私の京都コンピュータ学院とのかかわりは,今年でちょうど40年になることに気づいた。それは,昭和26年に京都大学理学部に入学して,同じクラスで若き日の長谷川学院長にお会いしたからである。
医学部出身の私が,なぜ理学部にいたか?それがこの時代の面白いところで,当時は,医学部志願者は先ず,何学部でも良いから大学の教養課程に在籍して2年を終了し,その後に医学部入学試験を受けるという制度だったからである。それでは,何故ほかの学部でなくて理学部なのか,実はこれには京大秘史とも云うべきハラン万丈の物語がある(何時かどこかに書き残しておきたいと思うが,今はスペースがない)。とにかく,私にとって,この二年間を理学部で過ごしたことが,その後の生き方を決めることになったのであるから,運命とは恐ろしいものである。
理学部の2年間を数学と物理に夢中になって過ごした私は,医学部に進んでもその志向をもち続け,したがってコンピュータにも早くから関心を持ち,国産コンピュータの原型となったKDC-1の開発にも参画することになった。医学にコンピュータを持ち込んだメンバーの最初の1人となった。
長谷川学院長が京都ソフトウェア研究会を設立されたときは,最初の講師の一員となり,医学とコンピュータの連続講演をした思い出がある。学院創立後は,入学式や講演に何度もお招きいただいた。講演のテキストに拙著「脳とコンピュータ」(中公新書)を使わせて貰って,学院生諸氏にはご迷惑であったかも知れないが,おかげでベストセラーとなった。当方も出版社からおいかけ廻されることになって大変な思いをしている(今もベストセラーをつくらされている)。
長谷川学院長とのもう1つの接点は「宇宙」。ただし学院長が宇宙物理学,私は50才のとき突然哲学者になって宇宙哲学(京大哲学学科で教鞭をとった)。接点がないのは俳句。そこでこれから“宇宙と俳句”について述べて学院長をケムリに巻くことにする。私には俳人(廃人と間違えないよう)というもう1つの顔があり,俳句同人誌「雲雀(ひばり)」の主宰でもあるのですぞ。
芭蕉が禅林で僧堂修行したことは「幻住庵記」の「一たびは仏離祖室の扉に入らむとせしも」の記述で確実視されている。この一節はその前の「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」と対をなすが,芭蕉が成人にするに達する頃にか,藤堂藩侍大将藤堂新七郎家の息主計良忠(俳号・蝉吟)に仕えたことはよく知られている。良忠の死後のある時期,京に上がって五山の何処かで禅の修行にはげんだと推測されている。しかし,京の北村季吟に俳諧を学び,「貝おほひ」を著して東下,俳諧師として身を立てる決心をしたものであろう。後に俳諧の第一句,すなわち発句を独立せしめ,世界最短詩,芸術として確立するに至る。発句独立,蕉風確立の句として有名な,
古池や蛙飛び込む水のおと
が仏頂和尚との禅問答に由来するという伝説はさておき,芭蕉の発句と禅の関係は密接であると思う。愚考するに,すべて芸術とは芸術体験の表出に外ならず,それは禅における宗教体験と一脈通ずるところがなくてはならぬ。俳句も小なりとはいえ,芸術の一ジャンルであれば,物我一如の芸術体験を詠むものであって,日常茶飯事や人情をたくみに歌うものではなかろう。
俳諧が,室町時代に盛んになった連歌に付随して興った俳諧の連歌に始まることは論をまたない。連歌師には禅の教養の深い人が多く,宗祇の弟子宗長は一休に深く帰依した大居士であった。連歌の余興である滑稽卑俗の「俳諧の連歌」をまとめて「新選犬筑波集」を編んだ宗鑑が,宗長とともに一休を訪れていることは興味深い。
江戸初期の松永貞徳に至り,俳諧は連歌から独立して連句となる。その弟子(貞門)の北村季吟に学んだ芭蕉が出る。これが俳句の起源である。俳句という名は明治の正岡子規が,連句芸術論を唱えて発句を連句から切り離して与えた呼び方である。子規の門下に夏目漱石がある。俳句の歴史はここから現代に入る。
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな
芭蕉以来の十哲にはいる俳人であるが,むろん小説家としての方が名高い。漱石が鎌倉円覚寺に参禅したことは,小説「門」に詳しい。主人公宗助は,「父母未生以前本来の面目」という公案をもらうが,眠り込んでしまう。話は変わるが,中国古来の養生法である気功の脳波を,私たちの研究室でとってみた。静功といって静かに立って僅かに手足を動かしているとき,脳波のパターンはめまぐるしく動いている。「外静内動」の状態である。 内心の感に似ていないだろうか。動功に入って,大きく手足を動かしすばやく身体を移動しているとき,脳波のパターンは一定で動かない「外静内動」である。気功というのは,単なる健康体操ではなくて,心の状態を作り出すことのようである。ヨーガを研究しているときにも同様の事を経験している。
気功,ヨーガ,禅,能,いずれもよく似た心的状態「三昧」を作り出すのではないかと思う。世阿弥の後の金春禅竹の秘伝書「六輪一露之記」の冒頭に「それ,申楽家業の道は……本来無主・無物の妙用に非らずや」とある。無主・無物とは,見る我もなければ見られる物もない,主客未分以前の境地が能のすべてのもとということであろう。物我一如の俳諧の心もこの流れを汲んでいることは云うまでもない。禅竹は一休宗純に参禅し禅の影響のもとに無主無物の境地に達した。「父母未生以前本来の面目」という公案に対する禅竹の解(見解)と見ることもできよう。
