今日は,閑堂忌に寄せて,わたしたちの学校,京都コンピュータ学院の創立者で初代学院長の長谷川繁雄先生について話してほしいということで,この場に立っています。
先生がお亡くなりになって明日で四半世紀,25年になるんですね。もうそんなになったのかと驚きます。時の経つのは早いものです。今ここにいる学生の皆さんは,先生がお亡くなりになった後に生まれた人がほとんどでしょう。先生のことは入学式などいろいろな機会に話に出ますし,京都駅前校新館1階の銅像でもお姿を見ることができます。中にはご家族が昔本学に通っていて,先生のことを聞いたことがあるという人もいるかもしれませんね。でも,かなりの人は先生がどんな人だったのか,どういうお人柄だったのかなどあまり知らないのではないでしょうか。ひょっとしたら,「なんでそんなよく知らん人についての話を聞かんとあかんのかなぁ…」と思っている人がいるかもしれませんね。わたしたちの学校を創った偉い人だから,ということももちろんありますが,創立者の思想,情熱を改めて思い起こして,本学に関わる一人ひとりがそれをどう継承していくべきか考えてみることは重要ではないかと思います。
せっかくこうして時間を使って話をさせていただくんだったら,私が見た長谷川繁雄先生が,どんな人だったか,どんな気持ちでわが校を創られたのかということをお話ししてこの学校で勉強するということが,皆さんにとってどんな意味があるのか,そして本学の一員として成すべきことは何なのかということを皆さん一人ひとりが考えていただくヒントになったらいいな,と思って今日はお話しをしたいと思いますので,しばらくお付き合いください。
わたしは今から33年前,1978年の春に京都コンピュータ学院に就職しました。小さいころから「先生」になりたくて,大学で教職を取りました。なぜなりたかったのかというと,子供のころは漠然とした憧れみたいなものでしたが,大学卒業前,就職を意識するようになった時,「人を残す仕事」にやりがいがあると強く思うようになったからです。もちろん「人を残す,人を育てる」などおこがましいことで,そんなことをできる力が私自身にあるわけもない。でも「学校」という場所で働くことができれば,たとえ私自身は直接そういうことに関われなくても,どこかでつながっていくように思えて夢がありました。高校の教員を志願しましたが,専門が「栄養学」だったので免許の教科が家庭科,募集が少なくて難しかった。そんな時に大学の学生課で「教員募集」の求人票を見たんです。それが京都コンピュータ学院との出会いでした。当時はまだコンピュータという物自体あまり知られていず,「京都コンピュータ学院」という学校の存在も,私はその時初めて知ったという状況でした。「先生になれる」という思いと同時に,「情報処理技術」というものに大きな可能性や夢があると感じて,その場で学生課の人に問い合わせてもらったところ,「明日来てください」ということになり,採用が決まったという訳です。一般教育科目として「栄養学」の授業と教務関係の事務,クラス担任を担当することになりました。
わたしが就職して最初に働いたのは鴨川校です。他には,洛北校と白河校,3つ校舎がありました。当時,鴨川校の校名は京都コンピュータ学院情報工学専門学校といって,開校したばかりでした。校舎は今の建物とは違う古い4階建ての建物で,通称は出町校舎と呼ばれていました。当時コンピュータの学校は全国的にも少なく,コンピュータというものを直接見たこともない,ましてや触ったことなどないのが当たり前の時代でしたから,新しい分野であるコンピュータの勉強に,大きな夢と希望を抱いて,大勢の学生が通ってきていました。
一般にはコンピュータというものを見ることも珍しかった時代ですから,当然パソコンなどもなく事務手続きや事務処理は全然コンピュータ化されていませんでした。今はデータベースから簡単に出力するだけで済む名簿も手書きです。出席集計や成績原簿の作成,証明書の発行まで,すべてが手作業です。成績証明書も一人ひとり成績原簿から1枚1枚コピーして作成です。こんなふうに事務作業は膨大な量がありましたが,当時の学院では,学生の実習には最先端の,一台数億円もする最新鋭の大型コンピュータを使っていたんですけど,事務作業のコンピュータ化は後回しでした。「学生のことを一番に考える」,学院らしい点ですけど,その分私たち教職員の仕事は大変で毎日毎日,目の回るような忙しさでした。事務作業は受付窓口を閉めてからになるので,仕事が終わって家に帰るころには日付が変わっていることもよくありました。
そんな忙しさの中で,自分が持っていた「学校」のイメージとの違いに戸惑うこともあり,こんな状況で仕事を続けていけるんだろうかと不安がつのっていきました。
