意義深いインパクトを与えるものである。
工業化社会の時代は終わりつつある。そして教育の多元化の時代が目前まできている。日本はもはや教育の中央集権スタイルを続けることはできない。このことは今やはっきりと認められ始めている。厳格な政府による規制に取って代わろうとしているのは,非公式的な試行錯誤のシステムであり,そこでは,各教育機関の,種々の教育戦略がテストされ,その評価は消費者に任されるのである。こうした状況の中では,ただ入学者をひきつけるために,学部の名前を変えるだけといった,多くの大学の戦略は,やがては失敗することは必定である。以下に,それを論じよう。
1998年学校教育法が改訂され,専門学校から大学への編入学が公式に可能となった。このことの意味するものは,すべての高等教育機関―大学,二年制短大,高専,専門学校―が,その提供する教育の質を基にして,お互いに競い合うことができる,ということである。1998年に,二年制短大の全国平均競争率は1.0倍を下回った。短大入学者数が,その収容能力を大きく下廻ってしまうと,さらに予想されることは,この傾向が続くならば,18歳人口の減少率を勘案すると,今後10年以内に100以上の大学が,崩壊してしまうかもしれないといわれている。(*105)その点で,最近のこの法改定は,一見すると,定員割れの大学へ多くの入学生を集める救済処置のように思われるが,それに留まらない。
9-1 「大学」という幻想
日本においては,「大学」という名詞は,高度に専門化した研究機関から,まやかしの学位量産工場まで,その概念範疇はきわめて広く,あるひとつの特定の意味というものを持つものではない。実際,東京大学と,多くの新設地方「大学」との間に共通するところはほとんどない。この意味範囲の広い名詞を使うこと自体が,この問題に関する混乱の主要な原因となっている。
問題の背景を辿ってみよう。日本の現状の高等教育制度は,一種の混合ケースとして理解できる。ヨーロッパでは,大学はエリートのための教育・研究機関であり,博士号を授与する権利をもち,進学者数は大学入学年齢人口の約10から20%である。日本のトップクラスの大学(それらは元来ヨーロッパのシステムをモデルにしている)は,同じ位のパーセンテージの入学者を受け入れている。アメリカでは,大学進学者のパーセンテージは,60%を超えるが,この理由のひとつは「ユニバーシティ」と「カレッジ」が大半の中等後教育の教育機関を含み,厳密な研究大学は,その中のごく一部でしかない,という事実である。日本では,学齢人口中の進学者の割合は,大学・短期大学と専門学校のような大学外高等教育機関をも含めると,おおよそ,アメリカのそれと同等になる。しかし,日本では経済的な要因が異なる結果を得た。すなわち,人口の90%が中産階級である日本では,アメリカとは全く異なり,政府が教育に予算を出すエリート学校への入学を決定する唯一の(大学を選ぶ際の)要素は,志願者の入学試験の点数(偏差値)なのである。
1960年代後半までの経済成長によって,大学はどの偏差値ランクであろうと,何の努力もなしに,毎年入学定員を満たすことが可能であった。このことが,そうした大学の内部に,幻想の安心感を生み出したのである。学生は社会のあらゆる階層から入学して来て,そして経済社会は次世代の求職者たちに,新しい実践訓練の需要を求め始めていたのにも拘らず,大学は相変らず,旧制の帝大をモデルにした研究大学の模倣という,自己決定した役割を遂行し続けた。既に見たように,実用に資する教育は,実際には無視され,そうした教育を提供する学校は,むしろ馬鹿にされたのである。
以上のことは,大学システムを通じて,大いなる真実であり続けたけれども,近年の経済的変化は,興味深いアイロニーを作り出してしまった。近年の学齢人口の減少は,多くの大衆大学に対し,看護教育,コンピュータ教育,国際関係学,社会福祉といった新しいプログラム―まさに「大学」が伝統的に避けてきたプログラム―を新設するように促しつつある。これは,その限りにおいて,自ら「つまらないものと考えているプログラム」を提供せざるを得ないと感じている教育機関に,我々は何も期待できないのだということを示す証拠でもある。こうしたプログラムは,基本的に,減少する入学者数を増加させるための,マーケティングの工夫に過ぎず,実用に資する訓練という点では実質的なものを何ら提供しない。しかし,今なお,多くの人が「大学」という幻想の魅力の故に,ひきつけられるのだ。
9-2 大学と専門学校
