ポーランド行きが決定した。学院広報部から私と彩プロダクションから寺島SVビデオ,ふたりだけが渡欧することとなった。スケジュールは予算の都合もあって例のごとく超ハードである。
広報部の取材旅行は,重い機材を担いで夜討朝駆の毎日が続くので,取材旅行中に倒れる者も出てくる。昨年のタイ行は,彩プロダクションから映像担当の寺島SVビデオ,ロチェスター工科大学から6×6スチールカメラ担当のアキラハッセルブラッド,学院からは湯下浮沈爆風,そして35mm担当の私の総勢四人のスタッフ構成であった。3日目にハッセルブラッドを振り回しているアキラが倒れ,次の日は私が脱水症状を起こし,五日目には寺島SVビデオが胃炎でダウンした。
朝はやくからバンに乗って舗装の良くない街を走り回り,目的地に着いたら,機材を下ろして担いで練り歩く。強烈な日差しの下で,汗も尽きて声も嗄れる。日が暮れるとタイ文部省の方々始め,関係各位に夕食会に招かれるが,ビールが命の水であり過ぎるのは無論,タイ料理が滅法美味である故に食べ過ぎ飲み過ぎては,寝られなくなって後で苦しむ。車に揺れる,陽に炙られる,機材に押し潰される,グリーンチリに舌と胃壁を焼かれて一日が終わり,次の日が始まる。完全に体育会系シゴキ合宿のノリであった。
さて,今回のポーランド行であるが,タイでの一週間が熟知され過ぎていたようで,広報部からは同行希望者が出ない。湯下浮沈爆風は,他の仕事があるから抜けないほうがいいと言葉を濁す。エディター山崎玲瓏大将には,この忙しいときに日本を出られぬと怒鳴られ,マダム横須賀マンボはパスポート取得の日数が間に合わぬ。仕方がないので私が35mmと6×45のスチールカメラと,ビデオ三脚運びと照明,そしてエディターを兼務することとなった。そして第一に,今回はポーランド文部省との折衝も重要な任務であり,そのための書類も忘れられぬ。必要十分のバッテリーを含めて,機材の総重量は120kgを超える。寺島SVビデオと私の重装備,占めて250kgの体育会系取材班は,ルフトハンザに積み込まれることとなった。
2年前の政変で共産主義政権が倒れ,民主化されたポーランドへ行くにあたり,ルフトハンザであるのをいいことに,一日ベルリンに立ち寄ることを考えた。同じく共産主義に訣別した旧東ドイツをのぞいてみようと考えたのだが,余計な日程を加算するものだから当然行程はよりハードになる。その分も含めてスタミナを充分に付けていく必要があるゾと,悪知恵を絞ったら,あったあった,香港である。ルフトハンザでポーランドに行くには,香港を経由し,一度ドイツ国内で乗り継がねばならない。すなわち,それぞれの乗り継ぎの空港で入国手続きを取れば,同一の運賃ですべての目的が達せられるのである。これは幸いとベルリンで一日,香港で半日の休暇を取ってJ先生に会うことに決め込んだ。
アキュームを創刊しておきながら、ここしばらく全く書いていないので,編集スタッフの諸兄姉には,かねてより有言無言のプレッシャーをかけられている。ならばよし,それらの街を訪れて,何か書くことにしようじゃないか。先発のワルシャワ講習会担当のスタッフ達,東保ニコニコニッコリ,河尻情熱火柱,小渕南国豪放の三先生と,国際情報処理科の二人の賢い学生達に,多少うしろめたさも感じつつ,香港とベルリンに行かねばならない理由は明確になる。止めてくれるなおっかさん,香港飲茶が呼んでいる。
ねばならないのかそうしたいのか,何だかよくわからないが,以上により,現在時点の激動の世界を自身の目で見,記事を書くことと相なった。ベルリンとワルシャワ,共産主義に訣別した街と,そして極限的資本主義から共産主義大国へと吸収される運命の大都会,香港と。
香港啓徳空港のビルを出ると向こうの方に崩れかかった九龍の城が見える。英国領香港の中にあって中国政府が主権を持つ一角であるが,独立国家の形態を取るという,九龍城砦(ガウロンセンツアイ)である。阿片窟,賭博場,暗黒街のあらゆる要素が結集して,100年以上に渡って数々の魔窟伝説を生み続けてきた場所でもある。周恩来によって,城砦の主権は中華人民共和国に在りと声明が発せられながら統治されず、英国香港政庁はまた十全に支配下にできず,といった共産主義と資本主義のはざまのブラックホールである。1997年の中国への返還を前に,その処遇が問題になり,強制収用と解体が行われつつあるが,住民の要求は充分な額の補償金だけで,立ち退き絶対反対という人はいないという。生活が補償されることと,住む場所の問題は別であるということなのだろうか。
