死体を解剖すれば悪臭がするものです。だとすれば,ある国家組織の内部が白日にさらされるとき,堪えがたい腐臭が鼻を突いたとしても不思議はないでしょう。しかしそれでも,死亡した人がいかなる病を持ち,なぜその病が死を招いたかを知りたければ,やはり解剖は不可欠なのです。
東ドイツ社会を身体に譬えた場合,死因は身体を酷使し過ぎたせいとの見方が最も有力となっています。一例を挙げれば,西ドイツに通ずるすべての道路の敷石をそっくり輸出するといった行為がこれに当たります。第二の原因として多く挙げられるのが,新しいものを生み出す力の消滅です。これは粗雑な免疫システムによって,少しでも規範からずれた要素はすべて身体に害があるとして排除された結果と申せましょう。またさらに違った見解があります。それによれば,東ドイツは一種の人造人間であって,3000キロ離れたところにあるモスクワのコントロールセンターが故障すると,途端に作動しなくなるような人工的存在だった,というのです。
原因はどうあれ,これからその症状をお話しようと思うこの病気は,解剖学的病理学や免疫学の方法では認識困難なものです。この病気が破壊的な作用を及ぼすのは人々の意識だからです。この病気においては意識の中に,「内的な要因により揺るぎがたく持続的な妄想体系がひそかに発生するが,この妄想体系と平行して思考,意思,行動の明晰性と整合性は保持される」―これは実は医学辞典によるパラノイアの定義です。
この病気の症状は物質的形態をとってもあらわれました。東ドイツの場合,それは東ベルリンの中にあって,40年にわたって几帳面に守られてきたある巨大な領域です。私は昨年2月初旬のある月曜日,初めてそこに足を踏み入れることができました。私はこの季節にしてはずいぶん薄着であったうえ,しかもこの複雑に入り組み,過去40年の建築様式がごちゃまぜになった建物の中で道に迷ってしまったのでした。私はすっかり凍え切ってようやくある男性のもとに辿り着きました。彼は大きな布袋から分厚い書類を13冊取り出して手渡しました。それは国家保安局が私に関して収集した秘密文書でした。
私は,性急に実現したドイツ統一をヨーロッパおよび世界にとっての大きな収穫と見る立場には与しません。しかし同時に,30年,40年の間私たちを押さえつけてきた,社会主義統一党の支配が突然潰えたときの喜びを隠すつもりもありません。今でもはっきり覚えていますが,最初に思ったことは,これで自分に関する国家保安局の記録を見るチャンスができたぞ,ということでした。そして私はまだ暫定政府の目鼻もつかぬうちから,この記録の閲覧を求める行動を始めたのです。
2年間待たねばなりませんでしたが,待った甲斐は充分にありました。私は3週間にわたってかつての国家保安局の殺風景な閲覧室に座り,3000頁余りのいわゆる「作家関連文書」に目を通しました。そこには私が「国家に対する反逆的行為」を働いた旨しるされており,国家保安局が私を「一般市民を敵対的,否定的活動へと煽動するオルグ」と見ていたこと,「ドイツ民主共和国内部における敵側拠点」は私の「西ベルリンへの移住により」排除されたことが記されていました。最初の1日が終わった時,私は家へ帰る途上,まるで子供のように泣き続けました。それは恐らく,記録文書の中の非現実世界と記憶の中の現実とのコントラストに非常な緊張を強いられ,いまその緊張が一挙に解けたせいだったかもしれません。あるいはまた,私たちがこれまでいかにうす汚れた,いや粗雑な手に落ちていたかをあまりに強烈に思い知らされたためだったかもしれません。どちらが理由にせよ,ただひとつ今も鮮明に記憶しているのは,記録文書の中に,何人かのいわゆる「非公式協力者」の私に関する報告を見つけたときの,激しい幻滅感でした。なぜならその「非公式協力者」たちは私と近しく,尊敬していた作家たちだったからです。
私はドイツ民主共和国に30年間暮らし,その半分の時期を作家として過ごしました。いわゆる文壇の一員となったのは,最初の本が出版された70年代初めのことですが,私はただちに,暗黙の誓いのもと結ばれた作家グループに加わりました。私たちを結び付け,言葉による了解を不要にした絆は文学でした。当時私たちはそれを「社会参加の」文学と呼んでいました。私たちが当時どのような意味でこの言葉を使っていたか自分でもはっきりとは分かっていなかったと思います。しかし,私たちの漠然とした定義には二つの姿勢がうかび上がっていました。それは弱者の側に立つこと,そして権力に対して批判的関係に立つことの二つです。
