KCG顧問の米田貞一郎先生が2009年12月11日,めでたく百歳を迎えられた。KCGではこの日,京都駅前校で特別講演や「お祝いの会」を開き,学生・教職員一同,喜び合った。特別講演で元気に教壇に立たれた米田先生は,学生に対し「このようにお祝いしていただいて身に余る光栄。多くの方々に支えられてここまで生きて来られた。みなさんも人間の絆を深め,一生助け合える仲間をつくってください」と話された。教育一筋,多くの人たちから愛され続けてきた米田先生。これからもますますお元気で,私たちにご指導いただけるようお願いいたします。
米田先生は京都帝国大学卒業後,京都市内の各学校で教壇に立たれてから,京都市立堀川高校校長,京都市教育委員会事務局指導部長,京都学園大学教授などを歴任。その後の1987年4月にKCGに入られ,洛北校校長,京都駅前校校長を務められた。現在は顧問として毎年,京都三大祭の葵祭・祇園祭・時代祭の時季に「特別講義」を担当。穏やかな語り口による分かりやすい解説に学生たちの人気も高く,KCGの名物講義となっている。
また米田先生は,KCGが校友(卒業生),学生,関係者向けに年1回発行している本誌「アキューム」に,2001年から「古都逍遥」と題して執筆を開始。KCGの校舎周辺を巡り,その歴史をたどる内容で毎号に寄稿,「アキューム」では最も人気のあるシリーズのひとつだ。
12月11日に京都駅前校6階大ホールで開かれた誕生日を祝う特別講演では,はじめに鴨川校の牧野澄夫校長が「長命を生きる~米田先生の百歳によせて」と題して,米田先生の人となりや,歩んで来られた百年間を紹介。続いて米田先生が教壇に立たれ,長生きの秘訣として▽冷たい水で洗い絞ったタオルによる「冷水摩擦」を,小学2年生のころから毎日欠かさなかった▽食べ物の好き嫌いがなく,たばこは吸わなかった▽好奇心が旺盛で,子どものころは海,山を飛び回った▽旧制三高時代,陸上部に所属して基礎体力を培った―などを披露。学生に対し「みなさんより少し経験が多いということで話しますが,やはり生きるためには心と体の健康が伴わなければならないと思います。心を健康にするには,多くの仲間を持つことが一番でしょう。多くの,異なる年齢の人と話す機会を増やし,コミュニケーションをとる方法を学んでほしい」とし「みなさんから寄せられた特別講義のリポートや感想を読むと,この歳ながら私自身,成長することができるようです。これからも,少しでもみなさんのお役にたてるよう励みたい」と話された。この後,米田先生の愛唱歌という「琵琶湖周航の歌」や,バースデーソングを出席者全員で歌い,盛り上がった。
この後,6階ラウンジに移って「お祝いの会」を開催。米田先生のご家族や,先生がかつて所属した旧制三高,京都(帝国)大学,京都市教育委員会や京都学園大の関係者,京都市立堀川高校校長,それにKCGの教職員ら大勢が出席。長谷川靖子学院長が「米田先生を見ていて感じるのは,『中庸』を実践し,体得された方だなということ。何事にも偏らず,バランスがとれた生き方をなさっているのはまさに人徳のなせるわざ。尊敬,感激いたします」と祝辞。引き続きバースデーケーキのろうそくの火を米田先生が吹き消してパーティーが開幕した。昔話に花を咲かせながら,米田先生のますますのご健康を全員で願った。米田先生は最後にあいさつに立ち,「心より感謝を申しあげます」とお礼を述べた後,「『天寿を全うする』という言葉があるが,私自身,百歳が『終わり』ではなく,後につなげていく言葉として使っていきたい」と話された。
米田貞一郎先生が百歳を迎えられたのを機に,インタビューしてこれまでの百年間を振り返っていただいた。(アキューム編集部)
―私は三重県宇治山田市,現在の伊勢市で生まれました。自宅は伊勢神宮の間近です。だから私は「神の子」なのです。8人兄弟の長男(姉1人,弟2人,妹4人)です。父親は小学校教諭で,校長も務めました。
祖父母に育てられたので,はじめは引っ込み思案だったと聞きます。でも,3歳のときに町に初めてできた幼稚園に入園後は,お調子者である一方,よく暴れたものです。3年間通ったのですが,体が弱く休みがちでした。それで宇治山田小学校入学後,両親に,体を強くするための冷水摩擦をやらされるようになりました。
小学校1,2年の担任・川端常五郎先生には非常にお世話になりました。入学後間もないころ唾を掛け合う喧嘩をして「立っていろ」と言われた時には面食らいましたが,学校を休むと必ず家庭訪問をして,父親とも話をしていってくれた。授業も面白く,絵を描いたり工作をしたり(家庭訪問の時も)。貴重な2年間でした。川端先生との出会いが,教育の道に進むきっかけだろうと思っています。
川端先生は師範学校ではなく検定試験で小学校の先生になられました。私が小中学校に通っていた間に,旧制中等学校の免許も取り,京都二中に移っていたのです。川端先生から,中学卒業後は京都に来て三高に進むよう勧められました。
