5月11日,宮本先生ご逝去の報告に接した時,一瞬時間が停止し,私をとりまく現実の一切は空間にはりつけられて動かず,先生に関する過去三十数年間の思い出の数々が脳裏をかけめぐった。
先生の人生の終焉により,私は,京都大学宇宙物理学科学生時代からそのまま継続されてきた私の,ある人生の終幕を実感した。
この11月,品川嘉也日本医科大学教授も癌のため永眠した。品川氏は,京都大学理学部時代からの私の友人で,生理学の分析でいち早くコンピュータを応用し,その関係もあって,私の京都コンピュータ学院へは創立当初より協力していただいていた。
12月には,学院の創立当初より事務経理面一切をとりしきっていた岩崎直子理事が同じく癌で,冥界へ旅立った。
宮本正太郎先生を始め,学院の発展の歴史を築いてきた私の近しい人々が次々と永眠され,ひとつ,またひとつと灯が消えて行く思いの1年であった。私とは,公私にわたって縁が深かっただけに,その人達との永別は,私の人生のドラマのひとつまたひとつの終幕であり,寂寥の感を禁じ得ない。
人生50年,或いは60年の過程で,出会う人は星の数ほどあるとはいえ,大半は行きずりの人にすぎず,自らの心の深奥には住み得ない。
しかし,たとえ十指に満たないとはいえ,これぞ”出会いの人”と呼ばれる人々との邂逅を人間誰しも経験するものである。その人々に対し私達は心を許し,互いに敬愛と信頼のきずなで結ばれ合って,人生を共有する。その交遊は互いの人生を豊かに彩り,その友情は,互いの発展と幸福をもたらす。
「生命」とは不思議なもので,私達一人一人の中に固体として存在しているのでなく,それら貴重な人々と自分との間に流れ合う混然となった流動体として存在しているように思う。
従って,自分の生に大きく関わった人の死は,ある意味では自分の部分死でありながら,同時に肉体の消滅と無関係に,なお生き続ける亡き存在の,自分の生命の内部における永遠化である。
誰でも人間は長い人生航路で大変な不幸,絶望に見舞われることがある。その時,平素は平坦に見える大地に,突然亀裂が生じたように,その裂け目を覗き見るのだ。私達が人生の真実を発見するのは,まさにその時だと思う。
いつか西ドイツのシュトゥットガルトの美術館で一枚の絵に釘づけになったことがある。それはセザンヌの作品で,真ん中のテーブルの上に”されこうべ”がひとつ描かれたものであり,その目の空洞に大変なショックを受けた。死を通して生を見つめる。その目の空洞の彼方に,生の本質があった。うつろい変わりゆく幾多の森羅万象の奥に,確乎として存在する不滅の真理を発見するという機会は,度々訪れるものではない。貴重な人の死,そこに人生の本質を解明する鍵が存在する。
「死」を情緒的に受けとめるのでなく,その時こそ深い洞察と認識の目をもって,生と対峙すべきなのだ。
先生が亡くなられたあとの数週間は,瞑想と思索に意識が占有された。それは,先生が私に与えた最後の無言の授業であった。
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宮本先生は,古典的な天文学の分野に新しい物理学を導入され,次々と天体物理学,宇宙物理学を開拓,その論文は合わせて1000頁を超える程数多く,現代天文学の世界第一人者として,名声は揺るぎないものであった。
研究分野は宇宙論・ガス星雲・輝線星・太陽コロナ・月のクレーター・火星の地質と気象等々で,月には紫式部・清少納言・芭蕉などと先生が命名された日本名クレーターが数多くある。クレーターでは火山説を提唱され,全世界の天文研究者の間で,大論議を生んだ。
学者としての先生の業績を書き出せば枚挙にいとまがない。それらは先生が直接育てられた数多くの,私にとっては大先輩達が,機会あるごとに語られてきたと思う。
私にとって,先生は学問上の直接の師ではなかったが,先生の著書,先生の講義などを通して,私は興味つきない天体物理学の世界へ引きこまれていった。
