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Accumu Vol.10

「専門家」から「非専門家」へ―「非専門職」のススメ―

京都コンピュータ学院 洛北校 校長 牧野 澄夫

●はじめに

工業化社会を「専門家の時代」― イヴァンイリイチ(*1)によれば「産業主義的」に制度化された「専門家」が社会をリードする ―と呼ぶならば21世紀高度情報化社会は「非専門家の時代」となるだろうあるいはならなければいけないと思う

イリイチは工業化社会を指して「産業主義的」といいまた「専門職帝国主義」の時代とも呼んだその社会では「人々は未来を思い描く仕事を専門的エリートに譲り渡してしまいがちである」(*2)人々は自分の人生を「専門家」の手に完全にゆだねてしまう危険の中にいるのだ

したがって「専門家」ならざる民衆の一人一人の手に自らの人生を設計する力を取り戻すことこれが今後我々にとって最重要の課題となるだろうそのための方策を提示したものがイリイチの著書でありそれはいわば「非専門職のススメ」である

これから私はイリイチを手引きにして21世紀に生きる若い人たちに「非専門家」として働く道を提案したい

①「専門家」―生涯ただ一の専門職を護り通す―という観念の呪縛

工業化社会では専門家と専門家ならざる民衆との双方が「専門家」の観念に縛られているしかし21世紀に働き始める若者は工業化社会とは大きくその性格を変えた新しい社会に出て行くことになる脱工業化社会すなわち高度情報化社会に生きる人たちは工業化社会に働く人の理想であった「専門家」とは異なる理念の下で働くべきであろう

まず若い人たちが「専門家」すなわち「生涯ただ一つの専門職を守り通す人」という固定観念から自由になった処で自己の人生設計を考えるならもっと広く豊かな人生が期待できるのではないか「生涯をかけたただ一つの仕事」という観念の呪縛をすりぬけ選択肢として年齢の進みとともに仕事も変えていき生涯に三つ四つの仕事をするこんな道を視野に入れて将来の設計を立てることを考えてはどうだろう

特に情報技術者の場合迅速をきわめる技術革新によりそれにつれてまた技術分野の迅速な拡大発展により同種の仕事の継続は望み難いところであろう

もちろん一つの仕事を続けることに比べて経済的に大きく不利にはならないという条件は必要だろうしかしそもそも現在では「専門家」として一つの仕事を続けていくこと自体が難しくなりまたもし続けたとしてもそのことが必ずしも有利とはいえない状況になりつつあるのではないか

「専門家」も「天職」もその概念の根底に「自分にとって唯一の仕事」という観念を宿しているこの「たった一つ」の思い込みから逃れることがまずもって必要である(大人の目にはどう見えようと若者たちもたとえ無意識にであっても「生涯続けるべき一つの仕事」という観念に縛られていると思う)

現在のところ仕事の観念はどんどん「やせほそっている」のではないか実際個々の仕事について我々はどれほど生き生きとしたイメージをもっているか「専門家」という名の下に実際の仕事の内実に関するイメージはますます矮小化され希薄なものとなってきているように思われるこれもひとえに民衆からかけ離れた「産業主義的」に制度化された「専門家」の増大によるものではないか

こうした傾向に歯止めをかけ仕事の観念の豊かさを回復することが求められるそれを可能にするのが情報の力ではないか

②若者たちの現状

バブル崩壊後振り返って90年代を指して「失われた10年」などと評論家はいうしかし今まさにスタート台に立った若者にとっては彼らの人生から「将来」が失われたようなそんな印象さえ持っているのではないだろうかおしなべて20歳の若者にとっては40歳の自分の姿50歳の自分の姿を思い描くのは一つ前の世代と比べても難しくなってきたのではないかしかしいつの時代でも人が「生きがい」をもつためには「将来はきっと今よりも良くなる」という確信に近い期待がどうしても必要なのである

若者は「自分が自分の主役になれない悩み」をかかえているといわれるところで「自分が自分の主役」になるためにはなによりもまず自分の価値を自ら認める自己承認が必要であるがそのためにはかえって他人から承認される必要がある山崎正和氏の言を借りれば「本来人間はたんに所得によってではなく他人の承認によって生きがいを覚える動物である」(*3)

