お正月のかるた取りというより冬休みの宿題としてなじみの深い『百人一首』は古くから親しまれています。この100首の和歌を選んだ藤原定家(1162〜1241年)は平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人で,『新古今和歌集』の選者であり,『源氏物語』や『土佐日記』の研究者として有名です。その彼が,実は天文学に大きな貢献をしています。
彼は『明月記』という日記風のエッセイを著していますが,これは18歳の治承四年(1180年)から74歳の嘉禎元年(1235年)まで半世紀以上にわたって書き綴られたものです。書き続けるだけでも偉業です。しかも全部漢文…とても真似はできませんね。その中に天文記録が100件以上も集められています。日食,月食,惑星の異常接近,彗星,流星などには実際に自分で見たものもあります。特に重要なのは客星(不意に現れるお客さん星という意味)の出現記録です。皇極天皇の時代(7世紀)から高倉上皇の時代(12世紀)まで全部で8件ありますが,すべて晩年になってから陰陽師・安倍泰俊(安倍晴明の8代目の孫)から聞いた古い記録を書きとめたもので,定家自身が見たわけではありません。彼は寛喜二年(1230年)十一月一日に現れた客星に注目し,過去の客星について安倍泰俊に調べさせたそうです。その結果右記8件が出てきたわけですが,当の客星の正体は彗星だったようです。8件のうち5,6,8番目が超新星で残りは彗星らしいと言われています。超新星とは「新しく生まれた星」ではなく「新たに見えた星」で,それまで全く見えなかったところに突如として星が輝き出し,一夜にして10等級(1万倍)以上も明るくなるまさに天変です。実は星の最期の大爆発で,星の生涯のうち最も劇的なシーンです。望遠鏡のない時代の超新星の出現記録は世界中で7件しかありませんが,そのうち3つも記載があるのは世界に『明月記』だけ。わが国の陰陽師は非常に貴重な記録を残したのです。
寛弘三年四月二日(1006年5月1日)の深夜,南の低い空に出現した大客星は,半月くらい明るく輝いたそうで,日月を除けば人類観測史上最も明るい天体です。鴨川の橋の上から眺めると南の空低く,マイナス8等の大客星が,その左(東)上には火星からさそり座が見えたことでしょう。陰陽師・安倍吉昌(安倍晴明の息子)によって観測され,『明月記』には「大客星」と記されています。この天変は他にも複数の公家の日記に記載されていますが,紫式部やその他あまたの才女たちの文章にはないようです。清少納言は宮中を引退し,安倍晴明はその前年に亡くなっていますが,藤原道長周辺は華やかな文芸サロンが続いていたころです。中国の記録によると,3〜4ヶ月も見えていたそうで,その他にエジプトやスイスにも簡単な記録があるそうです。今日ではおおかみ座超新星残骸と呼ばれ,可視光では非常に淡いですが,電波やX線では高エネルギーで輝いています。2006年には出現千年を記念してX線天文衛星「すざく」が観測しています。
最も有名な客星は,天喜二年(1054年)の夏に現れたものです。原文を書き下すと,
後冷泉院,天喜二年四月中旬以後丑時客星觜参ノ度ニ出ズ,東方ニ見エ,客星天関ニ孛ス 大キサ歳星ノ如シ
客星出現の四月中旬丑時は現行暦では5月末〜6月初の午前2時ごろに当たります。東の空,おうし座の角のあたりに木星(歳星)くらいに輝いた星が出たことになります。推定等級はマイナス4等。一方,中国(北宋)の『宋史天文志』には「仁宗 至和元年五月己丑」のことと記され,1054年7月4日に当たります。わが国の記録のほうが1ヶ月も早いのですが,四月(現行暦で5月)には,おうし座は太陽と同方向で,たとえ木星並みの星でも見えないはずで,「四月」は「五月」の間違いだと言われています。また1054年7月にはおうし座は明け方で木星は日没後,すなわち同時には見えません。したがって「大キサ歳星ノ如シ」というのは両星を見比べたのではありません。この朝,夜明け前の東山の上には新月前の細い月と明るい客星が見えていました。月の上にすばるが,下にはアルデバランが,また左(北)にはカペラが見えます。客星は最輝期には昼間でも見え,出現後約2年間も見えていたそうです。
ころは王朝文化の爛熟期,関白藤原頼通をはじめ暇をもてあましていた都の公家たちは慌てて加持祈祷に走ったのではないでしょうか。この客星はその後消えてしまって人々の間では忘れられていました。この客星のことは日本と中国の他はアラブに簡単な記載が残っているだけで,ヨーロッパには全く記録がありません。記録が失われたのか,宗教的理由であえて無視されたのか,それともヨーロッパには当時まだ紙が伝わって来ていなかったので書き記す術がなかったせいではないか(これが最も可能性が高い)。まさか,ず〜っと曇っていたということはないでしょう。18世紀になって望遠鏡観測によりそこに淡い星雲が見つかり,メシエ(1730〜1817年)の星雲星団カタログの筆頭に登録され,見かけ状から「かに星雲」と名付けられました。20世紀になってから,写真観測によりこの星雲は膨張していることがわかり,逆算すると約900年前の爆発の名残らしいということになりました。そこでそれに該当する記録捜しが世界中で行われました。1934年にアマチュア天文家の射場保明は『明月記』にかに星雲を生じた超新星の記述があることを,欧米の天文学者に紹介しました。かに星雲はかつて日本と中国の天文官の見た客星の名残,すなわち超新星の残骸だったのです。『明月記』の記載がクローズアップされ,定家は世界中の天文研究者の間で有名になりました。