私たちが対峙していた権力には二つの顔がありました。その一つは,労働者階級の代表者という顔です。この階級の解放という理想は,実際の現実と著しい矛盾を示しながらも,私たちの社会的,個人的関心を惹きつけるものでした。もう一つの顔は,敗戦の結果成立した権力という顔です。つまり,この権力は私たち自身が選択した権力ではありませんから,私たちにできるのはその理想を楯に影響を行使することぐらいで,うまくいけばその内実を変えることができるかもしれない,そういう権力だったのです。これを変える手段とは,権力が掲げる理念と実際の現実とを真実という尺度で測ることでした。そしてその真実とは私たちの歴史の真実,文学の真実でした。これは支配的美学,すなわち人間の理想的変革が現実において不可能であるならば,せめてそれを文学の中に見出そうという美学に対するアンチテーゼに他なりません。私たちの信条は真実であり,その前提となるのは,現実を提供する素材に対する誠実さ,自分自身に対する,そして他者に対する誠実さでした。これは極めて倫理的な姿勢であり,この姿勢は必然的に作者と作品との一貫性を要求することになります。したがって,作品の出版に何の困難もない作家はうさんくさいし,出版社や当局の圧力に屈して作品に手を入れ,作品の真実を損なう作家もうさんくさい。もちろん,権力による賞賛もうさんくさいということになります。
知力と策略を尽くし,いざとなれば怒りを剥き出しにしてまで真実にこだわり,自分の作品を守り抜いたその同じ作家が,別の日には保安局の手先となって同僚作家について報告をする,こればかりは私の想像力を超えていました。この作家は,私たちみんなが一度は受けた誘いに対していつの段階でかイエスと言ったに違いないのです。誘いの手口というのは,ある日見知らぬ男がやって来て,玄関に招き入れると国家保安局の身分証明書を提示し,飴と鞭を交互にちらつかせながら協力を要請するというものです。私の元に国家保安局員が現れたのは60年代の半ばでした。私は策略を駆使し,保安局の論理を逆手にとることによって,私を情報収集者として引き入れようという彼らの目的を挫いたのでした。しかし,このとき保安局員を門前払いにしなかったことは長いあいだ私の心をさいなみました。私は,保安局員が再び現れますように,そして私の彼らに対する考えを言ってやれますように,と切に祈ったものです。
祈りが天に届いたのは3年目でした。その男は部屋に招き入れると初めて赤い身分証明書を開いて見せ,小1時間ほどあなたと話がしたい,と言いました。10分後には彼はもうドアの外にいました。それ以上の時間は要しませんでした。自分は国家保安局のような反革命的組織とは金輪際関わるつもりはない。保安局は,われわれの社会が西ドイツ社会に対して誇れる唯一の強み,すなわち深い人間関係を,不信感の種を蒔くことによって突き崩しているではないか。―こう私は言ったのでした。
こういった個々の経験は,権力にも越えられぬ一線があることを教えてくれました。今でもはっきり覚えていますが,当時私たちが新しい詩,新しい小説,新しい戯曲を書く際の原動力は,この境界線を押し広げ,自由な空間を拡大しようという意欲に他なりませんでした。今日振り返ってみると,あれは全く体格の違う者2人が社会における倫理的中心の座を奪い合う格闘だったように思えます。1700万人の国民を1人残らず独占的に支配することに成功した政治権力はここに至って,自分自身の産み落としたもう一つの力,東ドイツ文学という力の存在に気づかされたのでした。
それが,政治権力が力ずくで自分の優位を見せつけようとしたまさにそのときであったのは皮肉なことでした。あれは1976年10月の火曜日のことだったと思いますが,私たちはシンガーソングライターのヴォルフ・ビーアマンが市民権を剥奪されたことを知りました。翌日,10名ほどの作家が抗議の決議文を起草し,これを西側メディアを通じて発表することで党による情報寡占を破ったのです。抗議の輪に加わった100名をはるかに超す作家や芸術家は,これまで党に管理された世論の中でただ漠然と感じられていたことを,いわば一夜の内にはっきりした形にしたのでした。この自然発生的な公の抗議行動が次第に人々の心に浸透し,それが14年後には国家保安局を含む全政治権力装置の崩壊を導いた,そう私は確信しています。
念のために付言しますが,私はここで反共産主義的反体制運動を描写しているわけではありません。私たちは決して市民議会主義のひそかな信奉者ではありませんでした。私たちの絆は倫理のみだったのです。そして,ビーアマンの市民権剥奪によってひとつの倫理規範が損なわれたのです。作家の市民権を剥奪した一番最近のドイツ国家はファシズム・ドイツでした。したがって反ファシズムを旗印とする国家は,このような支配手段を用いたことであらゆる正統性を失わざるを得ないでしょう。
私が作家同盟を除名になった直後の1980年,西ベルリンへ移住する際,私はこの日々の記憶を胸に国境を越えました。それは真実の持つ力,そして真実のために闘う作家たちの連帯によって心に刻まれた日々でした。