―18歳(昭和3年)のときに旧制三高へ進学しました。三高時代は,戦争の統制が強まってきたころ。そんな中,「自由」を旗印にした校風のもと,学生は統制に敢然と反対しました。当時私は,陸上部でマネジャーをしていたのですが,一高(現在の東京大学)との定期戦があり,その直前にストライキの動きがあったのです。私は一高戦を優先するべきと思い中立的立場をとりました。
昭和9年(1934年),京都帝国大学史学科に入学し,東洋史を学びました。大いに青春を謳歌しました。
大学卒業時,それまでに学んだ満州語・満州史の勉強のため大学に残ろうか迷ったのですが,「京大教育研究会」に所属したことからも教師になりたいという気持ちが勝り,小学校教諭の道に進むことにしました。京都帝国大学に教職課程などありませんでしたし,私自身,教育実習の経験もありませんでした。当時,義務教育の先生になるのは,師範学校を出た方ばかりでした。私を含め数人,同じ道に進んだのですが,当時は「京大から先生になった」と,新聞に取り上げられるほど話題になったのですよ。一方,小学校の校長会から「伝統破り」と突き上げもありました。
京都市立崇仁小学校で初めて教壇に立ちました。当時の校長は京大法学部出身の伊東茂光先生でした。当時,崇仁地区は同和地区でした。荒れている学校で,校長の成り手はいなかったが,伊東校長は「同和教育の父」と言われるほど尽力されました。
崇仁小学校では,同僚らから「酒」を鍛えられましてね。新任歓迎会では伏見の寺田屋で天井が回るほど飲まされました。翌日の初の勤務では遅刻してしまい,教室では別の先生が教えていたのですよ。冷や汗が出ました。一方,禅などを通して精神的にも鍛えられたのが思い出されます。先生方は夜遅くまで学校に残り,指導法などの勉強をしていました。
崇仁小学校での指導では「正しく・強く」生きることをモットーとしました。「同和地区出身者はどうしても差別をされてしまう。それに打ち勝て」と。たとえば陸上競技を通じて実践し,リレーでは京都市連合運動会で優勝旗を50本ほどもらったのですよ。
代用教員だったのに1年の担任でした。漢字を教えるのに黒板に書くのではなく,児童に庭から砂を持ってこさせて「箱庭」を作り,そこに「木」「山」「川」「日」などの文字を,形の解説を加えながら書いて教えたのですよ。懐かしいですね。
伊東先生は立派な方でした。体当たりの教育,町ぐるみでの子育てを実践され,伊東先生の時代に,同和地区の崇仁地区は見違えるように変わりました。子どもを縛り付けたり,頭を押さえつけたりするのではダメ。父母に教育を理解させることが大事ということを,伊東先生から学びました。この崇仁小学校の4年間が,私が教育の道を歩む原点だと思います。
―崇仁小学校のころ,伊東校長から「一度,他人のメシを食ってこい」と言われました。大学時代の親友が東京都立二中(立川市)にいたのですが,ちょうど大学院に進むので後釜を探していて,昭和13年5月に赴任しました。
当時は日中戦争が始まっていたので,召集の心配がありました。家族は置いて単身赴任したのですが,その心配が当たり,この年の夏休み,郷里に帰ったら召集令状が来ていました。京都に立ち寄り伊東校長に報告したら,私の教えた卒業生や町の人に報告してくれ,その人たちや崇仁小学校の先生方が私の召集を見送る列をつくってくれました。卒業生の散髪屋さんは「先生のお祝いだ」と髪を切ってくれたのですよ。それだけ崇仁小学校は先生同士や地域とのつながりが深かった。津(三重県)近くの連隊に入隊した時は,崇仁小学校の先生方が幟旗を立ててくれた。
入隊後は軍隊の教育係を仰せつかりました。スパルタ社会の中,私にその役割は適していなかったのかもしれません。優しい将校だったのでしょうか。多くの人たちがなついてくれました。
太平洋戦争が始まる直前の昭和16年,初めて海外へ行けと言われました。名古屋港から輸送船に乗り,着いたのはパラオ島。そこでしばらく訓練をしました。12月の初めに敵前上陸でフィリピン・マニラへ。しかし米国軍は引き揚げた後でした。その後もルソン島などを巡りましたが,戦争へ行って鉄砲を一度も撃たなかったとは。現地へ行っても悪事はしなかったので,地元民からは「ジェントルマン」と言われたのですよ。
昭和17年に(東京の)学校に戻りました。昭和20年3月に再び召集令状。終戦は九州の山地で迎えました。戦争らしい戦争は体験しなかったのですが,一緒に行った兵隊には苦労をかけたと思います。
―東京へ戻っても生活できる状態ではなかった。伊東校長が「京都へ帰ってこい」と言ってくれました。でも伊東先生は「私は子どもたちを戦場に送った戦犯者だ」と言って校長をやめられてしまっていた。