そんな時に,長谷川繁雄先生が校舎に来られて「新しい学校をみんなで創っていくんや」とおっしゃったんです。目を輝かせて「理想の学校」について語られる先生のお話を何回も繰り返し聞いていると,忙しくても,自分たちで工夫して仕事をしていくのが面白いと思うようになりました。そして若い自分たちが長谷川繁雄先生と一緒に学校を創っていくんだということに,誇りとやりがいを感じるようになっていきました。
出町校舎,今の鴨川校ですけど,そこに長谷川繁雄先生は夕方になるとよく来られました。新館の銅像を思い浮かべてもらうといいんですけど,ちょっと横に広いからだで,丸い顔の方です。人情味のある温かい感じで,存在感がありました。今の言葉で言うとオーラがある,というんでしょう。当時わたしは新人ですから,学院長というと,雲の上の人のイメージです。本当なら近寄りがたい存在です。でも週に何回も来られるし,仕事には厳しいんですけど,人柄はいつも気さくで優しい人でした。いつも「やぁ,ごくろうさん,ごくろうさん」と言って,入ってこられます。
先生はそれから校舎での出来事や学生のことについていろいろ質問されました。「今日は学生は何人来てた?何人休んでた?」というのもよく聞かれました。学院長というお立場で忙しい中でも一人ひとりの学生のことを気にしておられました。出席票を見て「出席は何人で,何人休んでます」と私が答えると,「それを君は本当に自分の目で確認したのか。ちゃんと自分で確かめた情報を報告せなあかんよ」と言われました。そう言われて,休み時間に教室に行き,誰が来ていて休んでいるのか誰か分かるように,担任クラスの学生の顔と名前を必死で覚えたのを思い出します。大したことないと思うかもしれませんが,担任していたクラス合わせると120人くらいいましたから全員覚えるのは大変でした。出席に限らず,何事も書いてあることや聞いたことをそのまま鵜呑みにするのではなく,その内容が本当に正しいのかどうか,必ず自分で確かめて判断しないといけないと教えられました。今では記憶力も衰えて,なかなか顔と名前を覚えられず学生の皆さんに恥ずかしく思うこともありますが,先生の教えは,あるべき姿として今でも私の指針になっています。
教師は一人ひとりの学生のことを親身になって考えないといけない。そういう心構えも教えられたんだと思います。欠席が続いている学生がいると,なぜ休んでいるのか,その学生の状況をきちんと把握しなさいと言われました。下宿している学生も多かったので,休んでいる学生の様子には特に気をつける必要がありました。夕方校舎に来られた先生は,さっきお話したように,教職員にいろいろ質問をされて状況をつかむと,それから,どんな仕事についても,細かく指示をされ,率先して作業されました。たとえば入学案内を封筒に入れるのでも,1枚ずつ順番はこう,封筒に入れる向きはこう,と指示されました。入学案内の順番にも理由があってその理由を全部説明されました。先生はいつもそうで,どんな仕事をする時も,「こうしなさい」と指示されるだけでなく,その仕事がどういう意味を持っているのか,どうしてその方法でやるのかなど,説明されるのでした。どなったり怒ったりということはなくて,静かに,こんこんと説明されるのです。結果として,説明がとても長くなるので,閉口したこともよくあります。先生の話が長いのは有名で,電話で1時間話されるとか,しょっちゅうでした。
ですから先生と仕事をするのは大変なことも多かったんですが,今にして思えば,そうやって細かなことまで全部説明されるのには,先生のお考えがありました。
皆さんも,勉強とか何かをするときに,親に言われたからやるんだとか,先生の指示だからやるんだとかで,自分ではなぜそれをするのか,あまり考えないで言われるがままにすることがあると思います。わたしもそうでした。むしろ「こうこうしなさい」と言われてその通りするだけの方が楽なんです。でも長谷川繁雄先生は,仕事でもなんでも理由があって,その理由を自分で考え,納得してやらないといけないと常々言っておられました。
会議でも,わたしのような新人にも自分の意見を言うように言われました。自分の頭で考えることの大切さ。先生が伝えようとしておられたのはそれだったんです。どんな仕事であっても,自分でちゃんと考えてやらなければいけないんだということ,自分で考えて仕事をすることの大切さがわかりました。そうして仕事をすれば,仕事はどんなに大変でも,やらされているのではありません。自分の仕事になるんです。やりがいもあるし,充実しています。結果として仕事が楽しく,仕事の質も高くなるのです。仕事の意味を考え,自分で工夫する大切さ。このことは皆さんが勉強や,またアルバイトなどをする時にもぜひ考えてほしいことです。