本稿では既に,一般に人々が感じる「大学」というオーラにも関わらず,政府による大学と専門学校との区別は,教育効果上,さほど異なるものではないという事実(主要な違いは不動産施設の所有の有無による)に言及した。大学教授として許認可を受けるための学問業績すら,近年はルーズになってきている。大衆大学が現在,純粋にビジネス界での経歴しかない教授たちを採用しつつある。これは,多くの人が自分たちの教育機関は専門学校のレベルまで「地位を下げ」ているのではないかと恐れるほど,大学の中では,全くもって歓迎されることのなかった変化である。
戦後GHQの指導の下,ほとんどすべての私大が,そしてそれと並んでいくつかの各種学校が「大学」として再編成された(専門学校は1976年の法令によって,再び法制化された)。しかし,そのときすでに,「ダメージ」は与えられていたのだ。つまり「大学」の概念は,絶望的なまでに混乱し,そしてこのことが,それ以後,危険な誤用に大いに作用することになった。というのは,一方で「大学」は現在まで一般に向上心に燃える大衆のためのナチュラル・ホームとみなされてきたが,他方,大学の教授たちと経営者たちは,大量の入学者たちから利益を得ながら,こうした大衆が要求している種類の教育をなお,馬鹿にし続けてきたからである。
典型的な大衆大学や専門学校のウェブサイトを読むだけで,大衆向け教育の質の貧弱さに気付くことができる。今日よく目につくのは,情報技術教育を提供すると称する大学・学校が,10代のコンピュータマニアを当惑させるようなお粗末なウェブサイトを作っていることだ。明らかに,こうした学校は,コンピュータサイエンスの分野で提供すべき何物をも持っていない。あるいはまた,看護訓練においてもトップクラスの専門学校が,ウェブサイトを改良しようとしないということも見られる。
学校は,それ自身の歴史によって醸し出された,独自の文化をもっている。しかし,このことはこの20年間まさに無視され続けてきた。ビジネスマンが,大学教育の悲惨な質に我慢できなくなり,多くの新しい「大学」を簡単に創ってきた。彼らは,物質的な施設を得て,人を入れれば,学校の文化など容易に発生すると考えている。伝統的な専門学校における教育の質は大抵,そうした新しく急いで創られた大学よりも良質のものであるのだが。
しかし,ここに専門学校の抱える危険性がある。というのは,多くの専門学校が,今なお「大学」の名前のもつ魅力に惹かれているからだ。大学認可を得るためには,実質的な土地所有が必要であり,専門学校にとっては,尊敬すべきタイトルが与えられるために不動産の収集を目指し,財源をすっかりはたくという,誘惑に駆られることになる。《学生数増加という》短期的利益は明らかであるが,長期的に見れば,財源を高価な不動産に投資しなくてはならないことは教育の質を損なうことしかできないのだから,悲惨な結果を生むのは必定である。そもそも,教育の質はマスプロの講義や高価な土地取得によるものではなく,高度な質の教員たちと情報関連の設備に依存する。(日本では,大学の講義室は普通100人かそれ以上の学生を収容し,コンピュータ設備はひどく貧弱で,1998年時点でも,多くの大学で,まともなインターネットアクセスさえできていない)。大学の認可を得るために形式的な要求を適えることに使われる財源は,その代わりに上質の教育という真の要求に応えるために支出されるべきなのだが。
9-3 法改訂のインパクト
専門学校から大学への編入を認める新しい制度は,実際,専門学校生から,大学生の地位へ「上昇」しようとする学生の意思に応じるものである。その利点は,学生たちが正規の面倒な大学入学試験をパスしなくても,制度上の変更が可能となるということである。(編入にあたっては,学生がパスしなければならないのは,《いわゆる受験勉強ではなく》高校以来やってきた勉強に基づく,その専門分野の試験だけである)。これは特に,より狭い学術分野に高度に集中した才能を持つ学生に対しては,適切な対処策である。そのような学生たちは,最終的に彼らの得意分野に最も近い試験をパスすることのみによって,大学教育を受けることができるようになる。これはまた明らかに,大学の経営という観点から見て,学生数を増すことにもなる。この改訂までは,大学は,すべての入学者が高卒向けの入学試験にパスしなくてはならなかったため,多数の有望な学生を入学させることができなかった。