さて,ガウロンセンツアイを横目で見ながら,日本からアポを取っておいたJ先生と,九龍の油麻地(ユマテ)の某店に行く。円卓に着いて,1997年の中国への返還をどのように考えるか,尋ねてみる。以下要約。
「―― 一時はカナダ始め他の国へ流出が流行った。特に天安門の一件で不安が一挙に高まり5万人以上が国外に流出した。現在少し落ち着いているが,それよりも有名な八百半など,日本の企業が続々入ってくることが興味深い。その影響か,カラオケや日本食がトレンドになっている。鰻丼や味噌汁はおしゃれである。―― ハイ,オ茶。」
普洱茶(ポウレイツァ)―― 日本でダイエットにいいとか,黴くさいとか言われるプーアル茶である。広州で飲茶というとこれが正統派。ふくよかに甘みが広がり,たっぷりとした厚みがありながら後口は爽やかである。
「―― 実際に外国に移住するにはお金が要るので,庶民には難しい。しかし大局的に見ると、今日の世界潮流は脱社会主義化であるし,世界金融センターである香港の現機能を中華人民共和国が捨てるわけがない。香港経済は強く、隣接する広東省に設立された香港企業で、香港内の製造業人口の倍に値する200万人が働いており,現在同省ではほぼ全域で香港ドルが通用する。華南一帯にはすでに,社会主義は言葉のみが残ると言う人もいる。―― マ,乾杯。」
老酒(ラオチュウ)―― 15年もの。米と赤麹で作る紹興酒。昔はどの家庭でも,娘が生まれたら瓶一杯の酒を作って封印し,家の何処かに埋めたという。娘が育って嫁ぐとき,嫁入りのマストアイテムとして十数年の歳華の結露を開いたのだそうな。酒飲みには少し甘すぎるきらいがあるが,濃厚重厚なまろやかな口当たりは,味味味味すべてを一体にまとめ上げて見事である。
「―― 中国本土は社会主義国ということになっているが,すでに市場経済原理が大都市近郊から徐々に取り入れられており,万元戸も沢山出現しているのは周知である。人民は金持ちになろうと希望に満ちて一所懸命働いている。南の方一帯は経済が高度に発展しつつあるので,政治は北に任せて経済は華南という風潮が定着してきた。―― ア,蝦餃ガ来マシタ。」
蝦餃(ハアカウ)―― 海老餃子。小さな蒸籠に兎の形をしたかわいいのが並んでいる。海老の砕身と豚の脂身が適切にブレンドされ、海の長所と陸の長所が相補う。組み合わせの妙で、噛み切られ分離しそうになる海老の身を豚脂がつなぎ止め,混ぜ合い共に薫り立つ。この脂身の加減が,日本には模倣しえない文化である。鮮にして芳香,純にして美味。
「―― 香港返還にあたって中国政府は一国家二体制を提唱し,香港の資本主義体制を50年間継続することを約したが,厳密に言えば本土はすでに資本主義化への道程にあるとも言えるし,全く背反する体制とはいえないだろう。―― ドウゾ。」
紅燒大裙翅(ホンシウタイクンチィ)―― 何時間もかけて徹底的に蒸されて,たっぷりと盛られたフカヒレのみの煮込み。どれほどの手が加えられたことか,広がりゆく味わいは大海原,とろとろつるりんと舌の上を滑って豊饒の海の彼方に消える。吽,嗚乎。
「―― 現実世界のよしなし事は,命名し概念を定義づけた途端に乖離が生ずる。共産主義も社会主義も,机上で構築された概念のままに現実に存在しうると誤解されるが,いざ実現したその瞬間から,すでに誰にもまだ認識しえない全く別個の現象なのである。国も政治も生き物である。いかに現実の次の頁を開くかが政治であって,現実を捩じ曲げて理論に近付けることではない筈だ。―― オ,コレハ美味イデスヨ。」
東坡肉(トウポウヨッ)―― 天下第一の食いしんぼう蘇東坡の創作と言われ,彼の好物であったそうな。旧く日本に伝播し変化した,長崎料理では欠かせない豚の角煮の原点である。偉大な作家はまた偉大な料理人であった。星霜遙けく隔てども,魂に染み入る純文学今ここにあり。五香粉の薫るところが独特で,舌の上でホロホロリと崩れ,迸る肉汁と弾け散る脂,猪肉の甘露の真髄を識る,ああ感涙むせぶ物語。
「―― 中国は4000年の間,分裂統合を繰り返してきた。その中で庶民は政治は自分達の生活とさほど関わりないと考えている。生活が危うくなれば誰にも頼らずに解決してきた。世界中に散じて各々根を張っている華僑がその証左である。いずれにしても,何となっても何とかなるだろうと考えるほかない。―― サア,コノ店ノ看板料理。」