それでは,そんな長谷川繁雄先生は,どうして京都コンピュータ学院を創られたのでしょうか。そして,先生の創られた京都コンピュータ学院で勉強することは,今ここにいる皆さんにとってどんな意味があるのでしょうか。
先生にとってわたしたちの学校,「京都コンピュータ学院」は何よりも大切なものでした。先生は決して平たんな人生を歩んできた人ではありません。若いころには奈良県で中学校の先生をされていましたが,理想の教育を志しておられた先生は教育方針をめぐって上司や教育委員会と対立して辞めておられます。それだけ激しい教育への情熱を持っていた人です。そんな先生にとって,京都コンピュータ学院こそが先生の夢の実現,自分の信念に従った「理想の学校」づくりだったんです。「みんなで新しい学校を創ろう」と言うのはただのきれいな言葉ではなくて,そんな理想の学校をみんなで創ろうということです。
ですから,先生の仕事ぶりには妥協というものはありませんでした。「理想の学校」を創ろうとしているのですから,学生に常に最高の教育を与えようと考えておられました。先ほども言いましたが,当時は研究機関か大企業にしかない超大型のコンピュータを導入して学生の実習用にしたのもその一つです。現在,京都駅前校の各フロアに展示されているのはその一部です。コンピュータの学校だから,このような大型コンピュータがあったのは普通のことだと思っていませんか。今個人が当たり前のようにコンピュータを所有できる時代ですから,皆さんにはその凄さが分からないかもしれません。でも,その当時,学生の実習用に超大型のコンピュータを導入していた,またできた学校なんて,他には一つもなかったんですよ。そのことはまぎれもない真実なんです。
展示されている大型コンピュータの中に,UNIVAC社製のVanguardという機械がありますが,そのTSSオンラインシステム(タイムシェアリングシステム)というのを導入した時,学期の途中でしたけど,先生はすぐにカリキュラムを変更して,全学生に実習の機会を作られました。TSSオンラインシステム(タイムシェアリングシステム)は,現在と同じようにディスプレイとキーボードを使ってコンピュータを利用することができるようになるという当時画期的なシステムでした。カリキュラムの突然の変更ですから,大変なことです。当然教職員から反対の声もあったんですが,先生は「最先端の機械で実習できるということが,その価値がどういうことかわかるのか」とおっしゃって,決して引かれませんでした。学期途中のカリキュラム変更など,大学ではありえないことでしょう。先生は,専門学校であるからこそ,その柔軟さを活かして,この最先端の機械で実習させるべきだとお考えでした。大学ではできないことが,専門学校だった京都コンピュータ学院だからこそできたのです。
今にして思えば,まったく先生のおっしゃる通りだったと思います。最先端の環境で勉強したということが,一人ひとりの学生にとってどれだけの自信になるか。就職した後でも,そうした経験があるのとないのとでは,気持ちの強さが全く違ってきます。その後,技術革新はどんどん進みましたが,最先端の環境で勉強した自信さえあれば,その革新の波も乗り切っていけたはずです。
理想の学校とはどんな学校か。一例ですが,先生は信念として,教育現場にはイデオロギーやあらゆる差別を持ち込まないという考えをお持ちでした。政治信念や宗派などが異なる敵対関係にある人であっても,学院の中ではそういった敵対関係を払拭することを求められました。コンピュータに興味を持っている人が,ただ純粋に集まっている場所にしようとされたのです。
また,教職員の扱いで男性も女性もまったく同じでした。今でこそ男女雇用機会均等法もでき,女性の社会進出も当たり前ですが,当時,女性には重要な仕事を任されないし役職に就くなど珍しく,同じ仕事をしても給料は低いというのが一般的でした。結婚すれば退職する人が多かった。でも京都コンピュータ学院ではそんなことは全くありませんでした。やる気さえあれば,女性も重要な仕事をどんどん任されました。長谷川繁雄先生も,また現学院長の靖子先生も「結婚しても,子供ができても,仕事はやめたらあかんよ」とおっしゃっていました。
今は,結婚をしたり,子供ができても働き続ける女性も増えました。先生のされることはいつもそうで,時代から一歩も二歩も進んでおられるので,その時はよくわからないのですが,何年も経ってから「ああ,そういうことだったのか」とわかることがたくさんあります。
今ここにいる女子学生は,この学校がそういう進んだお考えを持った先生が創られた,男女差別のない学校だということを頭の片隅に置いてほしいと思います。実際にわたしたちの学校では女性の先生も,男性の先生と同じかそれ以上に重要な役割を任されて,生き生きと働いていることに気付くと思います。そこに初代学院長先生のお考えが生きているんだということです。