先生が定年でご退官された頃,夫(前学院長)と私とで経営していた京都コンピュータ学院は,大変な試練の時期にあった。専修学校は一般に,営利事業と見なされているが,その中にあって,私達の学院は高い理念と,独自の教育方針をもち,本物の情報教育を目指していた。しかし,その違いは外からではわからない。このころ,類似校名をもった専門学校にかきまわされ,各高校は,それにおどらされて,本学院には生徒が全然集まらず,危機に陥った。本学院を特徴づける象徴が必要であった。
夫はひどいストレスで不眠が重なり,連日激しい感情の起伏で,私はすっかり参っていた。思い悩んで,創立以来,ずっと激励してくださっていた先生に,名誉学院長になっていただくよう,お願いに訪問した。私は,先輩達にどんなに反対されたことか。「ノーベル賞が天文学の分野にあれば,当然その対象となられた大学者に,そんなことをお願いして先生の名前に少しでも傷つくようなことになったらどうするのか」と。私とて安易に考えたわけではなかった。私が研究の道を捨ててまで,コンピュータ教育へと献身したこの学院は,私自身の存在証明であった。専修学校は学校系列の観点においては確かに下位だろう。しかし,そのユニークさと,社会的ニーズ,時代の先取り,高い理念において,群を抜く学校であるといえ信念と誇りがあった。
世俗的な名誉心,権力欲を超越した先生だからこそ,きっとそれを理解してくださるだろう。退官時,各大学から学長クラスで招かれたのを全部断っておられた先生に,失礼も省みず,私の信念と私の悩みを打ち明けた。先生は鋭い目で一生懸命に聞いてくださり,そして承諾してくださった。そして帰り際に,「いつもにこにこしているあなたに,そんな悩みがあるとは知らなかった」とにっこりされた。
私は帰路,西賀茂から自宅まで,感激して,涙があふれて止まらなかった。「このご恩だけは絶対忘れない。私は生涯かけて恩返ししよう。先生の名にふさわしい学院づくりに,一生を捧げよう」。私にとっての,命をかけた決意であった。
私達の学院案内に名誉学院長として先生の名前が記載されて以後,他の学校との間に完全な差異が認識され,より一層の社会的評価を獲得したのは言うまでもない。
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先生は,天文学,物理学,数学は勿論のこと,気象学,地質学に関しても,大変な学識をもっておられた。
1977年,カナダのオタワで聞かれた国際学会のあとで,4,5日間ではあったが,カナディアン・ロッキーを観光案内させていただいた時のこと。
ロープウェイで山頂まで上昇中に車窓から地層を眺めながら,ずばり地殻変動を説明され,搭乗者を楽しませた。足元の石ころを拾い上げながらの地質分析も専門的で,バンフの地質博物館で,解説者の説明を訂正したり補足したりで,館長を煙にまいてしまったりしたものだった。
一方,「観光バスのチケットを買って来ますから動かずにここで待っていてくださいね」と言う私に,足元の石ころウォッチングに夢中になっておられた先生は,「そうだ!バスに乗るにはチケットがいるのだ」と大発見されたかのように叫ばれたのには唖然とした。
シャトー・レイクルイーズに泊った日は,本当にご機嫌であった。ホテルのロビーで泊り客の一人がピアノを弾き始め,それに和した女性の美しいソプラノに耳傾けたあと,レイク・ルイーズを前にした庭園に歩みを移せば,美しい庭園には他に人影もなく,暮れなずむ夕暮れと湖と,そしてその彼方の氷河とが融け合って,息をのむほどの美しさであった。夕暮れが別れを告げると,夜空にぽっかり月が輝き,月光に映える湖は,一層の神秘さをたたえて,私達に様々な郷愁をかきたてるのであった。夜空に浮かぶ月は,この日ばかりは観測対象の月でなく,人の心にあこがれを呼びおこし,人の心を素直に聞かせ,心になぐさめを与える月であったのだろうか。