北京烤鴨(パッキンハオアップ)―― ローストしたダックの皮を薄い餅で包んで食べる。日本によくあるそれは干涸びた焦げ皮を和紙のようなクレープでバサバサ包み,枯れ野原に味噌葱が萎びるばかりだが,これはこれは,ムッチリモッチリパオピンが口内至る所を愛撫し,ダックの皮からジュバジュバ沸き出る脂が総ての間隙を埋め尽くす。馥郁たる風雲が鼻喉に充満して,舌先から脳天にまで至福の電撃が走る。ためしに皮だけ,薄餅だけを別々に食べてみたが,どちらも奥行きのない枯草であった。それぞれが他方を無限に引き伸ばし,全く別の宇宙を形成する。一足す一は二ではないのである。鴨の皮の味を知り,麦を粉にして食することを知ってから,この二つの融合がここまで昇華するのに,幾変遷の順列組み合わせを経たか,何百年を要したか,好好好好。
政治が食卓の話題にしかならない程度に広東人は強いと思う。食を以って天と為すというのか,生活にかけるエナジーは右に出るものがいない。J先生も皿に料理がなくなると悲壮な顔で語り始めるが,次の料理が来ると喜々として語らなくなる。日本の感覚で返還を論ずるのは出過ぎた真似に過ぎないようだ。97年を目前にしてそれなりの危機感は蔓延しているのだが,街の喧騒を,人の営みを見るかぎりではただひたすら経済が発展するのみで,何も変わりそうに無いように思える。
香港は中国史の中の重要な一部分であるが,地理的には広大な大陸の尻尾である。香港が世界史で脚光を浴びたのは1世紀半前の阿片戦争からで,それまでは地方の漁村であった。イギリスの植民地として徹底した自由放任型の資本主義経済が発展し,中継貿易から加工貿易へ,そして世界の金融センターへと,村は街を経て,都会へと変貌を遂げてきた。
無論,イギリス統治の結果として様々な文化侵略も受けている。もとは道教,仏教の文化でありながらその影響によって,クリスチャンも多い。また若者の間では英語の名前で呼び合うのが通例となっており,クリスチャンは洗礼を受けてイングリッシュネームを得るが,そうでない家庭でも,ジミーとかキャッシーとか,中国名とは別に自分で勝手に英語名を決めている。婚姻儀礼の様式にしても中華と西洋のミックスチュアが多く,中華式の一連の風習の中に突然教会が重要な役割を果たしたりする。しかしその背後に堂々と横たわるのは,時間軸の正負総和にして4000年,地理平面は東西南北莫大平米の誰にも否定し得ない大中華である。羊頭狗肉のそしりを受けそうだが,その中にある大都会を一夜にして何を語り得ようか。
街の人と話し,街の雰囲気に包まれ,味覚の深淵に溺れて,その茫洋たる広大さに,その悠々たる深遠さに,ただひたすらおののく。味覚の深淵はまた文化の深遠でもある。開けゆく大陸の隅にあって,自身の観念は如何に変化しうるか,勝手な自分なりのアーバンアンソロポロジー,その程度のことさえ語れず甘露の玉杯にただ酩酊するのみである。
想うても届かない,考えても及ばない,開き直ったらその茫洋故に,気分が学生時代のように悠々浪々として来た。ドイツにて考えるをよしとし,ここはただフューエルの充填に努めよう,明日はベルリンに至るのである。邂逅を期して老酒と共に街を練り歩き,餅の助けを得て正月気分。悠々たる行旅,蒼天は明月に転じ,パッキンハオアップのおくびがでるぞ。浪々として星雲を望み,酔眼朦朧大陸を想う。蘇子は何杯空けたやら,ハウカウが胃壁を撫で回る。盆栽の大輪街角に周れば,秋菊佳色ありて白雪のごとし。露に濡れしその英を摘み,眼前忘憂の水に浮かぶれば,我が世を忘るるの情を遠くす。独宿相思うて香港に至り,頭を上げて明日に吟ずるや否や。李白一斗詩百編,弱輩一杯酩酊に至る。ともに必ずすべからく一飲三百杯なるべしや。嗚乎飛び来たりて終朝飯食美く,飛び去るに残して詩一遍。
暁闇 亘
影冷夜深月 影冷ヤカニ夜深ノ月
空斎酌酒頻 空斎酒ヲ酌ムコト頻ナリ
茫洋骸雪景 茫洋タル骸雪ノ景
担寂歳華新 担ダ寂トシテ歳華ハ新タナル
壁があった。いまは壁がない。
