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Accumu Vol.18

古都逍遥 最終回 白河校周辺5 ~北辺を訪ねる

米田 貞一郎

銀閣寺
銀閣寺

校友の皆さん,ご機嫌如何ですか。

この「古都逍遥」が皆さんとお目にかかること,早や9回目となりました。この度は,前回に続いて白河校を出発し,その北辺を探訪することにいたしましょう。

銀閣寺(慈照寺)

白河校の裏門から東に向かい,だらだらと坂を登ると「琵琶湖疏水分流」に出ます。流れに沿った「哲学の道」を北行。道沿いに植えられた桜並木(関雪桜(かんせつざくら)と呼ばれる)に四季折々の思いを馳せながら,暫く進むと銀閣寺道に出ます。右手,疏水にかかった小橋を渡って東へ,土産物屋,飲食店の並ぶ町並みを登りつめた所が銀閣寺です。

すでに皆さんも,修学旅行などでお馴染みでしょうが,暫しご一緒に詣ることにいたしましょう。

「銀閣寺」とは通称。正式の名は「東山慈照寺」。臨済宗相国寺派に属し,本尊に釈迦如来を祀っています。

かの室町幕府八代将軍・足利義政(1436~90)が造った山荘が始まりです。義政は,正室・日野富子との間に,長年,男の子がなかったので,弟の義視(よしみ)を迎えて将軍後継者に立てました。ところが,その翌年,富子が嫡男・義尚(よしひさ)を産んだため,義視・義尚をめぐって後継争いが起こりました。これに当時の有力守護大名・山名宗全と細川勝元の争いが結びついて起こったのが応仁の乱(1467~77)でした。

義政は,こうした状況の下,政治に興味を失い,事もあろうに争乱の最中,文明5年(1473)に僅か8歳の義尚に将軍職を譲り,自らは多種多様の課税や遣明船(けんみんせん)からの収入を背景に,趣味・道楽に耽ります。更にまた,自らの隠棲所を設けようとして,その地を南禅寺近辺から岩倉,嵯峨あたりまで探しました。その落ち着いた先が現在の東山山麓,浄土寺山(天台宗浄土寺の故地)だったのです。

文明14年(1482),この地に隠棲所・東山山荘(東山殿)の造営が始まり,8年の歳月をかけて諸堂や庭園ができましたが,当の義政はその完成を見ないまま,55歳で死去しました。遺言によって,山荘は禅宗寺院となり,寺名が義政の法名「慈照院」から「慈照寺」となったのです。

その後,戦国時代の戦乱がこの東山の地にも及び,寺内の持仏堂(東求堂(とうぐどう))と観音殿(銀閣)以外の建物はすべて失われました。江戸時代の初頭,前太政大臣・近衛前久がここに住み,更に元和元年(1615),宮城丹波守豊盛によって建物,庭園が整備されたので,ようやく今日の寺観が蘇ったということです。

さて,現在のお寺の総門をくぐるとすぐに参道は右に折れ,高々と連なる垣に挟まれた小道が中門まで続きます。垣は下部が石垣,中段が竹垣,上段には椿の樹が見事に茂っていて「銀閣寺垣」と称されています。

向月台
向月台

中門をくぐって進んだ先にパッと広がる庭園は,一段高く砂盛りして中国の西湖(※1)に模したさざなみ紋を描いた「銀沙灘(ぎんしゃだん)」,その中に円錐形に砂を盛り上げた「向月台(こうげつだい)」,その向こうに流れも清い「錦鏡池(きんきょうち)」を穿つという独特の構図で,往時の庭師・阿弥(あみ)の技の巧みを偲ばせます。

掃き清められた庭を眺め廻すと,左に本堂に連なる東求堂(持仏堂),右に銀閣(観音殿)が美しく,さすがに国宝に指定されただけの建物だと感嘆せずにはいられません。

阿弥陀如来像を持仏として祀る東求堂は,義政が東山殿の中心に据えたと考えられるお堂です。その造営にあたっては,洛西の西芳寺(さいほうじ)(苔寺)の本堂・西来堂を手本にしたといわれ,その名も西来堂と対をなしたのではないかと思われます。建築は単層入母屋造,桧皮葺の屋根で,書院造の原型とされています。その内部は,四畳と仏間,六畳,四畳半の小間から成っていますが,中でも北東角の四畳半の間は「同仁斎(どうじんさい)」と呼ばれ,造営当初からいろり・違い棚・付書院があり,のちの草庵茶室の原型といわれます。また,錦鏡池に面した仏間には,等身大の剃髪姿の義政の木像がでんと安置されています。