ところで,「門」の宗助(ソースケはソーセキのもじりであろうか)は,この公案が解けず,失意のまま山を降りる。それは漱石自身の体験をある程度描いたものと云われている。しかし漱石の「即天去私」の思想は,公案の見解とも見られるから宗助は漱石自身ではない。晩年の漱石が,人間のエゴイズムをえぐり出す去私の作業に熱中したのは,それが漱石にとっての近代であったのであろう。そうして私達は我国に近代文学を持つことができた。
漱石の「思ひ出す事など」「彼岸過迄」等によって,私達は去私の思想を容易に知る事ができるが,「即天」については,文学にも禅にも門外の小輩にはうかがうことがかなわぬ。漱石が公案が解けぬとしたのは,この部分であったのかも知れない。以後の近代文学はますます自我(エゴ)の問題にのめり込んで行く。即天の本来の面目,三昧の境地こそ文学における芸術体験でなければならぬと思うが,現代文学に至るまで明晰な形では示されていないように思う。(「雲雀」第44巻・5号より)
私は人間の意識とは,自分が宇宙の中にいることを意識するものであると考えている。哲学の言葉でいうと,意識とは自分を意識することであるとか,意識論はほとんど反射型の文脈の中で語られる。つまり,自分で自分自身を意識するという考えと,何かに反射されて自分を意識するという考えの2つの立場に分かれる。
前者の自己意識の方がヨーロッパの伝統に近いといわれている。後者は東洋的な伝統の考え方で,私の考え方はそれに近い。それと気の関係について考察したい。
ただし哲学的に考察した意識論は,世界の哲学界でもまだ進んでおらず,課題が山のようにあるというのが実情である。
私の考えを分かりやすくいうと,まず自分の頭の中には宇宙が映っている。頭の中に映っている宇宙の中には,さらに自分が見えているはずである。その自分の頭の中にはまた宇宙が映って,その中にまた自分があるという反射的な関係が宇宙と自分の中に成り立っている。これが私の意識論である。それで宇宙の成り立ちから意識までが一貫して説明できるのではないかと考えている。
私たちが研究している気功の状態は何を作りだすのか。気功を行っている時の意識の状態は,自分と宇宙・自然との一体感である。瞑想やヨーガや座禅でも同じことがいえる。
日常的に自分が宇宙の中にいるという状態と,座禅などによる宇宙との一体感との違いは何に起因するのであろうか。自分の中に宇宙が,その宇宙の中に自分があるという意識は,最後には1点に集中する。1点に集中するのは安心な意識状態で,日常的にはそういう意識状態なのであろう。
では気功を行っているときの脳波はどうなっているのか。β波が右脳と左脳とに分かれて出てきて,右だけに行ったり左だけに行ったり,左右が分かれて活動している。しかも,その人の顔を見ても,話を聞いても,平静意識で,意識曚朧とか,意識がおかしくなっていることはない。この脳波は何を意味するのか。
脳は左右2つあり,それは別々に働くが,お互いに響き合っている。それによって両方にそれぞれ宇宙が映っていて,その2つの宇宙の中に2つの自己がある。両方の脳の中にそういう状態が現れてくると考えられる。つまり,焦点は1点に収束するのではなく,何処までも2つの対応関係が続くのである。
私は瞑想も座禅もほとんどしないが,俳句を作っている時に,ほんの一瞬宇宙との一体感を感じることができる。いい句は作ってできるものではなく,向こうからやってきて一瞬にして浮かぶものである。それしかないという形で浮かぶ。その時の脳の状態は,日常とは違う。もちろん意識がないとか曚朧,混濁していることはない。その時の宇宙との一体感というのは実感である。いい句ができたというのは分かる。それも瞑想や座禅の状態に近いと考えられる。
俳句は2つの脳がそれぞれに宇宙を反映しているという意識論によく適合しているのである。右脳で景色を見て,左脳にある言語中枢を使って言葉を探す。ところが,景色を見ているというより,生理的学には見ているのであるが,景色を見ているのか景色に見られているのか,実のところよく分からない。自分と対象が一体になる状態があって,それが言葉になるのである。
俳句は集団でどこに出かけ,同じ景色を見て,一緒に俳句を作るという手法を持っている。先日,グループを引き連れて日光に1泊で出かけた。東照宮には誰も行きたくないという。東照宮では俳句が作れないから,もっと作りやすいところに行きたいというのである。
そこで岩盤が露出していて寂しい滝があるところに日暮れに行き,滝の音をじっと聞きながら俳句を作った。翌日は,早く起きて,ほとんど観光客のいない滝を見に行った。そういう状態になると,俳句を作らないといけないという気持ちになる。滝の水をただじーっと見ていると,滝の水と自分が一体になったような瞬間がある。その時に俳句が浮かんでくるのである。
滝の水三次元半の空を飛ぶ 良 夜
自分が滝の水になったような右脳の景色と,それを何とか称賛の言葉にまとめようという左脳との響き合いが,自然との一体感を作ってくれるのであろう。
自然や宇宙との一体感を作り出す状態になることは,日常生活では難しい。気功は身体の動きに集中し,それを意識することで2つの脳の響き合う場所を作り出しているのであろう。俳句も気功もともに,「宇宙意識」に導くものである。(雲雀)第44巻・8号より)