先生は突然私に向かって,「私の好きな歌を歌ってあげよう」とおっしゃられ,チェコの古い民謡を歌ってくださった。
歌の内容は,農婦が太陽に向かって,”私はもう働きすぎて疲れてしまった。太陽よ,早く沈んでくださいね”といったものだった。
その農婦の悲しみを,先生は心一杯ぱい抱きしめて歌っているかのようであった。
先生は海外へ出られる度にその地に古くから伝わる民謡のレコードを買って帰られるのを楽しみにしてらっしゃったが,民族が異なっても古い民謡にこめられた人間共通の素朴な純粋な心をこよなく親しまれ,その心のもつ悲しみを,優しい愛情でいとおしまれていたのではなかろうか。
スタッフや学生一同から「御大(オンタイ)」と呼ばれてきた先生の内面に,こんなにも優しい心が息づいていたことを発見し,私は驚いた。
それからしばらくの時問,先生は月影の落ちる湖に眺め入っていらっしゃった。「長谷川さん,ドボルザークのオペラ『ルサルカ』を知ってますか,ぜひお聴きなさい」。私は帰国後,レコード,CD共,探したが手に入らず,最近になってやっとLD化されたのを入手でき,初めて視聴した。そのオペラは,人間に恋し,はかなく死んでいくルサルカという美しい水の精の物語で,ドボルザークの抒情がすばらしいものであった。
あの日,先生は湖上に舞うルサルカを幻想されていらっしゃったのだろう。先生をメルヘンの世界へ誘った湖上の夜景は今なお,私の記憶の中で鮮明である。
そのあと,ご自分のお部屋へ帰られるまで,ロビーで,在勤中の辛かったお話など,とめどなくなされた。先生は天文台では,寒さを防ぐため毛布をかぶって観測されるのが常であった。「辛い時は酒をあおって毛布の中で泣いたものだ」と3度ほどおっしゃられた時,私はその告白の意外さに大変なショックを受けた。
私達研究室では,先生は,神の如き存在で,スタッフも学生も只々畏怖の念をもって見上げていた。私とて例外でなかったから,このような告白に返す言葉を失っていた。美しいカナダの風景による酩酊気分が先生の心を開かせたのだと私は推察したが,でも先生のあまりにも人間らしいピュアーな心の内面を私に吐露してくださったことに対して,私は感動し,先生に無言で感謝した。
その日以来,私は,人間としての先生に,より親しみを感じ,一層尊敬するようになった。
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かつて,人工衛星の話題で日本中が沸いた頃,人工衛星に関して先生の右に出る者がいず,先生の身辺は連日マスコミで賑っていた。その頃,人工衛星の講演で,先生は和歌山大学へ来られた。私は結婚して,和歌山で塾を開いていたのであるが,経済的に余裕ができたら一日も早く大学院へもどりたいという悶々の日々を過ごしていたので,先生がいらっしゃると聞いて,和歌山大学までとんで行った。先生は,どんな難しい内容でも平易に話され,聴衆に限りなく興味を呼びおこす話術の天才として定評があったが,その日も例外でなく,名講演であった。
その日,講演が終了後,大学側の接待の申し出をすべて断られ,慌しく外へ出られた時,「先生,和歌の浦へでもいらっしゃいませんか。ご案内させてください」という私の申し出に,「こんなにいいお天気ですからね」と答えられた。『いいお天気だから観光にご一緒しよう』という承諾の答ではなく,『いいお天気だから早く帰って,天文台で観測したい』という断わりの言葉なのであることを私はすぐに理解したが,この例など先生の非世俗性を彷彿とさせるものであろう。
俗人の快楽とおよそ隔絶した世界に,楽しみの醍醐味を見出し,一人堪能されていたという点で,先生は独特のエピキュリアンであった。
先生の趣味は広く,抜群の語学力により,各国語を制覇され各国の文学作品を読まれていた。ギリシャ神話を特に愛好され,クラシック音楽のレコードコレクションも大変なものだったという。