何年も前のことになるが,学生時代にバックパックを担いでヨーロッパを放浪していたことがある。学生時代というあまりにも自由な日々の中,時折垣間見る大人の世界の束縛や重圧と,あの時代特有の,茫漠として広がる無限の可能性とのアンビバレントに押し潰されそうになって,自身の観念は混濁し乱脈を極めていた。自由であり過ぎることは往々にして不自由なものでもある。360度の展望があるが故に,ねばならぬというゾレンが心底から沸きいでて全方向への欲求たるボーレンと対立し,何やら妙な状態に陥っていた。それら諸々の観念や情念のことは,学生時代を終えた後には忘れてしまったり,あるいは語るに足らぬ蒼い春の薄い記憶となってしまったのだが,その時はとにかくたまらなくなって日本を飛び出したのであった。
南欧を一巡りした後,スイスを経て壁に囲われた西ベルリンに辿り着いたのは,旅を始めて一箇月を過ぎた頃であった。バルセロナの暖かい日差しや,ローマの柔らかな風,ユングフラウの透き通った空気の中に,漂いながら自身の諸々の観念を浄化してきて,メガロポリス,ベルリンに至った。6月下旬の暑い日のことである。
壁があった。シティを壁が取り巻いていた。西側から道路の上,**シュトラーセに路面電車が走り,いきなり壁で終わる。壁が立ちはだかる。線路はどこまでも平行に続く筈なのに,壁の根本に吸い込まれて,消える。誰にも何をも言わせぬ力強さで壁がその先を遮るのである。
壁には凡そ地球上にある色すべてを使って落書きが溢れている。アメリカのワイルドスタイルという映画の,ブレイクダンスを踊る黒人の絵や,私は何処々々から来た何某よという英語,この壁は数十の人々の血を吸っているとか,注意!壁を越えるな!とドイツ語。レーニンの顔,ヒットラーの似顔絵,鎌と鎚の共産主義マーク,ハーケンクロイツ,女性の一部分のカリカチュア,ドクロの絵,くたばれ世の中と個人的な罵倒,戦車の漫画,十字架,スヌーピー,一切が無秩序に氾濫して壁に貼り付いている。その壁で街がぶった切られている。断層だ。しゅう曲が渦巻いている。言葉は出なかった。あらゆる色の錯乱と文字の炸裂の前にあって,ただ立ち盡すのみであった。
壁の向こうに,先祖代々の付き合いのお隣さんは消え去っていた。国境線で切断されたビルは,断面をコンクリートで白く塗り固められて,無人のまま屹立している。壁の向こうには監視塔が数十メートルおきにしつらえてあって,銃を持った東独の兵士が水色の空を背にこちらを見ている。壁を乗り越えると,殺される。何よりも,何よりも,もっと多くの色と,もっと複雑な得体の知れないカオスをさらして壁が立ちふさがって,その向こうに銃口が見えたのである。そして壁の下には乗り越えようとして殺された人の墓標が幾つも,生々しい花々に囲まれているのである。浄化し整理され,硝子のように透き通りつつあった筈の自身の観念体系は,粉々に砕かれ攪拌され,再び渾沌に引き戻された。確固として乗り越えることのできない障壁を現実の光景として見たのである。彼方には,絶望が牙を剥いていた。
1989年11月,壁が開放されたということを日本で知った。その時にどうしてもベルリンに来たかったが叶わず,2年を経てやっと訪れることができたのである。
壁はなくなっていた。徹底して,無い。東西ベルリンの市民にとって,よほどの怨恨の対象であったらしく,割られ倒され破壊され尽くしたようである。
壁を目前にして,かつて茫然と立ち盡していた場所はただの道路となり,昔の西ベルリンから東ベルリンへと,極く普通の町並みに変貌していた。錯乱する色で塗り潰されていた壁は無色透明になり,見ることのできなかった東側が見える。そこに行ける。色即是空である。
壁で囲われていたブランデンブルグ門は,今は歩行者天国になっていて,冷たい秋空の下に露店が立ち並ぶ。暖かいソーセージや,ホットワインと並んで,湯気の合間に壁のかけらが土産になって売られている。門の前で中世の装束に身を包んだ大道芸人が手巻オルガンで柔和なメロディーを奏でている。かつての西から東へと門をくぐって歩けば,ヨーロッパのどの街にもある,旧い建築物に包まれるあの雰囲気を味わえるのだ。有名なチャーリーズゲートは歴史的記念碑になり,兵士も銃口も鉄条網の跡形も無い。壁は極く僅かの部分として切り出されて,石碑のように誇らしげに,柵に囲われて鎮座していた。
何年もの期間を経て,同じ場所で再び観念は瞬間瓦解した。無い壁を前にして,かつてこの手で触れ,かつてこの目で見た絵や文字の咆哮の総てを思い出す。滅失していた煌めきの焦燥感が再燃する。大人になって忘却の彼岸に消えていた筈の,あの漠とした荒野の感覚が蘇る。空即是色。政治と共に街の外観は変わり,時代と共に一切は変貌を遂げる。そして一体何が振り回されるのか。紅顔の文学青年の心意気だけでもなく,建築物の表層だけでもなく。人である。個である。そしてそれらの集合体である社会は豹変する。それにより文化は,やや遅いスピードではあるけれども,確実に転変し始めるのだ。