差別や区別をしないということでは,わが校に来るまでにどんな教育を受けてきたかとか,成績はどうだったかということも先生は問題にしませんでした。わが校に来ている人には,積極的にわが校を選んだ人もいるでしょうが,中には英語や数学ができなくて大学を受けなかったとか,受験がうまくいかなかった人もいるでしょう。大学の4年分の学費が払えなくてわが校を選んだ人もいると思います。今も昔も,いろいろな事情の人がいますが,先生は一度私たちの学校に来た以上は,どんな学生でも,大学を卒業した人と互角,いえそれ以上に活躍できる,そんな実力をつけて社会に送り出したいと思っておられました。そのための武器がコンピュータだったんです。
こんなエピソードがあります。ある年,就職しようとしない学生がいました。私たち教職員から見てもちょっと人物的に問題があるなあ,と思うような人でした。ところが長谷川繁雄先生は,その学生を学校の職員として採用されたんです。みんなびっくりして,もちろん反対しました。そうすると先生は,「うちは教育機関なんや。未熟な人間を成長させて社会に出ていけるようにしたらええやないか」とおっしゃった。その人は先生のそういうお考えは知りませんでしたが,何年か後に立派に成長してほかの仕事に移っていきました。
先生はこのように,普通の考え方とか常識というものにとらわれませんでした。常に自分の頭で考える。そして,自分がいいと思うことを全力でやる。そういうことをいつも態度で示されていました。わたしはそこからいろいろなことを学びました。わたしはこれまで多くの先生と出会いましたが,もっとも大きな影響を受けたのは長谷川繁雄先生でした。学生だけではない,私みたいな若い教職員も,先生にとっては教え子だったんだと思います。先生のもとで働いたのは8年間でしたが,その間に,仕事のやり方について,またものの考え方などについて,その後の人生を生きる上で大切なことをたくさん勉強することができました。それはわたしにとって生涯の財産になっています。
社会で大学卒業者と互角に戦っていける武器として,情報処理の技術・知識を学生に与え,そして全人格的に成長させる。それが先生の理想でした。そしてこの点は,今のわが校でも何も変わっていないんです。超大型のコンピュータこそ使われなくなりましたが,最先端のコンピュータ技術を学生に伝授して,そして,どんな学生でも,それまでの成績や学歴がどうであっても,わが校を出た後に,大学卒業者と互角以上に戦っていけるようにするということ。そして,狭い意味での勉強だけでなく,幅広い教養を身につけさせて,人間として成長させるということ。それが,昔も今も,わが校の目標であり,教育理念です。
先日,杉谷昭子先生のピアノリサイタルがありましたね。あれも長谷川繁雄先生が始められたことです。先生ご自身もよくピアノを弾いておられました。一流の音楽家の音楽を聴くことが,人間としての成長につながると考えていらっしゃったからです。
杉谷先生はドイツでも活躍された超一流のピアニストです。皆さんも杉谷先生の演奏を聴いて感動したんじゃないでしょうか。学校の授業の一つとして特別に聞けるなんて,学院だからこそと思います。杉谷先生も,長谷川繁雄先生の仲の良いお友達でした。ですから,今でも学院生のために駆けつけてくださるのです。こんなふうに,今,ここにいる学生の皆さんも,いろいろな形で日々,長谷川繁雄先生のお考えや意思の影響を受けているのです。
わたしたちの京都コンピュータ学院を創立され,その基礎を固められた初代学院長・長谷川繁雄先生は,1986年の7月2日にお亡くなりになりました。当時わたしは産休中でしたが,電話で知らせを受け,ショックで目の前が真っ暗になったのを覚えています。先生はまだ56歳の若さでしたし,ご病気とは知りませんでしたので,信じられませんでした。学院の皆にとって先生の死は大きなショックでした。もっともっと,理想の学校づくりの指導者として私たちを引っ張ってくださるとばかり思っていました。その人が突然いなくなってしまったんです。
先生を亡くした悲しみや失望感は長く残りましたが,その一方で,先生の意思はKCGの教職員,学生,すべての人たちに引き継がれました。先生の奥様である現学院長,さらにご長男の現理事長のご指導の下,長谷川繁雄先生の理想を実現しようとみんな懸命に働きました。いまもし天国から先生が力強く発展した学院の姿をご覧になったら,どう思われるでしょう。きっとほめてくださるだろうと思いますが,その一方で「まだまだ,理想の学校は実現できていない」とおっしゃるに違いありません。仕事には本当に厳しい先生でしたから。
