デルといえば知らない人のいない世界的なコンピュータメーカーだ。植田和成さんはそのデルの日本法人の営業担当部長として,販売の第一線で日々戦っている。プロフェッショナル中のプロフェッショナルと言うべき植田さんだが,意外なことに昔はコンピュータ少年ではなかったという。「未知の世界に魅力を感じ入学しましたが,優等生ではなかったですね。KCGの授業も正直,難しいと感じました」。
特に入学して間もなくはコンピュータそのものより,ベクトルなどの数学の座学が多かったという。「最初1~2ページは分かるんですが,急に難しくなるんです。苦労しました」。一方で5~6人のグループでコンピュータのキットを組み立てる授業もあった。「記憶媒体はハードディスクではなく,ミュージックテープでした。隔世の感がありますね」。
植田さんの学生時代の思い出は,やはりなんといっても同級生との交流。植田さんは1時間半かけて自宅から通っていたが,学校の近くに下宿している同級生が多かったので,よく遊びに行った。「同級生でお金がなくて食べるものがないようなやつがいると,だれかの家で鍋をするんです。聞きつけてお箸だけ持ってくる友達もいました。四条河原町の食べ放題の店にもよくみんなで行きました。お腹を空かしていくんです。お店にとっては迷惑だったと思いますが」。昔から変わらない「学生に優しい町・京都」の青春だった。
卒業後,植田さんは大手造船会社の系列のコンピュータ関連企業に就職する。それも志望してというよりは「当時,学院に来る求人はコンピュータ関連ばかりだった」からだ。その会社では設計データの入力装置として光学式文字読み取り装置(OCR)を開発していた。植田さんも新入社員として開発の第一線に立った。2年ほどして完成し,「せっかくできた機械を外部にも売ろう」という方針で営業強化が打ち出される。植田さんも開発から営業担当に変わった。そこから植田さんの,今日まで続く営業人生が始まった。時は1983年。バブル景気の足音が近づいていた。
「働く場所は東京に変わりました。OCRはかなりの高額商品で,受注生産でしたが,景気がよかったのでよく売れました。数年後,コンピュータメーカーの営業として転職しました。その後,同じ業界内で何社か転職をして,今の会社に入りました」。
植田さんが営業の最前線で戦っていた30年の間の変化は巨大なものだった。「汎用機の時代が終わって,パソコンの時代になりました。今は『安くて高性能』は当たり前で,市販のコンピュータをうまくつなげば,スーパーコンピュータ並みの性能を得ることもできます。コンピュータメーカーにとっては,技術力をアピールしても企業を支えられるようなビジネスにはならないんです。品質面では差はあまりない。そうした中で,決め手は価格と,複雑化するお客様の業務をいかにサポートするかです。ソリューションということですね」。具体的にはどういうことなのだろうか。
「私たちの仕事は,基本的には納品してしまえば終わりです。ところが,お客様はそこからなんですね。買った機械を基にシステムを作っていかなければならない。いったんシステムが完成してもすぐに陳腐化しますから,作っては壊し,作っては壊しを繰り返して,システムを進化させていきます。企業は決して歩みを止めない。コンピュータメーカーとしてはその変化を見越した提案が求められます。そうして5~7年に1回の買い替え需要を確実にものに していくことですね」。
そんなコンピュータ営業のプロフェッショナルにとって,KCGでの日々は今,どのような意味を持っているのだろうか。「コンピュータの本当の基礎というのは就職してからでは学べません。初歩的なところを丁寧に教わったということが,後になってみると生きていると思うことは多々あります。それから,ITの世界に身を置くことになった,という事実。ふつうの学校なら色々選択肢があって,イメージだけで就職していく学生も多い。しかし,コンピ ュータを勉強した場合は,そんなにぶれることはない。一方で,今はITは,どこでも必須ですから,いったんIT関連に就職してから,畑違いの世界に入るのは簡単です。その意味で,社会に入るきっかけとしてITはいいと思いますね」。
最後に今KCGで学ぶ後輩たちへメッセージを寄せてもらった。
「今コンピュータを勉強している学生に言いたいことは,その選択は決して間違っていない,ということです。ITの世界の変化は大きいのですが,昨日までのものを全否定するのではなく,すべて延長線上の変化です。問題点を問いかけて,解決していく。そういう問題意識を持って勉強していってほしい。オタクになるのもいいし,とんがったものを追及するのもいいです。それは全部武器になりますから。ただ,もし余裕があるなら,学生時代にいろいろな経験をして,コミュニケーション能力も身につけてほしい。アルバイトでもスポーツでも,たとえば人に叱られたようなことが,後々自分の血肉になるのですから」。