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Accumu Vol.25

音楽を聴く楽しみについて

京都情報大学院大学 教授
中村 行宏

1 はじめに

この度,私が柄にもなく音楽について書くことになったのは,京都コンピュータ学院 京都駅前校(京都情報大学院大学 京都駅前サテライト)に大変「音のよいホール」があること,そしてそのホールのステージに素晴らしいピアノが常設されており,教育の一環として様々なコンサートが開催されていて,これに私が感動したことがきっかけになりました。

コンサートを聴いて「心地よいなぁ」と感じるホールを「音のよいホール」と書きましたが,日本では東京の赤坂にあるサントリーホールなどはそう感じます。世界的に音のよいホールとして知られていて,私も聴いたことのあるホールに,ウィーンのムジークフェラインザール,ミュンヘンのガスタイクホール,アムステルダムのコンセルトヘポウなどがあります。これらホールにおける満席時の残響時間は,ほぼ等しくて約2秒(500Hz)と報告されています。(注)

そして本学の大ホールの残響時間は,1.1~1.5秒(500Hz)の間で用途に応じて制御できるようになっています。ステージの大きさが,フルオーケストラには小さいが,室内楽には適した大きさなので,上記の残響時間が「心地よく聴こえる」のでしょう。

この大ホールは,上記,欧州の名ホールの音響実測調査をされた神戸大学名誉教授の前川純一氏の協力を得て設計されました。ピアノや,ヴァイオリンなどのコンサート,小編成の室内楽に対してよい響きを持ち,かつ入学式などの講堂としての機能も充分果たせるよう考慮されたとのことです。

一方,この大ホールに常設のピアノについても,常々私は,「よい音だなぁ」と感じていたのですが,2017年5月に米田貞一郎先生の追悼コンサートで演奏してくださったピアニストの長谷川美沙さんから次のような感想を聞きました。

「ITを教える学校に,このスタインウェイのフルコンサートグランドが備えてあったのを見て大変驚きました。このフルコンサートは,一番響きもよく,鍵盤の弾き心地がいいことでよく知られていますが,大変高価なので,音楽大学以外でこのピアノを置いている学校は見たことがありません。音が出ればよいということで,そこそこのものを設置してあることがほとんどです。

学校にこのピアノがあることで,学生の皆さんに,本物に触れさせたいとの教育方針を持たれていることを強く感じました。また,大ホールの素晴らしい響きも同様です。やはり,若者を育てるということは,何事でも,本物に触れさせ,感じさせ,刺激を与えなければならない,とお考えなのでしょう。ITだからといって,コンピュータや情報だけを重んじるのではなく,学生たちに普遍的な「本物」を伝え,味わわせる努力を払われていることに大変感動しました」

また,ITによる舞台芸術創出の講義を担当しているニッツァ・メラス教授と学生たちによる多彩なアート融合コンサート「MUΣA(ムーサ)」も,この最先端教育の一環として,2014年10月にこの大ホールにおいて開催されました。ニッツァ・メラス教授は,有名な「シルク・ドゥ・ソレイユ」のメインボーカリスト3人のうちのひとりとして活躍しておられ,この取り組みを通じても学生たちは「本物」に触れることができるのです。

では以上を導入部として,音楽を聴く楽しみについての全くの私見を回想風に書くことにいたします。

京都コンピュータ学院 京都駅前校大ホールとピアノ(ルッツ・レスコヴィッツ氏と長谷川美沙さん)
京都コンピュータ学院 京都駅前校大ホールとピアノ(ルッツ・レスコヴィッツ氏と長谷川美沙さん)

2 クラシック音楽との出会い

小さいころから音楽は好きだった。小学校,中学校の音楽の時間は楽しみで,授業で習う文部省唱歌も少しも嫌ではなかった。詩もメロディも美しいこれらの歌を言葉遣いが旧いなどの屁理屈で,学校で子供たちに教えないようになって久しい。実に愚かなことである。