それから12年後,冷酷な市場経済との対比において美しく彩られたこのイメージには,いまも私には受け入れがたい,一つの現実が大きな暗い影を落とすことになりました。一例を挙げましょう。非公式協力者「ハインリヒ」のことをお話します。私の少し年上で,ベルリン郊外の村に住む彼は,豊かな才能をもちながら過小評価されている作家と見られていました。慎重に言葉や概念を選びながら発言するさまからは,彼が「真実の探究者」に固有の気質の持ち主であることが窺われました。彼が私に書いた手紙には,彼の繊細なまなざしと透明な感受性,健全な感覚と温かい人間性がはっきりと現れていました。彼が幾度か私たちの家にも泊まり,私たちとのコンタクトを求め,私たちの仕事に関心を示し,いかなる新しいアイデアにも興味を持っているようでした。彼は自分が小さな村にいて孤立していることを嘆いてみせ,私たちは当然彼を援助しました。
ところが私の知った事実はといえば,助けを求める彼のポーズはまやかしに過ぎず,その目的は私の仲間たちの内情をさぐることだったというのです。彼の報告には私の手紙の内容,私のふるまいについての彼の判断,私と他の作家たちとの関係に関する推測が記されていました。彼は私宛の極めてプライベートな手紙の中で,自分は「ビーアマン問題」にどう対処したらよいか分からないと打ち明けたものですが,この手紙さえもが,私の意見を聞き出してそれを保安局の上司に報告するために書かれたのでした。
彼が特殊なケースだというわけではありませんし,私が特殊なケースだというわけでもありません。国家保安局の文書が公開された日以来,ドイツ文学には―私は東ドイツ文学をこれに数えますが―ドイツ文学には亀裂が生じました。そしてこの亀裂はいまだにおさまっておらず,今後もおそらくおさまることはないでしょう。私の言う亀裂とは,二つの立場の激しい対立のことです。すなわちそれは,芸術と倫理には一貫性がなければならないか否かという問いです。この問いについてはハインリヒ・ベルがあまりにも明快に「イエス」と答えましたので,私には,この答え以降他の判断基準は不可能であるように思われるほどです。しかし,これと違った芸術的立場があることを無視するわけにもいきません。すなわち,文学において倫理は芸術の邪魔にしかならないという考え方です。重要なのは作品のみであって,それ以外のものは残らない,その作品がいかなる状況のもとで成立したかは全くどうでもよいことだ,というわけです。
私が自分に課したこの問いに対する答えに近づくには,結局問いを主観的なものに限定して,こう自問する以外にありません。いかなる動機であれ,つまり不安からでもよいし,確信からでもよいし,作家としての好奇心からでもよいが,もしも私があの保安局員の申し出を受けていたなら,私の中の何が変わっただろうか,という問いです。もしそうしたなら,私は文体を変えたでしょうか。異なった題材を選んだでしょうか。編集者が芸術論にかこつけて行う改変要求にも容易に応じるようになったでしょうか。多分そうはならなかったでしょう。しかし,私はもう自分を信頼できなくなったに違いありません。
ある有名な,西側諸国でも高く評価されている劇作家は自叙伝を出版する前に,彼と国家保安局の関わりを述べる箇所を削除しました。彼が言うには,まだそれを公表する時期ではない。いまの雰囲気は暴露趣味のジャーナリズムによってあまりにもひどく毒されており,保安局員と口を聞いたというだけで文学的生命を絶たれるような空気が支配的ではないか,と。
すべて彼の言う通りです。しかし,それでは何が作品発表の基準なのでしょうか。高額のギャラが払われればよいのでしょうか。だとすれば,一体何たる自叙伝でしょう! 人目を避けて活動する者は,人目を避けてしか物が見られないだろうし,人を裏切る者は,裏切りなど誰でもやっていると考えるようになるだろう。人を意のままにしようとする者は,自分が意のままに動かされるだろう―こう私は確信しています。
しかし,殺人を描写するために自分が殺人を犯す必要はないのです。
私自身の綻びだらけの倫理基準を人に押しつけるつもりは毛頭ありません。しかしそれでも私は一生,創作活動を通じて,倫理と芸術の一貫性を追求し続けようと考えます。たとえ報酬は少なくとも。
1937年ナチス・ドイツの首都ベルリンに生まれる
ジャーナリストとして活動の後,70年代初め東ドイツ文壇にデビュー
1979年,政府の文化政策を批判する公開書簡に署名したかどで東ドイツ作家連盟から除名される
1980年西ベルリンに移住
現在もベルリンを本拠に作家活動を続ける
代表作に「すべてはこうして始まった」「ベルリンの夢」「冬の生活」などがある