一方,銀閣は東山山荘中で最後に建てられた建物で,長享3年(1489),棟上げが行われ,翌年竣工を見たのですが,義政はその完成を見ることが出来なかったのです。西芳寺の瑠璃殿にならって構想された重層宝形造(ほうぎょうづくり),杮葺(こけらぶき),頂上に金銅の鳳凰を頂く楼閣で,その下層は住宅様式の千体地蔵を祀る「心空殿(しんくうでん)」,上層は禅宗仏殿で観音像を祀り「潮音閣(ちょうおんかく)」と名づけられています。

江戸時代以降,洛西の「金閣」(北山鹿苑寺(ろくおんじ))と対比されて「銀閣」と呼ばれるようになったのですが,銀箔を貼られた形跡はありません。金色燦然,華麗な偉容を湖面に映す「金閣」が,自信満々,財政面にも威勢をほしいままにした三代将軍 足利義満(1358~1408)の遺産であるのに対して,将軍でありながら隠遁生活にひたった義政の遺したものが,清楚・静穏の雰囲気漂う「銀閣」であることは当を得たものであるといえるのではないでしょうか。

※1 西湖=中国浙江省杭州にある湖。江南の名勝地

橋本関雪記念館・白沙村荘

白沙村荘入口
白沙村荘入口

銀閣寺を後にして門前町を下った所,左手の植込みの中に「橋本関雪記念館・白沙村荘」と書かれた大看板が立っています。日本画家の巨匠・橋本関雪(かんせつ)画伯(1883~1945)が,大正5年(1916),自らの住居・画室として築造した建物と,面積約5800平方メートルの庭園とを取り込んだ敷地約1万平方メートルの大屋敷です。近くを流れる白河(白川とも)に因んだ呼び名で,画伯の没後,昭和42年(1967)から一般公開され,平成15年(2003)8月には国の名勝にも指定されました。

潜り戸とも思われる入口の小門をくぐり,主屋(おもや)の前を過ぎると,大庭園の中に大池(芙蓉池(ふようち))がひろがって見えます。池の右手に廻った所に建つ五十二畳敷という大画室(存古楼(ぞんころう))に立って東の方を眺めると,大きな松の茂みの上に,借景の如意ヶ岳(大文字山)が浮かび上がり,8月16日の送り火の壮観を偲ばせます。

庭園は関雪自らの設計で,池の周囲を苑路とし,随所に石灯籠・石仏など,国内はもちろん中国などから集めた石造美術品約180点を効果的に配置して,恰も戸外石造美術館の様相を呈しています。また,大池を石橋で区切ってできた南の小池(瑞月池(ずいげつち))の畔,東岸には茶室「問魚亭(もんぎょてい)」,西岸には同じく「倚翆亭(いすいてい)」と「憇寂亭(けいじゃくてい)」が建てられていて,画伯が描画同様に如何に作庭にも心血を注いだかを物語っています。

池を離れて画室「存古楼」の西側に廻ると,地蔵菩薩像(鎌倉時代の作,重要文化財)を祀った方三間の持仏堂,竹薮に配置された羅漢石仏群,関雪画伯の作品やコレクションを公開している展示室などを鑑賞することができるのです。

一乗寺下り松と八大神社

宮本吉岡決闘之地の石碑
宮本吉岡決闘之地の石碑

白沙村荘を出て西進すると,すぐ南北に走る白川通です。毎年始に行われる,あの全国都道府県対抗女子駅伝のコースを北上すること約4キロ,一乗寺下り松町に入ります。大通りを右に折れ,山手に向かってだらだら坂を登った所に,傘枝をひろげた一本の松が立っています。樹のもとに建っているのが「宮本吉岡決闘之地」と刻まれた石碑です。事の真偽はともかく,慶長9年(1604),ここで宮本武蔵が吉岡一門を討ち果したと伝えています。