一方,中学から高校にかけては,プレスリー,ポール・アンカ,コニー・フランシス,ベギー・マーチ,そしてビートルズなど,海外から入ってくる,いわゆるポピュラーソングをよくラジオで聴いたものだ。トランジスタ・ラジオが普及し始め,小さな音でラジオを聴きながらの勉強が可能になった走りである。

あの頃の日本は,今の若者には想像もできないほど貧しく,物質的には恵まれていなかったが,この国は必ずよくなっていくという空気に包まれていたように思う。明るかった。中学・高校時代を過ごす昭和30年代後半のころである。

京都の西京高校に入学して,田辺藤太郎先生から,「音楽」を教えていただいた。「グレゴリオ聖歌」からシェーンベルクまで,時にはレコードを聴かせて理解を深めてくださった。今思えば,若い我々生徒に,手を抜かず情熱を持って,音楽の楽しさを実に誠実に大らかに教えてくださった。田辺先生は,東京音楽学校(現在,東京芸術大学音楽学部)で作曲家の團伊玖磨さんと同級生だったとのこと。

この授業に触発されて,レコードが欲しくなり,初めて購入したのが「新世界交響曲」である。田辺先生に相談したら,「まだ小僧だが,切れの良い指揮をするし,録音も新しいから」と言って推薦してくださったのが,カラヤン/ベルリン・フィルのLPであった。これは彼らの初来日の興奮も冷めやらぬところで発売された新譜で,「新世界」と「モルダウ」がカップリングされた世界初のレコードであった。当時,家にはナショナルの電気蓄音機があり,このLPを文字通り擦り切れるまで聴いた。

3 フルトヴェングラーのこと

通常は,NHKの「名演奏家の時間」などのラジオ放送を楽しんでいたのであるが,ある日,演奏の力というものを実感することになる。それまで「運命」といえば,ライナー/シカゴ響,マルケヴィッチ/コンセル・ラムルー管などの金管が高らかに鳴る,力強い音の演奏がよいと思っていたが,フルトヴェングラー/ウィーン・フィルの演奏を聴いて仰天してしまった。何と大きくて,豊かで,かつ気高い音楽なのだろうと。これが,外面的迫力,録音の良し悪しを超えた演奏の力を認識した最初である。彼の演奏が放送されるのを追いかけていた高校,大学入学のころ,彼の没後10周年を記念して発売された「フルトヴェングラー全集」(エンジェル),引き続く「フルトヴェングラーの遺産」(グラモフォン)を,貯金をはたいて購入するまでにのめり込んでいった。当時LP1枚でさえ高価であったので,これら全集は学生の身分にとってはとても大きな買い物であった。

後者には,フルトヴェングラーの自作自演の「交響曲2番」を始め,初リリースの録音が含まれており,その中に身震いするような「運命」が入っていた。彼がドイツに留まってナチスに協力したとの戦犯容疑を解かれ,戦後,晴れて指揮することを許された最初のベルリン・フィルとのコンサートは,1947年5月25日,26日,27日,29日にベルリンのティタニア・パラスト館で開催された。この事実は,クルト・リース著「フルトヴェングラー/音楽と政治」(みすず書房)を読んで知っていたが,この歴史的コンサートにおける5月27日の記念碑的なライブ録音が,この全集に収められていた「運命(とエグモント序曲)」であったのだ。

これは,重い歴史を背景に,情熱と崇高な精神が一点に凝縮されると,人間の精神活動がどれほどの高みに到達するかを示す証のような演奏である。このディスクとの出会いは,私の人生にとって正に「事件」であった。

京都大学へ入学して,このLPを,演奏者の名前を伏せたまま,京大オーケストラでホルンを吹いている同級生に聴かせたところ,「技術はアマチュア的だが,何か凄い演奏だね」と感極まった顔をしていた。確かに,如何にベルリン・フィルとはいえ,戦時中は楽器ではなく鉄砲を持たされていた人もいただろうし,アンサンブルが乱れるところは多々あるが,その技術的欠陥をものともせず迫ってくるこの異様な力は何だろう。造形がいかに崩れていようと,ベートーヴェン自身の演奏を聴いているのだという不思議な存在感を感じていた。