また,この政策により,ある意味で専門学校がアメリカの単科大学(カレッジ)と制度上類似のものになる。アメリカでは,そうしたカレッジはしばしば著名四年制大学に入るための手段と見られている。現在の日本の大学と専門学校との階層構造において,専門学校が受験テクニックを教える予備校に成り下がるのではないかと危惧する人もいる。しかし,この危惧にはもちろん根拠がない。このルートを通って大学へ入学する学生たちは編入学制度がなかった時と同じく,専門分野について長けているはずだからである。そして専門学校が立派に果たしてきた社会的なニーズ,すなわち大学が今も無視し続けている実践教育分野での教育はそのまま残るだろう。
これらすべてが意味することは,今後高等教育機関はお互いに健全な競争に投げこまれつつあるということである。これはシステム全体に利益をもたらすことのできる良き成果に他ならない。
大学という世界的概念と対照的に,専門学校は日本に独特な制度であり,かつその法制度的位置付けは,しばしば変化してきた。これが法制度上の明確な位置付けと世間一般の評価との間で,いわば波間に漂う小舟のような状況を作り出してきた。そして,この事実が本来の専門学校の使命とは何かという疑問に対して,法制度的な意味においても,また,世間一般の人々の心の中にも,ある種の混乱を引き起こしてきた。しかし同じ混乱は,大衆大学における理論と実践との間の深刻なギャップにも反映されている。そうしたどっち付かずの大衆大学に対する評価は,最終的に実際に彼らが提供している教育の,現実的な結果によって証明されるだろう。
専門学校の,日本の教育の歴史における位置付けは,徐々に明確になってきた。そして最近の法改正はそれをより強固にするであろう。大学と明確に分離する従来の政策は,実際に高等教育システム全体を統合されたものとして扱う方法に,取って代わりつつある。
今,優良専門学校が現行の教育現場にもたらすものは,以前から変わらず提供してきた,本質的な教育の「品質」に他ならない。専門学校はすなわち,最も良い意味で,教育的実験のフィールドである。そこでは,カリキュラム改革が,中央政府の承認を待つ必要もなく,移り変わる社会の諸要請に対し,頑固な役人たちや浮世離れした「大学人」たちの関与する機関に遥かに先立って,「社会的に認められる」からである。
(*1)「高等教育」機関とは,ここでは大学,短期大学,高等専門学校,学位を授与する専門学校を含む。いずれの学位も授与しない他の中等後教育機関は含まない。
(*2)「専門学校」を翻訳するならば,次のようにいくつかに言い表すことができる。すなわち“Special Course School”,“Special Training School”,“Professional School”,“Special Course College”あるいは“Vocational School”である。
(*3)ここでの高等教育機関とは,学士,あるいは準学士のような学位の称号を授与する大学,短期大学,高等専門学校,専門学校をさす。各種学校は除く。(文部省 1995年)
(*4)京都大学藤井康雄助教授 1997年
(*5)京都大学藤井康雄助教授 1997年
(*6)From Dependence to Autonomy - The Development of Asian University, edited by Altbach, Philip G., and Selvarantnam, Viswanathan. 1989. p48
(*7)Shigeru Nakayama, Western Impact against Japan's Higher Education, included in: From Dependence to Autonomy - The Development of Asian University, edited by Philip G. Altbach and Viswanathan Selvarantnam,1989
(*8)大久保利謙『日本の大学』玉川大学出版部,1997年(初版は1942年)
(*9)大久保利謙,前掲書
(*10)牧野澄夫「情報の天才―空海という人」,『アキューム第6号』(1995年2月)京都コンピュータ学院アキューム編集部
(*11)足利学校の設立由来は明らかとなっていない。石川謙『日本学校史の研究』日本図書センター,1997年
(*12)石川謙『日本庶民教育史』(所収:日本国学監デイビッド・マレー 1929年)
(*13)石川謙,op. Cit.