「自分が自分の主役として」生きてゆくためには他人との間で「相互承認」が必要でありそれも日々の暮らしの中で相互承認がどうしても必要なのだとするなら働き方も自ずから工業化社会とは異なるものが考えられるのは当然であろう前記の山崎氏によれば相互承認を求めるがゆえに「対人職業」を希望する若者が増えているといわれるそして今後こうした「対人職業」の評価を上げることが大切だと主張される

若者には「働く人」のモデル(手本)が見つからないのではないか自分もああいう人になりたいという理想の人物像がもてないのではないだろうか(概して年長者に興味関心を持たないといえるかもしれないが)個々の仕事の内実についてのイメージがどんどんやせ細っているのも当然の結果であろう

それに関連して若者たちには働く上の「ルール」を知らないことからくる不安も大きいのではないだろうかそもそもマスコミをにぎわす大会社の「事件」は働く大人の間でも「ルール」がうまく機能していないことを示しているそうした事態をたとえ漠然とにしても見聞きする若者たちにとって「ルール」を知らぬことに由来した働くこと一般に対する不安が広がってもこれも当然であろう(時には「ルール」について浅薄な理解に基づく大きな誤解もあるだろう)

現代は情報があふれている社会だとよくいわれるところが以上のような「モデル」「ルール」に関する情報はほとんど伝わらないのが実情であるとすればこれはそれを知らない若者に一方的に責めを負わせる問題ではない情報化社会そのものに課せられた問題であろう

③「働く」ことの諸相

―「働きがい」には「公共性」が必要である

ドイツ生まれの政治思想家ハンナアレント(*4)はその著『人間の条件』の中で人間の活動力を以下のように分類している

一 生命をつなぐための「労働」

二 〈工作人〉(ものを作る人職人)の「仕事」

三 社会の中での社会の一員としての「活動」

「労働」は生きていくための必要に迫られたものであり当の人間は〈労働する動物〉と呼ばれる「仕事」はものを作る人〈工作人〉の働きでありそれは本来的に(目先の)目的を達成するための手段としてつまり有用性のゆえに存在するものであるこれに対して「活動」はまた「活動と言論」とも呼ばれる社会的活動でありそれが「行われるためにはその周囲に他人がいなければならない」(*5)

「労働」も「仕事」も「私的」な性格をもつところで「完全に私的な生活を送るということはなによりもまず真に人間的な生活に不可欠なものが『奪われている』deprivedということを意味する」つまりそれは「他人を見聞きすることを奪われ他人から見聞きされることを奪われる」のであるしたがって「労働」と「仕事」に「欠けているのは他人である」(*6)

これに対し「活動と言論」によって初めて「公的」な領域が現れる公共領域とは「私たちを一緒に集めるけれども同時に私たちがいわば体をぶつけ合って競走するのを阻止」(*7)するかたちで人と人との間に存在するものであるここに初めて人間が社会的動物としての人間となるのだこの状態は神にも野獣にも不可能な人間だけに特有なものでありそれを可能にするのが「活動」である人間が人間としての特有の「働きがい」を得ようとすれば「公共的」なものが必要なのである

④「専門職帝国主義」から「非専門職」へ

イヴァンイリイチの場合「働くこと」は次のように分類される

一 奴隷の「労働」

二 制度化された「操作的な働き」

三 「自立共生的(コンヴィヴィアル)な仕事」(*8)

「労働」については説明はいらないだろう「操作的な働き」とはなにか産業主義的社会にあっては「機械を操作し雇傭にともなう希少性のある特権を得る権利は資格づけの処理を前もって消費することによって取得されねばならない」(*9)といわれる学校制度の中で時間とお金をかけて勉強することにより特権的な(機械を操作する)資格を取得しここに「専門職」が誕生するのである

それに対してイリイチは反産業主義的(反工業化社会的)なしたがって反専門職的な「自立共生的(コンヴィヴィアル)な仕事」すなわち「非専門職」の復権こそが働く理想であると主張する