「下手な演奏家の演奏を聴きに行くより,レコードの方がいい」とおっしゃられていた先生であったが,それでも私は,度々先生を演奏会にお連れした。先生は気に入らない演奏だと,声高に「何だ。まるで雑音だ」と演奏中におっしゃるものだから横にいてハラハラした。そんな先生であったが,浦川宜也先生のヴァイオリンはすっかりお気に召されたらしい。浦川先生のシャコンヌを聴かれたあと,「あー,本物だね」とため息をつかれ,またアンコールのユーモレスクには目を閉じて頭をうなずかせながら陶酔されて聴き入っておられた。
先生は晴れがましいことはお嫌いであったため,先生の古稀の祝い,勲三等旭日章の受章お祝いなどに,先生のためのコンサートを先生の好きなスラブ系を中心にプログラムをつくり,開催させていただいたが,これはとても喜んでくださった。
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先生の病気嫌いは有名で,誰でも病気だと思う症状でも,先生はそれを病気と認められず,休養することなく仕事をされるのが常であった。内臓の潰瘍は,数年前から少しずつ症状が出ていたのに,先生はそれを放置されておられた。
ある日,たまたま先生宅を訪問した時,先生は吐血と下血で倒れられ,町の救急病院へ運ばれる寸前であった。
しかし,私の知人の医学部の先生方の協力で,連絡が間一髪,また間一髪でうまくつき,京都大学附属病院の外科へ救急車で,お連れすることができた。病名は十二指腸潰瘍で,手術は必要なかったのであるが,当分の入院加療がすすめられた。
入院生活は先生にとって大変に苦痛であったらしい。私がお見舞にあがった時,「本が1冊もない所で寝ているなんて,とてもできない」と何ともなさけなさそうな声でおっしゃった。作花先生がお見舞にあがった時には,ベッドのまわりを白くまのように,歩き回っておられたとか。
先生は主治医に,「こんな所にいたら病気になってしまいます」とおっしゃられたので,主治医は唖然とされた。結局,「何とか退院させてください。お願いです」とあまりに懇願されたので,退院の許可が出て,あとはご自宅での療養となった。
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確か1982年の夏だったと思う。IAU(国際天文学会)がギリシャで開催された。
先生は病後であったけれど,「ギリシャだけは主人の憧憬の地であるから,行きたいという願望をかなえさせてやりたい。長谷川さんがご一緒に行っていただけるならば安心なので,ぜひに」とおっしゃる奥様のご要望と,私への信頼に応えるべく,小ツアーを企画し,ギリシャヘ旅立った。
しかし,盛夏のギリシャは35度を超える酷暑であり,オスマントルコの影響を受けて,大半はトルコ系の住民と文化であふれ,途上国なみの生活レベルを想定させられる町風景であった。いにしえの,優稚な,知的水準の高い,そして神話に象徴される幻想世界とはおよそ次元を異にしていた。
アクロポリスの丘,フィロパポスの丘,スニオン岬,デルフィという,3日にわたる観光旅行に挑戦した。何しろ岩山の上に神殿があり,35度を超える炎天下を汗みどろで登るのだから,私でもへとへとであった。先生はもの一つおっしゃらず,ひどい息切れをして苦しそうであり,ただ,旺盛な好奇心だけでお体をもちこたえてられるご様子であった。2日間で,先生のひどいお疲れは,限界まできていると察せられた。
もしこんな所で以前の様に倒れられたらどうしよう。近代設備の整った優秀な医師のいる病院へ運ばれる保証など何もない。それに翌々日からはエーゲ海クルーズで,船中泊が続くのだ。
私はその夜,奥様から託された重責を感じて,ほとんど眠れなかった。