(*14)国学は,儒教や仏教がもたらされる以前の日本古来の思想について研究する学問である。
(*15)石川謙『日本教育の研究』1977年
(*16)大久保利謙,前掲書
(*17)Samuel P. Huntiongton:The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, 1996(邦訳『文明の衝突』鈴木主悦訳,集英社,1998年)
(*18)Samuel P. Huntiongton, 前掲書
(*19)Philip G.Altbach,Patterns in Higher Education Development ― Towards the Year 2000―, included in, Higher Education in An International Perspective―Critical Issues, edited by Philip G.Altbach,International Bureau of Education,1996
(*20)永井道雄『近代化と教育』東京大学出版会,1969年
(*21)Clark Kerr, The Uses of University, Harvard University Press. 1995 (p152jp)
(*22)Willam K. Cummings,Education and Equality in Japan,Princeton University Press 1980(邦訳『ニッポンの学校-観察してわかったその優秀性-』友田泰正訳,サイマル出版会,1981年)
(*23)Ruth Benedict,The Chrysanthemum and the Sword,1946,reprinted 1989,Houghton Mufflin
(*24)Burton R.Clark, The Higher Education System, 1983
(*25)Nakayama, Shigeru, Western Impact against Japan's Higher Education, included in: From Dependence to Autonomy - The Development of Asian university, edited by Philip G. Altbach and Viswanathan Selvarantnam,1989
(*26)同年12月に,大学校は「大学」と改称され,開成学校は「大学南校」と改称された。そして医学校は「大学東校」と改称された。
(*27)2つの学校はさらに改称され,南校は「第一大学区第一中学」,東校は「第一大学区医学校」となった。1874年にはまたさらに「東京開成学校」と「東京医学校」とに改称された。
(*28)大久保利謙,前掲書
(*29)Modern and Current Japan’s Education History, Citizen’s Education Lab,1973,Soubo Bunca
(*30)大久保利謙,前掲書
(*31)天野郁夫『高等教育の日本的構造』玉川大学出版部,1986年
(*32)『東京帝国大学50年史』東京大学出版会,1920年
(*33)天野郁夫,前掲書
(*34)天野郁夫,前掲書
(*35)デビッド・マレーは,Rutgers Collegeの学長であり,The Alfa Beta Kappa Societyの創立者の一人である。
(*36)永井道雄,前掲書
(*37)Kerr, Clark, The Uses of University(4th Edition), Cambridge, Harvard University Press, 1996
(*37-2)Clark, R., Burton,The Higher Education System, 1983
(*38)大久保利謙『日本の大学』玉川大学出版部
(*39)ただし,予算をともなう教育財政に関しては,法律によった。
(*40)Altbach, G.,Philip,From Dependence to Autonomy - The Development of Asian university, edited by Altbach, G.,Philip, and Selvarantnam, Viswanathan. 1989
(*41)永井道雄,前掲書
(*42)『早稲田大学八十年史』
(*43)Clark, R., Burton,The Higher Education System, 1983
(*44)改正条約:領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復がなされた。
(*45)文部省内教育史編纂委員会編「明治以後教育史 江戸発達史」1941年
(*46)天野郁夫『高等教育の日本的構造』玉川大学出版部,1986年
(*47)天野郁夫op. Cit.
(*48)天野郁夫op. Cit.
(*49)天野郁夫op. Cit.
(*50)天野郁夫op. Cit.
(*51)天野郁夫op. Cit.
(*52)天野郁夫『旧制専門学校論』玉川大学出版部,1993年
(*53)天野郁夫op. Cit.
(*54)日本帝国第五回統計年鑑,文部省年報
(*55)天野郁夫『近代日本高等教育研究』 p.34.
(*56)天野郁夫op. Cit.
(*57)『早稲田大学八十年史』
(*58)『早稲田大学八十年史』
(*59)天野郁夫『近代日本高等教育研究』
(*60)天野郁夫『旧制専門学校論』玉川大学出版部,1993年
(*61)天野郁夫op. Cit.
(*62)天野郁夫『近代日本高等教育研究』
(*63)T.J.Pempel, Patterns of Japanese Policy Making p.30.