皆さんが今学んでいるKCG,京都コンピュータ学院の伝統や歴史,というのは大きな夢,理想を持った人がいて,その人が周囲の人を巻き込んでいった。巻き込まれるのは楽ではなかったけれど,その夢にひきつけられ,先生の夢を自分の夢にして,先生と一緒に前を向いて頑張ってきた人が大勢いた。先生と一緒に新しい学校を創っていくということが,本当に素晴らしい,やりがいのある仕事だったから・・・。ですから,先生が亡くなった後も,たくさんの人がその意思を引き継ごうと懸命に働いた。わたしはその中の一人に過ぎないんです。本当に多くの人たちが,自分の人生を長谷川繁雄先生の夢,「新しい学校を創る」という理想にかけて働いてきました。そうして今の京都コンピュータ学院があります。KCGは,長谷川繁雄先生を先頭にして,多くの人の夢の産物なのです。今日,そのことをしっかり覚えて帰ってください。
なぜなら,今ここにいる皆さん,皆さんも紛れもなくKCGの一員,ファミリーなんですから。学院の伝統と歴史を,今度はわたしたちと一緒に皆さんが担って,さらに発展させていかなければならないのです。学院にも,まだ十分でないことがあったり不満もあるかもしれない。しかし,先生にこれをしてほしい,学校にあれをしてほしいという前に,自分には何ができるだろう。わたしたちの学校を,KCGをよくするために,もっともっと発展させていくために,自分が貢献できることはないか。そういうふうに考えてほしいです。自らの頭を使って,自分で考え,そして実行していってほしいです。それは長谷川繁雄先生がいつも望んでいたことです。
何をしたらいいのか。KCGの発展のために,新しい発想で知恵を絞ってください。たとえば,新しい行事を企画して学校を盛り上げるとか,学校の知名度を上げるような活動をする,学生の数を増やすための活動としてたとえばオープンキャンパスなどに自分の友達や知り合いを呼んできて,学校の姿を見てもらう,などいろいろ考えられると思います。わが校の伝統を担う学生を一人でも多くすることによって,もっともっと学校を発展させることができます。もっともっとKCGのことを多くの人に知ってもらう。これも,わが校の発展のために皆さんができることの一つです。
今日から7月です。7月中は毎年恒例の「KCGサマーフェスタ」があります。毎週末,様々なワークショップや催し物を行って,一般の方にもKCGをもっと知っていただくためにご案内を差し上げています。皆さんもぜひ積極的に参加して,盛り上げてほしいですね。これもKCGの存在感を高め,学生の数を増やし,発展させていくことにつながるのです。
どんな催し物があるか。自分が参加したり,友達を連れてきたりできそうな催し物がないかどうか。ぜひウェブやポスター,チラシなどで確認してみてください。今KCGでは,これからの時代に向けた動きがいろいろ出ています。たとえば,「新世紀エヴァンゲリオン」を手掛けた,株式会社ガイナックスのプロデューサーの武田康廣先生が毎月一回,「アニメ・企画製作プロモーション特論」という授業をしておられますね。この授業に関連して,ガイナックスと一緒に新しい学校のキャラクターを作ってテレビCMやウエブで盛り上げていこうとしていて,本学にまつわるストーリーを募集しました。皆さんのうち何人かが応募してくれました。皆さんから寄せられたストーリーは,ガイナックスとのコラボCMを中心とした今後の広報展開の中で活用することになります。またこれからも,学校のキャラクターで自由に漫画やアニメを作るなど,皆さんにいろいろな形で参加してもらうつもりです。何かアイディアがあったら,教職員に言ってみてください。
歴史とか伝統というのは,ただの昔話ではありません。「昔こんな人がいた」というだけでは昔話です。そうではなくて,その人から何を学べるか。その人のものの考え方,その人の理想や夢を自分たちのものとしてとらえ,継承していくことが大事なんです。そうしてはじめて,伝統になっていくのです。
長谷川繁雄先生の言葉,「新しい学校をみんなで創ろう」という呼びかけも,昔話ではありません。KCGは今もまだ,発展途中の学校です。これからどんどん新しい動きがあり,さらに成長していきます。その主役はいまここにいる,学生の皆さんです。「新しい学校をみんなで創ろう」という長谷川繁雄先生の言葉。いま呼びかけられているのは,ほかでもない,あなたたちなんです。
この,時を超えた呼びかけに皆さんはどう応えるのか。先生の作られた京都コンピュータ学院の伝統を引き継いで,どう発展させていくのか。そのことを自分の問題として考えてください。皆さんが今後どういう取り組みをしていくか考えてくれる機会になったのなら,わたしが今日ここで先生の思い出をお話したことにも,大きな意味があったんじゃないか,そのように思います。
伝統を引き継いで,新しい学校をみんなで創っていきましょう。
ご清聴ありがとうございました。