中国の春秋時代(前770~前476)の思想家・教育者・政治活動家として有名な孔子(前551~前479)が亡くなってから凡そ2,500年。孔子を始祖とする儒教・儒学の教えは,この長い年月の間に,私たち日本人の内に浸透し,日本文化の成立・発展に大きく寄与してきました。今では,漢字・漢文と同様に,極めて身近に融け込んで,何がそれであるか,それがどこから来たかなど意識することがないまでになっています。
しかし,そのような日ごろ無意識でいることをちょっと意識してみると,それが孔子の深い考えに発しているのに気付くことが少なくありません。そんな度に,一度はこの目であの孔子の遺跡を見たいものだという願いが,私の胸の中にくすぶり続けていました。その宿願を果すことができたのがこの度の曲阜(きょくふ)行です。
孔子の生きた時代,山東省の南西部,遥か北の方に巍(ぎ)々たる泰山(たいざん)(標高1,500m)を仰ぎ,南の方滾(こん)々たる泗水(しすい)に臨むあたりに魯(ろ)という国がありました。孔子はこの魯の国の都曲阜の町はずれの尼山(にさん)で生まれたのです。
3才の時父が亡くなり,母につれられて曲阜の城内に引越しました。幼少から苦労しながら学に親しみ,長ずるに従って,古代伝説上の聖天子尭(ぎょう)・舜(しゅん)や魯国の始祖周公らを尊崇して古来の思想を集大成。「仁」を理想の道徳として,「孝悌(こうてい)」(親に孝,兄長に順)「忠恕(ちゅうじょ)」(まごころを尽し,他人を思いやる)をもって「仁」を達成する根底としました。
はじめ,魯の国に仕えて大司寇(だいしこう)(司法長官)という高い官職につきましたが,孔子の思想は当時の魯の国政に用いられず,遂に職を辞し,弟子たちをつれて諸国をめぐり,天下国家を治める道を説きました。ところがまたも諸国の王たちに受入れられず,14年にわたる遍歴の後故国魯にもどりました。時に64才。曲阜に落付いた孔子は,その後弟子の教育と古典の整理に専念して73才で亡くなりました。
孔子の経歴からみますと,その生前においては,孔子の説いた儒家思想はまだささやかな異端にすぎなかったといえます。それが社会から注目を集めるようになったのは,孔子の死後300年余りも経った漢代,武帝が儒教を国教として(前139)からです。以後,儒教・儒学は中国近代まで2000年にわたって封建王制を支え,倫理・道徳を律するという役割を果してきたのです。
曲阜入りをした私が投宿したのは,市の中心部にある闕里賓舎(けつりひんしゃ)でした。闕里(けつり)とは孔子の住んでいた所の名です。中国の伝統的な建築様式と現代的な施設・設備とを兼ね備えた一見古風な構えで,静寂・優雅な趣があります。玄関にもカウンターで手にしたパンフレットにも,『論語』(孔子の死後,弟子たちが孔子や孔子の門人たちとの言行をまとめた書物)の巻頭のことば「朋(とも)あり,遠方より来たる,亦(また)楽しからずや」が,漢文で書かれてあるのにはさすがだなと思いました。
翌早朝,舎前に出てみますと,道路を隔てた西側に高い土塀が続き,その中に松柏の森が鬱蒼(うっそう)と茂っているではありませんか。何とそれが孔子を祀る廟,孔廟の一角だったのです。
孔廟は,孔子の死の翌年(前479-北京の万里長城よりも200年も古い),孔子のファンだった魯の国第25代の王哀公(あいこう)が,孔子の旧宅,わずか3間(チェン)(間(チェン)とは柱と柱との間のことで,建物の大きさを測る単位)の粗末な家を改造して孔子を祀り,折々にお祭りをしたのに始まります。それ以後,歴代の天子は自らの王朝と天子の地位を固めるために「孔聖の道」を利用して,この廟の増築拡張に力を入れてきました。現在では敷地凡そ20万㎡,高さ3mの城壁内の建物50棟・460間など,最初の規模のざっと150倍にもふくれ上っているのです。