決闘の朝,武蔵はこの地から一段高い山腹にある八大神社に詣り,勝利を祈願しようと拝殿の鰐口(軒下に吊るされた鈴)の綱に手をかけたが,ふっと「我れ神仏を尊んで神仏を頼まず」と思い止まり,鈴を振らずにそのまま駆け下り,闘いに臨んだというのです。

八大神社の参道には「武蔵開悟の地 八大神社」と染め抜いた幟がはためき,本堂横には若き日の武蔵像が立っています。

古来,八大神社はその由緒書によると,素盞鳴命(すさのおのみこと)・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)・八王子命(はちおうじのみこと)を祀っていて,祇園八坂神社の祭神と同じであることから,「北の祗園」と称してあがめられ,一乗寺村の産土神(うぶすながみ)でもありました。

金福寺と芭蕉庵

「一乗寺下り松」の上手(かみて),山裾を少し南下した所で左を見上げると,そこにひっそりと立っているのが「金福寺」です。号は仏日山,臨済宗南禅寺派に属し,聖観音を本尊として祀っています。

平安初期,比叡山の慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)(794~864)の遺志を継ぎ,安恵僧都(あんえそうず)が天台宗の寺院を創建しましたが,後,荒廃。それを貞享(じょうきょう)(1684~88)の頃,円光寺(えんこうじ)(後述)の鉄舟和尚が再興して,臨済宗に改めました。

この鉄舟和尚は,かの俳聖・松尾芭蕉と親しくて,芭蕉が屡々寺を訪れたことから,後ろの丘に庵を建てましたが,村人はこれを「芭蕉庵」と呼んだといいます。その後,再び荒廃した寺を,芭蕉を敬慕してやまなかった江戸 中期の俳人・画家 与謝蕪村(よさぶそん)(1716~84) とその一門が,安永5年(1776)に再興し,度々句会も開かれるようになりました。以後,俳人たちとの縁も深く,寺の背後の丘には蕪村の墓や俳人たちの句碑が建ち,「俳諧の聖地」ともいわれます。

今一つ,興味深いことは,幕末の彦根藩井伊家の侍女・村山たか女(1809~76)との縁です。彼女は,大老・直弼(なおすけ)(1815~60)のために謀臣・長野主膳(1815~62)と協力し,京都でスパイ活動をして攘夷派の武士に捕まり,遂に三条大橋で橋脚に縛られて生き晒しにされました。しかし運よく救われてこの金福寺に入り,尼となって「妙寿尼」と称し,14年間の余生を送ったのです。その墓が円光寺に残っています。

詩仙堂

詩仙堂
詩仙堂

金福寺から引き返し,下り松の辻を山腹に向かって登ると右側に,小門が見えます。狭い入口の前に「詩仙堂」 と刻まれた石碑が立っています。石川丈山(じょうざん)(1583~1672)が三十余年にわたって隠棲した草庵です。昭和41年(1966),曹洞宗永平寺派の末寺・六六山詩仙堂丈山寺となりました。国の史蹟に指定されています。

丈山は三河国碧海(へきかい)郡(現愛知県安城市)出身の武士。徳川家康(1543~1616)の近侍となり,大坂夏の陣(1615)に参戦しましたが,軍律を犯して(抜け駆けをしたともいわれますが)処罰されたために自ら禄を辞して洛中の相国寺(しょうこくじ)に入りました。その後,広島の浅野家に仕えましたが,母の死後,京都にもどり,この地に草庵を営み隠棲したのです。時に59歳。爾来,三十年間を詩人・書家,また作庭家として風雅の道を歩みました。

先の小門(小有洞という)から石段を登り,次の小門(老梅関)をくぐると,「凹凸窠(おうとつか)」(※2)と書かれた額のかかった玄関です。玄関を上ると四畳半の間,寺の名である「詩仙の間」です。詩仙とは,日本の「三十六歌仙」(※3)にならって選んだ中国の漢・晋・唐・宋時代の漢詩人36人のことで,彼らの詩を丈山自らが揮毫(きごう)し,肖像を絵師 狩野探幽・尚信兄弟に描かせた板画が部屋の四 方の長押(なげし)に掲げられています。