このLPは正に宝物であったが,今ではCD化され,クラシック音楽ファンなら知らぬものがない録音になっている。

ちなみに,このLPを聴かせた友人とは,卒業後,それぞれ企業に就職し,ともにシステム開発を経験して,一昨年,私が本学に勤務することになって再会し,現在,共に教鞭をとっている今井恒雄教授である。音楽による不思議なご縁を感じている。

なお,上述のクルト・リースの著書を訳しておられたのは,図らずも京大の教養学部でドイツ語を教えていただいた芦津丈夫先生である。お願いしたら,原書を持ってきて授業の後でみせてくださった。先生はフルトヴェングラー夫人とも面識があり,その後,「フルトヴェングラー」(岩波新書)を執筆されている。

4 オーケストラとホール

私がオーケストラの生演奏を聴いたのは,やはり高校時代であり,成長期の京都市交響楽団であった。残念ながら初代の常任指揮者チェリウスの指揮は聴けなかったが,カウフマン,森正,外山雄三は聴けた。大学生になって京響友の会に入ってからは,森正・田中千香士(コンサート・マスター)時代の演奏は殆ど聴いたと思う。この頃,夏になると京響は,市内の小学校のグラウンドを舞台に,市民のための巡回コンサートを開いてくれた。屋外の,同じ平面で,至近距離で聴くオーケストラの音には新発見が一杯であった。まず,各楽器のバランスが違う,聴き知った曲の意外なところで意外な楽器が音を出している,とにかく楽器の音がバラバラに聴こえて,実に面白い体験であった。演奏する楽団員は大変だったろう。京響の音量増強の訓練効果があると聞いた覚えがあるがどうだっただろうか。

このような訳で,私が最も多くコンサートを聴いたホールは,京響のホーム・グラウンドであった京都会館第一ホール(現在,ロームシアター)である。このホールでは,京響の他に,クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団のラベル,ショルティ/ウィーン・フィルのティル,リリー・クラウスのK.331,シフラのリストなど数々の思い出深い演奏を聴いた。ここは決して音響特性のよいホールではなかったが,懐かしさでは一番である。

次によく通ったのが,大阪・中之島のフェスティバル・ホールである。大阪国際フェスティバルに招かれた,オーマンディ/フィルラデルフィア管,カラヤン/ベルリン・フィルなど,また初来日したサバリッシュがN響を指揮したコンサートなどを聴いたが,何と言ってもこのホールで経験した圧巻は,昭和42年(1967年)4月のバイロイトの引越し公演である。これは,過去二度しか実施されていない,バイロイト音楽祭の海外公演の貴重なひとつであり,オーケストラをNHK交響楽団が務めた以外は,舞台の裏方までバイロイトからやってきたのである。ワーグナーの孫のヴィーラント・ワーグナーが演出し,暗くて抽象的で深遠さを感じさせる有名な舞台を作るのに,大阪の木材の価格を高騰させたと言われたほどの見事なものであった。ニルソン,ヴィントガッセン,シリア,デルネッシュ,トーマスなどのワーグナー歌手による「トリスタン」も「ワルキューレ」も本当に素晴らしかった。余談になるが,歌手たちは,当時,ホールと同じビルにあった大阪グランドホテルに宿泊していたのであるが,そのロビーでサインをもらったときのこと,舞台では,ブリュンヒルデを演じて,あんなに細っそりと,可憐に見えたソプラノ歌手のアニア・シリアが,優に180㎝は超えた,いかり肩の女丈夫であったのに驚くとともに,こうでなくては,あの長大な楽劇を支えるワーグナー歌手は務まらないと納得した次第である。