この二千数百年の間には地震や雷火などによる破壊で,度々修復,改築が重ねられましたが,今日の建物は多く明代,清代(1368~1911)の風情を遺しています。日中戦争下でも,「日本軍は曲阜では孔家に狼藉を働かなかったし,略奪もしなかった。むしろ,孔家の里の人たちに好意さえ抱いていた。それは日本人が孔子に対して親しみと尊敬の念をよせていたからだ」といわれているように,孔廟は戦禍を免かれ,古い歴史を伝えてきたのです(孔子家子孫,孔健著『孔子の心』-ふたばらいふ新書から)。
中国政府も,1949年の解放後の文化大革命(1966~76)や紅衛兵による破壊行動に対して,孔廟を重点的に修復し,「全国重要文化財」の一つとして,世界文化遺産にも登録されたその実を揚げようとしています。
さて,孔廟の入り口・南門に向うと門前が大勢の人で賑わっています。老若男女,結構外国の旅行客もいて,先ず大衆の孔子への敬慕の厚さを知らされました。
入り口に立って北を見ますと,目の前に「金聲玉振」と彫った横額が掲った石の門があります。明代に建てられたもので,4本柱で三つの入り口,鳥居の形をしています。柱の上の蓮花宝座に吼える獅子が載っていて魔除けのお守だそうですが,仏教の影響を感じます。金声とは智の働きで音楽の始めにならす鐘の音。玉振とは磬(けい)(玉または石で作った楽器)を打って音楽のしめくくりとすること,徳の働きです。孔子の思想は一貫してこの智と徳とを兼ね備え集大成したものだと讃美されているのです(『孟子』万章章句下)。
次なる門は,櫺星門(れいせいもん)(櫺星は古代の星の名。国家のための人材を輩出するの意)。続いて,中軸線上にいくつもの門が並んでいます。敷瓦の上を歩いて門をくぐる度に,そこには建物と石碑と庭園とが姿を現わし,孔廟が時代と共に拡大してきた跡を物語ってくれます。
門や建物の入口にはそれぞれ孔子の徳を称える言葉を雄渾な文字で書いた扁額が掲げられています。石碑の数は廟内総じて2000余。国内の大型碑林の一つに数えられていますが,文化大革命の時の破壊から修復した跡が碑面に生々しく残っているのを見て,緊張と痛恨の念を禁ずることができません。
庭園は9ヵ所,緑濃い松柏類千二百余本の大樹が亭々と茂って建物を包み込み,あたりに神聖,荘厳の気が漂っています。
やがて最も奥の門,大成門をくぐり,孔子が授業をした跡という杏壇(きょうだん)を見て大成殿の前に進みます。大成殿は北京故宮内の太和(たいわ)殿,同じ山東省内泰安の岱(たい)廟(泰山の神を祀る)の天啻殿(てんきょうでん)とともに中国三大殿に数えられています。
宮殿様式で,黄色の瑠璃瓦が輝く二層のゆったりした屋根を頂き,東西の長さ54m(9間),南北の奥行34m(5間),高さは2段の基壇2.1mを含めて地面から33mという大殿堂です。堂前の檐(ひさし)を支えた10本の石柱が高さ6m,直径0.8m。蓮花型の基台の上に立つ柱には,2匹の龍が珠玉を中にからみ合っている彫りもの,「双龍戯珠」が見事です。
殿内に入ると正面に高く御座があり,中に「至聖先師孔子神位」と金文字で彫った位牌を前に,孔子像が祀られています。画像とちがって塑像だけに生きているようで,今にも語りかけてこられるのではと思うばかりです。でもやはり,眼光炯炯(けいけい),威厳があって近づき難い感じです。
殿前の露台は「須弥座」とも呼ばれ,地面から重層の煉瓦敷き石舞台です。まわりの欄干にはみな彫刻が施こされ,南中央の貴人用の二層の階段(陞石(しょうせき)という)にはまた見事な龍が浮彫りにされています。かつての天子たちは巡幸の途次,曲阜まで足をのばし,この階段を昇り,孔子の像に深々と頭を下げたものでした。
