トップ » バックナンバー » Vol.18 » 初代学院長の思い出

Accumu Vol.18

初代学院長の思い出

中学校教員時代の教え子 ダイワロイヤル(株)勤務

西村 正宜さんに聞く


奈良県吉野郡の山あいにある「川上村立 第三中学校」に新任教諭が赴任してきた。東西に流れる吉野川沿いにあり,大自然に囲まれた小さな木造校舎で学ぶ生徒は270人足らず。ここは京都コンピュータ学院初代学院長・長谷川繁雄先生の教育の原点となった場だった。

―担任ではなかったのですが,国語を習いまして,最初の授業でびっくりしたことを昨日のことのように覚えています。海が間近にある明石のご出身だと聞いていたこともあり,こんな山奥の学校に,よく来られる気になったなあと思いながら興味津々で迎えた初めての授業。するとまずいきなり「教科書を閉じておきなさい」って言われるんですよ。不思議に感じながら言われたとおりにすると,長谷川先生はおもむろに黒板に白,赤,黄色のチョークを使い分けながら絵を描き始めたんです。国語の授業のはずだよなと呆気にとられ,級友同士,顔を見合わせながら首をかしげるばかりでした。

先生は絵を描き終えると,生徒の方に向きなおって何やら話し始めました。よく見るとそれは,教科書の内容を題材にした絵だったのです。絵をもとに,その話は何を言わんとしているのか,登場人物の心の動きなどをこと細かく説明なさるのです。もちろんそのような国語の授業は,今まで経験したことがありませんでした。とてもとても「国語」という感じではなかった。でも何か楽しく,書かれていた文章の内容もよく理解できたと思います

◇ ◇ ◇

教育の舞台は教室だけではなかった。天気の良い日などは教科書をしまうだけでなく,生徒を連れて屋外へ。大自然を舞台にした「青空学校」は頻繁に開校された。

―近くの山へ行ったり,川で遊んだり。花見や紅葉狩りなどを通して季節の移り変わりを感じたり,コミュニケーションを図ったり。それはもう楽しい時間でした。その時,先生は必ずカメラを持ってきて,生徒の表情や自然を撮っておられていたのを思い出します。

屋外へ出ると先生は,わけ隔てなく多くの子供たちと話をする時間をつくるんです。何かの質問をすると,分かるまで,時間を忘れて説明してくれました。結局3年生でも担任ではありませんでした。だから「青空学校」の回数が多かった担当クラスの子がうらやましくてしようがなかったです。

あと,先生は放課後,ほぼ毎日のように音楽室にいてピアノを弾いていたのも思い出されます。外で野球などをしていると旋律が聞こえてくるんです。当時は「音楽の先生でないのに,うまいな」と友達と話していました。

◇ ◇ ◇

卒業を控え,生徒たちは進路を決める大事な時期を迎えた。この時も長谷川繁雄先生は生徒一人ひとりに親身になって相談に乗ったり,アドバイスしたりしたという。その中で何よりも強調したのは「勉強を続けなさい」だった。

―3年生の秋,体育の授業で脚を複雑骨折してしまった子がいたんです。先生の担当クラスではない生徒でした。卒業まで登校することができず,2,3学期の授業が全く受けられないまま進路に大きな不安を抱えていました。先生が相談に乗ったところ,この生徒は「卒業したい」と言いました。するとその後,先生から長い,長い手紙が届いたそうです。その手紙は「人生の中で1年というのは,そうたいした時間じゃない。もう一度3年生をやって勉強しなさい。その方が絶対君のためになる」という内容。この生徒は「こんなに親身になって考えていただけるなんて」と涙を流し,50年以上経った今でもそのことを口にします。

また,こんなこともありました。田舎なので家業を継ぐ以外はほとんど就職先がなく,多くの生徒やその保護者が困っていたころ。先生は明石(兵庫県)の魚屋や漬物屋などがある商店街を訪れ,夜間の高校に通いながら仕事ができるよう商店主たちと話をつけてきたのです。先生が担当クラスを問わず就職希望者の多くに声をかけたところ,6人が集まりました。先生はその全員を連れ,商店主らに頭を下げて回ったそうです。そして6人には「若いうちに,しっかり勉強をしておきなさい」と言われたといいます。