●「専門職」の弊害

イリイチは「専門職」の弊害の典型例として医療を取り上げる

「西欧の医師は原住民がそれと共生して行くことを学んでいた疾病に薬を濫用したその結果彼らは現代医療も生得の免疫も伝統的な文化も対抗できないような新しい系統の病気をつくりだした」(*10)

さらにはまた「人々は自分が病気だと言明する権利を失ってしまった」(*11)という我々は医者に病気だと認めてもらって初めて病人になれる当然のことながら医者の「専門分野」に入ってこないものは病気ではないことになる

総じて「専門職」がわれわれの生活のすべてをコントロールしているのだ彼はその事態を指して「専門職帝国主義」と呼ぶ

「国家と多国籍企業は拡大する国際的な専門職の帝国の手段と化している専門職帝国主義は政治的支配や経済的支配が打倒されたところでさえ凱歌ををあげている」(*12)

そこでは一般の民衆だけではなく実は専門家さえも「専門職」の犠牲であろう政治上の帝国主義と同じく

●「非専門職」の自由

イリイチはこの事態に「非専門職」を対置しその復権を唱える

「非専門職化とは天職の自由と病人が資格を持った医師の疑似宗教的な権威から得ている時折の元気づけとを改めて区別し直すことを意味する」(*13)

人間がそのもって生まれた多様多面的な力の一々をそれぞれ十分に発揮するかたちで働く時に必ず得られるであろう自己伸長の経験こそ天職に固有のものであるそこには自由がありよろこびにあふれたものとなるそれに対し絶対的な権威をまとう「専門職」としての医師からさずかる元気づけは患者にとって決して真の解放自由ではなく真正のよろこびとはならない「非専門職化」とは「専門職」を越えてそうした真に自由な人間的な世界を目指すものである

「人々は生まれながらにして治療したり慰めたり移動したり学んだり自分の家を建てたり死者を葬ったりする能力をもっている」(*14)

「自分が鍛冶屋にならなくても鍛冶屋の仕事を十分に理解することはできる食べ物の調理法を知るのにコックになる必要はないひろくわけもたれた知識とそれを活用する能力とのこういった結合は自立共生的な道具が優越する社会の特徴である」(*15)

●「コンヴィヴィアリティの道具」

「自立共生的道具とはそれを用いる各人におのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである」(*16)

「専門職」を越えて「非専門職」の自由さを実現するためには「コンヴィヴィアリティのための道具」が必要である

「人々は自分のかわりに働いてくれる道具ではなく自分とともに働いてくれる新しい道具を必要としている」(*17)

「自分のかわりに働いてくれる道具」を使うのが「専門職」の「操作的な働き」であり「道具とともに働く」のが「非専門職」であるところでパソコンがそんな道具になる可能性はないだろうか

初期のパソコン開発者リーフェルゼンシュタインは「コンヴィヴィアリティの道具」というこのイリイチの思想に大きな感銘を受けて“SOL”や“オズボーン1”を開発したという(*18)パソコンというけたはずれに強力かつ魅力的な機械を「非専門職」としての働きの道具真に「自分とともに働く道具」へ方位を定めることが求められているといえよう実際「専門職」としての情報技術者も現実に存在しているそして後者の情報技術者を無視することはできないさらにいえばこの分野では「専門職」と「非専門職」の区分ははるかにあいまいになってきているのではないか他の分野に先駆けて全体として「非専門職化」してゆくことが期待できるそれこそが脱工業化社会としての高度情報化社会の値打ちであろう

⑤三つ四つの仕事(職)を

将来の人間は「他の諸職業のいだく関心もやしなうとともに他の諸職業の行う活動も追求しながら多職業的になる方向に進むであろう一人の人間のもつすべての能力を発揮する方が職業や地位を表示するバッジを手に入れるより重要になるであろう」(L.マンフォード *19)

「多くの職業をこなす人間」のイメージとは「20代30代40代50代と年齢とともに職業を変えてゆく」ものではないか(単に管理職になってゆくだけではなく)過去の経験をもとに全く新しい仕事に新たに挑戦し自己のうちに隠れていた力を発見してゆく道であろうそんなことが考えられないか

前に述べたように若者が職業を選べないなにをしたいか分からないのは「生涯続けるべき一つの仕事」という固定観念によるところも大きいのではないかそれが「専門職」のイメージでありこれに対し「非専門職」のイメージはというと素人未熟練工になりそうだしかし柳田國男にはこんな言葉が出てくる