今日,孔子生誕を記念して,毎年陰暦8月27日に行なわれている孔子祭の公演も,古式に則り,この露台の上で実施され,大成殿はもちろん,廟内が仙境に化し,臨場の大衆を古典の世界に導くといわれています。
孔子直系の子孫,その家族が代々執務所兼生活の場として住み続けてきた館(やかた),孔府は孔廟の東隣りで闕里賓舎の北隣りでした。
孔子の子孫は,中国で最も歴史の長い貴族の家柄として今日まで続いていますが,それは歴代の王朝が孔子やその儒家思想を推賞すると同時に,その功徳に報いるために孔子の子孫を厚遇して代々官に封じ,文官第一等の爵位を授けてきたからです。
孔子がなくなってから後その子孫は孔廟を祭り,孔子の遺物を守ってきましたが,孔廟の拡張に伴って明代に孔廟から独立して「衍聖公府(えんせいこうふ)」となり,更に増築改造を経て今日に至りました。
現在の敷地は凡そ16万㎡,建物は463間,大小の中庭計九つ。明代の官邸様式で,前後二つの区域に分けられ,前の部分が官衙,執務所,後が私邸となっているので孔廟に比べやゝこみ入った感じです。
玄関の石造りの孔府大門の鴨居には,「聖府」と書いた額があがっています。門前の2匹のライオンの石像は明代のもので,左は子を抱いて戯れている牝,右は玉を抱いている牡,威厳を具えながら団欒を楽しんでいるかに見える親子の姿はまた,孔府がもつ私邸の意義を象徴しているといえましょう。
次にある重光門(ちょうこうもん)は別名垂花門(すいかもん)。建物や壁とつながっておらず,小さいながら独立していて,軒を支えている前後8本の柱の先に,それぞれ美しい花の蕾(つぼみ)が垂れ下がっていることから命名されたといいます。「花さえが頭を垂れて」孔子の徳を慕っているということです。またこの門は,古来皇帝の来駕や国家の慶事の時だけ,13発の祝砲とともに奏楽の中で開扉されたことから,儀門(ぎもん)ないし塞門(さいもん)ともよばれるそうです。
次の建物が大堂です。裁判や勅命の伝達など重要な公式行事が行なわれた場所で,最高の威厳の象徴です。歴代の皇帝から孔子の子孫に下賜された金碑や儀仗用具などが陳列され,荘厳の気が漂っています。
それから奥は孔家の私邸です。孔子の76代直系の子孫孔令貽(こうれいい)の調度・装飾品などがそのままに展示されていて孔家の人人の平素の生活ぶりを偲ぶことができますが,全体に地味で,贅を尽したしつらえのようには見受けられません。さすが孔子の教えが受けつがれていると合点したことでした。
曲阜の町並みは,孔廟と孔府を中心として南北に鼓楼大街が走っています。孔府からこの大街をまっすぐ北へ,壊れた土塁だけを残している魯国城壁跡を抜けていくこと約1.5km,至聖林と書いた横額の掲げられた大門に着きます。孔子と孔家一族の専用墓地孔林(至聖林)の入り口で気のひきしまる思いがします。
二層の櫓を頂く赤壁の2番目の門は,周代魯の国の北城門跡に建てられたといいます。この門から四角形に延びる赤い城壁は,高さ4m,厚さ5m,全長6kmで,孔林200万㎡,墓碑約1万基を内に囲んでいて,現在完全に保存されている中国の古代墓林中最大だということです。
林内に入ると,春秋時代から次々と植えつがれた松,楷(かい),槐(えんじゅ),楓,柳など3万本以上の樹林の中に点々と墓碑や石人,石獣が見え隠れし,鬱蒼として森林公園さながらの光景です。