◇ ◇ ◇


長谷川先生が川上村の中学校で教鞭を振るったのはこの2年間だった。その後塾経営などを経て,京都コンピュータ学院設立に至る。建築関連メーカーに勤めた西村さんは,教師と生徒という関係とは違う形でのお付き合いが始まる。

―近隣の支店の支店長をしているときに学校へは何度か遊びに行っていたのですが,京都コンピュータ学院高野校の建設計画が持ち上がった時に「やってみないか」と声を掛けていただきました。でも仕事に対しては厳しかった。即断即決を何度も迫られました。

京都コンピュータ学院京都駅前校のことです。11月ごろだったでしょうか,先生が私に言いました。「来週,土地の契約をする。4月中に開校するつもりだ。できるな」。降ってわいたような話でした。そしてこう付け加えるのです。「このような教室と設備は必要。絶対譲れない。君だから頼んでいるんだ。間に合わないのなら契約しない」。

今でこそ建築工事は早くなりましたが,当時の技術では期間的に厳しい。さらに建築ブームということもあって他の仕事も多く抱えていました。自社内や役所への手続きにも時間が必要です。いろんなことが頭をよぎり,思い悩んでいると先生はこう言われました。「結論を出すまで帰るな」。百万遍校舎の2階にあった応接室でした。

「1日は何時間あるか知っているか。8時間しかないと思っているんじゃないだろうな。やる気になれば,何でもできるんだ」「君は責任者だろ。即断即決できなくてどうするんだ」。時折顔をのぞかせる先生の声が響きます。妥協は許されません。あれこれ考え,計画を練っているうちに朝を迎えてしまいました。闇とともに私の“甘え”が消えた朝でもありました。

◇ ◇ ◇

校舎建築で西村さんは学校に何度も足を運ぶようになった。遠き中学校時代を思い出しながらも,先生を尊敬する思いが増していったという。そんな中,悲しい知らせはあまりに急だったという。

―先生にお尋ねしたことがあるんですよ。「毎日,何時間寝ておられるんですか?」。「1時間の時もあるし,3時間ぐらいかな」と先生はおっしゃっていました。そんな睡眠時間で,よくあのようなパワーが保てるな,と感心していたものです。ストレス発散法について聞いたこともあります。「名神(高速道路)をフェアレディZで,ぶっ飛ばすことかな」。先生は笑って答えていました。

あるころから,学校にお邪魔してもいらっしゃらないことが多くなりました。「病気にでもなられたのではないでしょうね」と教職員の方にお尋ねしても,はっきりしたお答えはなく,不在の理由は教えていただけません。

そんな日が続いたある朝,すっかり顔なじみになった学校の教職員の方から電話で悲しい知らせを聞かされました。「まさか」。大きな衝撃でした。

あまりにお若い。そんなことがあってもいいのか。しばらくは何も考えられませんでした。その後,中学校時代に山や川へ行ってカメラをのぞく先生の姿,百万遍の校舎で缶詰め状態にされながら説得された時の先生の真剣なまなざし,校舎ができて学生さんを迎え入れた時の先生の満面の笑顔…。さまざまな情景が頭を駆け巡りました。

先生の命日である閑堂忌には何度か足を運ばせてもらい,お墓に手を合わせました。京都駅前校新館にある銅像の除幕式の際には,川上村の同級生に声をかけたら8人が集まり,出席しました。川上村で学んだ同級生たちの心の中には,今なお先生の姿がはっきりと刻まれています。京都コンピュータ学院にもきっと,先生の熱い思いが脈々と受け継がれているのでしょう。

この著者の他の記事を読む
西村 正宜
Masanobu Nishimura
  • 1941年生まれ
  • 奈良県川上村立第三中学校で長谷川繁雄先生に学ぶ
  • その後関西大学を卒業し,大和ハウス工業(株)に入社
  • 滋賀支店長,奈良支店長などを経て,関連会社のダイワラクダ工業(株)常務
  • 現在,ダイワロイヤル(株)ホテル事業部営業推進部長

上記の肩書・経歴等はアキューム18号発刊当時のものです。