一時の茫然と記憶の再編を経て,もう青年でない証拠か,しばらくすれば落ち着いてきた。かつての西と東のそれぞれの中心街で適当な場所に座り込み,マン・ウオッチングを試みる。ストレンジャーとしてのスタンスで,街を歩く人々の表情や着物や立居振舞いから,異なる点を抽出しようという訳である。それぞれ一定の時間を観察した結果,多少の経済格差こそあれ,人々の持つエナジーも何も,殆ど変わりはないように見受けられた。同じ文化の人々としてのみ認識しうるのである。かつて東西ベルリンはそれぞれ異なる文化の様相を呈していた筈なのだが,確固としてベルリンは今,ひとつになっていた。
マレーネ・ディートリッヒを生んだ街,ベルリンには大都会の頽廃の美とでもいうべき雰囲気がある。有名なベルリンツォー駅の前は今も昔もやさぐれ者達の溜まり場で,明らかにドラッグでラリっている者が警官と何やらもめている。そんな光景は西ベルリンであった頃と変わらない。いかがわしい店と,普通の商店が隣り合って繁華街を構成していて,通りを走る車には,贅の頂点を極めた高級車も多い。豪奢なレストランの前にきらびやかな紳士淑女が群れて,かつてより以上にメガロポリスの息吹が立ち昇る。東西の統一によって経済は確かにスローダウンし,ドイツは正念場であると語られるけれども,人々の持つエナジーは決して高低の平均値を取るものではない。黄金の1920年代から連綿と継承されるそれは,統合により明らかに高まっているように思う。
街を歩いていると大きなデモに出くわした。様々なプラカードを持って,老若男女がぞろぞろ歩いてきた。先頭に毛沢東とレーニンの肖像が見えたので,通りすがりのフラウにコミュニストのデモかと尋ねたら,とんでもないと首を振った。時折マイクでシュプレヒコールが促されるが,みんなのんびりと応えている。東西ドイツの統合で経済は下降ぎみで,加えて中近東からの出稼ぎが多く,失業が増えているという。共産主義はもうごめんだ,もっと経済を発展させようというデモである。子連れや車椅子の老人を伴った,家族連れのにこやかな集団である。ベルリンはひとつになった。ドイツの統一は実現された。キンダーもシェーナーフロイラインも,みんな平和にデモ行進をしている。それは決して飢餓感から来るものではなく,静かな,柔らかな,それでいて深奥からのエナジーに満ちた,未来への気概を感じるものであった。
ワルシャワ行きの飛行機に乗る朝に,少し時間があったのでクーダム通りで見つけた古本屋に入ってみた。当たり前のように200年,300年前の書籍が並んでおり,16世紀の本も珍しくなく,17世紀の図解入り医学書などもある。日常生活の中に数百年の歴史が平然と存在するのがヨーロッパである。土産にするために100年以上前の聖書や雑本を漁っていたら,硝子棚の中にトーマス・マンの初版本を見つけた。発行年は1914年,ベルリンとある。フルトヴェングラーやブレヒト達が,ベルリンで胎動を始めた頃である。Das Wunderfindの初版を手にとって,幾十幾百年という歴史の流れが今ここにあるのを体感する。歴史に節目があるとするならば,壁の開放はその一つであったことに疑いはない。幸いにもそんな節目の,前後を見たことになるのだろうか。歴史の中のある時代,28年と2箇月26日に渡って,ベルリンは壁で二分されていた。壁が開放された1989年11月9日,その日までの間に壁を乗り越え逃げようとして,死んだ人は80名を数えたという。
かつてベルリンを訪れたあのとき,観念の中に朧に存在を示しつつあった壁は,現実の光景を見ることによって確実に現前したのであった。壁を乗り越えようとした人々の墓標は,生花を掛けられて陽に照らされていたのだが,観念の中に飛入り込んで連立し,自身の情念のある部分をその中に封じ込めたのであった。学生でなくなって幾年もが経つ内に,それら諸々の想念や煌めきの感覚は,忘却の彼方に日々遠退き,1年の大半を忙殺する日常の呪縛がますます大きく重くのし掛かるばかりであったのだが,蒼春の輝煌は今に至って確固たる残存を示した。