詩仙堂の庭園
詩仙堂の庭園

続く「書院」は,庭に突き出て二方が開け放たれ,丸く刈り込まれたいくつもの植込みを眼前に,美しく眺めることができます。

苑地に降りると,高低差の大きい斜面を利用して上・中・下の庭が仕切られ,それぞれに趣異なる光景を呈しています。中でも,上の庭の降り口にある添水(そうず)(鹿威(ししおどし)とも)からは,間隔を置きながら,あたりの静寂を破るカーンという音が流れ,庭の興趣を一段と引き立てています。

今,丈山は背後の舞楽寺山頂に静かに眠っておられます。

※2 凹凸窠=凹凸のある地形に建つ住居の意

※3 三十六歌仙=平安中期に公家・藤原公任(きんとう)が撰した「三十六人撰」に選ばれた36人の代表的歌人

円光寺

詩仙堂の前から北へ向かって進むこと十分ほど,左側に白壁に囲まれて静まり返った小寺があります。徳川家康が創建したという「円光寺」です。

臨済宗南禅寺派,瑞巖山(ずいがんさん)と号し,千手観音坐像を本尊として祀っています。

慶長6年(1601)関ヶ原の役の翌年,家康が足利学校(※4)の僧・閑室元佶(かんしつげんきつ)を招いて,伏見桃山の指月に建立,国内教学の一拠点として「洛陽学校」ともいわれたお寺がはじまりです。

当時盛んになってきた朝鮮の木製活字による中国の書籍・経典類の印刷をして「円光寺版」と日本の出版印刷史上に特記されるものを残しました。

後,寛文7年(1667),徳川氏によって現在地に移築されましたが,明治維新のころ荒廃したのを,尼僧・南嶺(なんれい)が再興。近年まで尼寺として臨済宗唯一の尼僧専門道場の役割を荷ってきたのです。

先に立寄った金福寺を再興したのは当寺の和尚鉄舟であり,また,金福寺に尼僧として余生を過ごした村山たか女は当寺地に眠っています。

※4 足利学校=鎌倉時代以降,上杉氏が現在の足利市で禅僧を校主として,儒学,兵学などを講じた学校

曼殊院

曼殊院
曼殊院

円光寺から更に北へ,出合った小川の岸を東の山手に登りつめた所,閑寂の境に厳然と構えるお寺,それが曼殊院です。

天台宗開祖最澄(767~822)が延暦年間(782~806),比叡山上に阿弥陀仏を安置建立したのがお寺の始まり。寺名は,天仁年間(1108~10)に定まったものですが,「曼」は「ながながと跡をひく」という意,「殊」は「普通とは全く違う」との意で,永遠な寺運をその名に託したのではといわれています。

寺地は,比叡山上から北山や京都御所の近くへと転々と移りましたが,江戸時代,明暦2年(1656)に,天台座主・良尚法親王(1623~93)(※5)の奏請で現在地に落ちつきました。

この間,文明年間(1469~87)に伏見宮貞常親王の皇子・慈運法親王が入寺したことから門跡寺院(※6)と定められ,「竹内(たけのうち)門跡」と呼ばれてきたのです。

さて,お寺の前に立って見上げると,正面に幅広い石段があり,その上に「勅使門」,門の左右に続く斜面にはびっしりと樹木が植込まれ,更にその上に,門跡寺院であることの印の白線を刻む白壁が城壁のように築かれていて,いかにも威厳のある構えです。

通用門は北側。門をくぐると庫裏(くり)。国の重要文化財に指定されています。入口の頭上に「媚竈(びそう)」と良尚法親王直筆の額がかかっています。「奥(おう)に媚(こ)びんよりは寧(むし)ろ竈に媚びよ」(奥の神の機嫌をとるよりもむしろ竈の神の機嫌をとれ)という『論語』「八侑篇(はちいつへん)」の中からとった言葉です。庫裏にあっては,下働きの人たちをこそ大切にせよと教えたのではないでしょうか。

庫裏の板間から大玄関へ。「虎の間」の狩野永徳(1543~90)作と伝える「竹虎の図」,「孔雀の間」の岸駒(がんく)(1749~1839)筆の襖絵を鑑賞した後,長い廊下を渡って本堂(大書院とも)へ。