(*64)Clark, R., Burton,The Higher Education System, 1983
(*65)天野郁夫『高等教育の日本的構造』玉川大学出版部,1986年
(*66)Clark, R., Burton,The Higher Education System, 1983
(*67)「天皇陛下恩賜の銀時計」明治32年から大正7年まで,明治天皇の学問奨励策として帝国大学や学習院などの首席卒業生に対して銀時計が贈られた。小島健司「恩賜の銀時計」日本福祉大学 研究紀要78号,1989年
(*68)Altbach, G.,Philip,From Dependence to Autonomy - The Development of Asian university, edited by Altbach, G.,Philip, and Selvarantnam, Viswanathan. 1989
(*69)Orr, T., Mark, Education Reform Policy in Occupied Japan, 1954, Japanese Translation,占領下日本の教育改革政策,土持ゲーリー法一訳,玉川大学出版部
(*70)寺崎他『学校の歴史』第一法規 第一巻
(*71)中内敏夫『近代日本教育思想史』国土社,1973年
(*72)Gary, H. Tsuchimochi, 『新制大学の誕生』 玉川大学出版部,1996年
(*73)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit.
(*74)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit.
(*75)天野郁夫, op.cit.
(*76)天野郁夫, op.cit.
(*77)寺崎他『学校の歴史』第一法規 第四巻
(*78)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit.
(*79)第二章第二節6.6-4
(*80)倉内史郎『専修学校の役割の検討』教育学研究,1980年
(*81)第89条 公の財産の利用の制限 「公金その他の公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のため,又は公の支配に属さない慈善,教育若しくは博愛の事業に対し,これを支出し,又はその利用に供してはならない。」
(*82)天野郁夫, op.cit.
(*83)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit.
(*84)1953年,山口県教職員組合編「小学生日記」「中学生日記」の欄外に講和条約批判,反資本主義,社会主義賛美などの記載があり,岩国市教育委員会が回収を決定した「山口日記事件」,また,京都市立旭丘中学校において,生徒に政府の攻撃,親への反抗,労働歌を歌わせるなどの教育に対して,1953年父兄が改善を要求して陳情した「京都旭丘事件」などがある。
(*85)荻原克男『戦後の教育行政構造』勁草書房,1996年
(*86)戦後日本教育資料集成,第七巻p77-98
(*87)戦後日本教育資料集成,第七巻p77-98
(*88)戦後日本教育資料集成,第七巻p77-98
(*89)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit. p258
(*90)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit. p255
(*91)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit. p255
(*92)永井道雄『学校教育制度の硬直化』三一書房,1983年
(*93)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit. p265
(*94)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit. p265
(*95)韓民op.cit.
(*96)喜多村和之「大学設置・評価の研究」飯島宗一,戸田修三,西原春夫,東信堂,1990年
(*97)ニューヨークとカリフォルニアの設置基準を参考にした。「大学設置・評価の研究」飯島宗一,戸田修三,西原春夫,東信堂,1990年,A Handbook of Accreditation 1990-92, A Guide to Self-Study for Commission Evaluation 1990-92, A Manual for the Evaluation Visit 1990-92, by Western Association of Schools and Colleges, and, New England Association of Schools and Colleges,.
(*98)天野郁夫『高等教育の日本的構造』p58
(*99)The History of KCG, Accumu(periodical)1987, http://www.kcg.ac.jp/acm/accumu.html , http://www.kcg.edu
(*100)Cohen and Brawer, The American Community College, 1996
(*101)Boyer, L. Ernest, College: The Undergraduate Experience in America, 1987, Japanese translation.
(*102)文部省学校基本調査
(*103)Japanese Government Policies in Education, Science, Sports and Culture 1996, Ministry of Education,
(*104)Gary, H. Tsuchimochi, op.cit
(*105)立命館大学の中村忠一教授によると,282大学が2004年までに倒産・経営危機に陥るという。SAPIO 1999年10月27日号
日本教育制度史 森秀夫 学芸図書 1991年
日本教育史 堀松武一・入江宏・森川輝紀 国土社 1985年
日本近代教育小史 仲新・伊藤敏行 福村出版 1987年
改訂近現代日本教育小史 国民教育研究所編 草土文化社 1990年
高等教育の日本的構造 天野郁夫 玉川大学出版部 1986年
近代日本高等教育研究 天野郁夫 玉川大学出版部 1998年
他脚注の文献等
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Revised:May 1, 1999