この学生の頃に体験し,間違いなく私がこれまでに聴いた最高の演奏と言えるのは,昭和38年(1963年)10月,東京・有楽町に設立された日生劇場のこけら落としでのベルリン・ドイツ・オペラ公演「フィデリオ」である。初めて聴いた本格的な男声合唱の迫力の凄かったこと,ルートヴィッヒ,キングなどの歌手たちのうまかったこと,そして何よりも,オーケストラと歌手たちを指揮して,ベームが作り上げたベートーヴェンの世界が感動的であったこと,夢見心地のうちに終わってしまった。幕間に演奏された「レオノーレ第3番序曲」,緊張感に満ちた,ハガネを感じさせる強靭な音を今でも思い出すことがある。

この日生劇場は,演劇などにも使用する多目的ホールであるが,大変音響はよかった。私の席はかなり上段の右奥という悪い条件であったが,舞台上の小さな音から全合奏まで,融け合った音が実に豊かに美しく響いていたのが印象深い。チケットより高価な乗車賃を払い,翌年開催の東京オリンピックのために開通して間もない東海道新幹線に乗って掴むことのできた至福であった。

以上,昭和30年代後半から昭和40年代前半まで,故郷の京都でクラシック音楽に出会って,その楽しみを知った過程を思い出しながら述べた。

5 その後

昭和44年(1969年),電電公社(現NTT)の電気通信研究所に就職して,NHK交響楽団の定期会員になるなど,従来と同様,コンサートにはよく通った。N響の会員になったので,内幸町の旧NHKホール,上野の東京文化会館,渋谷の現NHKホールは懐かしく,またサントリーホール,池袋の東京芸術劇場,横浜の神奈川県民ホールなどにもお世話になった。これらのホールで数多くの演奏を聴いたが,ムラビンスキー/レニングラード・フィル,クライバー/ウィーン・フィル,チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル,ブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレなどが心に残っている。

また,国際会議などで出張の機会も増え,ウィーン,ザルツブルグ,ミュンヘン,ドレスデン,バンベルグ,プラハ,ロンドン,アムステルダム,パリ,ミラノ,そしてニューヨークのメトロポリタンなどでのコンサートやオペラを経験できたことは大きな喜びであった。

そのお陰で,ベートーヴェンが遺書を書いたことで知られているウィーン郊外のハイリゲンシュタットやモーツアルトの故郷で,サウンド・オブ・ミュージックでも知られたザルツブルグなどの街並みを思い浮かべながら彼らの音楽を聴いているうちに,正に夢み心地で眠り込んでしまうというような幸せを享受している。ザルツブルグと言えば,2006年8月,偶然立寄った折,モーツァルト生誕250年を記念して開催されていたザルツブルグ音楽祭を聴けるという幸運に恵まれた。祝祭大劇場で演奏されたハーディング/ウィーン・フィルによる「ドン・ジョヴァンニ」であったが,これも印象深い一曲である。

これらの演奏の一つ一つについて書き出したらきりがないので,思い出の写真を少し添付する。

チェリビダッケと(ドイツ大使館)(1990年)田園交響曲の「小川のほとり」(ハイリゲンシュタット)ザルツブルグ音楽祭 祝祭大劇場にて(2006年)
ゼンパーオーパー(ドレスデン)(2014年)
  1. チェリビダッケと(ドイツ大使館)(1990年)
  2. 田園交響曲の「小川のほとり」(ハイリゲンシュタット)
  3. ザルツブルグ音楽祭 祝祭大劇場にて(2006年)
  4. ゼンパーオーパー(ドレスデン)(2014年)

平成8年(1996年)に母校京都大学へ戻ってからは,あらためて京響友の会に入り,今や一流となった京都市交響楽団が,大友直人さんや広上淳一さんらの指揮の下で奏でる演奏を楽しんでいる。現在,京響の本拠地である京都コンサートホールの音響もよく,NTT横須賀研究所に勤務していた頃は,電車を乗り継いで,片道1時間半,ときには2時間かかったコンサートに,30分で通える京都は本当に有難い。