本堂(重要文化財)には阿弥陀仏が安置され,「滝の間」(十畳)・「十雪の間」(十畳)を中心に,西と東に広縁が張り巡らされています。

廊下で続く書院(小書院とも=重要文化財)には,「上段の間」(二畳)とその前に「黄昏の間」(七畳)。「上段の間」には右に花頭窓をもつ付書院,左に有名な違い棚「曼殊院棚」があり,欄間の菊花を散らしたデザイン,富士山をかたどった七宝製の長押の釘隠しなどと共に,書画・立花・詩文・茶道に通じていたという造営の主,良尚法親王の創造性,美意識の深さを偲ばせます。

書院の背後に続いて建つ茶室「八窓軒(はっそうけん)」は,書院と同時の造営で,三畳台目(だいめ),8つの窓が設けられていることからその名があり,これまた重要文化財に指定されています。

本堂・書院の南と東に展開する庭園も,国の名勝記念物となっていますが,遠州好みの枯山水の庭。書院正面の築山に滝石を置き,そこからの流水とその先にひろがる大海を共に白砂で表し,その中に鶴島・亀島という二島を配置。鶴島には五葉の松,亀島には這松(はいまつ)を植え,書院の縁側を屋形船の船端に見立てるという凝りよう,四季折々の美景が想われます。

寺宝には,国宝の絹本著色の不動明王像のほか,国宝・重要文化財の絵画・文書など数多。中でもこの不動明王像は「黄不動」といって,京都東山青蓮院(しょうれんいん)の「青不動」,高野山明王院(みょうおういん)の「赤不動」とともに「三大不動」として著名です。

※5 良尚法親王=桂離宮を造営した八条宮智仁(としひと)親王の第二皇子。後水尾天皇の猶子(ゆうし)(養子)となる

※6 門跡寺院=皇子・皇女や貴族の子弟が出家して門主となった寺院

修学院離宮と林丘寺

「曼殊院」の前の道を北に進むと,修学院と呼ばれる地域に入ります。古く比叡山三千坊の一つ,「修学院」(修学寺とも)がこの地にあったからだといわれます。

左,下手(しもて)にこの地の産土神の鷺森(さぎもり)神社の森を見ながら進むと,やがて右手の山中から流れ下る水流・音羽(おとわ)川に出合います。川に沿って登る古道は,比叡山頂や延暦寺に通ずる「雲母坂(きららざか)」です。かつて延暦寺へ天皇の使(勅使)が通ったことから「勅使坂」ともいわれ,また延暦寺の僧兵たちが強訴(ごうそ)のために京に入るのに通った道でもありました。

音羽川との出合いから少し下った対岸に,樹々に覆われた小寺が見えます。「林丘寺」です。現在は臨済宗天龍寺派の尼門跡寺院。本尊に聖観音を祀っています。境内に松杉が生い茂っていることからの寺名だといいます。

寛文八年(1668),後水尾上皇(1596~1680)が,その第八皇女・朱宮(あけのみや)光子(みつこ・てることも)内親王のために建てた山荘「朱宮御所」(音羽御所とも)が始まりで,その後,延宝8年(1680)に上皇が亡くなると,朱宮は出家落飾して「照山元瑶(しょうざんげんよう)」と号し,山荘を「林丘寺」と改めました。

幕末のころから衰微して,明治維新後には男僧が住持となっていましたが,明治19年(1886),現在地に移建されるとともに,尼門跡にもどったという沿革があります。

お寺の下手で音羽川を渡り,更に北進して右手を見ますと,遥かに比叡の山並みを背景に広々と田畑がひろがり,その中に美しい松並木が南北に走っています。地域54万平方メートルという広大な「修学院離宮」内,中の御茶屋前の並木道なのです。「離宮」が間近なことが判ります。

「修学院離宮」は,後水尾上皇が造営した江戸時代初期の代表的山荘です。

上皇は,慶長16年(1611),15歳で第108代天皇に即位しましたが,江戸幕府の「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」の制定,徳川秀忠の女・和子(かずこ)(中宮となって東福門院)の入内強要,そして紫衣(しえ)事件(※7)などで政治に嫌気がさし,寛永6年(1629),当時7歳の女・興子(おさこ)内親王(明正(めいしょう)天皇)に譲位して自らは仏道に帰依,慶安4年(1651)には出家して法皇となりました。