孔子の墓は孔林のほぼ中央にあり,高さ3mほどの土盛りで,短かい青草に覆われ意外に質素です。墓前に二つの石碑が立ち,前の一つは明代のもので,高さ約5mの碑面に篆書で大きく,「大成至聖文宣王墓」と刻まれており,後の一つは宋代のもので,やや小さく,同じ篆書で「宣聖墓」と刻まれています。外見はわかりませんが,文革後紅衛兵の動乱で破壊されたのを巧みに修復されたのだそうです。
孔子の墓を中心に,その東に子の孔鯉(こうり)の墓,西に孫の孔仍(こうきゅう)の墓がちょうど鼎(かなえ)の足のように並んでいます。後世の人がこれを「子をつれ孫を抱きしめている(携子抱孫)」図だと称えているのも,儒家の見かたというものでしょうか。
孔子は「甚だしいかな,吾が衰えたるや。久し,吾れ復(ま)た夢に周公を見ず」と嘆いています。理想に燃える若き日の孔子がいつも夢にまであこがれた周公のことを,夢に見なくなってから久しい,わたしの老衰もひどいものだというのです(『論語』述而篇-金谷治訳)。
この周公(前1000年ころ)は,周王朝(約前11世紀~前770)の基礎を作った名君文王(ぶんおう)の第4子で,兄武王(ぶおう)を補佐して殷(いん)王朝を滅ぼしました。後,魯国の王に封じられましたが,自らは都に留まって武王の後継者,若い成王(せいおう)を輔け,周王朝をゆるぎないものにしました。人びとから「元聖」と仰がれましたが,孔子もこの5,6百年も昔の人を夢に見るほどに尊敬したわけです。
この周公の廟が同じく曲阜市内,孔廟の東北1kmほどの丘にありました。敷地500㎡,建物57間と小規模ですが,入口から三つの門をくぐると,松柏の老樹に包まれ,緑の屋根,紅い柱の元聖殿があり,中央に祀られた周公の像は温容,しかも笏(しゃく)を両手に持った構えは厳然としていて,自ら襟を正して仰ぎました。
孔子の門弟といわれるもの3000人。そのうちで孔子最愛の弟子が顔回(がんかい)(顔子・復聖公(ふくせいこう)とも)(前514~前482)であったことはよく知られているところです。
『論語』雍也(ようや)篇にも「賢なるかな回や。一箪(いったん)の食(し),一瓢(いっぴょう)の飲(いん),陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂いに堪えず,回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」。(えらいものだね,回は。竹のわりご一杯のめしと,ひさごのお椀一杯の飲みもので,せまい路地のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが,回は[そうした貧窮の中でも]自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね,回は。」(金谷治訳)と孔子は顔回をほめています。この顔回が孔子に先立って亡くなった時には,孔子は「噫(ああ),天予(わ)れを喪(ほろ)ぼせり,天予(われ)を喪ぼせり。」(『論語』先進篇-金谷治訳)と嘆き悲しんだほどです。
顔回は曲阜の陋巷(貧民窟)に生れ,孔子の門人となって頭角をあらわし,品性と学問を兼ね備えた第一の弟子となりました。
この顔回の廟が鼓楼大街の東側,孔府から程遠からぬ所にあり,そこがかつて顔回の住んだ陋巷の跡だといわれます。廟の総面積5.5万㎡,建物159間。域内に顔回が使ったという井戸が「陋巷井」として残されています。本殿「復聖殿」に祀られている顔回の像は,端正な姿ですが,どこか夭折しそうな華奢さを漂えていると見たのは私ばかりでしょうか。
儒教はまた「孔孟の教」ともいいます。孔子と孟子(前372ころ~前289)の説いた仁義の道ということです。
孟子は曲阜の南隣,鄒(すう)県の生れ。幼少の時父が亡くなり母の手で育てられました。母が孟子の教育のために三度も住居を引越した「孟母三遷」や,織っている布を断って学問の中絶を戒めた「孟母断機」の逸話は有名です。
