私は1961年にフルブライト大学院留学生として,アメリカに渡りました。以来,アイオワで5年,ペンシルバニアで1年半と,20代の大半をアメリカで過ごしました。日本と違って,アメリカでの学生生活は,緊張感がありました。ティーチング・アシスタント(TA)を務めたりしていたわけなのですが,仕事をしながら学ぶわけです。教授たちも学生もとても熱心でした。宇宙物理学を専攻していた私は,科学技術計算のために,コンピュータを使う必要があり,入学と同時にFORTRANなどを学び,急速にコンピュータとの関わりを深めていきました。
1968年,30歳を超えて,私は日本に帰国しました。新幹線が走り,大都市に高速道路が張り巡らされるなど,復興を遂げた日本の変化には驚きました。しかし,コンピュータ分野に関しては,アメリカと日本の差は歴然としていて,当時,京大や東大にも十分なコンピュータは設置されていませんでした。そのような状況下で,当時既に長谷川繁雄先生と靖子先生は,京都ソフトウェア研究会を設立してコンピュータ教育事業に携わっておられ,情報処理技術者育成のために,プログラミング言語講習会を開催していました。
そこまでの道のりは困難であり,ご苦労されたようです。コンピュータを学ぶにしても,そもそもハードウェアがないわけです。京都ソフトウェア研究会の前身であるFORTRAN研究会が発足した時には,IBMが学術用に提供していた共同コンピュータが東京に一台あり,これを使わせてもらっていたとのことです。
アメリカでは身近にコンピュータがあり,私はその環境で研究を自由にできましたから,それに比べると日本はかなり劣悪な環境であったといえます。
またアメリカでは,IBMがアンバンドリング政策を採用し「ソフトウェア」を独立に捉える動きがありましたが,日本においては「ソフトウェア」が有料であるという認識もない状態でした。京都ソフトウェア研究会が京大の構内で講習会を行うために告知をしたら,現学院長が大学当局から呼び出されて,大学構内で女性下着の講習会を行うとは何事かと言われたそうです。「ソフトウェア」に対する認識はその程度のものだったわけです。
劣悪な設備環境のなか,コンピュータにおける「ソフトウェア」という概念に着眼し,京都ソフトウェア研究会を発足させたことは,極めて炯眼であったといえます。そして両先生が推進していたコンピュータ教育事業は,日本社会の未来を先取りし,時代を切り拓く画期的な営みであったといえます。
長谷川靖子現学院長が京都大学理学部宇宙物理学教室の先輩だったご縁で,長谷川繁雄初代学院長ともお会いし,京都ソフトウェア研究会が各地で開催していたプログラミング言語講習会に,私も講師として参加することになりました。私は「FORTRAN」や「オペレーティング・システム」などの講義を担当しました。
京都ソフトウェア研究会では,HITAC10という小型のコンピュータを購入し,それを使ってプログラミング言語講習会を行っていました。今でも長谷川繁雄先生が,HITAC10を車の荷台に積み込んでいた様子を覚えています。先生は,いつも朗らかで笑顔が印象的な人でした。プログラミング言語講習会は,京都ですと,京都商工会議所で部屋を借りて講習会を行ったりするわけです。当時の受講者は,島津製作所や立石電機(現オムロン)などの企業関係者が多く,皆さん真剣に受講されていたことが印象に残っています。これからコンピュータを学ぶのだという熱気に満ち溢れていました。
その後,私は設立間もない金沢工業大学に招かれ,情報処理工学科の設置のため,カリキュラム構築などに携わりました。東大,京大のほか全国で六つの大学に情報処理工学科が同時に設置され,その中の一つの設置に関わったわけです。この同じ時期に長谷川繁雄先生は,全日制京都コンピュータ学院の開設に向けて準備をしておられました。特段のバックグラウンドも持たない私人が,高校卒業者を主対象とする全日制のコンピュータ教育機関を設立したということは,奇跡に近い快挙だと思います。
時代は大学紛争花盛りの頃で,多くの大学がバリケード封鎖されるような激動の時代でもありました。そうした時期に全く新しいタイプの教育機関である全日制京都コンピュータ学院が設置されたということは,日本の教育史上の事件といっても過言ではないと私は思います。
その後,京都コンピュータ学院は,年々規模を拡大し,非常に目立つ存在でした。既成の大学では実現が困難であるコンピュータを学生に開放する自由実習制度や,理論を重視した本格的な教育内容などに対して,私の周囲でも京都コンピュータ学院の取り組みに羨望の念を抱き,高い評価をする人が多くいました。そのため,長谷川繁雄先生がお亡くなりになったと聞いた際には,とても驚き,残念でした。
縁あって,私は再び京都コンピュータ学院でお世話になることになりましたが,その決め手となったのは,京都コンピュータ学院には,既成の大学にはない情報教育のフロンティアがあると思ったことです。ここには夢があると思いました。時代を切り拓いてきた長谷川繁雄先生と靖子先生のパイオニア・スピリットが,学校の文化として生き続けているのだと思います。私は着任してから,マルチメディア分野に特化したメディア情報学科の開設や,ロチェスター工科大学との提携などに関わりました。また京都情報大学院大学の開学に際しては,カリキュラム設計に携わりました。
今後の我々の進むべき道について,私が指摘したいのは,さらなる国際化ということです。京都コンピュータ学院・京都情報大学院大学は,国際化においては,日本の大抵の大学よりも進んだ施策を行っていますが,さらにグローバル化の進む世界において対応すべきことがあります。海外の大学,例えば,EUなどにおいては,授業で使用される言語は複数というのが当たり前となってきています。日本の大学も今後,そうした状況への対応を迫られるでしょう。私は,そうした課題にも京都コンピュータ学院・京都情報大学院大学において先進的に取り組んで参りたいと思っております。
ここには夢があります。