「家業と職業との二つの語には前にはかなり明瞭な区別があった職はそれぞれの技術に拠った生き方であるゆえに多能な人ならば何度でも変えてよかったたとえば鉦打聖の七変化などといって七つの職業を毎日のようにちがえてやってくるものさえあった」(*20)

●「創始」―新しく始めること

一つの仕事も完成できないのに三つ四つとは何事かという非難もあろうこれは一生をかけて一つの「作品」をつくり上げるのが万人の理想であるべきだという考えによるしかしこれがいかに実際の人々のいとなみからかけ離れていることか「自分の一生をかけた作品」の実感を持てない人がいかに多いか「三つ四つの仕事」とは三度四度と人は一から始められるということなのだ

「人間である以上止めることができないのがこの創始(イニシアティブ)であり人間を人間たらしめるのもこの創始である」(ハンナアレント *21)これこそが人間のしるしなのだ他の仕事を通して得た経験が役立たないはずがないだろう仕事を通してつくり上げた人間性が役に立たないことがあろうか(もし役に立たないとしたらそれは現在の働く環境がよくないことを示すものではないのか)同種の仕事を続けながらスキルアップしてより給料のいいところへ移るだけが唯一の道ではないのだ

人はいくつもの力をもっている人の一生とはそうした種々の力を一つ一つ発揮してゆくことではないのかたまたま出会ったあるいはあてがわれたたった一つの仕事で一生を終えることより他に我々にできることはないのか働くことが生きることの中で占める割合を考えるなら三つ四つの仕事をすることはまさに三つ四つの人生を生きることではないのか30代40代で新しいことにチャレンジできる若さ精神の自由さこそが生きている証ではないだろうか

●情報の共有化公共化について

高度情報化社会だからこそ新しい仕事に挑戦できるといえる働く人たちが一人一人個人的に頭の中に情報(ノウハウ)を蓄えている時代には新人はベテランのたどった道をもう一度忠実に後追いするより外に道はなかったベテランに追いつき追い越すことは至難の業であったしたがっていつでも新たに別の仕事を始めようとする時まず問題となるのは当の仕事に関する情報であろう全く情報をもたないで仕事を始めることはできないしそんな状態ではまず始める意欲もわいてこないだろう

ところで高度情報化社会は本来の傾向として情報の私蔵を排し情報の共有化からさらに情報の公共化をめざすものである(ここで取り上げている情報は単なる「マニュアル」だけを考えているのではない「マニュアル通り」に働くことだけではそもそも働く歓びが得られるか新しい仕事にチャレンジする意欲がわいてくるだろうか)

情報の共有化公共化がうまく進むならば多くの人に新しい仕事にチャレンジする可能性が開かれてくると思われるその意味で情報技術者に期待されるところは大きい

●希望について

「中卒7割高卒5割大卒3割」といわれる就職後3年以内に離職する割合である自分の希望と違うといって簡単に仕事を離れる若者に対して「いまどきの若い者は」という叱責の言葉がつねに聞かれる

しかしこの議論にはおかしいところがあると思われる非難する大人は「明確な希望をもて」といい離職する若者も「これは自分の希望ではないから辞める」という大人も若者もともに「明確な(たった一つの)希望」が可能だと考えているのではないかその限りここにも「専門家」の観念が影を落としている

実は希望はいつでもあいまいでありぼんやりしているものではないかその限り「希望がはっきりしていないのはおかしい」という大人たちの非難はあたらない同時に「自分の希望と違う」という若者の方にも問題がある希望は(少なくとも)最初はぼんやりしているものだその時「自分の希望と違う」とはどういうことかそれは実は希望ではなくて目先の欲望期待というものではないのかいくらいくらのお金があるいは自由になる時間がほしい今すぐ注目されたいもっと楽な仕事がしたいベンツに乗りたいこれらはすべて希望ではなく目先の欲望であるたとえば宝くじにでも当たればすぐにでも実現可能なものは欲望であって希望ではない手にとって目の前にもちだすことができるのは欲望であって希望ではない希望はもっとぼんやりしているからこそ希望ではないか目前の欲望に比べてぼんやりしているがしかしだからこそ生きる力になるものが希望である(*22)