孟子は孔子の孫孔仍(こうきゅう)(子思(しし)とも)(前483ころ~前402)の門人に弟子入りして学問を究め,諸国に遊説した後退いて『孟子』7章を完成しました。その説くところは,孔子と同じく仁義を基礎とし,道徳をもって国を治めるとする王道政治と,人間の本性は善とする性善説でした。
孟子が儒家の間で尊崇されるようになったのは宋・元代以降ですが,「亜聖(あせい)」(聖人に次ぐ)と称され,孔子につぐ地位を与えられました。
この孟子の廟,亜聖廟が現在の鄒県に在り,規模こそ孔廟に比べて小さいが,入り口の櫺星門は紅・青の色彩も鮮やか,奥に続く各種の門も立派です。松柏の茂る庭の一角に並んで立つ「孟母三遷碑」「孟母断機處」と大字で刻まれた石碑は,儒教的教訓を呼び覚させてくれました。
亭々と聳える老樹に囲まれた本殿「亜聖殿」は重層の屋根も高く,門口も7間とどっしりしています。中に入ると正面に位牌を前に孟子の像が祀られています。毅然とした面持で,いかにも民衆の経済生活に注目した王道政治を説いてきびしい社会に立向った気迫を感じます。
隣りの「孟府」は孟子直系の子孫が暮した所です。中庭を隔てて幾重にも建物がありますが,単層で極めて質素です。
孟子一族の墓所「孟林」に詣って胸を衝かれたのは,ここでも石獣と並んだ石人の首が落されたままになっていること,石碑375基の中105基が破壊されたという,紅衛兵の傷跡にまたまた心の塞がる思いでした。
曲阜は悠久の歴史をもつ古い町。この町には,今日孔子の子孫と称して孔姓を名乗る人が10万人(人口の20%)といいます。この町の「聖蹟」を回りながら,街路樹も美しく,車も少なく清潔で,空気も綺麗なのに感心しました。聞くところによると,1949年の解放後,それまで消費都市だったのを生産都市に切換えようとして工業に力を入れたところ,水力不足,汚染,住宅難など諸問題が起こり,79年から政策転換をすることになって,曲阜をより美しく,より高い文明をもつ都市,歴史観光都市づくりに力を入れているということです。
儒教,儒学については,66年5月からの10年間,古い文化・思想・風俗・習慣を打倒(破四旧)し,すべてを刷新(立四新)しようとした文化大革命の中では,毛沢東と紅衛兵たちの批判は当然孔孟一族にも及びました。これまで中国を支配してきた封建思想,封建制度の始祖,後継者は反動分子として許しておけないということです。曲阜では前にも記したように孔廟,孔府を始め,数々の聖蹟が破壊されました。
しかし,毛沢東(1893~1976)が亡くなり大革命も終熄した後,80年代になると孔子の尊崇が見直され,革命当時他人の目を盗み肩身の狭い思いをして孔廟を訪ねた年間3000人に比べて,今や年間300万人にも昇っているということです。
89年には,江沢民中共総書記が「孔子は中国古代の偉大な思想家であり,彼の思想は中国の貴重な文化遺産である」と述べるに至りました。もっとも,現代の中国学会では,事実に即して科学的にものを観,理論を考究する新しい歴史的時代に入り,孔子の学説についても,その中の封建的糟粕(そうはく)(かす)を除去し民主的精神を発揚することが今日の任務だといっています。今や,儒学の研究は中国以外世界の国々でも取組まれ,孔子生誕を祝う孔子祭にはグローバルなシンポジウムが開催されるほどです。
昨今,わが国の政治・経済・社会の末期症状的な混迷の中,大きな転換を迫られている私たちも,今一度「孔孟の道」に目を注ぐことが,「温故知新」(『論語』為政篇)というものであり,頂門の一針となるのではないでしょうか。