そしてまた,働き始めて何年を経た頃からだろうか,絶え間なく押し寄せるゾレンの積層を一枚一枚処理していく毎に,頁を開く自身の意識が徐々に育成されていったのである。ゾレンの集積はボーレンに転化し始め,次章を期する意識はゾレンのみによって支えられるのでは無くなってきた。壁が在ったこと,壁が無くなったこと。壁があると想っていた頃,壁のことなど忘れていた頃。壁のことなど忘れていた頃。壁を見たこと,壁が見えなくなったこと。両極に対置する観念や想念が,時間軸の正と負の両部曼茶羅を交互に往来する。現実の壁の存在はまた,観念の所産でもあった筈だ。異なる時代に異なる立場で,同じ地を訪れ同じ感覚に包まれる。同じ地でありながら異なる様相に面し,同じ感覚でありながら異なる意識で対峙した。時代の節目と有為転変を越えれば,人は歴史と共に生き始めるという。節目の向こうは隔絶されて消滅したのではなく,節目の手前は独立して存在するものでもない。学生時代も今という時も,異なる意識も様相も,一切は明滅しながらも自身と共にある,それら総ての存在を決定する意識が今在ることを自覚しながら。
午前の陽光が通りに面した窓から差し込んで,黄ばんだページからトーマス・マンの旧い活字を浮かび上がらせる。黴や埃の入り交じった匂いと柔らかな光に包まれて,整然と棚に並ぶ幾百年を確信する。古本を繰りながら歴史の節目の一つ前の,そのときのみにしか存在し得なかった頃を再度反芻してみる。学生時代の熱い日,自身は壁で囲われてベルリンにいた。
いまいちど
シュトルム
いまいちど わがひざにおちる情熱の紅いバラの花
いまいちど わがこころにしみいるおとめのこの美しいひとみ
いまいちど わがむねにつたわるおとめの胸のつよいときめき
いまいちど わがひたいにあたる六月の あつい 夏の風
むかしむかしの物語,
欝蒼茂る森の中,
ヴィスワ河のほとりにて,
貧しい漁師の住むという。
そのころあたりは町もなく,
日々の仕事に精だして,
魚を捕っては暮らしてた。
ある日ある朝河に出て,
網のぞき見れば人魚姫,
驚き妻と思案する。
哀れ悲しや人魚姫,
河に帰せと泣くばかり。
あまりの涙に困り果て,
急いで河に解き放つ。
水に喜ぶ人魚姫,
夫婦に言葉を残し去る,
ここに街を作られよ,
人が集まり来ることぞ。
日に日に人はやってきて,
となりにむかいに住み始め,
やがては街ができたとさ。
夫婦名前はワルスとサワ,
ワルシャワの街の興り成る。
ワルス(Wars)とサワ(Zawa)が創ったと言い伝えられる街,ワルシャワに来た。機内から見下ろすワルシャワの街には,正午過ぎなのに低い角度で柔らかく陽がさしていて,緯度の高い北国であることを示している。宇宙物理学を原点とする学院のスタッフにとって,地動説を唱えた偉大な天文学者,コペルニクスの国に来たというだけで感慨深い。
ワルシャワ大学の門の前に,ショパンの心臓の眠る聖十字架教会があり,近くにそびえるポーランド科学アカデミーの前には,コペルニクスの胴像がある。
コペルニクスは1473年,西プロイセンのトルンに生まれ,クラクフ大学に初め医学と神学を,後に数学と天文学を学んだ。後年イタリアに留学し,天文学,医学と法学を修め,1505年ポーランドに帰って僧籍に入る。その後6年間ハイルスベルグで叔父のもとに侍医をしていたが,12年フラウエンブルグに移り,寺院の住職となって生涯を終えた。有名な地動説は1530年に著述された「天体の回転について」に載っているが,教会からの迫害を恐れた故に,同書は長期に渡って陽の目を見なかった。後年の出版に際して最初の校正が届けられとき,彼はすでに臨終の床にあったという。天才コペルニクスは,数学と法学を修めた医師であり,僧侶であった。16世紀のポーランドを代表する知性である。
そしてまたポーランドは,初代学院長の愛したショパンの生まれ故郷でもある。
「ピアノの詩人」と言われるショパンは,ワルシャワから西へ50キロのソハチェフ県ジェラゾヴァ・ヴォラで家庭教師で生計をたてる父と家政婦をしていた母のもとに生まれた。幼い頃から母や姉の弾くピアノに関心を示し,6歳から正式に習い始め,11歳のときにはその師を凌いだという。その後ショパンに本格的な教育を受けさせるため,一家はワルシャワ市内に移り住んだ。ポーランドの独自の民族舞曲であるマズルカや,ポロネーズなどはこの頃から作曲していたという。1831年パリに移り,かの女流大作家ジョルジュ・サンドとの同棲期間を経て,多くの前奏曲,スケルツォ,「雨だれ」など不朽の名作を残し,パリに没した。遺体には故郷の土がかけられてパリのペール・ラ・シェーズに埋葬されたが,心臓のみがワルシャワに送られ,聖十字架教会に奉られている。ポーランド19世紀の感性の代表と言えようか。