京都に戻った後の昭和22年に,教育委員会に来るようにと言われました。社会教育課長を拝命。当時はGHQが教育行政を握っていたのですが,京都にはケーズという厳しい司令官が来ていて,学校制度を次々と変えていきました。社会教育についてもあれこれ言ってきましたが,逆に「民主主義」をどのように指導したらいいのかを教えてくれました。「市民講座」をつくったらどうかと言われたが,当時は電気もつかない時代。何とかやりくりして開講して講師として大学の先生を連れてきて教えてもらったのが思い出されます。
戦前と戦後の大きな変化を教育の場でも体験したといえます。「市民講座」受講者も「教育を,そしてこの日本を,何とか変えなければならない」という熱い思いを抱いていたようです。非常に貴重な場でした。
その後突然「堀川高校へ行け」と言われました。42歳で校長,まさしく「青二才」でした。教員80人のうち,20人以上は私より年上だったのです。
当時の生徒はオボコいというか世間ズレしてなく,みな素直でした。でも父母らは私が若いので心配だったようです。まあしばらくすると理解してくれるようになり,父母らと飲みにも行ったりしたものです。
校長時代には組合対策にぶち当たり,特にイデオロギーの主張をされることに頭を痛めました。一番若手の校長だったので交渉の矢面に立たされましたしね。でもこのとき,相互扶助は大事だということを胸に秘めていました。理解し合うことで,解決できることはあるのですから。
堀川高校には10年いました。次は京都市教育委員会に初めてできた「指導部」へ。「人事・管理はやらなくていい」と言われたので助かったのですがね。チームワークをつくって研修・研究を繰り返すことが大事だと思い,各種研究会を立ち上げました。崇仁で「人権問題」に触れてきたので,それが生きた場面もありました。
指導部に6年。59歳のとき,亀岡に京都学園大学をつくる話が持ち上がり,協力を求められたので,定年を1年早め行くことになりました。「法学部」だったので,私は教えることはできないと思ったのですが,学校側から学生指導を任すと言われました。その後,教員養成課程(法学部なので社会科)を任され17年間いました。歴史学や社会学を担当しました。
―京都学園大学に長谷川靖子先生がコンピュータを指導に来ていらっしゃった。職員会議で初めてお会いしたとき突然「学生指導のやり方について一緒に話をしましょう」と言われ,お受けしたところ,大変面白い方だと感じました。靖子先生が学園大をおやめになった時に,初代学院長が亡くなったのです。その1年後くらいに「KCGに来い」というお話をいただいた。「私はコンピュータのコの字も知らない。行けますか」と言ったのですが,結局お邪魔することになりました。
KCGへ行ったばかりの時は偉そうに,靖子先生や亘先生に,たてついたこともありました。学生との接し方について話し合ったものです。
KCGの先生方は良く勉強されている。感心します。先輩からしっかり引き継いでいるのでしょう。ただ,特に若い先生の,学生との接し方はどうでしょうか。もっと突っ込んで,入り込んだ方がいいかもしれません。先生と学生の関係は希薄になってはいけませんので。
語弊があるかもしれないが,最近の子どもたちは自律するという気持ちが薄いような気がしますし,父母たちと何とか手を強く取り合えないものかとよく思います。
KCGの学生はコンピュータの技術は身につけてはいくでしょう。でもコンピュータを扱うのは人間。人間性が大事です。人間は一人では何もできません。多くの人間と一緒になって初めて,自分は存在しているということを知ってほしいと強く願います。
―振り返ると,私は「ピンチヒッター」の役回りだったようです。欠員が出たら後釜に赴任するとか,新しい部署ができたら配属されるとかですね。それでもそれぞれの場所で,何とかお役に立てたのだからいいか,と自分自身を慰めています。また,小中高校,大学,専門学校とあらゆる教育機関で指導する経験をさせてもらえました。みなさんのお陰です。ありがたいことだと思っています。
米田貞一郎先生が,2009年12月11日に百歳の誕生日を迎えたことをお祝いし,KCGとKCGIは米田先生執筆の冊子「古都逍遥~百賀の祝い~」を出版した。
「古都逍遥~百賀の祝い~」は,KCGが校友(卒業生)や学生,関係者の皆様向けに年1回発刊している校友会機関誌「アキューム」に,米田先生が2001年から毎年,寄稿された「古都逍遥」を一冊にしたもの。「古都逍遥」は,京都コンピュータ学院の校舎周辺を巡り,その歴史をたどる内容で,「アキューム」の人気シリーズのひとつだ。米田先生がことのほか愛する京都の地で,歩んできた人生そのものが刻み込まれている。
米田先生は「校舎周辺の逍遥を一巡した」との理由で,この2009年度版アキューム18号を最後に,筆を置かれる。それまでに執筆,掲載されたのは計9回。米田先生が百歳を迎えられたお祝いとして,先生が同様にアキュームに寄稿された漢詩と合わせて掲載してある。ぜひご一読を。冊子はA5判,154ページ(巻頭一部カラー)で,1冊1500円(税込み)。
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