退位後,洛北に隠棲の地を求めましたが,かねてから自らの茶室を設けていた修学院の地の景勝に改めて魅せられ,この地に山荘を築くことを決意。学問・詩歌・茶道・華道などで培った趣向を生かして細々と指示を出し,明暦2年(1658)着工,万治2年(1659)に竣工を見たのが今日の修学院離宮内の「上の御茶屋」(上離宮とも)と「下の御茶屋」(下離宮とも)です。

では,離宮内を拝観することにいたしましょう。

修学院離宮略図
[修学院離宮略図](宮内庁・修学院離宮公式ホームページ参照)

〈下の御茶屋〉

下の御茶屋
下の御茶屋

西向きの総門をくぐり左へ,だらだら坂を上ると右手に「下の御茶屋」の入口「御幸(みゆき)門」。門をはいると目の前に小さな池が浮かびます。奇岩怪石に交って小型ながら美しい袖型灯籠,朝鮮灯籠が池畔に置かれています。池端の小道を登ると視界がパッと開け,左手に鉤の手型,数寄屋風書院造の瀟洒な建物が建ち,右手には小さな滝から遣り水の落ちている小庭が造られています。飛び石伝いに建物に近づいて見上げると,濡れ縁の上の長押に「寿月庵(じゅげつあん)」と後水尾上皇の宸筆という額がかかっています。

「一の間」「二の間」「三の間」とあり,上皇が御幸の際の御在所で,「下の御茶屋」の中の唯一の現存物とされています。

御茶屋の東裏門を出てしばらく進むと,南方と東方に向う見事な小松並木道の分岐点に立ちます。その南への道を辿った先が「中の御茶屋」(中離宮とも)です。

〈中の御茶屋〉

五段の飾棚「霞棚」
五段の飾棚「霞棚」

林丘寺の南に接して,南に向って開かれた「楽只軒(らくしけん)」と「客殿」から成っています。「楽只軒」は寛文8年(1668)頃,先の「朱宮御所」(後の林丘寺)内に造営された簡素ながら格調高い建物です。「客殿」は中宮東福門院の女院御所にあった「奥御対面所」を,中宮死去のあと形見分けとして林丘寺内に移建されたもの。その「一の間」の床脇に着けられた五段の飾棚は「霞棚」といって,天下三棚(※8)の一つに数えられているものです。また,襖(ふすま)の引手を見ると,その中央には三葉葵(みつばあおい)の紋(徳川家の紋所),まわりには菊花紋が刻まれていて,その繊細さに宮廷文化の趣を感得することができます。

明治19年(1886),「楽只軒」「客殿」ともに,「林丘寺門跡」から宮内省に移管され,それを機に現在の「中の御茶屋」が実現されたのです。

〈上の御茶屋〉

南北に連なる小松並木道を引き返して,東西の小松並木道を進むと,「上の御茶屋」の「御成門(おなりもん)」(御幸門)に着きます。門をくぐり,高い刈込みに挟まれた急な石段を登り切ると一気に視界が開けます。そこに立つのが離宮内で最も高い所にあるという「隣雲(りんうん)亭」です。

数寄屋風の簡素な建物。深い庇(ひさし)の下の土間に,3個ずつ組になった鴨川石が千鳥模様に埋め込まれて興深く,「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれています。

亭前に立つと,遥かに北山を背景に広がる洛北市街が一望できます。足許を見ると,斜面に植えられた大刈込の先に北に向って巨大な池が広がり,樹々に覆われた3つの島(中島・三保島(みほがしま)・万松塢(ばんしょうう))が浮かんでいます。「浴龍池(よくりゅうち)」です。

「浴龍池」は,大堰堤を築き音羽川の水を引き込んで造った人工池。「上の御茶屋」の中心的存在で,その堤防を歩きながら庭園内を楽しもうという構造,所謂「池泉廻遊式庭園」の典型です。

「隣雲亭」から北側に降り,山裾の「尾滝(おたき)」を見て池沿いを進み,土橋「楓橋(かえでばし)」を渡ると「中島」です。島上,右手の高みに立つのが「窮邃亭(きゅうすいてい)」。宝形造の瀟洒な茶屋で,正面の上り口の壁に,後水尾上皇宸筆の額がかかっています。亭前から北に小さい「三保島」,東奥に「紅葉谷」の鬱蒼たる樹々の姿が望まれます。