あふれる情報は欲望をかきたてはしても希望を育てる役には立たないことも多いしかし希望を育てるのも情報の力ではないか仕事の内実についてのイメージを豊かなものにすることを通して情報の力が希望を育てることも可能ではないだろうか

●おわりに

ハンナアレントにこんな言葉がある「ある人の「正体」(フー)というのはその人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり重要であると信じることは人間的自負にとって欠くべからざる要素である『医者とか菓子屋とか名家の召使いなどは彼らがなにをなしたかによってさらにはなにをなそうとするつもりであったかによってさえ判断されてしかるべきだしかし偉大な人物というのは彼らがなにであるかによって判断されるのである』ただ野卑な人だけが卑屈にも自負を自分のなしたことに求めるであろうこのような人はこの卑屈さによって自分自身の能力の『奴隷や囚人』になるのである」(*23)

私が生きて行くのであって仕事が起きて働いているのではないまた私は〈労働する動物〉でもない私はホモサピエンス〈智恵あるヒト〉である仕事をしていないと人間ではなくなる そんなことはないはずだなにもしていなくても私のはずだ

これに対して「専門職」を離れてしたがって仕事を離れては「専門家」はありえない皮肉な見方をするなら「専門家」とはアレントの言葉を借りれば自ら望んで「自分自身の能力の『奴隷や囚人』になった人」といえるかもしれない

「専門職」を越えて私の内にあるはずの多様な力を十全に発揮する活動を続ける中で「私は私だ」といえる私になりたいものです

*1 イヴァンイリイチは1926年生まれオーストリア出身でラテンアメリカで活動している社会思想家

*2 イヴァンイリイチ著 渡辺京二梨佐訳『コンヴィヴィアリティのための道具』(日本エディタースクール出版部)

*3 山崎正和読売新聞(2000年5月29日)「平等感ある社会へ」より

*4 ハンナアレント(1906~75)は政治思想家ドイツのユダヤ人家庭に生まれ後にアメリカに亡命引用は志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫)より

*5 同書 P.304

*6 同書 P.87

*7 同書 P.79

*8 コンヴィヴィアリティ(conviviality)を英和辞典でひけば「宴会」「宴会好き」「陽気さ」等の訳語がみつかる原義からいえば「一緒に」+「生きる」でありそこから「みんな一緒に陽気に騒ぐ」「宴会」という意味になってきた

イリイチは「専門家」社会を越えた理想の「新しい社会」を指してこの言葉を使うそこでは「専門家」が消えてみんなが「非専門職」に従事しともに助け合い生き生きと楽しく暮らすのである

こんな言葉が見つかる現在人類が直面する最大の問題である「環境危機の唯一の解決案はもし自分らがともに仕事をしたがいに世話しあうことができるならば自分たちは今より幸わせになるのだという洞察を人々がわけもつことなのである

「ともに仕事をしたがいに世話しあう(「専門家」ではない)人々がわけもつ」といった言葉使いにもそれがあらわれている

*9 イヴァンイリイチ 前掲書 P.61

*10 同書 P.6

*11 同書 P.10

*12 同書 P.8081

*13 同書 P.67

*14 同書 P.102

*15 同書 P.110

*16 同書 P.39

*17 同書 P.17

*18 古瀬幸広廣瀬克哉著『インターネットが変える世界』(岩波新書)第一章

*19 L. マンフォード著 久野収訳『人間 ―過去現在未来』(下)(岩波新書) P.208

*20 柳田國男『明治大正史世相編(下)』(講談社学術文庫) P.89

*21 ハンナアレント 前掲書 P.287

*22 三木清『人生論ノート』(新潮文庫) P.127

*23 ハンナアレント 前掲書 P.338

この著者の他の記事を読む
牧野 澄夫
Sumio Makino
  • 京都大学大学院文学研究科博士課程修了
  • 専門は「西洋哲学史」
  • 京都コンピュータ学院副学院長京都コンピュータ学院京都駅校前校長

上記の肩書経歴等はアキューム15号発刊当時のものです