コンサートのあと広上さんを囲んで(京都コンサートホール)
コンサートのあと広上さんを囲んで(京都コンサートホール)

そして冒頭で述べたように,本学には素晴らしいホールがあり,様々なイベントのひとつとして,2015年7月には本学のサイバー京都研究所開設記念のコンサートが開かれた。演奏したのは,ミュンヘン・フィルの首席バスーン奏者を務めたエーデルマン氏とその夫人であり,彼らは1987年8月にバークレーで知り合って以来の友人である。これも音楽がもたらしてくれたご縁である。

サイバー京都研究所開設記念コンサートの案内(2015年)
サイバー京都研究所開設記念コンサートの案内(2015年)

6 むすび

高校での恩師に導かれて音楽の素晴らしさを知り,生活の一部として音楽に親しむことになったあれこれを,思い出すまま,とりとめもなく述べさせていただきました。つたない独白をお許しください。

ハイリゲンシュタットには,ベートーヴェンが交響曲第3番「英雄」の作曲に取組んだ家も残っていますが,その「英雄」の名演としてやはりフルトヴェングラーがベルリン・フィルやウィーン・フィルを指揮した「意味や精神性一杯」の録音が残っています。音楽のなくなった国に国民を残しておくにしのびないとドイツに踏みとどまった彼の心が迫ってくるようで,今も大きな感動を覚えます。一方,ムッソリーニのイタリアに留まることはできないとして米国へ亡命した大指揮者トスカニーニがNBC交響楽団と演奏した録音も残っています。彼は,ファシズムに対してフルトヴェングラーとは反対の行動をとりましたが,この交響曲第3番についても「誰かにとってはナポレオンかもしれないが,私にとっては,アレグロ・コン・ブリオである」と語ったと言われています。フルトヴェングラーとは真反対で,テンションの高い,推進力一杯のトスカニーニの演奏にも大変感動します。

同じ楽譜をもとに,100人の奏者が一丸となって,一瞬にして空間に消えてゆく音に命を懸けて演奏しています。しかし,上記のふたりの大指揮者にみるように,そのアプローチも結果も大きく異なるにもかかわらず,いずれも深い感動をもたらしてくれる時間・空間に身をおくことがあるのです。このような事実が単純に面白く,興味深いことも,私が音楽を聴く楽しみのひとつであり,理由でもあります。

形而上学の更に奥にある,この音楽という精神領域での散策を日常的なものにしていることにより,どれだけ豊かな心を持って生きることができているか計り知れません。これからも私の生活に潤いを与え,支え続けてくれるでしょう。私にこのような世界を持たせてくれたあらゆるものに感謝して筆をおくことと致します。

参考文献

(注)「ヨーロッパのコンサートホールの音響に関する実測調査(第一報)ー通常の方法による測定結果ー」

  • 橘 秀樹(東京大学生産技術研究所)
  • 山崎 芳男(早稲田大学理工学部)
  • 森本 政之(神戸大学工学部)
  • 平沢 佳男(オンキョー(株))
  • 前川 純一(神戸大学工学部)

日本音響学会誌43巻2号(1987)

この著者の他の記事を読む
中村 行宏
Yukihiro Nakamura
  • 京都情報大学院大学教授,京都大学名誉教授,工学博士,京都大学工学部卒業,同大学院修士課程修了(数理工学専攻)
  • 元京都大学大学院工学研究科教授,同情報学研究科教授
  • 元立命館大学総合科学技術研究機構教授
  • 元日本電信電話株式会社情報通信研究所知識処理研究部長
  • 同高速通信処理研究部長
  • 元公益財団法人京都高度技術研究所(ASTEM)副理事長・所長
  • 元IEEE関西支部長,IEEEフェロー
  • NPOパルテノン研究会理事長,京都府情報政策有識者会議委員

上記の肩書・経歴等はアキューム25号発刊当時のものです。