亭の左下手を見ると,江戸末期に造られた趣のある小橋「千歳橋(ちとせばし)」が「万松塢」に向って架かっています。「万松塢」は大きな2個の石を備え,御腰掛・舟着き場として使われました。

「中島」から北西の土橋を渡り池畔を進むと,舟遊びに使われた舟着き場の跡があり,更に進むと池の西側「西浜」に出ます。大池を造成する時,池の水を堰き止めるために築かれた堰堤ですが,松・梅・楓が植込まれ,樹下の大刈込とともに,季節に応じて花や紅葉が楽しめます。また,池越しに「隣雲亭」を見上げ,広大な庭園の清浄な大気を吸いながら,王朝文化の粋を偲ぶに恰好の場所といえましょう。

千歳橋
千歳橋

※7 紫衣事件=寛永4年(1627),後水尾上皇が大徳寺や妙心寺などの僧に「紫衣」(高僧の着る法衣)の着用を認めたことに対して,幕府がその承認を経ていないとして無効にした事件

※8 天下三棚=桂離宮の桂棚・醍醐三宝院の醍醐棚・修学院離宮の霞棚

赤山禅院

この度の逍遥の最後は「離宮」から北に少し歩いた所の「赤山禅院」です。天台宗比叡山延暦寺の別院でありながら,本尊に「赤山明神」という,仏法を守護する神「護法三十番神」の一つを祀るというお寺です。

寺伝によると,平安初期,最澄の弟子・慈覚大師円仁は入唐して山東省の「赤山法華院」で,五雲山(※9)の一つ,東岳泰山(たいざん)の山神「泰山府君(ふくん)=赤山明神」に深く帰依しましたが,帰国の途中大嵐に遭遇しました。ところが,この時「泰山府君」が船上に現れ航路を守護してくれたので事無きを得ました。

そこで円仁は「赤山明神」を叡山に勧請しようと志しました。しかし存命中にその願いを果せず,弟子の安恵僧都が遺志を受けて,仁和4年(888)に神殿を建立,天台宗の鎮守の神としたのが禅院の始まりだといいます。「赤山明神」は今も尚,延命・福寿の神として,また都の東北の鬼門の位置に存在することから「方除けの神」として,一般の人々の信仰を受けています。

寺の山門をくぐると,だらだら坂の参道が続きます。両側の石垣で固めた土手の上の樹々は秋の紅葉期,絶好の眺めを呈してくれます。参道を登り切った左手に拝殿,その奥に本殿,その他,本地堂・不動堂がありますが,平素は極めて静寂な寺域です。

さて,皆さんはこの「禅院」の前を通る道に記憶はありませんか。「禅院」を通り過ぎ,先の角を右に廻った山裾は,「叡山四明ヶ岳」への登り口です。毎年秋のハイキング,荒々しい岩肌,苔生した木陰,峻しい坂道を汗しながら踏み越えて「蛇ヶ谷」に着いた時の達成感。それが皆さんの今日の日常に何らかの形で生かされているならば重畳です。

くれぐれもご自愛,健闘されんことを祈っています。ご機嫌よう。

※9 五雲山=五岳ともいう。漢民族が古来から崇拝した5つの名山。東岳泰山(山東省),西岳華山(陝西省),南岳衡山(安徽省),北岳恒山(河北省),中岳嵩(すう)山(河南省)

= 完 =

【 参考資料 】

「京都の歴史」(京都市編,学芸書林)

「京都大事典」(淡交社)

「京都」(林屋辰三郎著,岩波新書)

「京都の寺社505を歩く」(槇野修著,PHP新書)

「地名で読む京の町」(森谷尅久著,PHP新書)

「哲学の道」(京都の史跡を訪ねる会編,室町書房)

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米田 貞一郎
Teiichirou Yoneda
  • 京都帝国大学文学部卒
  • 元京都市立堀川高等学校校長
  • 元京都市教育委員会事務局指導部長
  • 京都学園大学名誉教授
  • 京都コンピュータ学院顧問

上記の肩書・経歴等はアキューム20号発刊当時のものです。