翌日はデルフィが予定されていたが,先生はすでに学会からのツアーでデルフィには行かれていたので,「今日1日,先生は涼しいホテルで休養をとってください」と,半分は命令調でお願いし,私だけがデルフィヘ行った。帰って来たら,先生が,「あなたに叱られるかもしれないけど,実は1人でアクロポリスの丘へ再度行って来た」。この炎熱地獄にたった1人で行かれるなんて。途中倒れられていたら,どうなっていたのだろうと,私はぞーっとした。こんなに心配している人の気も知らないで,と私はもう腹が立って腹が立って,その日先生のために買って来た果物を,全部捨ててしまった。
私は生涯通じて,先生に対し腹を立てたのは,この時が最初で最後である。そしてその時,先生に差しあげなかった果物のことは,その後,ずっと申し訳ない気持ちで門外不出の秘事にしていた。
その夜一人で考えこんだ。私が常識的に対処しようとしたのがそもそも間違いだった。翌日,私は気をとり直し,気分爽やかに船に乗りこんだ。
先生は各島の船上ウォッチングに余念がなかった。何百人も乗り合わせた船では食事の時間が各自定められており,その時刻になると,私は船の中を先生の姿を探して走りまわった。
島々は紺碧の海から眺めているだけでも美しかったが,先生の双眼鏡によるウォッチングは学問的で,島の年代を分析されておられたようである。
サントリーニ島は,アトランティスの伝説にあふれた火山島である。港へ船が着いて,あと,山上のティラの町まで580段もの石段をロバに乗って上る。先生は「ロバに乗るのはかわいそうだ」と言って,ためらわれた。山上からの眺めは抜群であった。帰りは,『ロバがかわいそうだ』という主張を通され,私達は石段を徒歩で下った。
ミコノス島,ロドス島を巡って,最後はゼウス生誕のクレタ島である。ミノア文明発祥の地で,クノッソスやフェストスなどの遺跡は,私達を大いに楽しませた。
この船には様々のツァーグループが同船しており,島での観光はグループごとにガイドがつく。先生のギリシャに関する知識は,ガイドの解説よりはるかに上まわっていたので,先生はご自分の興味に任せて,別行動をとられる。私が,ガイドの説明にちょっと気をとられていると,もう先生の姿はなく,どの島でも,先生の姿を探して,右往左往した。そんな私に先生は,「あなたは毎日服を替えるから,見つけられなくなる」とこぽされた。
このギリシャ・ツアーは,炎天下の連続であったが,それでも先生は,長年の夢がかなって,きっとご満足だったことと思う。私は大恩ある先生に少しでもご恩返しができたと思いうれしかったが,帰国後疲労で一週間程寝込んでしまった。
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こうして,先生に関する一般には知られていない人間的な側面にスポットを当てながら,タイム・カプセルに乗って思い出をたどっていくと,懐かしい気持ちのみがこみあげて,とても今は亡き人とは思えない。初め訃報に接した時,平素見落としている最も大事な問題に直面したような厳粛な気分に襲われ,数週間は生死に関する宗教的・哲学的な瞑想と思索にとらわれていた。
この文の冒頭で若干それに触れている。しかし,ひとつずつエピソードを綴っていると,私はすっかり当時の情況の中の私自身になり,その当時の感情がすべてよみがえってきた。先生のご病気を心配したことを綴っていると,当時の感情そのまま胸が締めつけられ,カナダのエピソードを綴っている時は,超現実的な感情で夢見心地になり,ギリシャで,船が出るのに先生が見つからなかった時のことを思い出していると,実際に胸がどきどきし………というわけで,書いている間中,過去の私が現在の私に乗り移り,先生は私の身辺に生きていらっしゃった。
私が生きていて,私が感じる。
私の感情の中に先生が生きていて,私の感覚は先生の存在を受けとめる。
その感情,その感覚の中に,人生の”真実”があるのではないだろうか。宗教的瞑想,哲学的思索,様々な理屈などで,模索しなくても,”真実”というものはもっと単純で素朴な所,誰でもが発見できる所に息づいているのかもしれない。生命の永遠さ。
そう,先生は生きていらっしゃる。
そんな思いのままで,ペンを置くことにした。
合 掌