在りし日の萩原宏先生を追悼するにあたり,京都大学,とくに数理工学科に教授として在職されていた頃の先生について,私個人の印象を少しお話しさせていただきます。
本学初代学長を務められた萩原先生のあと,2代目学長の長谷川利治先生を挟んで,私は3代目の学長になります。萩原先生とは,それ以前にもご縁がありまして,先生が京都大学数理工学科教授から情報工学科の教授に移られたあと,残された数理工学科の講座をやはり長谷川利治先生が引き継がれたのですが,私はその後,長谷川研究室を引き継ぐことになりました。2度このようなことがありましたので,私は萩原先生の孫弟子と言ってもよいのではないかと勝手に自負しています。
萩原先生のご経歴については先ほど紹介がありましたが,京都大学関係をもう一度述べますと,1957年に工学部電子工学科に着任された後,数理工学科,大型計算機センター,および情報工学科の設立にご尽力され,ご自身も数理工学科および情報工学科の教授を歴任されました。京都大学を停年退官されたのは1990年です。
萩原先生の講義に最初に接したのは,私が電気工学科の学生だった時でした。たしか「電子回路」という科目だったと思います。この頃,というのは1960年代の初めですが,コンピュータを電子計算機と呼んでいた時代です。しかし,電子計算機という名前のついた講義科目はまだなかったと記憶しています。そのような時期に,すでに電子計算機の研究と開発を進めておられた訳ですから,先生の先見の明には脱帽する以外ありません。先生の講義は,几帳面で,要点をきちんと整理して述べておられたという印象があります。ただ,その内容を学生に噛み砕いて説明するというより,あとは自分で勉強しなさいといった感じでした。もっとも,当時の京大の先生方の講義は,ほとんどこのようなスタイルだったと思います。先生は,饒舌というより,どちらかといえば寡黙で,何事にも丁寧な方でしたので,当時学生だった私は,なにか近寄りがたいという印象を持っていました。
その後,萩原先生とお近づきになれたのは,1969年に私が数理工学科の助手に採用されてからです。学科の仕事などで,先生と時々お話しする機会がありました。先ほど話題になっていたTOSBAC-3400の先行モデルであるKT-Pilotですが,その頃にはほぼ完成していて,6号館という建物の2階に置いてありました。ある時,それを見学し,萩原先生に直々に説明していただくという機会がありました。マイクロプログラム方式と非同期回路を用いた新しい仕組みの高速計算機で,心臓部分に大きなプラグボードがあって,その配線を変えることによっていろいろな命令を実現できるという説明を受けました。それ以上の詳しい話は,当時の自分にはよく分かりませんでしたが,ただ,この時以来,萩原先生が大変親切で親しみ易い方であることが分かり,学生時代の印象に比べると,かなり近づくことができたと思ったものです。
KT-Pilotを完成させるために,1960年代初頭から,研究室の方々が総力を挙げておられたことはよく聞いていました。具体的には,アセンブリ言語の実装,FORTRAN,ALGOLなどの高級言語のコンパイラ作成の作業であったことを最近,萩原研出身の先生方に教えてもらいました。ハードウェアとして高速であるだけでなく,これら当時の最先端のソフトウェアを装備していたことが,多分,TOSBAC-3400が商用として成功した理由の一つではないかと考えています。
先ほど,1969年と申し上げましたが,この時期,大学は大学紛争という大きな試練に遭っていました。急進的な学生運動を進めていたのは,全共闘と呼ばれていたグループでしたが,全共闘はその名前の通り,いくつかのセクトが集まってできていて,中には相当過激な主張をするセクトもありました。数理工学科の学生の中にこれらのセクトに所属する者が数人いたのですが,その結果,数理工学科全体が大学紛争の荒波に激しく揉まれました。萩原先生の講座にもそのような学生がいたと聞いていますが,そのせいでしょうか,先生の教授室が学生たちに占拠されるという事態が数か月続きました。教授室の窓から,セクトの大きな旗が掲げられていた光景を覚えています。この間,先生は大変なご苦労をされたに違いありません。
萩原先生は,たくさんの論文と著書を書かれましたが,代表的な御著書を挙げるとすれば,朝倉書店から出版された『電子計算機通論1,2,3』だと思います。この3冊が出版されたのが1969〜1971年ですから,先生は先ほど述べた大学紛争のまさにそのさ中に執筆に没頭されていたわけです。当時コンピュータに関する書籍は,英語で書かれたもの以外あまりありませんでしたから,日本語で計算機の仕組みを詳述したこの書籍によって,先生は電子計算機分野の第一人者として認められるようになったのではないでしょうか。先生はその後,情報処理学会の会長を務められるなど,学会の重鎮として活躍された訳ですが,その出発点はここにあったと私なりに想像しています。
萩原研究室ご出身の先生方と話してみると,先生の人間味あふれる側面が次第に分かってきました。自動車を運転されることが大変お好きで,愛車のパブリカをご自分で運転して,学生と共に箱根の学会に出席し,そのあと伊豆まで回られたとか,研究室のコンパでは,いつも最後までお酒を楽しまれるという側面もお持ちだったようです。先生がお弟子さんたちの面倒を親身になって見てこられたことは,現在KCGIに,かなりの人数の研究室の出身者が勤務しておられることからも分かると思います。
京都大学を停年退官されるとき,記念講演として,京都大学での三十数年を振り返ってお話をされたのですが,そのタイトルが,「京都大学での25年」だったと思います。正確には少し違っていたかもしれませんが,三十数年と言わずに25年と2進数風に言われたところが,さすが電子計算機の萩原先生だと,私の記憶に強く残っています。先生が,電子計算機の世界に入られてから,お亡くなりになるまで六十数年ですから,先生の表現によれば26年でしょうか。この間,先生は電子計算機と共に歩まれ,その進歩に大きな貢献をなさいました。このことはいつまでも人々の記憶に残ることでしょう。今はただ安らかにお眠りになられるよう,心からご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。