一般にポーランドではインテリゲンチャや芸術家に対する社会的評価は高く,長く続いた共産主義政権の下でも,両者はずいぶん優遇された。2年前の政変で同政権は倒れ,民主化が進められているが,そのなかにあって唯一,芸術家の育成面がマイナスに転じたという。芸術を続けるには十分な経済的基盤が必要となる。それまで芸術家達は共産主義政権の庇護の下,いくらでも好きなように国家予算を使えたが,未完成の自由主義経済システムにあっては自ら稼がねばならない。したがってより実入りの良い西側へと,多くの芸術家達が流出しているという。
現代のポーランドが生んだ芸術家の卵達が大きく育って祖国に帰ってくるまで,今しばらくの経済成長を待たねばならないが,それも近い将来のことだろう。
パソコンの大量寄贈と現地講習会の実施という,京都コンピュータ学院による国際情報教育振興事業もここポーランドで三ヵ国目である。今回のチーフは学院の誇る講師中,最も朗らか最もニコヤカの,東保先生である。授業を取材しながら今さらながらに驚くのは,その進め方のテンポの良さであった。およそ五分に一回は教室が爆笑に包まれるのである。日本での講義でもそうだが,ジョークを飛ばしクラスの注意をひいておいて,要点をスパッと刺す。流暢なポーランド語で講義がなされたため,詳細はわからなかったが,ワルシャワまで来てもやっぱり同じ調子で,爆笑と集中がリズムよく繰り返され,気がついたら膨大な情報量が伝授されている。
それを補って余り在るのが,燃え上がる火柱のように,情熱的に生徒と対峙する河尻先生と,生まれ故郷和歌山の,広がる大海原のように相手を包み込んでしまう小渕先生である。ときには横から,ときには中心となって,それぞれ火柱が上がったり,大海の高波がでたり,爆笑と火柱と疾風怒濤の連続であった。
対する受講生達,大半が教育関係者であったので,授業はプログラミング技法よりも,そのパソコンを使って「どのように教育を行うか」といった教育方法論的なものとなった。当然ながら新しい教育分野にかける意気込みたるや凄まじく,一言たりとも聞き逃すまいと,真剣そのものであった。横でシャッターの音をたてて何度も睨まれ,たいへん恐縮した次第である。
実は彼ら受講生は,今までに例を見ぬほど様々な知識進度で,講師陣をずいぶん悩ませた。コンピュータに関する知識が皆無の小学校の先生から,大学で情報工学を教えている先生,初心者からエキスパートまで,数段階のレベルの混在であった。
しかしその混在をまとめ上げるのに,重要な役割を果たしたのが国際情報処理科の学生,村田君と貝川君である。二人は教室の中を歩き回り,個々の質問につぎつぎと答えていった。コミュニケーションは英語とジェスチャーでなされたが,プログラム言語は万国共通語である。回を重ねるにつれ情報は伝達され,互いに理解されるようになっていった。また,受講生の要請により,予定外のコンピュータグラフィックスの講義も行われたが,その際,村田君と貝川君は徹夜でデモンストレーションプログラムを作成し,受講生の拍手喝采を浴びた。
そのような努力と情熱のキャッチボールにより,友情が芽生えていったのである。二人は受講生の自宅に招待され,ポーランドの家庭料理を御馳走されたり,ショッピングに連れていってもらったり,心暖まる交流を経験した。
学院の講習期間中に時を同じくして,在ポーランド日本大使館主催による日本文化月間のフェスティバルが開かれた。日本の文化を紹介するため,日本映画の上映,日本人写真家の作品展,日本・ポーランドの経済協力に関するシンポジウム,そして日本の風俗文化の紹介,空手や剣道等々,催しは多岐に渡る。そのなかに,京都コンピュータ学院は「日本の情報処理教育」と題して,講演会とパソコンのデモンストレーションを行った。ここでも東保先生はワルシャワ中から参加した聴衆を,爆笑と集中のリズムに巻き込み,多大な拍手を浴びていた。