かに星雲の20世紀後半になってからの活躍は目覚ましく,電波からガンマ線まであらゆる波長で調べられていますが,本小文では省略します。「世の中にかに星雲のなかりせば…」今日の高エネルギー天体物理学の発展はなかったでしょうね。
3番目の超新星の出現は治承五年六月二十五日(1181年8月7日)ですが,中国(南宋)の記録ではその前日となっています。戌刻(20時ごろ)東北天カシオペア座Wの左端の星(ε)のそば,明るさについては不明ですが「土星のような色」だったそうで,前の2者に比べると小規模のようです。この前年に定家はすでに『明月記』を書き始めているので,後年安倍泰俊から聞くまでもなく,19歳の定家自身が見ていないでしょうか?その前年には東国武士たちが源頼朝を担いで挙兵し,この年の2月には高倉院が,3月に平清盛が亡くなり,「平氏にあらざる人」が次第に台頭してきます。清盛没5ヶ月後,洛内から見ると比叡山上の天空に土星くらいの明るさの星が突如,出現してかつ消えていったのですから,陰陽師でなくても気づいた人はいたでしょう。そして都には「巨星落つ」と嘆息した公家が,また鎌倉には「天命下る」と頼朝をけしかけた知恵者がいた…と想像できなくはないですね。
この年には旱魃による大飢饉が起こり京都市中の死者が4万2300人(!)も出たと『方丈記』に書かれています。鴨長明に限らず一般市民から見れば客星出現よりも源平の争いよりも大飢饉の方がずっと深刻な事態だったでしょう。当時はこのような不安定な時期で,治承から養和さらに寿永と短期間で改元されています。
現在この場所には3C58という名の,電波やX線を発しているが,光ではほとんど見えない超新星残骸がいます。残っている中性子星は800歳という年齢の割には冷え過ぎで,内部に詰まっているのは中性子ではなくクォークであり,この星はクォーク星だとも言われています。
『明月記』は爆発の瞬間の様子が記録されている非常に貴重な天文資料です。定家は歌詠みながら現代天文学に重要な貢献をしたわけです。記載はありませんが1222年のハレー彗星も見たのではないかと思われます。
その他にも治承四年九月十五日(1180年10月5日)に明月蒼然の中で大流星を見たことが記されています。また建仁四年一月十九日(1204年2月21日)には「北の空から赤気が迫ってきた。その中に白い箇所が5個ほどあり,筋も見られる。恐ろしいことだ」という記載がありますが,赤気とはオーロラのことです。と言ってもアラスカで見られる揺れる緑のカーテンではなく,低空が赤く染まって山火事のように見えたそうです。このように自然現象にもかなり関心を持っていたようです。
定家の墓は相国寺の広大な境内にあり,足利義政(室町幕府第8代将軍),伊藤若冲(江戸時代の画家,鶏の絵で有名)の墓と並んでいます。
星を愛でていた彼はこんな歌も作っています。
そよくれぬ楢の木の葉に風おちて
星いづる空の薄雲のかげ
風のうへに星のひかりは冴えながら
わざともふらぬ霰をぞ聞く
超新星は宇宙全体から見れば決して珍しい現象ではなく,あちこちの銀河の中に1年に100個以上も発見されています。特に日本のアマチュア観測家のハイレベルは世界的に評価されています。出現時には一夜にして10等級(1万倍)以上も明るくなり,電波・赤外線・可視光線・紫外線・X線・ガンマ線さらにニュートリノとあらゆる形態のエネルギーが一挙に放出されます。
夜空に輝く星々の中に明日にでも超新星爆発を起こして昼間でも輝く星があるでしょうか?もし近距離の星が超新星爆発を起こしたら,夜の暗さはなくなるほどでしょう。しかし太陽,シリウス,ベガなどの普通の(軽量級)星は超新星爆発は起こしません。超新星候補星としてよく例に挙げられるのは,りゅうこつ座η(エータ)星です。17世紀から度々変光が記録され,1843年にはマイナス1等星,シリウスに次ぐ明るさでした。現在は6等星ですが,いつ再発するかわからないと言われています。質量は太陽の100倍以上,発光エネルギーは数十万倍,わが銀河系で最大級の星です。図6はハッブル宇宙望遠鏡で撮られた画像で2重3重の爆発の跡が見られます。りゅうこつ座は南半球の天の川の中にあり,わが国からは地平線下,超新星爆発を起こしても見えません。しかしニュートリノだけはキャッチできます。1987年2月23日,南半球にある大マゼラン星雲で発生した超新星爆発(SN1987A)に伴うニュートリノを世界で初めて検出したのは岐阜県山中にある観測装置カミオカンデでした。この功績は小柴昌俊氏の2002年ノーベル物理学賞受賞につながりました。
オリオン座の左上の赤い星ベテルギウスは重量級で,太陽の数百倍にまで肥大化しています。すなわちサイズは木星軌道くらいまで広がっています。最近,変光やガス放出が観測され,近いうちに大爆発の噂が飛び交っています。ベテルギウスの距離は640光年,かに星雲の距離の約10分の1ですから爆発の規模が同程度とすると100倍も明るく見えるはずです。最輝時には満月くらいに,いやもっと眩しく輝くでしょうが,2〜3年後には消えてしまってオリオン座はさびしくなることでしょう。そしてやがて超高速で膨張する「ベテルギウス超新星残骸」が見えてくるでしょう。
ベテルギウスの重大な天変に遭遇すれば,世界中の研究者はこぞって出現のメカニズム,地球への影響(特にγ線の生物への影響)を調査することでしょう。ちょうど1000年前の陰陽師が客星出現の意義をさぐり吉凶を占ったように。
小山勝二 花山星空ネットワーク会報「あすとろん」 第16号 2011
作花一志 『天変の解読者たち』 恒星社厚生閣 2013