学院のスタッフ達が重ねた努力がポーランドにとって,直接即座に有用であるのか否か,これから始まる未来の証明を待たねばなるまい。しかし今,少なくとも学院のスタッフ達にとって,とりわけ村田君と貝川君,二人の学生達には,価値ある体験であったことに疑いはない。彼らの得た経験は,学院に何らかの形で残り,後輩達に継承されていくことだろう。学院は遥かユーラシア大陸の彼方,コペルニクスとショパンの国,知性と感性のポーランドに足跡を残したのである。
印象に残る出会いがあった。ある夕暮れどき,街の広場に夜遅くまでスケートボードに興じている少年達がいた。ちょっと不良っぽい三人組で,11歳と13歳だと言っていたが,こちらがタジタジするほど上手に英語を話す。アメリカンデザインのトレーナーを着ていて,いずれアメリカに留学するのだと,大きなことを言う。
スケボーであれ,MTBであれ,アメリカ発の若者文化は,日本へは早いけれども,ヨーロッパには遅くに伝播する。理由はおそらくヨーロッパの人々の保守性とプラドであると思われるが,いまワルシャワの「僕達」の間では,アメリカの大学のトレーナーを着てスケボーするのがトレンディであるらしい。
初めは警戒していたが,話すにつれうちとけて,スケボーの自慢のテクニックの数々を見せてくれた。そして11歳の少年が瞳をキラキラ輝かせ,自分の夢を語る。これからポーランドは大きくなるんだ。英語を話せるのは学校で習っているからだけど,いつかアメリカの大学に行くから,真面目に勉強してるんだ。アメリカに行ってどうするのか尋ねると,少し躊躇して,ワルシャワに帰ってくるんだという。その後は,と追い撃ちをかけると,日本人みたいなビジネスマンになると言う。どうも冒され過ぎのような気になったが,目が煌々としている。ま,いいか。目的をはっきり持つのはいいことだ。
君の先祖の中世の騎士は,馬に乗っていたんだろう,今日びはスケボーかい。イエースと叫びながらボードに乗って跳びはねる。遅くまで遊んでて,ママに怒られるゼ。ペアレンツは共働きで家には誰もいないんだ。家で一人でいるときは何してるの。ファミコンをしてる。おいおいほんまかいな。これには驚いた。TVゲームを持っていて,それが日本製だということをよく知っているのだ。カメラを向けると三人とも大得意で飛び上がる。日本のカメラはいいんだろ。ああそうだ,カメラは日本のはいいんだ。大学はアメリカが一番かい。アイ スィンク ソウ。
11歳の坊やが世界を価値判断の対象にしている。英語だけではなく,その無邪気なしたたかさに,視野の広さに驚かされるばかりであった。向こうの方に滑っていったかと思えば,回転して戻ってきて段から飛び降り,えらくワールドワイドな事をいう。夕闇の中,三人ともいつまでも広場を滑り回っていた。今にも世界中を駆け巡り始めそうな勢いであった。
大陸の三つの街を一時に見て感じたのは,それぞれに性格は異なるけれど,何らかのマンパワーが満ち溢れているということである。香港ではビジネスに走り回る人や旺盛に食べる人を見て,圧倒された。ベルリンでは壁の有無もさることながら,街を歩く人々の様々な表情がエナジーを感じさせた。ワルシャワでは受講生の熱意や,講演会に来ていた市民の眼差し,そしてスケボー少年の光輝たる微笑み。明らかに時代が大きなうねりを伴って,変わりつつあるように思う。
街は振動している。文化は急激に変化しつつある。ワルシャワの学生達もベルリンのデモ行進も,静かで穏やかにパワフルだ。
三つの街と京都を比すれば,バブルが弾けて不況感が漂っているにも拘らず,街は繁栄の布団の上で未だ午睡から覚めやらぬように想える。香港も,ベルリンも,ワルシャワも,胎動している。うかうかしてはいられぬぞ,世界は激動し始めているぞ,学生諸君。
何はともあれ問題を残さず第一回目のワルシャワ講習会を無事終えることができたのは,喜ばしいかぎりである。誇り高き芸術の国,ポーランドとの付き合いはまだ始まったばかりだ。これから何度も訪れることだろう,ポーランド文化の勉強もじっくりとしていこうと思う。日照が少なく,撮影可能な時間が予想以上に短く,加えて予定が変わって余裕がなくなり,いい写真は全く撮れなかった。ポーランド文部省で,ずいぶんな時間を打ち合わせ等に費やしたのだけれども,しかしそれはよりよい結果として,帰国後大きく開花した。また,今回は途中でダウンすることなく,総ての日程を取り敢えず元気に消化した。香港で心身が満たされ,ベルリンで頭が帰結した,為になしえた仕事であるということにしておこう。
壮々駿馬に鞭打ち行々
煌々朝陽に向かって爽々
騅を駆ってゆくがよし
悠々蒼天
<了>